第5話 ワイルドラン
── チュン、チュン。
……とは鳴かない。けれど。
仄かに白んでいく天井の照明が、ゆっくりと室内を照らしはじめる。
時間に合わせて自動調整された“人工の朝”が、静かにラボの一角に差し込んでいた。
ティナは柔らかなベッドの上でまどろみながら目を覚ました。
掛け布団の温もりを感じながら、数秒ほどそのままぼーっとしていた。
「……ここって……」
昨日の記憶が、すこしずつ戻ってくる。
シエラと出会って、自分の姿に戸惑って、初めて走って、跳んで……。
気づけば、ぐっすり眠っていた。
ベッドから身体を起こす。
空調は心地よく整えられていて、肌寒さもなく息も静かに落ち着いている。
「……朝、かぁ」
ティナはぽつりとつぶやいた。
カーテンも鳥の声も太陽もない。
でも、確かに“朝”が来たのだとわかる。
このラボで迎える、初めての朝。
ティナがゆっくりとまぶたを開けた。
仄かにあたたかい光が天井のパネルから差し込んでいて、昨日までの“別の世界”が夢だったかのように、静かで穏やかな時間が流れている。
ふかふかのベッドに包まれていた身体を起こしたそのとき…
「コン、コン」
ノックと共に、扉がシュッと静かに開いた。
「おはよう、ティナ。身体の調子はどうだい?」
入ってきたのは、いつもの白衣姿のシエラ。
片手にはあたたかそうなコーヒーの入ったカップ。
寝起きの髪をわずかにかき上げながら、口元に微笑みを浮かべている。
「……うん。よく眠れたよ」
「それはよかった。あのベッド、実は再生モジュール入りだからな。
寝てる間に微細な筋肉の張りとかも調整されてるからちょっと贅沢仕様だ」
シエラはふわりと笑って、隣のモニターパネルにカップを置く。
「それでさ。今日はちょっと面白いところに連れて行こうと思って」
「面白い……?」
「昨日、走ってた時の顔忘れてないぞ。
ティナに見せたい場所がある。“ワイルドラン”のフィールド。
アリエッセの“都市を駆ける競技”が生まれた、言うたら発祥みたいな場所だ」
ティナは思わず身を乗り出す。
「ほんとに……行けるの?」
「もちろんだ。案内人にも連絡済み。向こうで合流するから、いろいろ教えてくれるはず」
そう言って、シエラは一拍おいてから軽く眉を上げた。
「あと、もうひとつ。
実はティナの“仮住まい”も確保してある。知り合いが住居管理してて、ちょうど空きが部屋あったんだ。
見学のあと、そこを案内するから。少しの間だけど、拠点になると思う。」
「……ありがとう、シエラ」
ティナは小さな声で、でもまっすぐにお礼を告げた。
その言葉の奥には素朴な疑問が込められていた。
この世界のことも何も知らない自分に。
なぜここまでしてくれるのか
「……どうして、そんなに優しくしてくれるの?」
シエラは少しだけ目を細めた。
そしてコーヒーをひとくち、口に含んでからゆっくりと答えた。
「んー……そうだな」
カップを置くと、白衣のポケットに手を突っ込み、ティナに視線を向ける。
「単純に──君に“興味が湧いた”ってだけだ」
ティナが瞬きをする。
「君の身体、君の反応。
どこをどう取っても、いまのセンティエンツの常識から外れてる。
ありえない速度、初見での運動精度、そして……昨日の“走る顔”。」
シエラは少しだけ笑った。
それは、研究者としての純粋な好奇心と、
なにかを発見したときの無邪気さが混ざった笑みだった。
「私は研究者だからな。面白そうなサンプルを見たら、なるべく手元に置いておきたいだろ?
今の君は、めちゃくちゃ面白い“存在”なんだ」
言葉だけ切り取れば、どこか冷たい響きだったかもしれない。
でも、その声にとげはなくむしろあたたかささえ感じられた。
「まぁ……たぶん、単に放っておけなかっただけかもしれないな。
ティナを見てるとちょっと不安定だしな」
ティナはぽかんとしたまま、それでもふっと笑みをこぼした。
「……そっか。じゃあ、モルモットとして全力でがんばらないとね」
「ははっ、それはいいな。頼りにしてるぞ、実験動物さん」
ふたりの間に、ようやくほんの少しだけ“信頼”の糸が生まれていた。
___しばらくして、ワイルドランのフィールドに着いた。
ビルが並ぶ高層街区。
ひときわ大きな交差構造の屋上に、ティナは立っていた。
足元を風が抜けていく。
どこを見ても鋼鉄と光の都市。
高層ビルの側面には、ホログラムの広告がいくつも映し出されている。
「わあ……」
見下ろせば、幾重にも重なる歩道やレール。
遠くでは誰かが壁を蹴って、信じられない高さまで駆け上がっていた。
「やっほーっ☆ 君がティナ?」
明るく弾ける声とともに、空からひとすじの流線が降りてくる。
風のように滑りながら、くるりと旋回。
そのまま壁を蹴ってスロープを上り、ティナの目の前に華麗に着地する少女がいた。
脚に装着されたのは、流線型のスリムなギア。
まるで重力を無視するかのような軽やかさ。
滑り出すたび、ギアから青白い軌跡が尾を引いて、空気にスパークが散った。
「初めましてやな! アタシ、トレイサーのベニっていうねん。
今日の案内人つとめます、よろしゅう!」
彼女はウィンクを飛ばしながら、ティナに手を差し出した。
長めの袖に指ぬきグローブ、腰にはステッカーが貼られたガジェットバッグ。
ティナとはまた違う、元気さ全開のスタイル。
「このあたり、いまワイルドランのトレンドど真ん中やねん。
昼も夜もランナーたちが入り乱れて、光と風で競い合ってるってわけ!」
「……あれ、今のも?」
ティナが指差す先には、ビルとビルの間をロープで飛び渡るトレイサーの姿。
その下では別のトレイサーが、壁を蹴って一気に4階ぶん駆け上がっていく。
「せやで。あれが“リアル”や。
でもな…アタシのギアはちょっとちゃうで?」
そう言って、ベニはくるりと背を向けて一気に加速。
レール状に敷かれた縁を滑り、手すりを掴んで回転。
パルクールでよじ登った直後、ローラーでそのまま滑走するという、信じられない流れを見せる。
「“走って” “跳んで” “滑って” “舞う”。
それが、アタシの“ベニ流”や!」
ティナは言葉を失った。
そのすべての動きが、ダンスのように美しかったから。
「どや? ちょっとでもワクワクしたなら、それが正解や♪
ほな、次は“君の番”かもな?」
ベニはくるっとターンして、ティナににやっと笑いかけた。
ベニの軽やかな動きを、ティナはぽかんと見つめていた。
目の前で繰り広げられるのは、まるでゲームの世界のトリックアクション。
けれど、これは仮想でも夢でもない…今、目の前で“現実”として起きている。
「……すご……」
ティナが思わずつぶやくと、ベニはくるっとこちらを向いた。
「へへっ、ちょっとは決まったやろ?」
「うん……てか、さっきから気になってたんだけどさ」
ティナは首をかしげる。
「トレイサーって、なに?」
「おー、ええ質問やなっ!」
ベニは勢いよく片手を上げて、親指を自分に向けた。
「“トレイサー”っちゅうのはな、
このアリエッセで“走る・跳ぶ・滑る・舞う”を極めたランナーのことや!」
「ランナーの中でも、都市を読み解いて、自由自在に駆け抜けるのがトレイサー。
フロアの段差、パイプ、レール、電光掲示板……全部が“道”に見えてくる」
「ただ走るだけちゃうねんで?
風の流れ、タイミング、ギアの癖、地形のくせ……
そんなん全部、瞬時に読み取ってルートを組む。それが“技”や」
ベニの瞳が、きらきらと光を宿している。
「アタシらは“都市”そのものをステージにしてんねん。
どこをどう駆けるかは、自分のセンスとスキル次第ってわけ!」
ティナは目を見開いた。
その言葉のひとつひとつが、まるで鼓動みたいに胸に響いていく。
「都市を……ステージに……」
さっきの体験がフラッシュバックする。
走った感覚、跳んだ浮遊感。
なによりあの興奮…あれが、ここでは“競技”になるというのか。
「……ねえ、ベニ」
ティナは、少し声を張った。
「“トレイサー”って、どうやったらなれるの?」
ベニの口元が、ぱっと花開いたみたいに笑う。
「お、興味出てきたな?」
「……ちょっと、ね」
「ええやん! その“ちょっと”が大事やねん!」
ベニはにやっとして、くいっと親指を立てる。
「アリエッセではな、才能ある子は放っとかれへん。
まずは見て、知って、ワクワクしたら……あとは“走るだけ”や!」
そして、ベニは手を差し出す。
「案内したる。
今日は特別に、最前列で“ホンモノのトレイサー”の走り、見せたるから!」