第一章 「一通の宣言 ―― 知事、日本からの独立を告げる」
誰もがその日を忘れることはないだろう。
2025年4月10日、春の陽気が横浜の街を包み込む午後3時、神奈川県知事・龍佳鶴子は県庁前の広場に特設された演壇に立った。黒に近い紺色の正装スーツに身を包み、いつもの穏やかな表情ではなく、決意に満ちた眼差しで集まった群衆を見渡した。平静を装っているものの、その瞳の奥には激しい感情の波が揺れているようにも見えた。
県庁広場には数千人の市民と、国内外からの報道陣が詰めかけていた。何かが起こるという予感は街全体に漂っていたが、それが何なのか、誰も正確には把握していなかった。
龍佳鶴子は深く息を吸い込み、マイクに向かって静かに、しかし確固とした声で語り始めた。
「本日ここに、神奈川県は日本国からの独立を宣言します」
会場は一瞬の静寂の後、激しいどよめきに包まれた。カメラのフラッシュが無数に瞬き、報道陣の間からは驚きの声が漏れた。龍佳鶴子の言葉は、横浜のみならず、日本全国、そして世界中に衝撃波のように広がっていった。
「これは私たちの未来を守るための、最後の選択です」
彼女の声は震えていなかった。むしろ、長い間胸の内に秘めていた思いを解き放つように、力強く響き渡った。
「神奈川県民の皆さま、そして日本国民の皆さま。この決断に至った理由と、今後の方針について説明させていただきます。私たちはこれまで、日本という国の一部として歩んできました。しかし今、神奈川県民の生命と健康を守るために、新たな道を選ばざるを得ない状況に直面しています」
佳鶴子は演説を続けた。しかし、具体的な独立の理由については触れず、「近日中に詳細な説明会を開催する」と述べるにとどめた。そして最後に、彼女は力強く宣言した。
「今日から、神奈川は『神奈川共和国』として、新たな一歩を踏み出します。私たちの目指すのは、すべての市民が安心して暮らせる国。透明性のある政治が行われる国。そして何より、命が最優先される国です。神奈川県民の皆さま、どうか私たちと共に、この新しい国を築いてください」
演説が終わると、会場は混乱に包まれた。多くの市民が困惑し、メディアは一斉に質問を投げかけた。しかし、佳鶴子はそれ以上の質問に答えることなく、スタッフに囲まれながら県庁内へと姿を消した。
彼女の独立宣言は、瞬く間に全国ニュースのトップを飾り、SNS上では「#神奈川独立」「#龍佳鶴子」がトレンド入りした。反応は様々だった。驚きと困惑、批判と揶揄、そして一部では支持の声も上がっていた。
県庁内の執務室に戻った佳鶴子は、窓から広場の混乱を見下ろしながら、深いため息をついた。それは安堵のため息でもあり、これから始まる困難な道のりを覚悟するため息でもあった。
「始まったわね……」
彼女は静かに呟いた。そして執務デスクの上にある、家族との写真を優しく撫でた。
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独立宣言から二時間後、龍佳鶴子は自宅に戻った。警備の車が彼女の家の前に到着すると、既に周辺には報道陣が集まり始めていた。佳鶴子は彼らの質問を無視し、疲れた表情で玄関へと向かった。
ドアを開けると、そこには家族が待っていた。夫の健太郎、大学生の長女・美月、高校生の長男・拓海。三人の表情はそれぞれに複雑で、部屋の空気は重く沈んでいた。
「お帰り、母さん」
美月が言った。その声には怒りと困惑が混ざっていた。
「今日のニュース、見たよ。何も言わずに、こんな大事なことを……」
龍佳鶴子は静かに靴を脱ぎ、玄関に立ったまま家族を見つめた。彼女の瞳には疲労の色が濃く滲んでいたが、その奥には揺るぎない決意の光も宿っていた。
「知らせなくてごめんなさい。でも、これは私が知事として、一人の人間として、下さなければならない決断だったの」
「でも母さん、独立なんて……現実的じゃないよ」
拓海が言った。彼の声には困惑が滲んでいた。
「みんな笑ってるよ。学校でも、SNSでも……友達からは『お前の母ちゃん、頭おかしくなったの?』って連絡が来てる」
佳鶴子はその言葉に一瞬目を伏せたが、すぐに深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「座って話しましょう」
リビングに移動した四人。部屋の中央にある大きなダイニングテーブルを囲んで、それぞれが席に着いた。健太郎はずっと黙っていたが、妻がテーブルに着くと、ようやく口を開いた。
「佳鶴子、君の決断は尊重する。だが、家族として知る権利はあったはずだ」
彼の声は静かだったが、その中には抑えきれない感情が込められていた。大学で憲法学を教える彼にとって、「独立」という言葉の重みは誰よりも理解していたはずだ。
佳鶴子は頷いた。
「あなたの言う通りよ、健太郎。家族に黙っていたのは、巻き込みたくなかったから。でも、それは間違いだった。謝るわ」
彼女はテーブルの上に一冊のファイルを置いた。厚さ5センチほどの分厚いファイルで、表紙には「神奈川水源汚染調査報告書(機密)」と赤字で書かれていた。
「これが、私が独立を決意した理由よ」
佳鶴子の表情は急に厳しさを増した。その目には、知事として知り得た真実への怒りと、県民を守らねばならないという使命感が浮かんでいた。