ここはどこ
「それで?」
エリザベートのその一言を、彼女の取り巻きたちは正しく理解した。
背の高い伯爵令嬢が進み出る。
「先日、エリザベート様ご不在の茶会でレイムス殿下にお声をかけられていた令嬢がおりました」
「そう。では今夜はその者に。……あら? お待ちになって」
エリザベートの視線が夜会会場の隅にいる一人の女性の上で止まった。
窓際に立ち、誰かと話すでも踊るでもなくぼんやりと佇む令嬢。特別に優れても劣ってもいない容姿と身なり。あまり見かけない顔である、という以外は何がエリザベートの気を引いたのかわからない。
周囲の反応の悪さに気づいたのだろう。
エリザベートは手にした扇で口元を覆った。
「……ドレスの色」
言われて、友人たちは慌てて向こうの令嬢の服装を確かめた。
令嬢が身に着けているのは薄い紫にもピンク色にも見えるドレス。
そしてエリザベートがまとうドレスは彼女の瞳の色そのままのアメジスト色の生地である。
「ま……まあ! 紫が被っていますわ……ね?」
「ねえ皆様。今夜わたくしがこの色のドレスで参加することは予想できなかったかしら?」
エリザベートは悲し気に目を伏せる。
「いいえ! 紫と言えばエリザベート様のお色! レイムス殿下のお色である青色とどちらかを着用されるだろうことは誰にでも予想できますわ」
「そう。ではあれは、わたくしへの配慮に欠けた行為である、と受け取ってよろしいわね?」
友人たちは口々に賛同する。
エリザベートの形良い唇の端が釣り上がった。
「では、今宵はあれに致しましょう」
『エリザベートの吊るし上げ』はもはやこの国の社交界の名物となっていた。
第二王子レイムスの婚約者であるエリザベート・イーデンブルグ公爵令嬢は自らの行いを隠さない。
彼女の言い分としてはこうだった。
自分はやがて王家に嫁ぐ者である。この先、この国の人々の心を完全に掌握しなければならない。
それを成し遂げる為には人々に舐められてしまうことが何よりも害悪であると。
だから貴族たちには自分を恐れてもらいたい。陰口でさえ叩くのを忌避されるような恐怖の対象になれればいい。
そんな夢を抱いている、とエリザベートは周囲に話していた。
そうしてこの夜の生贄となる令嬢に向かい、豊かな金髪縦ロールを揺らしたエリザベートが一歩足を踏み出した時だった。
突然、彼女の足元の床が光り出した。
そこに見たことのない文字のようなものが書かれた円陣が浮かび上がる。
なんですの、と彼女が言い切る前に。
エリザベートは夜会の会場から姿を消していた。
次に視界が戻った時には見知らぬ小部屋の中だった。
エリザベートは辺りを見回す。
そこはどこか地下室のような窓のない閉ざされた室内。光源は天井から吊るされた謎の光る石。
エリザベートの前に並ぶのは、貴族らしい身なりの、エリザベートと同じ年頃の令嬢たちが数人だ。
「なんてお美しいの……!」
思わずといった感じで令嬢の一人が感嘆の声を上げた。
(正直者)
エリザベートは掴んでいた隠しポケットの武器からそっと手を離す。
令嬢たちは互いに顔を見合わせた後、エリザベートに向かって突き進んできた。
「ようこそおいで下さいました異世界の悪役令嬢様、どうか、どうか私たちを貴女様のお力で苛め倒して下さいませ!」
「……はい?」
エリザベートは聞き返す。
その時だ。閉ざされていた扉が突然開いたかと思うと、数人の騎士と身なりのよい男性たちがその場に飛び込んで来た。
「! しまった……遅かったか……!」
「ケネス殿下! 貴方様がどうしてこちらへ……!」
驚く令嬢たちはすぐに騎士たちに取り囲まれる。
「その方らの身元は既に割れている。このままそれぞれの屋敷に帰り沙汰を待て」
「何故ですの。召喚魔法を使ってはいけないという法律はございませんわ!」
「そんな愚かな真似をする者はいないと思われていたからな!」
怒りのケネスの指示で令嬢たちは退室させられる。
何がなんだかわからないエリザベートの前で、ケネスと呼ばれた男性はおそらくこの国の最敬礼なのだろう、と思われるポーズを取った。周りの者もそれに続く。
「お初にお目にかかる、異世界の君よ。私はドドン国の第二王子、ケネス・ドドン」
そんな国の名前は聞いたこともなかった。そもそもイセカイやらショウカンマホウやらという言葉も意味不明である。
だがエリザベートは問い質さない。知識のないことを相手に知らせるのは弱みを晒すのも同然、と思うからだ。
「異世界の君。貴女のお名前を伺っても?」
「……エマ」
このような状況で見知らぬ相手に本名を知らせる気はさらさらなかった。
なので乳母の名を教えてみた。他人の名で呼ばれるならその者の名であれば受け入れられた。
エリザベートの偽名を知り、王子と呼ばれた男はもう一度礼を取る。
「では、エマ殿。貴女の身柄は今後我が国で保護させて頂く。詳しい事情は馬車の中で話すがそれでよろしいか?」
このままこんな所で突っ立っていても仕方がない。エリザベートは了承した。
ケネスに連れられて部屋を出ると、そこはほとんど朽ち果てた神殿のような場所であることがわかった。
外は夜。用意された豪華な馬車に乗り込む。
馬車が動き出し、しばらくしてから。どこから話したものか、とケネスは口を開いた。
ケネスが話す内容からエリザベートは理解した。
まずはエリザベートが今いるここは彼女の生きてきた世界とは別の世界であること。
エリザベートの世界では物語の中にしか存在しない魔法というものが、ここでは実際に使用されていること。
そしてこの国では今、大きな異変が起きているということ。
「昨年、隣国の王太子が結婚した。その際に起きた少々特殊な経緯を、あの国の作家が物語に仕立て上げ、本にして売り出したのだ。……これが世界中の令嬢たちに熱狂的に受けた」
ケネスはため息をつく。
「その経緯というのが。下位身分の見め麗しい令嬢が高位貴族の令嬢に苛められ、その被害がきっかけで王太子の目に留まり、騎士道精神だか庇護欲だかを刺激されたか知らんがなんやかんやで下位令嬢は王太子妃になった、というものなのだ」
まあ、とエリザベートは扇を口元に当てた。
「ありえませんわ」
「私もそう思う。だが、隣国では実際に起きた。……ならそれが我が国で起きてもいいではないかと思いついた人間たちが実際に動き始めてしまったのだ」
ケネスは口にするのも嫌そうに説明を続ける。
それはまるで物語の主人公のように。相手の身分や婚約者の有無を問わずに高位令息と親しくしようと振舞う下位令嬢たちが社交界で続出した。それを高位令嬢がたしなめようものならたちまち悪役令嬢のレッテルを貼られてしまう。なのでもはや誰も注意もできない。
そもそもドドン国の国民の気質的に好んで人を苛めたがる者はいない。その結果、ヒロインになりたがる令嬢たちは実にささいなことを大袈裟に受け取っては自分はひどい被害を受けたと妄想を訴え出る混乱状態に陥っていた。
「こう申しては何なのですけれど。……愚か者の集まりですの、この国の令嬢方は」
「返す言葉もない」
眉間の皺を指でほぐす。
ケネスの疲れを読み取ったのだろう、一緒に馬車に乗り込んだ側近らしき男性が後を続ける。
「そこで一人の歴史好きの令嬢が思い出したのが渡り人という存在でした。渡り人というのはこの国に何百年かに一人現れる、様々な異世界からこちらへ来る旅人であります」
その最後の一人が残した謎の言葉が今も語り継がれていた。
『聖女モ勇者モ冒険者モイナイコンナ世界デ残ッテル役目ナンテ悪役令嬢シカナイジャナイ。好ミジャナイカラ帰ロウット』
「そこに悪役令嬢という言葉が確かにありました。令嬢たちは異世界にはそれがいる筈だと信じ込み、召喚の為の準備を始めてしまったのです」
「それはうちの世界じゃありませんわ」
魔法など存在しないのだから世界違いだ。
「本人たちに確認しなければわかりませんが、おそらく異世界の指定までは出来ないものかと」
大迷惑だ、とエリザベートは思う。
「そもそも何故準備の段階で止められなかったんですの」
「止める為の法がなかったのだ」
答えるのはケネスだ。エリザベートは驚く。
「この世界では貴族の誘拐が合法ですの⁉」
「まず召喚というものに関する決まりが一切なかった。召喚を誘拐と解釈するかもまた別の話だしな。なので私は特例に特例を重ねてどうにか召喚を違法とする法案を通し、こうして駆けつけたのだが……一足遅かった」
先に令嬢たちの身柄を押さえるくらいなんとでもなるだろうに、と思うが口には出さない。この国にはこの国のやり方があるのだろうとエリザベートは言葉を飲み込んだ。
代わりに別の話をする。
「それで? わたくしはいつ元の場所へ戻れるのかしら」
「……すまぬ。わからない」
エリザベートは『自分はとてつもなく不快である』を示す表情としての片眉を上げる。
この仕草が通じたのかはわからないが、ケネスはひどく申し訳なさそうな顔をする。
「我が国の者のしでかしだ。責任を取り、なんとしてでも貴女を帰したいとは思う。だがこれまでに未経験の事態なので、魔法師たちが結果を出すのもどれくらいかかるか全く不明なのだ」
「これまでの渡り人とやらはどのような方法でここと行き来を?」
「確か……旅は往復が定められた魔法で構築されていた筈だ。彼ら独自の戻る為の条件があり、それを達成できれば帰れるのだと聞いた気がする」
「……嫌な予感が致しますわ」
エリザベートが言うと、ケネスは首を傾げる。
その仕草が(推定)成人男子にあるまじきかわいらしさを見せていたのでエリザベートは少しいらっとする。
「わたくしを呼び寄せた魔法とやらを作ったのがあの者たちであるなら。条件には自らの願いを組み込むのではなくて?」
ケネスより先に側近男性がハッとなる。
「! まさか、貴女がここで悪役令嬢を務めなければ元に戻れないと?」
「どうかしら。憶測を話し合っても仕方がありませんわ。さっさと本人たちに問い質して下さいませ」
苛立つ感情を冷まそうと、広げた扇で自らを扇ぐ。
そこでケネスが、エリザベートには全く見覚えのない奇妙な体の動きをした。
「……我が国の者が、大変申し訳なかった。エマ殿には出来る限りの償いをすると誓おう」
奇妙な動きは謝罪の動作か誓いの形かわからない。
それでもケネス自身の誠意は感じ取れた。
エリザベートの苛立ちが、少なくとも目の前の相手からは薄れていく。
「……お互い、下の者には苦労させられますわね」
その言葉でケネスへの追及はおしまいにした。
今はそれよりも元の世界に戻る方法に集中したい。
(貴族の娘が衆人環視の前で姿を消すなどあってはならぬこと! これ以上瑕疵を大きくする前にわたくしは1分1秒でも早く元の世界へ帰らなければならないのですわ!)
翌日。
令嬢たちに話を聞いたところ、やはり往復の条件はエリザベートが悪役令嬢として振舞うこと、であった。
与えられた王城の客室でそれを聞いたエリザベートはすっきりする。
「では、とっとと片づけてしまいましょう。ついでに二度とこんな愚行が起こらぬよう、愚かなヒロイン気取り共を一掃してしまうのはいかがかしら?」
「一掃? そのようなことが出来たらありがたいが……」
「何もしないよりはマシかと。題して『苛められヒロイン我慢比べ茶会』ですわ!」
エリザベートはテーブルを扇で叩いた。
並べられた茶器と目の前のケネスが軽く跳ねた。
「失礼。我慢比べとは一体……?」
ケネスの背後に立っていた、テオと名乗った側近男性が尋ねてくる。
「言葉通り、令嬢たちの忍耐力を競い合うのです。最後まで耐え抜いた者はその根性を称え、この国の真のヒロインの権利を得るのですわ」
エリザベートの計画はこうだ。
エリザベートの用意した茶会の場にヒロイン志望の令嬢たちを集め、そこで彼女らをたっぷりと甚振る。
こんな苛めは耐えられない、と思えば抜けることは出来るが、抜けた者は今後一切ヒロイン気取りはしないという誓約書を書かせることにする。破れば罰則をつけて。
「茶会ですので、まあ、終了は日暮れまでかしら? もしも運よくそこまで残った者がいれば適当に丸め込んでその者に相応しいそこそこの縁談などあてがってやればよろしいのではないかしら」
説明をしながらエリザベートはあら、と思う。
話を聞いているケネスの顔が、いつのまにか気のいい王子から仕事をする者の表情になっている。
「我が国の高位貴族の令嬢は打たれ弱いと聞くが下位令嬢はたくましそうだな……最初から悪意ゆえではないとわかっている苛め行為で実際どれくらいが音を上げるものか……」
「さあ? わたくしの目的は悪役令嬢として振舞うことですもの。そちらとしては、これでわずか一人でもくじける者が出ればありがたいのではなくて?」
「まあ、それはそうだな。……ああ、すまない。どうも私自身もエマ殿を利用することを考えてしまったようだ。これでは例の令嬢たちと変わらんな」
そんなケネスに。一口お茶を飲んでから、エリザベートは言った。
「殿下はあまり王族らしくありませんのね」
「? そうだろうか」
「ええ。ふつう、王家の者はそうひょいひょい謝ったりしませんわ」
ここへ来てから何度この男の謝罪を聞いただろうかとエリザベートは思い返す。
ちらりと見ればテオは困った顔をしていた。
「……殿下。王族の謝罪は最終手段だといつも申しておりますのに……」
「謝っているか? うん、だが、こう言ってはなんだがエマ殿はなんのしがらみもないお方だ。他の者に対するより気軽に話せるのかもしれないな」
ケネスは一人で納得している。
「んん? ということはそのひょいひょい謝る性質というのが制約のない私の本性という訳なのか。テオ、お前は気づいていたか?」
「まあ、うっすらとは」
「そうなのか。私は知らなかったぞ」
「……おかしな方」
崩れそうになる顔を隠す為にエリザベートはさらにお茶を口にする。
カップ一杯のお茶を飲み干してようやくエリザベートは落ち着いた。
「では。早速始めましょう。これからわたくしが言うものの用意をお願い致します。準備が出来次第計画を実行、夢見るヒロイン気取り共を叩き潰してやりますわ!」
エリザベートは決意する。
例えこの世界でどんな悪事に手を染めることになろうとも。一刻も早い帰還の為には他人の心などいくら踏みにじってもかまわないと。