第6話 トリック
「ほな、いこか!」
ベニはにこっと笑い、ゴーグルを額に押し上げた。
太陽の光を受けてきらりと光るレンズ。
その下の瞳はまるで、獲物を捉えたキツネのように鋭く、静かに狙いを定めていた。
それでいて楽しげだった。
後ろに束ねたポニーテールが軽やかに揺れる。
ティナはその姿をただ見つめていた。
…なんだろう、この人。
全身からエネルギーが溢れてる。
ベニは足元に視線を落とし、愛用のギアを軽く蹴った。
「今から、ギアの“トリックモジュール”使うさかい!」
ギアのベース部分が「カシャンッ」と音を立てて変形を始めた。
側面に格納されていた小型の推進装置がスライドして展開し、アウトソールの一部が分離して斜めにせり出す。
その内側には、曲線を描くような光のライン。
まるで流れるような意志を持った回路が、足元に“風”の軌道を描き出す。
「いくで、トリックモジュール──起動!」
スパークと共に、ギアが青白い光をまとう。
ベニの足元に描かれたラインが発光し、"「疾走の痕跡」"が都市の床を走る。
「わあっ……!」
ティナは思わず声を漏らした。
まるで光の筆で“風”を地面に描いているみたいだった。
ベニは一歩踏み出し、ぐんっと加速。
そのままコンクリートの壁面を駆け上がり、途中でクイッとギアの角度を変える。
滑らかに曲がるレールを見つけると、身体を捻りながらローラーで飛び乗り、スパイラル状に旋回していく。
「おりゃっ!」
ベニの動きは、まるで舞っているようだった。
ポールを跳び越え、段差に着地してからトリックを繋ぎ、空中でくるりとスピン。
そして再び滑らかにレールへ着地。
髪がふわりと浮き、ポニーテールが弧を描く。
…綺麗。
ティナはただ呆然とその光景を見ていた。
こんなふうに身体を使って「表現」することができるなんて。
ベニは最後に建物の端から跳躍し、壁面の一部にある縁を蹴って回転。
そのまま一気に高所へ飛び移り、電光掲示の上に軽やかに着地した。
「ふぅ〜っ!どやっ、見とれてもうたか?」
上から手を振るベニの声に、ティナは慌てて頷いた。
「す、すごすぎる……!」
「ウチのギアは“トリック特化型”やからな。動きの自由度がめっちゃ高いんよ。
それに、“スリップライン”が描けるってのがポイントやな。見た目も映えるし!」
「でも、あんな動き……わたしにはムリかも……」
ティナはぽつりと呟いた。
自分も走れた。跳べた。
でも、あの「魅せる動き」はあまりにも別世界だった。
「へへへ、最初はみんなそう言うねん」
ベニは軽く降りてきながら、ギアをポンと叩いた。
「でもなティナ、あんたの“足”は嘘つかへんで。走って跳んで、ワイルドランに興味ないやなんて、もう言わせへんよ?」
その言葉に、ティナは小さく笑った。
心の奥に灯った火が、ドクンと静かに跳ねる。
(……きっと、あたしはもう、とっくに惹かれてたんだ)
ベニはギアのローラーを軽く止めて、ティナの方を振り向いた。
「ほな、そろそろ仮住まい案内するで。せっかくやし、一息つかなな?」
さっきまでのワイルドランの余韻がまだティナの中に残っている。
ベニの身のこなし、都市を駆け抜ける姿、風の匂い…全部がまだ胸をざわつかせていた。
「うん……ありがと」
ティナが小さくうなずくと、ベニはニッと笑って、またローラーを軽く転がし始めた。
ふたりは都市の高層エリアから、住宅ブロックのある中層階へと続く道を進んでいく。
移動中は、歩道に沿って滑るベニと、ふつうに歩くティナ。
その並び方にも、どこか新旧のコントラストが漂っていた。
「アリエッセの住居区って、ほんま静かでええとこ多いねん。
あんたの部屋もな、研究関係の人とかが使う仮設のユニットやけど、機能性バッチリやで!」
「……そっか」
ティナはぼんやりとベニの背中を見つめる。
まだこの都市のことも、自分のこともよく分かってないけど、少しずつ何かが形になってきてる気がする。
しばらくして、ふたりは中層階へと続くエレベーターに乗った。
ガラス張りの壁からは、遠くにさっきのワイルドランのコースが見えた。
ビルの隙間を縫うように延びたライン、点滅するネオン。
風の音が、まだ耳の奥に残ってる。
エレベーターが静かに停止し、「セイル区・住宅フロア 17B」の表示が浮かび上がった。
扉が開くと、広々としたホールがふたりを迎える。
壁面には淡く光るラインが走り、足元のパネルには歩くたびに反応する発光アニメーションが流れていた。
「ほい、こっちやこっち〜」
ベニが軽やかに滑りながら案内していく。ティナはその後ろを歩く。
無数のドアが並ぶ廊下の中、ひときわシンプルな白い扉の前でベニが立ち止まった。
「ここがあんたの部屋。仮住まいやけど、しばらくは安心して過ごせるはずやで」
ティナが扉の前に立つと、ピッという認証音が鳴った。
ドアの脇の小さなインターフェースがティナの瞳の動きを読み取り、即座に認証を完了する。
『ID確認──ティナ・アクセス許可』
ホログラムのUIが空中にふわっと展開し、「WELCOME HOME」の文字が浮かんだ。
それと同時に、静かに扉が開く。
中は明るく、落ち着いた配色で整えられていた。
大きめのベッド、壁には収納一体型の情報パネル、天井には可変照明。
デスクやコンソールも未来的ながら温かみのあるデザインで、過ごしやすさを感じさせる空間だった。
ティナはそっと部屋の中に足を踏み入れた。
足元の床がふわりと沈むような感触で、優しく彼女を受け止める。
「……ほんとに、部屋があるんだ」
ぽつりと漏らした言葉に、後ろからベニの声が返ってきた。
「そりゃそやろ〜。シエラがわざわざ用意してくれたんやもん。
ちゃんとリラックスして、よう寝るんやで」
ベニはギアのローラーをカチッとロックして、ティナに手を振った。
「今日はここまでなっ!あたしはこれから練習やし!
明日もし暇やったら、また遊ぼな〜!」
「……うん、ありがとう、ベニ」
「んじゃ、ばいばーい!」
明るく手を振って去っていくベニの背中を見送りながら、ティナは自分の“今いる場所”を改めて感じていた。
扉が静かに閉まる。
部屋の奥でホログラムディスプレイがぽん、と起動し、「Living Support: 初期設定ガイドへようこそ」という音声とともに、サポートAIのアバターが現れた。
「ようこそ、ティナ様。ご滞在中の生活を快適にサポートいたします。
本日は、お疲れさまでした」
ティナはようやく靴を脱ぎ、ベッドに腰を下ろした。
足の裏に残る都市の感触。
心の奥でまだ燃えている“走ること”への高揚感。
明日は、どんな1日が待っているんだろう――