第十話〈凍て竜の悲唄(ひか)〉
ルエン・メルティアの港を出たリオは、北に伸びる街道に沿って歩いていた。
唄は、まだ導いてくれるのだろうか。
確かなことは何もない。けれど歩みを止める理由もなかった。
北へ。雪の気配が漂う方角へ。
最初に辿り着いたのは、小さな街道沿いの村──ブライラ。
石積みの柵に囲まれた農村で、野菜と乾燥肉が名物らしい。
夕暮れ時、村の焚き火に誘われるようにリオが唄を口ずさむと、老人が「懐かしい音だ」と言って笑い、納屋の干し藁の上に寝かせてくれた。
朝には焼いた芋と硬い黒パンをもらい、礼を言って村を後にする。
次に訪れたのは、少し規模の大きな町──エステリア。
雪を迎える前の市が開かれており、人の熱気に包まれていた。
リオは賑わいの隅でリュートを奏で、小銭とリンゴ、干し肉を得る。
ここから先は流石に今の服装では進めない為、今まで稼いできた多くは無い路銀で外套を買い、宿の軒先を借りて野宿しながら、夢の中で風の唄を聴いた。夜の明けぬ街道を抜け、吹きすさぶ風の中を進む。
リオは厚手の外套を得たが、それでも北の風は頬を刺す。
けれど、唇は唄を忘れなかった。
低く、祈るように――風に乗せて、雪の空へと。
三つ目の村──カムリスでは、氷に備えるためか人々が忙しく、誰も唄に耳を貸さなかった。
けれど、村はずれの子供たちが小さな薪小屋で火を焚き、リオに「歌って」とせがんだ。
短い唄を一曲、優しく歌うと、子供たちは拍手して、寒さを忘れたように笑った。
その夜は家畜小屋の脇で寝かせてもらった。
そして──白銀の森を越えた先、リオは雪に沈む集落へと辿り着いた。
そこは世界の端にでもあるかのように静まり返っていて、風の音すら凍てついているようだった。
屋根には厚く雪が積もり、道の境界は曖昧だった。
家々は石と木でできていたが、どこか洞穴に似た印象を与えた。
リオが足を踏み入れると、白い息とともに声がした。
「旅人か? めずらしいね、この季節に」
声の主は、白い毛皮をまとった老婆だった。
その眼差しは、氷のように澄んで、温かかった。
「歌を……唄を聞いてもらえませんか?」
リオがそう尋ねると、老婆は目を細めた。
「この寒さで声が出るかい? まぁ、暖炉のあるところでなら、ね」
通されたのは共同の焚き火小屋だった。
リオは凍えた指先を火にかざし、そして、あの唄を静かに奏で始めた。
――遥かなる鉱の谷に、光をまとう竜ありき――
奏でられる音に、焚き火の火がわずかに揺れる。
リオの唄は集落の者たちの心に、長く閉ざされていた記憶を呼び起こした。
老婆はぽつりと呟いた。
「その唄、似ているねぇ……この地に伝わる唄に」
「えっ……」
「けれど違う。あんたの唄には、あの“凍て竜”の音が足りない」
リオは身を乗り出す。
「……その唄を、教えてもらえませんか?」
老婆はうなずき、小さな声で口ずさみ始めた。
⸻
《凍て竜の悲歌》
(北域伝承・イゼル高地)
氷の峰に 龍が哭く
鱗は透けても 心は秘す
涙は凍り 晶核は眠る
番を失えば 火は消え
高き空より 静かに墜ちる
音もなく 光もなく
地は黒く 凍り付き
誰も近づかぬ 沈黙の谷
その谷に 風が吹けば
遠く哭くは 失せし声
⸻
唄い終えると、焚き火が静かに、ひときわ高く燃え上がった。
精霊が、喜んでいるかのように――
「……黒曜石じゃないの。ここでは“凍晶黒石”って呼ばれているのさ」
老婆がぽつりと言った。
「墜ちたのは、ここから西へ半日。風の止む、凍てつく谷。今もそこには、龍の声が残ってる」
リオは深く頭を下げた。
この唄もまた、龍の物語。
そして、やはり彼の唄とは違う旋律を持っていた。
リオは龍が堕ちた谷を目指し西へ向かった。
谷の底は静かだった。
かつて何かが墜ちたその地には、黒く凍りついた結晶のような岩が点在している。
雪に閉ざされたこの谷で、それだけが熱の痕跡のように冷たく、異質だった。
リオは膝をつき、黒く鈍く光る石のひとつに手を伸ばす。
「……これも、黒曜石?」
表面は滑らかで、ほんのりと青を帯びている。
《結晶の涙》の唄にある、かつて龍が墜ちた場所――その地に残る痕跡に、彼の指先は確かに触れていた。
そのとき。
背後から、重い足音と金属の擦れる音が響いた。
「……ほう。こんなとこで人間に会うとはな」
リオが振り返ると、数人の小柄な影が雪の坂を下ってくるところだった。
背丈は人の胸ほどしかないが、分厚い皮と金属の装備に身を包み、手には鋭いつるはしや鉱石袋を携えている。
精悍な顔立ちに、頬から顎までを覆う髭。
間違いない――ドワーフの一行だった。
一団の先頭にいた屈強な男が、リオの前で足を止める。
「人間が凍晶黒石を掘りに来たのか? お前さん、鍛冶か細工屋か、それともただの物好きか?」
「……あ、いや。俺は……旅の者です」
リオは慌てて立ち上がり、背のリュートを押さえた。
「その……龍の唄を探してて……」
「唄、だと?」
ドワーフたちは一斉に眉をひそめた。
唄がどうしてここに関係あるのか、とでも言いたげに、視線が鋭くなる。
「……あんたの背中、それ楽器か?……」
「ん?」
先頭の男がそちらを振り返ったとき、リオは意を決したように口を開いた。
「――“リュート”です。俺、吟遊詩人みたいなものなんです」
「おうおう、まさかこの寒空の下、そんなもん奏でに来たってのか?」
男は短く笑い、やがて笑みを引っ込める。
「聞こう。お前、ここで何をしてた?」
「谷を……探していたんです。唄に導かれてここに来ました。龍の唄に出てくる遥かな鉱の谷が、ここにもあるかもしれないって……」
言葉の途中で、リオは視線を落とした。
それがどれほど突飛な話か、自分でも理解していた。
だが、ドワーフの中の一人がふと呟く。
「……懐かしいな。光まとう龍の唄だろ?」
「え?」
「昔、ここの北の集落で、年寄りが話してたよ。“唄に導かれて来た旅人がいた”ってな。黒曜の地で唄をうたって、精霊が泣いたとかなんとか」
先頭のドワーフが鼻を鳴らした。
「迷信だ。けどまあ、唄がどうこう言うなら、試してみるといい。……おい、名前は?」
「リオです。家名は……ありません」
「ふむ、リオ。お前、ここに何をしに来たのか、まだよくわかっちゃいないようだな」
リオは口を閉じ、黒曜石のかけらにもう一度視線を落とした。
この場所では、命が育まれることはない。
それだけは、確かにわかる。
この場所にも唄があった。
けれど結晶核を還すには、あまりに冷たく、沈黙に満ちていた。
そして何より、黒く凍りついたその地に「命の芽吹き」は感じられなかった。
リオの手には、いまだ首に掛けた袋――結晶核が揺れている。
新たな命を託されたそれに応えるため、リオは再び旅立つ覚悟を決めた。
だが、道は途絶えていた。
地図にも載っていないこの凍晶の地から、次に向かうべき場所は……わからない。
風の音にかき消されかけたその時、後ろから声がかかった。
「……おい、小僧。お前、さっき“鉱の谷”を探してるって言ったか?」
リオが振り返ると、先ほど出会ったドワーフのひとり――先頭を歩いていた男が、斜面の上から見下ろしていた。
「“遥かな鉱の谷”って名を口にした奴なんざ、初めてだ」
リオは身を起こし、少しだけ歩み寄る。
「知ってるんですか……?」
男は鼻を鳴らす。
「知ってるっほどじゃねえが、噂なら聞いたことがある。東の山の果て、霧の下に沈んだ古い谷。そこに、“光まとう龍”が住んでるとかなんとか」
心臓が跳ねるように鳴った。
「……そこへ、行きたいんです。お願いします。案内してもらえませんか?」
ドワーフはしばらく沈黙し、リオをじっと見据えた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「よし。だが、タダじゃねえ。案内の報酬は――その首の袋に入ってる、晶核だ」
リオの目が見開かれた。
首元を無意識に押さえ、怯えたように一歩引いた。
「それは……それだけは、渡せません」
「なら、取引はなしだ」
そう言ってドワーフは踵を返しかけた。
リオは咄嗟に声を張る。
「待ってください! あの、唄じゃ……ダメですか?」
ドワーフの足が止まった。
しばらく、沈黙。
「唄、だと?」
「……これしか、俺にはありません。どうか――」
リオは言いかけて、唇を結び、ゆっくりとリュートを構えた。
そして、凍てついた空に向かって、一節、静かに紡いだ。
風が止まり、雪が舞い落ちる音すら遠のくようだった。
しばらくして、ドワーフの男は小さく息を吐いた。
「……懐かしい響きだな」
「……え?」
「昔、父ちゃんが山の奥で聞いたって言ってなよく聞かせてくれた。龍の巣がある谷に響く音だってな。……本当かどうかは知らんが」
男は肩をすくめ、そして手を伸ばす。
「よし、その唄、気に入った。案内してやる。お前がその唄を、谷まで届けてみせるってんならな」
リオの手が、ゆっくりとその手を握り返した。
名は、バルク。
鉱夫の血を引く、屈強なドワーフ。
こうしてリオは、新たな旅の同伴者を得た。
目指すは――遥かな鉱の谷。
龍がかつて愛し、命を繋いだ、静かなる地。
風が雪を巻き上げるなか、ふたりは東へと向かって歩き出す。
旅は、なおも続く。
谷の風が唄をさらい、小さな精霊が黒曜の隙間でそっと揺れていた。