第四話〈失われた一節の意味〉
森は深かった。
リオとセリルは木漏れ日の差す獣道を進み、やがて人の手が入らぬ奥地へと足を踏み入れていた。
獣の気配も薄れ、空気は澄み、土と葉の匂いが満ちている。
やがて、視界が開けた。
巨大な樹々が環状に並び、中央に静かな泉が広がる。
その水面には、まるで宝石のような青い光が揺れていた。
「ここが、エルフの里の入り口」
セリルが言うと、木々の間から、同じような外見をした者たちが現れる。
銀髪、尖った耳、碧い瞳――リオが幼いころから唄や本でしか見なかった“本物のエルフ”たちだ。
「人間?」「珍しい」「……森の精霊たちが嬉しそうだ」
ささやき声が漏れる。
リオは肩にかけたリュートを握りしめ、思わず足を止めた。
エルフたちは敵意ではなく、好奇心の混ざった視線を向けてくる。
やがて、年嵩のエルフが一歩前に出た。
白銀の長い髪を背に流し、優雅な仕草でリオを見つめる。
「人間の子よ。セリルが連れてきたとあらば、理由は唄か」
リオは頷き、リュートを静かに構える。
いつものように、口ずさむ。
――遥かなる鉱の谷に、光をまとう竜ありき――
泉のほとりに、唄が響く。
リオは最後まで、覚えている唄を歌い上げた。
その間、エルフたちは静かに耳を傾け、やがてささやき合う。
「やはり、足りない」
「短いのか」「忘れられたのか」
セリルがリオに歩み寄り、静かに言った。
「ねえ、やっぱり思った通り。……あなたの唄、少し足りないの」
リオは困惑する。
今まで、これが完全なものだと信じてきた。
誰も、欠けているなどと言わなかった。
「わたしたち、エルフは長命だから……昔の唄、かすかに覚えている者もいるの」
「じゃあ、俺の唄は……」
セリルは微笑み、首を振った。
「あなたのせいじゃない。誰かが、わざと唄を欠けさせたのかもしれない。
この森の奥に、古い碑文があるの。そこには、失われた一節が記されてるかもしれない」
エルフたちの間に、わずかな緊張が走った。
その碑文は、同時に“語ってはならぬ禁歌”にもつながっている。
「危険なのか」
「ええ、けれど、それを知らずにあなたの唄は不完全なまま。……それでいいの?」
リオは答えなかった。
だが、心はすでに決まっている。
唄は、自分にとって唯一の武器であり、すべてだった。
ならば、それを完全に取り戻さずにはいられない。
「案内してほしい」
セリルは、静かにうなずいた。
失われた一節。禁歌の欠片。
真実は、森の奥で眠っている。
エルフの里の奥は、森がさらに静かだった。
木々の葉擦れの音もなく、鳥の声すら聞こえない。
リオはセリルの背を追いながら、乾いた喉をひとつ鳴らした。
「……なんだか、森の雰囲気が違う」
それまでの穏やかな空気とは違う、張り詰めたような感覚があった。
セリルは振り返り、小さく頷いた。
「この先に、古い碑文があるわ。エルフの中でも、あまり近づきたがらない場所」
「理由は?」
「そこには《禁歌》が記されているから。そして、あなたの唄の“欠けた一節”も」
リオは深く息を吸い、セリルの後について森を進んだ。
やがて、巨木の間に開けた空間が現れる。
中央に、苔むした石碑が佇んでいる。
だがその石碑は、まるで昨日刻まれたかのように、文字の一つ一つが鮮明だった。
「……風化してない」
リオが驚くと、セリルは微笑む。
「当たり前よ。エルフは長い時を生きるもの。大切な言葉を、風や雨に奪わせるほど愚かじゃない」
リオは碑文に近づき、刻まれた文字を指でなぞった。
そこには、《結晶の涙、黒き大地に墜ちて》の完全な旋律と、《禁歌》と呼ばれる唄――《黒き墜涙の記憶》が、はっきりと刻まれている。
「これが……」
「あなたの唄の、欠けた一節。そして、忌まわしき禁歌」
リオは唄の全文を読み、ようやく自分の唄が不完全だったことを受け入れた。
同時に、禁歌が語る怨晶龍の真実――怒り、喪失、呪いの記憶を理解した。
「……だから、誰かが一節を欠けさせたのか」
「ええ。真実を知れば、唄は力を持つ。
怨晶龍の魂を揺り動かし、封印を破るかもしれない。
でも、それと同時に……救う可能性もある」
リオは拳を握りしめた。
もう迷いはなかった。唄は、自分にとって唯一の武器であり、誇りだ。
「俺は、唄を完全に取り戻す」
セリルは静かに頷き、リオの決意を見つめた。