もしも秋の歴史2024のテーマが「冒険にでかけよう」だったら 【題名】:早く学校を去って冒険したい!
春のチャレンジ企画2025(テーマ:学校)と、私のチャレンジ企画の作品です。
2024年度の企画のテーマをシャッフルしています。
ジャンルは「歴史」、テーマは「冒険にでかけよう」です。
1
とある『学校』で男二人が会話をしている。
一方はこの『学校』の教師。もう一方は生徒、ではなく、この『学校』を含めてこの国自体の教師ともいうべき立場の男である。
「どうですか、師よ。この国に長く留まってくれませんか?」
師と呼ばれた男は複雑な顔をしている。
この国が嫌ではない。
それどころか人々が明るく、美しい国土は目にも楽しい。
だが、やはりどうしても色々と口を出してしまい、男はこの国の一部から嫌われていた。
また、この男は元々この国にずっと留まり続ける心算はない。
本当は冒険がしたいのだ。
それがこの国に留まっているのは、学識豊かなこの男。旅の途上にこの国の国王から、国全土の師となるように懇請されたからだ。
早朝のことである。
この国は一年中熱いことこの上ない。
男の出身地は、この国の遥か西方である。夏場は炎熱が厳しいが、湿気はそれほどではない。
なので、日陰にいれば、暑さに苦しむ、ということはないし、冬場は山々は雪化粧され、時折降る雨は冷たい。
だが、この国は暑いだけでなく湿気もあるので、必然的に人々の衣服は薄着であった。
授業が始まる。
教室に生徒たちがやって来る。
女性も多い。
それがこの男の忌むところでもあった。
炎熱と湿気が多い地域。
当たり前だが、人々の服装は軽装で、若い女性は肌の露出の多い、薄い衣服をまとっただけだ。
師である男の教えでは男女、特に女性が肌を露出することを忌諱としている。
「先生、あっ師父様。おはようございます!」
教室に入る露出の多い女生徒を見て、師と呼ばれた男は視線を逸らし、次のような形だけの挨拶をしてこの『学校』を跡にした。
「おはよう。皆さん、今日も勉学頑張ってください」
2
男は結局、この国を離れ、冒険を続けることを決めた。
男がこの国に居たのは約一年。
実は冒険を始めてから、二十年の月日が経っていた。冒険を始めたのは二十一歳の時。
男の名は「シャムス・アル=ディーン・アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・イブン・イブラーヒーム・イブン・ムハンマド・イブン・ユースフ・ラワーティ・アル=タンジー・イブン・バットゥータ」。
所謂「イブン・バットゥータ」として知られる。
西暦1304年(ヒジュラ暦703年)にマリーン朝。現在のモロッコ王国のタンジールで、イブン・バットゥータは生まれた。
彼の出自はベルベル系とされ、マリーン朝も支配層はベルベル系だ。
ウラマー(イスラム法学者)の一家だったので、彼は北アフリカで主流のスンナ派のマーリキ学派を修めると、二十一歳の時にメッカへの巡礼(ハッジ)に旅立った。
メッカ巡礼後も旅を続け、東アフリカ沿岸に赴き、その後アナトリア半島でビサンツ帝国の首都コンスタンティノープルを訪れ、そのまま中央アジアからインドへと東へ旅を続ける。
インドではデリー・スルタン朝の三番目であるトゥグルク朝に長く仕え、そのスルタンにより中国(当時の元王朝)に行くことを命じられる。
つまり、更に東へと旅を進めるわけだが、現在のモルディブ共和国に立ち寄っている。
モルディブはインド亜大陸の南西の島々。
少し西に戻っている。
モルディブは十二世紀末頃から住民の大半が、仏教からイスラム教に改宗していた。
そのような訳で、バットゥータはイスラム法官(カーディ)として、働くことを懇請されたのだ。
だが、モルディブの人々はイスラム化されても、独自の文化が風習が強かったようで、それがバットゥータを驚かせた。
女性の地位が高く、気候的な問題もあるが、開放的な服。
バットゥータは当地の文化を尊重していたが、イスラム法官として厳格だったので、しばしばモルディブの人たちと衝突していた。
3
彼の大旅行が可能だった一つに、マドラサの存在がある。
マドラサとはイスラムの教育機関で、端的に言えば『学校』だ。
こうした各地の教育機関(マドラサ)をバットゥータは訪れ、詳細な記録を残している。
ウラマーであるバットゥータは、こうした教育機関で尊崇の対象である。
つまり、各地での学者たちとの交流で、彼の滞在費や生活費は旅行費は賄われていたのだ。
さて、バットゥータはモルディブを離れ、スリランカからベンガル湾の諸都市へ、そしてスマトラ島(現在のインドネシア共和国を構成する島)を訪れる。
目指す中国は、あと少し。
そして、西暦1345年。元王朝統治下の広州に到着した。
西方からは「ザイトゥーン」として知られる泉州を訪れたバットゥータは、次のように驚愕の表現をしている。
「ザイトゥーンの港は世界で最も大きなものの一つ、いや世界で最大のものであろう。私は約百艘の大型ジャンク船を見た。小さなものに至っては数えきれない。……この都市はとても広いので、イスラム教徒の商人たちは離れた場所に住んでいる。彼らは商人たちは、異教徒たちの国に住んでいるので、私のようなムスリムが来ると大喜びをして、自分の財産の一部を分け与えてくれるのだ……」
その後、バットゥータは北上して杭州、更に元の首都である大都(北京)で当時の十一代皇帝トゴン・テムル(第十五代カアン)に謁見したとされるが、この辺りは疑問視されている。
この中国滞在中に彼は帰国を決意する。
西暦1349年にバットゥータは故郷のタンジールに戻る。
その途上、彼は父親や母親の死を知らされていた。
程なく、またも旅の準備を始め、目と鼻の先の北のイベリア半島や、ずっと南のマリ帝国を訪れた。
バットゥータが訪れた頃の西アフリカは、かなりイスラム化が進んでいたようで、当地でバットゥータは好待遇を受ける。
西暦1354年にマリーン朝の首都フェスに戻ると、時のスルタンから、旅路の記録を命じられる。
こうして約30年にわたる壮大な冒険を終えたイブン・バットゥータは、「リフラ(旅行記)」と呼ばれる、「諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物」と題された著作を西暦1355年に完成させ、その後は法官として働き、在職中の1368年か69年に没した。
4
元王朝を北に駆逐した明王朝の第三代皇帝永楽帝(ただし明王朝では第二代の建文帝を正統の皇帝として認めていなかったので、第二代皇帝)の時代。
鄭和の大航海と呼ばれる、計七回の大船団が西へ向かういう壮挙を成し遂げていた。(七回目は永楽帝崩御後)
第四次の遠征には馬歓という通訳が付いていた。
鄭和も馬歓もイスラム教徒で永楽帝が彼らを大航海の指導者たちに選んだのは、訪れる地域がイスラム諸国が多いので、当地の勢力との円滑な交流を狙ってのことだろう。
イブン・バットゥータがモルディブを去ってから、約七十年後。
モルディブを訪れた馬歓は後に著す「瀛涯勝覧」でモルディブを次のように描写している。
「人々は開放的で、女性の地位が高く、また裸に近い服装をしている。何とも明るく素晴らしい地である」
遠い西方のイスラム教徒の冒険者と、遠い東方のイスラム教徒の冒険者から、イスラム国モルディブは似たような感想を持たれた。
もしも秋の歴史2024のテーマが「冒険にでかけよう」だったら 【題名】:早く学校を去って冒険したい! 了
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