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第二章 「毒の流れ ―― 隠された水源汚染の真実」

 ファイルが開かれると、そこには神奈川県の主要水源が有害物質で汚染されているという衝撃的な調査結果が記されていた。グラフ、表、化学式、そして多くの専門用語が詰まったページを、佳鶴子は一枚一枚丁寧に説明していった。


「発生源は県北部に新設された国の研究施設。表向きは先端医療技術の研究所とされているけれど、実際には……」


 彼女は一枚の写真を取り出した。それは上空から撮影された施設の写真で、通常の医療研究施設には見られない特殊な設備が確認できた。


「軍事転用可能な生物学的研究が行われているわ。そして、その副産物として発生した有害物質が、処理されないまま地下水に漏れ出している」


 健太郎はファイルに目を通しながら、眉をしかめた。


「これは、確かな証拠なのか?」


「ええ。県の独自調査に加えて、内部告発者からの情報提供もあったわ。最も衝撃的だったのは……」


 佳鶴子はファイルの最後のページをめくった。そこには政府高官たちの極秘会議の議事録が添付されていた。


「政府がこの事実を認識しながらも隠蔽し、対策を講じようとしていないこと。国防上の理由で、この施設の運営を中断できないと判断したようね」


 美月がファイルに目を通し、顔色を変えた。彼女は環境科学を専攻する大学生だったため、データの意味するところが理解できた。


「これ、本当なの? この物質の濃度だと……数年以内に、重大な健康被害が出るわ」


 佳鶴子は静かに頷いた。


「残念ながら、本当よ。既に初期症状を示す患者が出始めている。腎機能障害、肝機能低下、免疫系の異常……あなたたちには心配をかけたくなかった。でも、神奈川県民の命を守るためには、もう時間がなかったの」


 拓海はファイルを見つめながら、沈黙していた。彼は理系の科目が得意で、データの一部は理解できたようだ。


「どうして独立なの? 他に方法はなかったの?」


 佳鶴子は椅子の背もたれに寄りかかり、疲れた様子で答えた。


「何度も政府に対策を要請したわ。首相にも直接会って訴えた。でも、国家安全保障上の理由で拒否され続けてきたの。『施設の存在自体が機密事項であり、問題があるとは認められない』と……最後の手段として、独立という選択肢しか残されていなかった」


 健太郎は報告書を静かに閉じた。法学者としての彼の目には、問題の本質が見えていた。


「佳鶴子、君の決断を支持する。だが、これからどうするつもりだ? 独立宣言をしたところで、日本政府が簡単に認めるとは思えない」


「その通りよ」


 佳鶴子は答えた。


「でも、この問題を世界に知らしめることで、国際社会の圧力を得ることができる。そして何より、神奈川県民に真実を伝え、彼らの協力を得ることができるわ。これは単なる政治的パフォーマンスじゃない。県民の命を守るための、最後の選択よ」


 拓海は不安そうに母親を見つめた。高校生の彼にとって、「独立国家」という概念は現実味を帯びていなかった。


「僕たちの生活は、これからどうなるの?」


 佳鶴子は息子の肩に手を置いた。その手は小さく、しかし確かな強さを持っていた。


「大変なことになるわ。それは間違いない。食料や医薬品の供給が制限されるかもしれない。電気やガスも不安定になるかもしれない。でも、私たちには守るべきものがある。この土地に住む人々の命、そして未来を」


 彼女の目には、覚悟とともに、家族への深い愛情が浮かんでいた。


「あなたたちに負担をかけることになるわ。批判や中傷も受けるでしょう。それでも……私は知事として、この道を選んだの」


 その夜、龍家の食卓は重い空気に包まれていた。しかし、佳鶴子の決意と、その背後にある理由を知った家族は、少しずつ彼女の選択を理解し始めていた。


 美月が突然言った。


「母さん」


 彼女の声には、先ほどの怒りはなく、代わりに決意が感じられた。


「私、母さんを手伝うよ。大学の環境科学の知識が役に立つかもしれない。汚染物質の分析や、浄化方法の研究……何かできるはず」


 佳鶴子は驚いて娘を見つめた。


「僕も」


 拓海が言った。彼の声にはまだ不安があったが、同時に強い意志も感じられた。


「どうしていいかわからないけど、何かできることはある? 僕、プログラミングなら少しできるし……」


 健太郎も頷いた。その眼差しには、法学者としての冷静さと、夫としての温かさが混ざっていた。


「家族として、君の決断を支える。どんな困難があっても。憲法学の知識も役立つかもしれない。『独立』という前例のない事態に、法的な根拠を与える必要があるからな」


 佳鶴子の目に涙が浮かんだ。彼女は感情を抑えようとしたが、家族の支持に、心の奥底から込み上げてくるものがあった。


「ありがとう……家族の支えが、今の私には何より必要なの」


 彼女は家族一人一人の顔を見つめ、そっと手を伸ばした。テーブルの中央で、四人の手が重なり合った。それは単なる身体的な接触以上の意味を持っていた。危機の中で、互いを支え合う誓いのようだった。


 窓の外では、報道のヘリコプターが音を立てて飛び回り、家の前には今も多くの報道陣が集まっていた。明日からの生活がどうなるのか、誰にもわからない。しかし、この夜、龍家には新たな決意と覚悟が芽生えていた。


---


 独立宣言から一週間、日本政府は神奈川県の独立を認めないと公式に発表した。首相は緊急記者会見で「一地方自治体による独立宣言に法的効力はなく、憲法違反である」と述べ、龍佳鶴子知事に対して「直ちに独立宣言を撤回し、通常の県政に戻るよう」求めた。


 同時に、自衛隊の一部が神奈川県境に配備され、県への物資供給が制限された。電力や水道などのインフラは維持されていたものの、食料や医薬品、ガソリンなどの供給ラインは厳しく管理されるようになっていた。


 しかし、佳鶴子は既に動いていた。独立宣言の直後から、県内の企業や農家と協力関係を築き、自給自足の体制を整え始めていた。横浜港や川崎港を通じた海外との直接取引も模索され、近隣諸国の一部は「人道的見地から」神奈川への支援を表明していた。


 また、汚染された水源に代わる新たな水源の確保も急ピッチで進められていた。県の西部や南部の比較的汚染の少ない地域から水を確保し、浄水施設を増強する計画が進行中だった。


 さらに、佳鶴子は水源汚染の証拠と共に国連に支援を要請。国際社会の一部は「神奈川共和国」を事実上の独立国家として認め始めていた。特に環境問題に敏感な欧州の一部諸国は、「環境権と生命権を守るための市民の自己決定」として神奈川の行動に理解を示していた。


 県庁は「神奈川共和国政府庁舎」と名称を変え、そこでは24時間体制で危機管理会議が行われていた。佳鶴子はほとんど睡眠を取らず、次々と打ち出される対策の指示と調整に奔走していた。


 龍家でも、それぞれが新たな役割を担い始めていた。美月は大学の研究室を拠点に、水質調査と浄化方法の研究を行っていた。拓海は高校に通いながらも、放課後は市民向けの情報共有アプリの開発を手伝っていた。健太郎は「神奈川共和国臨時憲法」の草案作成に携わり、法的な基盤づくりに尽力していた。


 そして、独立から10日目の夕方、佳鶴子は県民向けのテレビ演説を行った。これが、水源汚染の事実を公に明かす最初の機会となった。


「神奈川県民の皆様、そして日本国民の皆様。今日、私は重大な事実をお伝えします」


 彼女は詳細なデータと証拠を示しながら、水源汚染の実態と、それを隠蔽してきた政府の姿勢について説明した。そして、独立という極端な手段を取った理由を、冷静かつ情熱的に語った。


「これは政治的対立ではありません。イデオロギーの問題でもありません。命の問題なのです。私たちの子どもたちの未来がかかっています」


 彼女の演説は、県民に大きな衝撃を与えた。不安と混乱が広がる一方で、多くの市民が佳鶴子の主張に共感を示し始めた。特に、既に健康被害が出始めていた地域では、住民による自発的な支援活動が活発化し、「神奈川共和国市民協議会」という草の根組織が各地で結成された。


 一方、日本政府は佳鶴子の主張を「科学的根拠のない誇張」と否定し、「国家の分裂を図る危険な扇動」だと非難した。しかし、国際的な環境NGOや科学者グループが次々と神奈川側のデータを支持する声明を出し始め、政府の立場は徐々に弱まっていった。


 龍家の食卓では、その夜も独立をめぐる議論が続いていた。


「母さんの演説、すごかったよ」


 拓海は率直な感嘆の眼差しで母を見つめた。


「学校でも、みんなの反応が変わり始めている。『頭がおかしい』なんて言ってた奴らも、データを見て黙り込んでた」


 美月も頷いた。


「大学でも同じよ。環境学部の教授たちは、このデータの信頼性を支持してくれてる。中には政府に公開質問状を出した人もいるわ」


 健太郎は新聞に目を通しながら言った。


「世論は二分されているな。支持と反対が拮抗している。だが、国際世論は明らかに神奈川に傾きつつある」


 佳鶴子はほとんど食事に手をつけず、考え込んでいた。


「これはまだ始まりにすぎないわ。政府は必ず反撃してくる。私たちは覚悟を決めなければならない」


 彼女の表情には疲労の色が濃く出ていたが、その目には揺るぎない決意の光が宿っていた。


「でも、後戻りはできない。県民の命を守るためには、この道を進むしかないの」


 家族はそれぞれの思いを胸に、黙って頷いた。窓の外では、夜の闇が深まりつつあった。しかし、その闇の向こうには、微かな希望の光も見え始めていた。

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