第三章 「新国家の夜明け ―― 民主主義という実験」
独立から一ヶ月、神奈川は徐々に新しい国家としての形を整えつつあった。
旧県庁は「神奈川共和国政府庁舎」となり、佳鶴子は暫定大統領の地位に就いていた。彼女は政治学者や法律家、市民代表からなる「憲法制定評議会」を設置し、新国家の統治機構について議論を重ねていた。
最初の閣議で佳鶴子が提案したのは、直接民主制の導入だった。
「私たちの国は小さい。だからこそ、一人一人の声が届く国にしたい」
彼女のビジョンは革新的だった。旧市町村はそのままコミュニティの単位として残し、各コミュニティから選出された代表者による評議会が設置された。さらに、重要な政策決定には、デジタル投票による県民投票が行われるようになった。拓海が開発を手伝ったアプリは、このデジタル民主主義の基盤となり、「未来型の市民参加」として国際的にも注目を集めていた。
美月は環境保全省の顧問として母を支え、水源の浄化プロジェクトの中心的役割を担っていた。拓海は学生代表として若者の声を政府に届ける役割を任され、健太郎は元大学教授としての知識を活かし、教育改革に携わっていた。
しかし、新しい国家への道は平坦ではなかった。物資の不足は深刻化し、特に医薬品や特殊食品の供給が滞りがちだった。日本政府からの圧力は続き、電力供給の制限や通信の遮断も時折行われていた。
また、独立に反対する県民も少なくなく、「日本復帰運動」が各地で起きていた。佳鶴子は「多様な意見の尊重」という原則から、これらの運動を弾圧せず、むしろ対話の場を設けるよう努めていた。
ある晩、龍家の夕食時には、国づくりについての議論が熱く交わされていた。
「国とは何か」
健太郎が哲学的な問いを投げかけた。
「単なる領土と法律の集合体ではない。共通の価値観を持つ人々の共同体だ。だがそれは同時に、多様性も包含しなければならない」
「でも価値観は一つじゃないよね」
美月が言った。彼女の目には、大学での議論や研究を通して得た洞察が光っていた。
「多様な考えを持つ人たちが、どうやって一つの共同体として機能するの? 特に危機的状況では、意見の対立が先鋭化するわ」
「それが民主主義の挑戦よ」
佳鶴子は答えた。テーブルの上には、新国家の基本法の草案が広げられていた。
「完璧な答えはないけれど、対話を続けること。それが大切なのではないかしら。意見の違いがあっても、互いを人間として尊重する。その姿勢があれば、共通の基盤は見つかるはず」
拓海は静かに聞いていたが、ふと口を開いた。
「国って、大きな家族みたいなものじゃない?」
三人は驚いて拓海を見た。普段は寡黙な彼が、珍しく哲学的な発言をしたのだ。
「家族だって、意見が合わないことはある。でも、お互いを思いやって、譲り合って生きている。国だって同じなんじゃないかな」
佳鶴子は息子の言葉に深く頷いた。その目には、母親としての誇りと、指導者としての共感が混ざり合っていた。
「その通りよ、拓海。国も家族も、本質は同じ。互いを思いやり、支え合うこと。それが共同体の基本ね」
健太郎は息子の肩を優しく叩いた。
「哲学者になれるぞ、拓海」
部屋は温かな笑いに包まれた。しかし、その笑顔の裏には、彼らがそれぞれに抱える不安と緊張も隠されていた。
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独立から二ヶ月目、神奈川共和国は最大の危機を迎えていた。
食料不足は深刻化し、特に乳幼児や高齢者、持病を持つ人々への影響が懸念されていた。国際社会からの支援はあったものの、日本政府による海上封鎖で物資の流入は制限されていた。
特に苦しんでいたのは、病院だった。医薬品の不足は日に日に深刻化し、緊急医療に支障をきたし始めていた。慢性疾患を持つ患者の中には、必要な薬が手に入らず、症状が悪化する人も出始めていた。
ある日、佳鶴子は最も状況が厳しい県立厚木病院を訪問していた。院長から医薬品の在庫状況について詳細な報告を受け、対応策を協議していた矢先、彼女の携帯電話が鳴った。
電話の主は美月だった。その声は震えていた。
「母さん、拓海が……拓海が倒れたの!」
佳鶴子の顔から血の気が引いた。
「何ですって? いつ? どこで?」
「学校の体育の時間に突然倒れて……今、県立横浜北部病院に救急搬送されたところ」
佳鶴子は取り乱さないように必死に自分を抑え、冷静さを装って尋ねた。
「症状は?」
「高熱と、呼吸困難……あと、医師が言うには腎機能に問題があるかもしれないって」
その瞬間、佳鶴子の脳裏に水源汚染のデータが浮かんだ。汚染物質の主な影響は、腎機能障害だった。
「すぐに行くわ」
佳鶴子は直ちに予定をキャンセルし、公用車で横浜へと向かった。車中で彼女は、懸命に冷静さを保とうとしたが、母親としての不安が押し寄せてきた。独立以来、彼女は公私の区別を厳格に保ち、家族への特別扱いを避けてきた。しかし今、息子の命が危機に瀕しているかもしれないという事実に、彼女の心は激しく揺れていた。
病院に着くと、美月と健太郎が既に待機していた。三人は急いで集中治療室へと向かった。そこには医療機器に囲まれた拓海の姿があった。顔は蒼白で、呼吸は不規則。意識はあるものの、明らかに苦しんでいる様子だった。
担当医師が診断結果を説明した。
「急性の腎不全を起こしています。血液検査の結果、特定の化学物質による中毒症状が見られます。この物質は……」
医師は佳鶴子に意味深な視線を送った。彼女は言葉を待たずとも理解した。それは水源汚染の原因物質と同じものだった。
「治療には特殊な薬剤と、場合によっては透析が必要です」
医師は続けた。
「しかし、現在の状況では必要な薬剤の在庫が限られています。また、拓海君の血液型はAB型Rh陰性と非常に稀で、適合する透析用の資材も不足しています」
佳鶴子は息子の顔を見つめながら、初めて自分の決断に激しい迷いを感じた。国家のトップとして、多くの県民の命を守るための独立だった。しかし今、最も大切な家族の一人の命が危険にさらされていた。
「何とかして薬を手に入れることはできないのですか?」
彼女は医師に尋ねた。声は冷静を装っていたが、その奥には母親としての懇願が隠されていた。
医師は厳しい表情で答えた。
「日本国内なら十分な在庫があります。しかし現在の状況では……」
言葉を濁す医師の表情から、佳鶴子は厳しい現実を悟った。必要な薬剤は日本国内にはあるが、独立国家との取引は制限されていた。特に、政府機関である県立病院への医薬品供給は、政治的圧力の一環として厳しく管理されていたのだ。
ICUを出た佳鶴子は、美月や健太郎と対応を協議した。美月の表情は強張り、彼女の目には非難の色が浮かんでいた。
「母さん、どうするの?」
美月の声は冷たかった。
「母さんが独立宣言したせいで、拓海は適切な治療を受けられないのよ。それでも独立を続けるの?」
佳鶴子は答えられなかった。一人の母親として、息子の命を救いたい。しかし指導者として、多くの県民の命と未来を守る責任もある。
「私は……」
彼女はようやく口を開いた。
「すぐに日本政府と交渉を始めます。人道的見地から、医薬品の供給再開を要請します」
美月は冷ややかに笑った。
「そう言うと思った。でも母さん、政府が簡単に応じると思う? 彼らが求めてるのは、独立の撤回でしょう?」
佳鶴子は黙って娘を見つめた。美月の言葉は痛いほど正確だった。
「拓海のために、独立を諦めるべきよ!」
美月の声が廊下に響いた。何人かの通りがかりの患者や見舞客が振り返った。
「美月、落ち着きなさい」
健太郎が娘の肩に手を置いた。彼の声は静かだったが、芯の強さを感じさせた。
「佳鶴子が独立を宣言したのは、多くの県民の命を守るためだ。それは拓海の命も含めてだ」
彼は妻の方を向いた。
「だが、個人の命と公共の利益の間で選択を迫られるとは……難しい立場だな」
その夜、拓海の容態は安定していたが、根本的な治療には特殊薬剤が必要な状況が続いていた。龍家の自宅に戻った佳鶴子と健太郎、美月は、静かな食卓を囲んでいた。誰も食事に手をつけず、重苦しい沈黙が続いていた。
ようやく健太郎が口を開いた。彼は妻を見つめ、静かに言った。
「佳鶴子、君は正しいことをしている。だが、時に正しさには代償が伴う」
「私は……わからなくなってしまったわ」
佳鶴子は震える声で言った。独立以来、初めて彼女は公の場ではない所で弱さを見せた。
「独立は県民を守るための選択だった。でも、自分の息子すら守れないのなら……私に指導者として資格があるのかしら」
健太郎は妻の手を取った。彼の手は温かく、力強かった。
「私が拓海の薬を取りに行く」
「何を言っているの?」
佳鶴子は驚いて夫を見た。
「日本に戻り、必要な薬を手に入れる。私は政府関係者ではない。一般市民として国境を越え、薬を持ち帰ることができるはずだ」
「でも、それは危険すぎる」
佳鶴子は言った。彼女の目に恐怖の色が浮かんだ。
「見つかれば、スパイとして逮捕されるわ。最悪の場合、国家反逆罪に問われるかもしれない」
健太郎は静かに微笑んだ。その表情には、決意と覚悟が表れていた。
「家族とは何か。それは互いに命を預け合うことだ。君は県民のために命を懸けている。今度は私の番だ」
美月は黙って父の言葉を聞いていたが、突然立ち上がった。
「私も行く」
「美月!」
佳鶴子は驚いて娘を見た。
「二人で行けば、成功の可能性も高まる。私はまだ学生だし、父より怪しまれにくいわ」
健太郎は頭を振った。
「危険すぎる。君はここで母さんと拓海を支えていてくれ」
美月は反論しようとしたが、父の決意の強さを感じ、最終的には頷いた。
翌朝、健太郎は密かに神奈川を出発した。公式には「日本政府との非公式接触のため」という名目だったが、実際には拓海の治療薬を手に入れることが目的だった。
佳鶴子は見送りの際、夫を強く抱きしめた。
「気をつけて」
彼女の声は震えていた。
「必ず戻ってくるよ」
健太郎は微笑んだ。しかし、その目には不安の色も浮かんでいた。
そして二日後、日本政府の報道官が緊急記者会見を開いた。
「昨夜、神奈川共和国の指導者である龍佳鶴子氏の夫、龍健太郎氏が国境検問所で拘束されました。龍氏は違法に国境を越え、さらに軍事機密に関わる情報収集を行おうとした疑いが持たれています」
佳鶴子はテレビの前で凍りついた。「軍事機密」という言葉が、彼女の脳裏に恐怖を呼び起こした。それは最悪の罪状だった。報道官は続けた。
「なお、龍健太郎氏の身柄は東京拘置所に移送され、取り調べが行われています。政府としては、この事件を神奈川県の独立問題とは切り離して対応する方針です」
その言葉の裏に隠された意味を、佳鶴子は即座に理解した。これは人質外交だった。健太郎の解放と引き換えに、独立の撤回を求めてくるだろう。
美月は激しく動揺していた。
「どうして? 父さんは治療薬を取りに行っただけなのに! 軍事機密なんて、関係ないはずよ!」
佳鶴子は冷静を装いながら、内線電話で参謀たちを緊急召集した。同時に、国際人権団体や中立国の大使館にも連絡を取り、健太郎の不当拘束について支援を要請した。
その夜、佳鶴子は病院で眠る拓海の傍らで、静かに涙を流した。公私の境界が崩れ、政治的決断が家族の危機に直結する現実に、彼女は深い苦悩を感じていた。