第九話〈潮騒にゆれる唄〉
風の匂いが、変わった。
乾いた土と木の葉の香りに混ざって、どこか尖った、けれど柔らかな――言葉では言い表せない匂い。
それが、リオの鼻をくすぐる。
「……これが、潮風……?」
誰に聞かせるでもなく、思わず呟いた。
草木が減り、地面は少しずつ砂混じりになっていく。
遠くの空では、白い鳥が円を描きながら舞っていた。
リオは歩を進めながら、幾度も風の匂いに顔を向けた。
それは、まだ見ぬ世界への予感だった。
ほどなくして、小さな隊商とすれ違った。
荷車の上には小麦の袋や樽に詰まった道具類。
引き馬を手綱で操る男が、リオに気さくに声をかけてきた。
「おや、若いの。ひとり旅かい? 港町に向かってるのか?」
「ええ、海の方へ。唄を……知らない唄を探していて」
「ほう、ルエン・メルティアだな。よく来たもんだ。今日は天気も穏やかだし、潮もいい。
いい日に海を見られるぞ。あんた、海は初めてか?」
リオはこくりと頷いた。
「そうかそうか。じゃあ覚悟しとけ。あれは生き物みたいなもんさ。
空の下にもう一つ空があるみたいに、青くて、でっけぇんだ」
男は笑いながら馬のたてがみを撫で、やがて手を振って去っていった。
陽が傾く頃、リオは道端の林の外れに腰を下ろし、小さな火を焚いた。
干し肉を齧り、湯を沸かして、肌寒さを和らげる。
やがて夜が訪れる。
星の瞬く空の下で、リオは背負っていたリュートを抱え、自然と指を動かしていた。
奏でた旋律は、いつもの唄――“結晶の涙”。
唄いながら、リオは自分の胸元にぶら下がる袋にそっと手を添える。
中には、小さな晶核。
光を失ってなお、熱を帯びたような、確かな命の残滓がそこにある。
「この唄が……導いてくれる。きっと、まだ……」
呟き、静かに目を閉じる。
翌朝、風が一層湿っていた。
陽が昇るとともに、草原の向こうに広がる青が、世界を変えた。
蒼――
空よりも深く、空とひとつになるほどに広がる、果てなき水の世界。
波が寄せては返す。白く砕け、陽光がその粒に跳ねる。
「……」
言葉が、出なかった。
あまりにも大きくて、あまりにも青くて、何もかもを包み込んでしまいそうな海。
その先に、港町ルエン・メルティアがあった。
大きな船が並び、白壁の建物が潮風になびく布を揺らしている。
リオは、ゆっくりと坂を下った。
潮の香りと、人々のざわめき。
それらが混ざり合って、港町ルエン・メルティアはどこか異国めいていた。
人々の衣は鮮やかで、言葉は軽やか。
市場では魚介の香りとスパイスが漂い、道端では誰かがリュートを鳴らしていた。
町の広場では、子どもたちが丸い貝殻を投げては遊び、船乗りたちが酔っ払いながら唄をうたっていた。
――けれど、リオの目的はただひとつ。
この街に、「龍の唄」があるかどうか。
彼は、自らの唄をそっと口ずさみながら、小さな酒場を訪ね歩いた。
「この唄を、聞いたことはないか?」
そう問いかけて回るが、返ってくるのは首をかしげる者ばかりだった。
夕暮れ時、古びた港沿いの路地に小さな酒場を見つけた。
表に吊るされた貝殻の飾りが、潮風に揺れて鳴っている。
扉を開けると、そこには年老いた女主人と、数人の客たち。
リオは奥の席で小さく奏で始めた――《結晶の涙》。
すると、隣の席にいた中年の女性が、ふと目を細めた。
「……懐かしい響きね。
それ、昔、母が似たような唄を歌っていたわ」
「え……?」
「でも、ちょっと違うの。……うーん、あの唄はね、もっと恋の唄だった。
“幻晶の恋唄”って呼ばれてたわ、たしか。……港町じゃ、けっこう有名だったのよ」
その言葉に、リオの鼓動が早まる。
「それを……教えてもらえませんか?」
女性は少し照れたように笑いながら、鼻歌のように歌い始めた。
⸻
《幻晶の恋唄》
鏡のような鱗の君
光のような声の君
わたしは ずっと
君と響きたかった
共に泣いた あの夜
混ざりあった 涙の雫
小さな命が 石となり
地の奥で そっと光ってる
君が墜ちて 世界は泣いた
けれど わたしは知ってる
黒く光るその石は
愛を いまも 伝えてる
⸻
旋律は異なる。だが、核にある物語は、リオの唄とどこか重なっていた。
光まとう龍とその番――その涙が、命を遺したという伝承。
リオは女性に深く頭を下げ、礼を述べた。
やがて女主人が、酌をしながらこんな話を呟いた。
「……あんた、黒曜の柱を見に来たわけじゃないんだね?」
「黒曜の柱……?」
リオは小さく問い返す。
けれど、その響きに、彼の心は静かに波立った。
「ああ、この街じゃ“幻晶の愛”って呼んでる。恋人同士が黒曜石を贈るんだ。
それはね、昔、龍が墜ちたって言われる“黒曜の地”から持ってきた石なのよ。
成人の儀ってやつで、その地を巡礼して拾ってくるの」
リオはそれ以上、言葉を返さなかった。
けれど胸の奥では、確かに理解していた。
――その場所には、もう行った。
そして知っている。あの地には、命を育む温もりはなかったことも。
女が歌った唄の旋律もまた、違っていた。
やさしく、美しい。だが、そこには「怒り」がなかった。
リオは静かに視線を落とす。
自らの唄と、この街の唄――どちらが正しいのかは、わからない。
ただ、わかるのは。
ここでもまた、自分の唄とは異なる「物語」が語られていたということだ。