第二話〈物語の始まり〉
朝焼けの色が、東の空をかすかに染めていた。
夜露に濡れた街道を、リオはひとり歩き続ける。
背中の荷袋は軽く、肩にかけたリュートが、歩くたびにわずかに揺れる。
街道の先に見えるのは、岩肌を削られた高台と、煙を吐く大きな街。
かつて、龍が眠り、鉱石を生んだと言い伝えられる――鉱山都市「グレイド」。
リオは、この街を目指して旅をしていた。
唄を歌い、銀貨を稼ぎ、次の場所へ向かう。
その繰り返しの中で、偶然にも《結晶の涙》の唄を口ずさめば、旅人たちは少しだけ懐かしげな顔をする。
けれど、この街では、もっと大きな何かが待っている気がした。
グレイドの城門前には、すでに行列ができていた。
商人、旅人、傭兵、物乞い――さまざまな者たちが、門番の検査を受けている。
リオも列に並び、淡々と順番を待った。
「名前は」
「リオです」
「出身地は」
「……ありません」
門番は、呆れたように鼻を鳴らした。
無魔にはよくあることだ。
戸籍もなく、捨て子として流れ歩き、名前すら自分で決めた者は珍しくない。
「流しの唄か。……好きにしろ、騒ぎだけ起こすなよ」
短くそう言われ、リオは街へ入った。
乾いた石畳の音が、靴底に響く。
グレイドの街は活気に満ちていた。
高台の岩肌に沿って家々が立ち並び、鉱石を積んだ荷馬車が行き交う。
遠くの空には、白い煙がたなびき、金属を叩く音があちこちから響いてくる。
鉱山都市らしく、街には屈強な労働者たちと、商人たちの叫び声が混ざり合っていた。
リオは市場の隅に腰を下ろし、リュートを構えた。
乾いた弦を鳴らし、唄を歌い始める。
――遥かなる鉱の谷に、光をまとう竜ありき――
唄の旋律が、雑踏の中に溶けていく。
リオの声は高くはないが、よく通った。
足を止めた者が、わずかに耳を傾ける。
その中に、老いた鉱夫がひとり、しわだらけの顔でリオを見つめていた。
そして、ぽつりと呟く。
「あの唄か……また、この街に戻ってきたか」
リオは眉をひそめたが、唄を止めはしなかった。
誰かが何を思おうと、唄は唄だ。
最後まで歌い切り、銀貨を数枚受け取ると、老鉱夫はすでに立ち去っていた。
その夜、グレイドの空に、不穏な黒い影が現れる。
かつて、番を殺され狂い、死の爆発を遂げた龍の名残――
怨晶龍の存在が、静かにこの街へ忍び寄っていた。
夜が訪れたグレイドの街は、昼間の喧騒とは違う顔を見せていた。
酒場の窓から漏れる明かり、遠くで聞こえる歌声、鍛冶場の赤々とした炉の炎。
そのどれもが、平穏な日常の一部だと、人々は信じて疑わなかった。
だが、街の西の空に、黒い影が忍び寄っていた。
月光を遮るように、影が山の稜線を越えていく。
それは翼を持ち、鱗のごとく輝く結晶をまとっていた。
けれど、かつて伝承に語られる“光をまとう竜”とは違う。
その鱗は暗く濁り、鋭利に割れたガラス片のように歪んでいた。
怨晶龍。
番を失い、狂い、最後には己を爆散させて死んだ光をまとう龍。
その涙が結晶核となり、歪んだ命を生み落とす。
愛なき結晶、怒りの核――それが怨晶龍だ。
街の者たちは、まだその存在に気づいていない。
リオもまた、知らぬまま、路地裏の安宿に身を寄せていた。
床は軋み、窓から冷えた夜気が忍び込む。
だが、納屋よりはマシだった。
リオはリュートを抱え、静かに唄を口ずさんだ。
――遥かなる鉱の谷に、光をまとう竜ありき――
その声は、知らず知らずのうちに、街の上空に響く不穏な影をかすかに震わせた。
黒い結晶のような鱗が、夜の闇の中で光を反射する。
龍は、ゆっくりと、街の中心へと降りていく。
リオはまだ気づいていない。
この唄が、龍の心に触れる力を持つことも、そして――
翌朝、グレイドの市場は騒然としていた。
瓦礫と灰に覆われた一角、夜のうちに何者かが暴れた跡が残されている。
砕けた石、焼け焦げた壁、黒く染まった路面。
「怨晶龍だ」
「……まさか、またあの災いが」
人々は怯え、口を噤む。
怨晶龍――伝承の中では語られるが、実際に目にする者は少ない。
だが確かに、昨夜、黒い影がこの街をかすめたのだ。
リオはその話を耳にし、胸の奥に微かなざわめきを覚えた。
だが、まだ自分には関係のない話だと思っていた。
この先、すべてが変わるとも知らずに。