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第四章 「引き裂かれた忠誠 ―― 家族か、国家か」

 健太郎の拘束から一日後、日本政府から佳鶴子に対して「非公式協議」の申し入れがあった。場所は神奈川と東京の県境に近い中立地点、時間は深夜。佳鶴子は少数の側近だけを伴って、指定された場所に向かった。


 協議の場で彼女を待っていたのは、内閣官房副長官と外務省の高官だった。彼らは冷たい表情で佳鶴子を迎えた。


「龍知事、率直に申し上げます」


 副長官が口を開いた。


「貴方の夫は、国家安全保障に関わる重大な犯罪の疑いで拘束されています。証拠も揃っており、起訴されれば最長で無期懲役になる可能性もあります」


 佳鶴子は冷静を装いながら返答した。


「夫が求めていたのは、息子の命を救うための医薬品です。それを『軍事機密』とするのは、明らかな政治的操作ではありませんか」


 副長官は薄く笑った。


「証拠によれば、龍健太郎氏は特定の研究施設に関する情報も収集しようとしていました。まさにお宅が独立の理由としている、あの施設についてです」


 佳鶴子は息を呑んだ。健太郎がそのような行動に出るとは思わなかった。しかし考えてみれば、彼なりの判断だったのかもしれない。証拠を集め、国際社会に訴えるための。


「条件を提示してください」


 佳鶴子は直接的に言った。交渉の時間を無駄にする気はなかった。


「シンプルです」


 外務省高官が答えた。


「神奈川県の日本国復帰。そして、水源汚染に関する主張の公式撤回。これらが満たされれば、龍健太郎氏は『証拠不十分』として釈放されます。さらに、お子さんに必要な治療薬も直ちに提供します」


 佳鶴子は黙ってその言葉を聞いていた。それは彼女が予想していた通りの条件だった。健太郎と拓海の命と引き換えに、神奈川県民の健康と未来を売り渡せというのだ。


「検討の時間をいただけますか」


 佳鶴子は静かに言った。


「24時間。それ以上は難しい」


 副長官は冷たく答えた。


 帰路の車中、佳鶴子は助手席で頭を抱えていた。側近たちも黙り込み、重い空気が車内を満たしていた。


 自宅に戻ると、美月が待っていた。彼女の目は赤く腫れていた。明らかに泣いていたのだ。


「どうだった?」


 美月の声は固く、震えていた。


 佳鶴子は正直に状況を説明した。美月の表情は刻一刻と硬くなっていった。


「どうするの?」


 美月は最後に尋ねた。その声には非難めいたものが含まれていたが、同時に混乱と不安も滲んでいた。


 佳鶴子は深いため息をついた。


「わからない……本当に、わからないの」


 その夜、佳鶴子は眠れなかった。ベッドの中で何度も体を反転させながら、あらゆる選択肢と、その結果を考え抜いた。


 朝になって彼女が下した決断は、誰も予想していなかったものだった。


 まず、彼女は全閣僚と主要な市民代表を緊急招集し、状況を説明した。そして、自らの考えを述べた。


「私は個人的な立場と公的な立場の間で引き裂かれています。しかし、私が知事として、そして暫定大統領として選んだ道は、県民の命と健康を守ることでした。その原則を曲げるわけにはいきません」


 佳鶴子は参加者の顔を一人一人見つめながら続けた。


「しかし同時に、私の夫と息子の命も危機に瀕しています。この決断は私一人のものであってはならないと考えます。そこで提案があります——全県民による緊急投票を実施し、今後の方針を決定したいと思います」


 参加者からは驚きの声が上がった。危機的状況の中で投票を行うことは、物理的にも精神的にも大きな負担となる。しかし、佳鶴子の意図は明確だった。これは単に責任を回避するためではなく、真の民主主義の実践だった。


「市民に真実を伝え、彼ら自身に決断してもらいましょう。私たちが独立した理由の一つは、透明性のある意思決定プロセスを実現することでした。危機の中でこそ、その原則を守るべきです」


 閣僚たちは議論の末、この提案を受け入れた。そして翌日から、「神奈川の将来を問う緊急県民投票」の準備が始まった。


 投票は電子システムとオフライン投票所の併用で行われ、すべての市民に参加の機会が与えられた。投票用紙には二つの選択肢があった。


 「A: 日本国への復帰と、水源汚染に関する主張の撤回」

 「B: 独立の継続と、水源浄化の要求維持」


 投票開始前に、佳鶴子は再び県民に向けてテレビ演説を行った。彼女は冷静かつ客観的に状況を説明し、どちらの選択肢にもメリットとデメリットがあることを述べた。そして最後に、個人的な思いも率直に語った。


「私は母として、夫として、家族の安全を願っています。しかし同時に、指導者として、皆さんの命と健康を守る責任があります。この困難な決断を、どうか皆さんの良心と判断に委ねます」


 投票は48時間行われ、県民の80%以上が参加した。そして開票の結果、わずかな差ではあったが、「B: 独立の継続」が過半数を獲得した。


 結果を知った佳鶴子は、感情を抑えきれず、参謀たちの前で涙を流した。それは安堵の涙でもあり、これから直面する困難への覚悟の涙でもあった。


「県民が選んだ道を、私は全力で支えます」


 彼女は声明を発表した。


「そして同時に、夫と息子の命を救うための努力も決して諦めません」


 投票結果を受けて、佳鶴子は日本政府との交渉を再開した。しかし、政府の立場は硬く、条件は変わらなかった。その後も、国際社会を通じた圧力や、人道的アプローチなど、あらゆる手段を試みたが、状況は膠着していた。


 一方、拓海の容態は徐々に悪化していた。緊急的な透析治療は行われていたものの、根本的な治療には特殊薬剤が必要だった。また、健太郎の状況も厳しいまま変わらず、弁護士との面会も制限されていた。


 佳鶴子は公務の合間を縫って病院に通い、拓海の傍らで時間を過ごした。意識はあるものの、明らかに弱っていく息子を見るたびに、彼女の心は引き裂かれる思いだった。


 ある日、病室で目を覚ました拓海に、佳鶴子は静かに尋ねた。


「なぜ……汚染の可能性を知っていながら、危険な水を飲んだの?」


 それは彼女が長い間疑問に思っていたことだった。拓海は家族として、水源汚染の事実を知っていた。そして、安全な水の確保方法も知っていたはずだ。


 拓海は弱々しく微笑んだ。その頬はこけ、目の下には暗い影が落ちていた。


「みんなと同じものを飲みたかったんだ」


 彼の声は小さく、しかし確かな意志を感じさせた。


「指導者の家族だけが安全な水を飲むのは……おかしいと思って。学校の友達と同じものを飲んで、同じリスクを負いたかった」


 佳鶴子は息子の言葉に涙を流した。彼女は初めて、自分の決断が家族にどれほどの負担を強いていたかを実感した。同時に、拓海の中にある強い正義感と連帯意識に、深い感銘を受けた。


「ごめんなさい……」


 彼女は息子の手を握りながら呟いた。


「謝らないで」


 拓海は言った。瞳には弱さの中にも、強い光が宿っていた。


「母さんは正しいことをしている。僕たちはそれを誇りに思っているよ」


 その言葉に、美月も頷いた。彼女は最近、母親に対する怒りと非難を徐々に和らげ、理解を示すようになっていた。


「母さん、私も理解しているわ。時々、怒ってしまうけど……家族だから。でも、母さんの信念は尊敬している」


 二人の子どもたちの言葉に、佳鶴子は深い思いに沈んだ。国家と家族。公と私。理想と現実。両方を守ることの難しさと尊さを、彼女は身をもって学んでいた。


 そして翌日、状況を一変させる出来事が起きた。


 健太郎が予想外の形で神奈川に戻ってきたのだ。


 彼は外国メディアの取材に同行する形で日本を出国し、第三国を経由して神奈川に入ったという。さらに驚くべきことに、彼は拓海の治療に必要な薬剤を持ち帰っていた。


 家族との再会の席で、健太郎は経緯を説明した。


「拘留中、私の処遇は厳しかった。しかし、担当の検事の中に、水源汚染の真実に共感する人物がいたんだ」


 健太郎は疲労の色が濃い顔で微笑んだ。その顔には打撲傷の跡もあった。


「彼女は内部告発者からの情報も持っていて、私の証言と照合し、真実性を確信したようだ。それで、非公式な形で私の釈放と、拓海の薬の入手を手伝ってくれた」


 佳鶴子は夫を強く抱きしめた。


「でも、それは彼女にとって危険なことだったはず……」


「ああ。だから彼女の名前は明かせない。しかし、日本政府の中にも、真実を重んじる人々がいることは確かだ」


 健太郎の帰還と薬の到着により、拓海の治療は直ちに開始された。医師たちの予想では、完全回復には時間がかかるものの、命の危険は脱したとのことだった。


 家族四人が揃って過ごす時間は、つかの間の平和をもたらした。しかし、神奈川を取り巻く状況は依然として厳しく、独立問題の根本的解決には至っていなかった。


 健太郎が持ち帰ったのは、拓海の薬だけではなかった。彼は水源汚染に関する新たな証拠も入手していた。それは、研究施設の内部告発者が提供した詳細なデータと証言だった。


「これを公表すれば、政府の立場はさらに弱まるだろう」


 健太郎は言った。


「しかし同時に、国家安全保障に関わる情報も含まれている。公表すれば、国際的な緊張を招く可能性もある」


 佳鶴子は新たな証拠を前に、難しい判断を迫られていた。真実を明らかにすることと、その結果もたらされる混乱のバランスを、どう取るべきか。


 再び、家族会議が開かれた。健太郎、美月、そして回復しつつある拓海を交えて、佳鶴子は今後の方針について相談した。


「私は知事として、県民に真実を知らせる義務がある」


 佳鶴子は言った。


「しかし、その真実が新たな混乱や危険をもたらすならば、慎重に判断する必要もある」


 健太郎は冷静に分析した。


「情報の一部は公開し、一部は国際機関に預ける形が良いだろう。そうすれば、透明性を保ちながらも、不必要な混乱は避けられる」


 美月は環境科学の視点から意見を述べた。


「汚染物質の具体的なデータは公開すべきよ。県民の健康に直結する情報だもの。でも、施設の詳細情報は必要最低限でいいんじゃない?」


 拓海も弱々しい声ながら、自分の考えを述べた。


「僕は、みんなが安心して水を飲める日が来てほしい。それだけだよ」


 彼の単純な願いが、この複雑な問題の本質を浮き彫りにした。


 長い議論の末、佳鶴子は最終的な判断を下した。汚染物質のデータと健康への影響は全面公開し、施設に関する情報は中立国の仲介で国連に預託することにしたのだ。


 そして、日本政府への新たな提案として、「完全独立」ではなく「特別自治区」としての地位を要求することも決めた。これは一歩後退のように見えるかもしれないが、実質的には県民の健康と安全を確保するための現実的な妥協案だった。


 佳鶴子は記者会見で、この新たな方針を発表した。


「私たちが求めているのは、政治的独立そのものではありません。県民の生命と健康を守れる環境なのです。そのためには、水源の浄化と、今後の汚染防止措置が不可欠です」


 彼女の提案は、日本国内でも一定の支持を集め始めた。特に、健太郎の帰還と証拠の一部公開により、水源汚染の事実が広く認知されるようになっていたのだ。


 しかし、政府の対応は依然として硬く、「無条件の復帰」以外は受け入れられないとの立場を崩さなかった。膠着状態は続き、神奈川の市民生活は徐々に疲弊していった。


 その中で、龍家も含めた多くの家族が、日々の困難と向き合っていた。物資不足、将来への不安、そして分断された社会の中での緊張。これらは独立の代償だった。


 しかし同時に、共同体としての絆も強まっていた。困難な状況で互いを支え合う姿は、随所で見られるようになった。龍家もまた、この危機を通じて、より強く結びついていった。


 拓海が退院した日、四人は久しぶりに自宅の食卓を囲んだ。簡素な食事ではあったが、家族が揃っているという事実そのものが、かけがえのない喜びだった。


「生きているって、素晴らしいね」


 拓海は弱々しくも晴れやかな笑顔で言った。


「何気ない日常が、こんなに尊いものだとは思わなかった」


 佳鶴子は息子の言葉に深く頷いた。彼女も同じことを感じていた。政治的な闘争や理念の対立を超えて、生きること自体の価値を、彼女は改めて実感していた。


「私たちは家族として、互いの選択を支え合う」


 健太郎は静かに言った。


「それが家族というものだ」


 四人は静かに頷き合った。窓の外では、春の雨が静かに降り始めていた。それは大地を潤し、新しい命を育む雨だった。

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