第三話〈出会いの森〉
グレイドの街を離れて数日。
リオは北へ続く街道を、ひとり歩き続けていた。
背中には古びた荷袋と、肩から下げたリュート。
旅の荷物は、それだけだ。
グレイドの市場で耳にした怨晶龍の噂が、今も胸に引っかかっている。
夜の空を覆った黒い影。
砕けた結晶の鱗、怒りに濁った赤い瞳――。
あれは、唄と関係があるのか。
分からない。けれど、確かなことがひとつある。
唄を歌ったとき、あの影が、わずかに揺れた。
それが何を意味するのかも分からず、リオは歩き続けた。
旅は、もう数え切れないほど繰り返してきた。
だが、今回は違う。
夜になると、焚き火の明かりがぽつぽつと街道に灯る。
旅人たちが道端で休み、簡単な食事を取り、噂話に花を咲かせる。
リオもその夜、焚き火を囲むひとつの輪に混ざった。
隣に座ったのは、年季の入った旅装束をまとった男。
顔に深い皺が刻まれ、荷物には交易品がぎっしり詰め込まれている。
「お前、さっきの唄……他にも歌えるのか?」
男がパンをちぎりながら問いかけてきた。
リオはリュートを撫で、少し苦笑いを浮かべる。
「……すまない。この唄しか、歌えないんだ」
他の唄も、耳にしたことはある。
旅を続ける中で、宿屋や広場、街角で、誰かが楽しげに歌う声を何度も聞いてきた。
けれど、不思議と自分が歌えるのは、あの唄だけだった。
それ以外は、どうしても声が出ず、旋律が追いつかない。
男は焚き火の炎を見つめたまま、ふっと笑う。
「妙な話だが、そういう奴もいるかもな。ま、悪い唄じゃなかったぜ」
リオは視線を落とす。
この唄が、自分のすべてだった。
だが、それが何なのか、なぜ歌えるのか、意味も理由も分からないままだ。
(……俺も、他の唄を知りたい)
(この唄の意味も、もっと知りたい)
胸の内に、微かなざわめきが広がる。
旅の理由が、またひとつ形を変えた気がした。
「そういや最近、北の森で妙な噂を聞いたぜ」
男がぽつりと話を続けた。
パンを口に運びながら、火に照らされた顔に、少しだけ探るような色が混じる。
「人影を見たって話だ。森に紛れて誰かが暮らしてるとか……」
「……誰が?」
「知らねぇよ。ただ、エルフじゃねぇかって噂さ」
リオは目を見開いた。
絵本の中や古い唄でしか知らない、伝説の種族。
森と共に生き、長い時を刻む者たち。
「本当に……エルフがいるのか」
男は肩をすくめた。
「さあな。信じるかどうかはお前次第だが、エルフなら、長い時を生きてる。
昔の唄や伝承、そういうもんも、たくさん知ってるかもな」
リオは唇を噛みしめた。
北の森――そこに、まだ知らぬ唄が眠っているのなら。
自分が唯一歌えるこの唄についても、分かるかもしれない。
焚き火の炎が揺れ、夜の空気が冷たくなる。
リオはリュートを軽く鳴らし、唄を口ずさんだ。
――遥かなる鉱の谷に、光をまとう竜ありき――
男がパンを頬張りながら、ふっと笑った。
「……お前、面白い旅をしそうだな」
リオは応えず、ただ唄い続けた。
この先に、唄の意味を知る者がいると信じて。
翌朝、夜露の残る地面を踏みしめ、リオは北の森へと向かった。
まだ見ぬ唄と、自分のすべてを知るために。
◆ ◆ ◆
森は、思った以上に深かった。
獣道の先に、鬱蒼と茂る樹々が視界を覆い、陽の光はほとんど届かない。
リオは肩にリュートをかけたまま、唄を口ずさみながら歩き続ける。
――遥かなる鉱の谷に、光をまとう竜ありき――
いつから覚えたのかは思い出せない。
けれど、この唄だけは、自然と口をついて出る。
意味は分からなくても、これが自分のすべてだと、そう信じている。
森の空気は澄み、草の匂いと土の湿り気が混ざっていた。
歩き続けるうち、どこかから視線を感じる。
リオは足を止め、あたりを見回した。
「……隠れてるの、知ってるよ」
その声に応えるように、木の陰から誰かが姿を現す。
銀白の髪が陽光を受けて揺れ、碧い瞳が森の緑を映していた。
尖った耳、薄い緑の外套が風に揺れ、その姿はまさに――
「エルフ……」
リオの呟きに、女性は微笑む。
「唄、聞こえたわ」
風のように柔らかな声。
リオは警戒しつつも、リュートを背負い直した。
「唄を、聞いてたのか」
「ええ。懐かしい唄。けれど、何か……少し、短い気がするの」
エルフの女性が不思議そうに近づく。
その瞳は疑いよりも、純粋な興味で満ちている。
「短い?」
「私が子供のころ、森でその唄を聞いたことがある。
でも、何か足りない気がする。……里へ行けば、わかるかもしれないわ」
リオは驚きながら、女性を見つめた。
自分がずっと信じてきた唄が、完全なものではないのか――。
「私はセリル。エルフの里に案内するわ。
……あなたの唄、ちゃんと最後まで、聞かせてほしいの」
森の風がふわりと吹き抜け、葉の音がささやく。
リオはうなずき、セリルの後を追った。
この先で、自分の唄が“欠けている”ことに気づくとも知らずに。