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転生先で生命保険を契約するまで

 私は今世でも自分らしく生きていないことに気が付いた。


 その日は久しぶりに父、グレイグ・ド・ドーレン男爵に書斎に来るよう呼び出された。内容のおおよその予想は付いている。ついにこの日がやってきたのだ。

 書斎の扉を深呼吸してからノックする。

「アイリアです」

「おおっ、入れ!」

 扉からでもわかる浮かれた低い声が聞こえてくる。 

「失礼します」

 部屋に入ると、父、ドーレン男爵がそわそわと窓際の書斎机から立ち上がる。

「よく来た。喜べ、お前の縁談が決まったぞ!」

 父はおもむろに手を広げると、芝居じみた動きで近づいて来る。

「相手はあのハンドラーク侯爵の息子、ドラゴン辺境伯だ!」

 全身からこの上ない幸運を示す父とは対照的に、私はドラゴン辺境伯という名前を聞いて思わず固まってしまった。

 縁談に付いてはある程度予想していたものの、相手のことは予想外だった。ドラゴン辺境伯というのは通称で、本名はユリウス・フォン・ハンドラーク辺境伯という。王国でも有力な高位貴族であるハンス・フォン・ハンドラーク侯爵の次男で、王立騎士団に所属している。5年前25歳の時のドラゴン退治で多大な活躍をし、その功績が称えられ、国王から領地と辺境伯爵位を与えられた。

 しかし不幸にもドラゴン退治の際、顔面に大きな火傷を負ってしまい、その醜い傷痕を見た周囲からドラゴンの呪いを受けた、と気味悪がられ敬遠されている。

 ドラゴン辺境伯自身もその境遇に耐えられず、 誇り高く精悍だった青年は、厭世的で卑屈な人間になってしまったと噂されている。

 しかし、父は今私がその噂に怯えていることなど少しも気付いていない。今も目を輝かせて、ドラゴン辺境伯がどんなに素晴らしい人かを語っている。噂を知らないわけではないだろうに、彼にとってドラゴン辺境伯がどんな人物かはどうでも良く、ハンドラーク侯爵家の縁戚になれることだけが重要なのだ。

「エステラに感謝しなければな!お前にもこんな良縁が来るとは思わなかった。これぞ女を生んだ甲斐があったというものだ」

 父は誇らしげに丁寧に整えられている鼻髭を触った。

 エステラとは先に縁談が決まった絶世の美貌を持つ私の4つ下の妹のことだ。父母どちらにも似ず顔は小さく白く、ふわふわの長い金髪に大きな碧い瞳、人形のように愛らしいが、ハッと息を飲むような美しさも持っている。14歳の初めての社交パーティーの日には、瞬く間にその場にいた男性たちを虜にし、幾人かに求婚もされた程だ。

「ステファン卿がドラゴン辺境伯をよろしく頼むと仰っていたぞ」

 なるほど。どうやら今回の縁談は、その妹の美貌のためだけに婚姻をまとめたエステラの夫、ステファン伯爵からの紹介のだった。 

「お前の姉という立場を考えてくださってのことだ。なんて素晴らしい御方だ」

 私の返事も待たずに父は話し続ける。

 元々父は、野心家だが自分の地位を上げるために、格上の貴族と子どもたちを婚姻させることしか思いつかない程度の無能で、兄も含めた私たちは小さい頃から礼儀作法や言葉遣い、社交に役立つダンスや楽器演奏を厳しく教え込まれた。 

 特にその美貌故にエステラへの期待は大きく、食べる時間や寝る時間、果ては関わる人間すらも管理していた。彼女の一切が自由にされなかった。

 その甲斐があってか、エステラは王家とも親交のあるサンストロン侯爵家の御子息、ステファン・フォン・サンストロン伯爵との縁談が決まった。

 本来なら一塊の田舎の男爵家に圧倒的格上の侯爵家が縁談を持ってくることなどない。たまたま三男で好色家な放蕩息子がその美貌を聞き付け、さらに徹底した教育によって完璧な所作と教養を身に付けたエステラが高位貴族の夫人として申し分なかったがために、幸いにも滞り無く縁談がまとまったのだ。良くも悪くも父の思惑通りとなったのだ。

 そうしてまだ16歳だったエステラは姉の私より先に結婚することとなった。

 私はそこに妬みも嫉みも無かった。どちらかというと、ずっと妹が羨ましかった。いつでも父と母に気にかけられ、期待を向けられていることに。父と母に私を見てほしくて努力をしてきたが、どんなにダンスが上手くなろうと、どんなに学校で良い成績を取ろうと、姉ならば妹より上なのは当たり前だと言われ続けた。2人は自分たちの格を上げてくれそうなエステラにしか興味がなかった。

 それでも私が妹に嫉妬しなかったのは、一度も褒められるところを見たことがなかったからだ。期待通りの姿、所作や振る舞いをし、何も欠点など無いように見えても、いつでもそれ以上が求められていた。口答えは許されず、たった一秒でも勝手な行動を許されなかった彼女は、私以上に苦しんでいるのが見て取れたのだ。

 だから、たとえ顔だけが目当ての結婚だとしても、ようやく自由になれる妹を心から祝福したのだ。

 しかし、貴族社会ではそれだけでは済まされなかった。

 絶世の美貌を持つ妹に先を越され、さらに20歳にも関わらず婚約者もいない私は、貴族社会においては行き遅れの哀れな姉だった。そこへステファン伯爵が気を利かせて、旧知の仲であり、またなかなか縁談がまとまらなかったドラゴン辺境伯――もといユリウス辺境伯との縁談を私に持ってきたのだそうだ。

 ユリウス辺境伯は顔の火傷を受けてからというもの、婚約者はいたのだが傷を理由に婚約を破棄され、格下の貴族からさえも縁談を拒否されている。

 高名な魔術士に鑑定を依頼し、ドラゴンの呪いは受けていないというお墨付きを得られても、皆一様にその傷痕を恐れたのだった。

 このままではせっかく与えられた爵位に後継ぎがいない、と危惧した母であるハンドラーク侯爵夫人がなんとか縁談を受けてくれる家を探したところ、白羽の矢が立ったのがドーレン家だった。

 ユリウス辺境伯と昔から親交のあるステファン伯爵の紹介であり、妹には劣るが及第点の器量、学術も作法も厳しく育てられたので申し分なく、そして圧倒的格下により縁談内容も不利になる事は無い。私、もといドーレン男爵家にとっても、正統な血筋の侯爵家と縁ができるのはこの上ない良縁だろう、と。

 父にとって縁談内容は申し分ないものだったのだろう。厳格さを取り戻せないくらいニヤニヤと笑みが漏れ出ている。

「出発は明後日だ。くれぐれも粗相の無いように」

「かしこまりました」

 私は恭しく完璧なお辞儀をした。明後日嫁入りしてしまえばもうこの家と関わることはほとんど無いだろう。それなのに父は私とほとんど言葉を交わすことがなかった。

 そしてやはり、これが最後の会話となった。


 父の書斎を出た後、出発に向けて母に挨拶をしたかったのだが朝帰り無断外泊が当たり前の母は、今日もどこかへ出かけてしまっていた。一日のほとんどが家におらず、何をしているのかいつもどこかへ遊び歩いている。たとえ私の縁談を聞いても急いで帰ってくるなんてことはなく、自由になるお金が増える、と喜んでさらに遊んでくるかもしれない。

 私はもう一人挨拶すべき人、兄・ヴィリアム・ド・ドーレンの書斎をノックした。

「お兄様」 

 書斎に入ると兄は本の詰まった本棚の前で調べ物をしているかのように本を出しては読み、またすぐに直していた。

「お前か。どうした」

 兄は本から目を離し、少しだけこちらを見た後、また本に目を戻した。書斎机の上には書類が溢れて散乱している。

「私この度、御縁あってユリウス・フォン・ハンドラーク辺境伯との結婚が決まりました」

 私はスカートの裾を摘み、少し頭を下げて報告する。兄は多少驚いたようで調べ物をする手を止めた。

「辺境伯……? ドラゴン辺境伯か。それはまた……」

 兄もドラゴン辺境伯の噂を知っているのか、いつもは妹たちに興味を持たない人が、今回ばかりは憐れみの目を向けている。

「妻の役目として男児を産めば、ドーレン家の助けにもなるでしょう」

 私は頭を下げたまま淡々と話した。

「いや、それはいい。俺はそんな産まれてくるかもわからない不確かなものを当てにはしない」

 兄は音を鳴らして本を閉じ、しっかりとこちらを向いた。私は思ってもみなかった反応に思わず頭を上げてしまう。

「男ならば自分の実力で家を立て直すものだ。今、お祖父様に商売のノウハウを教わっているところだ。軌道に乗ればこの家も立ち直るし、跡継ぎも自分でなんとかなるだろう」

 祖父というのは豪商である母方の祖父のことで、この辺りの地域の流通ルートを牛耳るほど大きな力を持っている。弱小の貴族と比べても余程のお金を持っていて、この家がお金に困らないのは祖父のおかげでもあった。

 兄は野心家だが父とは違って成績も優秀で、祖父に師事しているのも役に立ちそうにない父を頼らず、最悪没落してもなんとかなるよう今後を見越してのことなのだろう。

「お前は好きに生きると良い」

 兄の諭すような言葉を理解するのに少しだけ時間が掛かった。父には最後まで言われなかった言葉だ。兄もこの家に縛られていたためあまり会話をしたことがなく、たまに話をしてもこちらには興味を持っていないのだと思っていた。

「お兄様もお身体にはお気をつけて」

 私は深くお辞儀をした。

 

 その日の夜、夢を見た。

 

 夢の中の私は日本という国で生命保険会社の営業に就いていた。なりたくてなったわけではなく、中学、高校と父の言う通りに勉強ばかりしていたせいか、大学在学中の就職活動が奮わずそのまま卒業してしまい、行き場のなかった私を生命保険会社に勤めていた叔母がちょうど人手が欲しかったと誘ったのだった。

 厳格な父はそれはもうひどく怒っていた。幼い頃から厳しく躾けて遊ぶよりも勉強を優先させて、県でも有数な上位高校、有名な国立大学に入学させたのに、それを活かすことも出来ずに、さらに努力もせず人の誘いに乗った甘い考えの私を頭ごなしに怒鳴りつけた。

「こんな役立たずの恥知らずだったとは……!」

 と、自分の妹の誘いであることなど関係なく、あちこちに新聞紙やコップやクッションを投げつけ、私が泣いて謝っても収まらなかった。

 しかし私はもう何度も面接に落ちて自信を無くしていたため、これ以上惨めな思いをしたくなかった。仕事さえしていれば父もいずれは認めてくれるだろうと、とりあえず保険会社に入ったのだ。

 生命保険の営業は人と人の会話が大事で最初は緊張して上手く話せなかったけれど、元来一つの事に取り組める真面目さと、人に寄り添い親身なれる性格と相性が良く次第に顧客が増えていった。

 そして40歳のある日、成績が認められ営業課長に任命された。最初は仕方なくで始めた仕事だったけれど、こうして会社に認められるといつかの自分も報われた気がした。

 その日は仕事終わりに自分へのお祝いのつもりでケーキを買って帰った。実家暮らしのため、もちろん父母の分もある。少し浮かれた気分で家に帰り、リビングでテレビを観ていた父の背中に声を掛けた。

「お父さん、私課長になったの」

 テレビの音に負けないくらい心臓がドキドキと鳴っていた。父は顔が見えない程度に振り向き、またテレビに向き直った。私は心が一瞬で落ち込んだのがわかった。

「あの、これ、自分でお祝いにケーキ買ってきたの。一緒に食べよう」

 上手く聞こえなかっただけかもしれない。そんな希望にしがみつきながら、テーブルにケーキの箱を置いた。

 置いてからしばらく、ようやく振り向いた父は、

「くだらん」

 はっきりとそう言った。

「そんな誰にでもできる仕事で、課長になったから何だと言うんだ」

 父は面倒臭そうに立ち上がると、ケーキの箱を開け、中身をじっと見た。父と母と私のそれぞれ好きなケーキを買ってある。

 バサッ、と次の瞬間には箱を投げ捨てられていた。箱から丸いチョコレートのケーキが飛び出して潰れた。私は信じられない思いで呆然と父を見た。

「お前はあの時楽がしたいがために逃げただろ。難関の高校に入れて国立大まで行かせてやったのに。親不孝者が」

 怒り狂った顔に睨みつけられる。就職してから約20年、父はずっと怒っていたのだ。その間の私の努力など何も見ず、昔のたった一つの諦めをずっと覚えていたのだ。

 何をしてもこの人は認めてくれない。

 深い絶望に包まれ、私は悲しみを堪えきれず家を飛び出した。前もよく見ず玄関を飛び出し、どんな風に道路に出たかもわからないけれど、気が付いたら運悪く通りがかった車に撥ねられ、そのまま死んでしまった。

 それが私の前世だった。

 私は、今世でも認められるためだけに頑張って、自分らしく生きていないことに気が付いた。


 縁談が決まってから2日後、執事とメイドに見送られ、連れのメイドも付けずたった一人で私は馬車に乗り込んだ。高位貴族と縁さえできれば私の行く末に興味のない父母と、今さら見送るような間柄でもない兄と、既に結婚して家を離れてしまった妹との、最後の別れはこんなものだった。

 ハンドラーク伯爵領はここから東の果て、他領をいくつも渡った国境にある。四方は険しい山に覆われ、気温も低く農作がし辛い土地となっている。ドラゴン退治による功績を讃え信頼の証として国境を任せる、というのは建前で、国境は他国からの脅威だけでなくモンスターなどが入り込みやすい。その時の領主に防衛力が左右されてしまうため、しばらくはドラゴンを倒すほどの逸材に辺境を守ってもらいたいということだ。

 通常の領主ならば、土地は広いものの侵略が多く扱いづらいのを嫌がるのだが、国を守るためとあらば元々騎士であるユリウス辺境伯は応じざるを得ず、体良くこの辺鄙な土地を押し付けられたのだった。 

 ようやく馬車からでも見えるくらい近づいたハンドラーク辺境伯領は、外壁が異様に高く、外から来るものを拒んでいるように見えた。実際外壁の上にも門にも衛兵がそこかしこにおり、外からの侵入を警戒しているのがわかる。

 壁の中は田舎の男爵領と違って、人々が多く行き交い賑わっていた。行商人や旅人が国境を越えて最初に訪れる街として、あちこち見たことのない珍しい商品を売っているお店が立ち並んでいる。道行く人も北方の白人から南方の黒人、東方の人間以外にも狼や虎、トカゲの姿をした獣人や、少ないがエルフの姿まで見かけた。

 ハンドラーク辺境伯邸は北にある険しい山を背にして、私たちが入ってきた西門と南門の中間あたりに位置していた。邸宅までの道は曲がりくねっていて、簡単には辿り着けないようになっている。

 辺境伯邸に着くと門の前で執事とメイドが横一列に並んで待っていた。その執事たちを背に、鋭い眼光でこちらを睨みつけてくるドラゴン辺境伯がいた。彼がドラゴン辺境伯とすぐに分かったのは、顔の右半分が焼け爛れていたからだ。仮面も付けず、赤黒く泡立った皮膚と白く濁った右目をそのまま晒している。

 あれがドラゴン辺境伯。確かに初めて見ると怯んでしまう顔だ。

 しかし噂されるような怖さは感じなかった。それはたぶん前世で保険の営業をしていたのを思い出したからだ。仕事上、顔に火傷を負った人や、片足を失くした人、半身が不随するような大怪我をして一命を取り留めた人などいろんな人を見てきた。それにドラゴン辺境伯の傷跡は、その通称の通りドラゴンを打ち倒すという偉業を成したからこそ出来たもの。前世を思い出す前ならともかく、今の私には恐れるよりも尊敬の念が立つのだった。

 馬車から降りると、自分より背の高いドラゴン辺境伯とできる限り目線を合わせるようにピンと背筋を伸ばした。

「お初にお目に掛かります。私、グレイグ・ド・ドーレン男爵が長女、アイリア・ド・ドーレンと申します」

 そして自分が辺境伯に相応しい存在であるように堂々と、しかし礼儀を持って頭を下げた。下を向いていても左目が強く貫いてくるのがわかる。

 しばらく見定めるような沈黙が続いたあと、

「逃げるなら今のうちだ。支援もしよう」

 とドラゴン辺境伯は告げた。

 私は驚いて頭を上げる。

「何故そのような……私のことが気に入らなかったでしょうか」

 男爵家の令嬢として何か失態をしてしまったのかと不安が押し寄せる。

「この顔を見て怯まなかったところは認めよう。しかし我慢するだけ時間の無駄だ。家のことで帰れない事情もあるだろう。しかし、こちらとしてもいなくなる者に構う時間はない。ドーレン男爵家にも損がないようにしてやる」

 ドラゴン辺境伯は有無を言わさぬ威圧感で言い切ると、そのままその場を離れるように身を動かした。

「わ、私は逃げるつもりなどありません!」

 慌てて引き止めようと声を上げる。彼は動きを止め、ゆっくりと向き直した。

「虚勢はいらん。直にこの顔が我慢できなくなるだろう。ならば家を出るのは早い方が良い」

 私はドラゴン辺境伯の、顔の傷跡のせいで卑屈になっているという噂を思い出した。幾度も婚約を断られ、今みたいに婚約に訪れた女性に逃げられたこともあるのだろう。

 私は同情心が募ると同時に覚悟を決め、より一層背筋を伸ばした。

「私はあなたの顔を恐ろしく思いません。その傷はドラゴンを倒す際に受けたもの、騎士にとって勇敢な証ではありませんか。たとえドラゴンによるものでなかったとしても、私はあなたを忌避するつもりはありません!」

 信じてもらえるようにユリウス辺境伯の眼を真っ直ぐに見つめた。本心からの言葉だった。前世で傷跡のある人たちと触れ合った記憶が、私を少し強くした。彼はしばらく何も言わなかった。

「……カイン、後を頼む」

 静かにそばにいた副官に声を掛けると、マントを翻して邸宅の中へ入っていった。

「お初にお目に掛かります。副官のカインと申します。この度は遠方からご足労頂きありがとうございます。お疲れでしょうから、一先ずは屋敷にお入り下さい」

 カイン副官は丁寧に挨拶をし、私と後ろの馬車を招き入れた。私が門を通ると、彼の後ろに控えていた執事やメイドたちが馬車の荷物を取りに行く。私が乗ってきた馬車は屋敷には入らず、ドーレン男爵家へと戻っていった。

 これで、ここへ残るのは私たった一人となった。


 ユリウス辺境伯邸は3階建てで、正面玄関の尖った屋根を含めて真正面から見るとほぼ左右対称の長方形の形をしていた。どっしりとした重厚感があり、壁や柱の色も使われた石そのままのような灰色を基調としていた。建物を支える円柱だけがかろうじて丸みがある。今日が晴れているのにも関わらず、辺り一面がまるで曇っているかのような印象受けた。 

 通された先の玄関ホールは全体的にシックな色合いで、また両脇には左右対称に配置された暗い茶色の螺旋階段があった。床を埋める柔らかい絨毯は階段よりもやや赤みのある茶色で、全体を少し暖かみのあるものにしている。

 1階の奥、螺旋階段の間にある扉を通り、中庭を抜けた先にある棟の客室が私の部屋として案内された。まだ正式に婚姻していないためただの客人扱いのようだった。ユリウス辺境伯の主寝室はこの棟の3階にあるらしい。

「結婚式は7日後を予定しております。期日が迫っても支度代などを請求することはありません。今後のことをゆっくりとお考えください」

 カイン副官はそう言うと、礼儀正しく去っていった。

 私は急に身体の力が抜けて、その場に座り込んだ。副官の言い方からも、逃げ出すことを前提とされていることがわかる。

 前世の記憶から、私は今世でも自分らしく生きていないことを知った。このままここに残ると、ドーレン家に帰るのと、どう生きるのが自分らしいかはまだわからない。このままここに残るのは父の意向に沿うことになるけれど、ここで逃げ出すのもまた自分の気持ちとも違う気がしていた。

 まずは自分の気持ちをはっきりさせよう。まだ7日あるのだから。


 翌日、いつ逃げ出すかわからない私は、妻としての仕事である領政の補佐をさせてもらえず暇を持て余していた。

 執務室で断られた際に見えたドラゴン辺境伯は、右半分だけの仮面を付けて傷跡を見えないようにして普段は過ごしているようだった。

 仕方がないので、とりあえず今後の参考のためにも街の視察に出掛けることにした。

 平常通りの街が見たいため、なるべく貴族とわからないような装飾のない質素な紺色のガウンを着て、髪も飾りを付けずに後ろで巻いて、白い日傘を差して街に出た。

 護衛もおらず、街を見るための馬車もない。たった一人の視察だ。不安と虚しさが押し寄せる。自分が何をしに来たのかわからなくなるけれど、今は耐えるしかない。

 街は昨日見たときと同じで、やはりドーレン男爵領よりずっと広くて活気があった。商人が簡易の出店を出して呼び込みをし、種族様々な住人や旅人が行き交い賑わっている。

 しかし貧富の差もあるようだった。東門の近くを通るとじろじろと通り行く人に不審に見られることも多く、少し入り込んだ路地の暗がりを覗くと、今度は孤児と目があった。と思ったら、どこから湧いたか数人の子どもたちに囲まれ、食べ物が欲しいと群がられる。戸惑っているうちに服をまさぐられ、背の高い子どもがジャンプして差していた日傘をもぎ盗っていった途端に全員がいなくなった。あっという間の出来事だった。

「あんた、貴族だろ」

 子どもたちが去って呆然としているところに、声を掛けられる。

 振り返ると、珍しい南方の商品を扱った出店の主人がいた。褐色の肌にこの領では珍しい真っ黒な長い髪を一本の三つ編みにして、濃い凛々しい眉と切れ長の目をしていた。南方の民族衣装を身に纏い、北方のこの領地ではそれだけだと寒いのか厚手のストールを羽織っている。

「初めまして。どうしてわかったのですか?」

「持ってるものが良い。あと姿勢が良すぎる」

 南方の商人は笑顔だけれども、何か警戒させるようなニヒルな雰囲気があった。

「何か他にも盗られてるんじゃないか」

 言われて服を触りながら、盗られていそうなものを思い浮かべる。鞄を見ると、中から財布が飛び出そうになっていた。日傘を持つ手にずっと掛けていたのに、誰かが手だけでも伸ばしてまさぐったのだろう。ポケットも手を入れてみるとハンカチが無くなっている。

「盗られてしまってますが、幸いにもハンカチだけでしたわ」

 ハンカチとはいえたった数秒での手際の良さに感嘆の息が漏れる。

「それは良かった。この辺りは孤児が多い。別の所を通ったほうが良い」

 ニヒルな雰囲気は誤解だったかのように、商人は親切だった。

「ありがとうございます。あなたもこの通りは危ないのではないですか」 

「あいつらとは仲良しだからな」

 親切だと思った商人は、まるでイタズラを隠すようにやはりニヒルに笑った。


「最近アンヌはどうしてるかねえ」

 東門から離れて南門へ向かって歩いていく途中、そんな声が聞こえてきた。ここの辺りは農場が多く、ドーレン領のような田舎っぽさを感じる。

「私も旦那が死んでから見てないけど、街で朝から晩まで働いてるって話だよ」

「農場はどうしたのさ」

「牛ごと売ったって話だよ。だって働き手がいないんだから」

「息子がいたでしょ」

「あんなのまだちっちゃくて牛の世話なんかできないよ!」

 誰とも知らない農場の柵の際で、ご婦人が2人で話していた。私は足早に過ぎ去りながらも、小さい息子がいるアンヌのことが気になった。もしかしたらあの裏路地で盗みをしている中に息子がいるかもしれない、と思い返す。前世で仕事柄、事故や病気で夫を亡くした方も多く見た。中には亡くなってはいないが寝たきりになって、奥さんが働きづめになって鬱になってしまった人も見た。

「いっそ、死んでくれてたほうが……」

 と虚ろな目で言われたのを覚えている。

 なんとなく歩みを街ではなく農場が多くある方面へと向けていく。舗装されてない荒れた道を通って粗末な小屋たちが目に入る。とても裕福とは言い難い家々が立ち並ぶ。牛や山羊が呑気に柵内で草を食んでいる。

「何か御用ですか」

 そこへ木桶を持ったエプロン姿の女性が現れた。白髪の多く生えた髪を後ろで纏めてスカーフを被り、顔は泥なのかシミなのか見分けのつかないものが付いている。目の下には皺とクマが刻まれて一層老けて見える。

「すみません、最近引っ越してきたもので散歩をしていました」

「あんた、貴族かい?」

 また見破られてドキッとしてしまう。先ほどの商人と違って明らかに貧乏なため、貴族に恨みがあるのではと身構えてしまう。

「はい。初めましてアイリアと申します。よろしくお願い致します」

 私はそれでも失礼のないようにスカートの裾を持ち、丁寧に頭を下げる。女性は貴族に丁寧にお辞儀をされたことが無いかのように戸惑い、挨拶とも判断しづらい程度に首を下げた。

「私はアンヌ。別に見ても面白くはないよ」

 先程聞こえてきた女性の名と同じで内心静かに驚く。

「ここはあなたの農場ですか?」

 噂を確かめるように自然を装って尋ねる。

「昔はね。旦那が死んでから世話できなくなったから牛ごと売ったのさ」

 アンヌは寂しそうに牛たちを眺める。

「でも買った人が知り合いの農家でね。私を気の毒に思ってそのまま農場で働けるように雇ってくれたのさ」

「それは……良かったですね」

「良くはないさ! 安い給料のまま良いように働かされてる。でもまあ、街の仕事だけじゃ足りないし、牛にも愛着があったから良いんだけどね」

 すぐに否定したものの、アンヌの目は何かを懐かしむように遠くを見ていた。

「他にもお仕事をされてるんですか?」

「ああ、息子の分も稼がなきゃだから、夜に酒場で給仕をしてるよ」

「農場はあまり高く売れなかったんですか?」

「売れないよぉ! 買う方だって貧乏してるんだもん。牛を死なせないためにタダ同然で渡したようなもんよ」

 噂を知ってか知らずか否定するように大きな声を出される。知らなかった現実に言葉が詰まる。

「ほんと、あの人ももっと売れるものを遺してくれてたらねえ」

 アンヌの諦めに近い溜め息が耳に残った。 

 夕方、アンヌと別れた帰り道、私の盗られた日傘を持っている男の子と出会った。粗末な服に似つかわしくないほど綺麗に白く刺繍の細かい日傘だった。

「ねぇ、ちょっと……」

 つい、確認したくなってその男の子を呼び止めた。6歳くらいだろうか、日傘をもぎ盗るには身長が足りないようにも思える。

「なに?」

 男の子は少し警戒するように振り向いた。

「あのね、その日傘どこで買ったのかなって。お姉さんも同じ店に行きたいなって」

 私はなるべく警戒を解くように目線を合わせるようにしゃがみ、日傘を狙っていないこともアピールした。すると、男の子はぱぁっと目を輝かせた。

「あのね、これは兄ちゃんにもらったの!」

「兄ちゃん?」

「兄ちゃんはいつも遊んでる兄ちゃん。本当はこの傘も兄ちゃんの母さんのだったんだけど、兄ちゃんがきっと売れるからあげるってくれたの! でもね、綺麗だからうちの母さんにあげることにしたの!」

 男の子はずっと自慢したかったのだろう、うきうきと話してくれた。その兄ちゃんが、日傘をもぎ盗った子どもだろうと察しが付いた。必死に盗った戦利品を年下の子どもに分け与えて、孤児たちはきっと心根が悪い子どもでは無いのだろうと同情心が湧いた。しかし今の自分ではどうしようもできない。

「お母さん、喜んでくれると良いね」

 無力さに苛まれながら、そう言うので精一杯だった。


 そうして7日が経ち結婚式当日となった。ユリウス辺境伯とは仲良くなるどころ、ほとんど顔を合わせていない。

 それでも結婚式の準備が進み、政略結婚だというのに豪華なウェディングドレスを着ると気持ちはどうしようもなく浮足立つのだった。これで愛し合う2人だったなら……と叶わない夢を鏡越しに見た。

 親族控室を訪れると、私の父、グレイグ・ド・ドーレン男爵とユリウス辺境伯の父、ハンス・フォン・ハンドラーク侯爵が握手を交わしていた。ドーレン男爵はこの上なく嬉しそうな顔している。

「お噂はかねがね聞いております。ご子息も素晴らしい御方で!」

 とまだ話したこともないユリウス辺境伯を褒めちぎっている。私の隣で新郎席に座っているユリウス辺境伯は、いつもの素っ気ない仮面と違い装飾の付いた黒い仮面を付けて押し黙っている。私の方も見ず、どこを見ているのか真っ直ぐと前を向いている。

「息子と結婚してくださるだけでも、我々にとっては有り難いことです。ドーレン家をこれから充分に支援していきましょう」

 ハンス侯爵の社交辞令とも本心とも取れる言葉に父と無駄遣いが大好きな母は顔を見合わせて喜びあった。ユリウス辺境伯にも聞こえているだろうに、それでもなお彼は何も聞こえていないように無表情に徹していた。

 控室には兄のヴィリアムと妹のエステラも来ており、兄は自分でドーレン家を立て直す目標があるためか、積極的にユリウス辺境伯の兄、フレデリック・フォン・ハンドラーク伯爵と話している。妹のエステラは、夫で今回の立役者であるステファン伯爵の隣を離れずじっとしている。時折目が合ったかと思うと、すぐ目を逸らされてしまう。妹にとってもマイナスな感情は持っていないはずだけれど、きっと目が合ったとしても今更何を話せば良いかわからないのだろう。 

 結婚式は本人たちの心を置いて粛々と執り行われた。私はティアラから垂れるヴェールで頭全体を覆い隠し、父に伴われてヴァージンロードを進む。ひそひそと参列席からの視線を感じる。「不幸」、「気の毒」、「生贄」等、微かに聞こえてくる。

 その先にいるユリウス辺境伯は顔色一つ変えず、騎士隊長然として立っている。紺色の隊服に、表地は黒く裏地が赤いマントを左肩に纏い、左胸には数々の武勲を称えたバッジ、右胸には一回り大きなドラゴンの形をしたプラチナのバッジが付いていた。腰には擦れてくすんだ鞘の剣を帯剣し、顔の右半分には装飾の付いた黒い仮面を付けているが、もう半分だけ見えている整った顔立ちと威風堂々とした佇まいでその場にいる人たちを惹き付けていた。

 ユリウス辺境伯まで辿り着くと、私達は女神エンデルの像の前で結婚の許しを請う。講壇に立つ司祭が誓いの言葉を述べる。

「新郎、ユリウス・フォン・ハンドラークよ。汝、病める時も健やかなる時も、常にこの者を愛し、守り、慈しみ、支え合うことを誓いますか」

 司祭の穏やかな声が教会中に響き渡る。誰も声には出さないけれど、本当に誓うのかと、聞き耳を立て息を飲んでいるのがわかる。

「はい、誓います」

 言い終わる前に悲鳴のような歓声が参列席から微かに聞こえる。

 横目で盗み見たユリウス辺境伯の表情は凛としていて、まるで騎士として主君に忠誠を誓うように、とても嘘を吐いてるようには見えなかった。

「新婦、アイリア・ド・ドーレンよ。汝、病める時も健やかなる時も、常にこの者を愛し、守り、慈しみ、支え合うことを誓いますか」

 まったく同じ言葉を司祭から尋ねられる。先程よりも参列者がもどかしくしている空気を感じる。心無しかユリウス辺境伯からも視線を感じる気がした。

 しかし、どうあれ私の心は一つだけ決まっていた。結婚相手とはほとんど会話が無かったけれど、今日までの7日間とてものびのびと過ごすことが出来た。私はもう、あの家には戻らない。私は自分らしく生きるのだ。

「はい、誓います」

 

 披露宴が始まると、招待客がそれぞれ会話に花を咲かせていた。父と母はこの機を逃すまいとそれぞれ各テーブルに忙しなく乾杯をしに行き、兄も歳の近そうな男性たちの輪に入り会話している。

 妹は相も変わらずステファン伯爵から離れず2人で食事をしていたが、その美貌も相変わらずで、光に当たり薄く輝く金髪も、物憂げに伏せられた瞼も、ナイフでステーキを切る所作も全てが人々を惹きつけ、ステファン伯爵がいなければすぐにでも声を掛けようとしている男性にあちこちから視線を向けられていた。

 結婚式が終わると、私の寝室は同じ棟の3階、ユリウス辺境伯の寝室と渡り廊下を挟んでちょうど反対側にある部屋へと変わった。そこが本来妻となる人に与えられる部屋だった。私はようやくハンドラーク辺境伯家の一員となったのだ。

 そしてその日の夜、私はユリウス辺境伯の寝室で寝支度を整えていた。妻としての初めての務めが始まる。

 最初の仕事はもちろん子を成すことだ。今世ではもちろん、前世でも恋愛には疎かったためそういった経験は全く無く、どうしようもなく緊張してしまう。覚悟はしていたけれど、いざとなるとやはり気恥ずかしいものがある。

 ユリウス辺境伯は今湯浴みの最中で、部屋の奥から微かに聞こえる水の音に、不安と期待で心臓が爆発しそうになる。整えられたベッドの縁に座り、ネグリジェを掴んで縮こまって待つしかできなかった。

 しばらくしてユリウス辺境伯がガウン姿で現れた。仮面を外し、赤黒い火傷痕が水に濡れてより赤く広がっているように見える。

「どうした、震えているのか」

 ユリウス辺境伯はゆっくりとベッドに近づいてきた。

「今さら後悔しても遅いぞ。お前は女神の前で誓ったのだ。もう俺のものだ」

 声色で心配してくれているのかと思ったが、そんな気は一つもなく押し倒すように身体ごと覆い被さり、そして嘲るように顔を近づけてくる。キスをされるのかと思い、思わず身を引いて目をつぶる。

「はっ、やはりお前も避けているじゃないか。威勢良かったのは最初だけか」

 ユリウス辺境伯は失望したかのように鼻で笑うと、静かに私から身体を離して見下ろした。そこでようやく、私が出会って最初に言った「その傷がドラゴンによるものでなくても、忌避するつもりはない」という言葉を確かめていたのだと気が付いた。

 それがわかると、視線を逸らして溜息を吐いている姿が、急に不貞腐れている子どものように見えて可愛く思えてきた。

「ふふっ」と思わず笑みがこぼれてしまった。

「急になんだ」

 ユリウス辺境伯はそれを聞き逃さずすぐに高圧的な態度を取る。

「すみません、いえ、可愛らしいところもあるのだと思いまして……」

 私の返答が気に入らなかったのか、言い切らない内にユリウス辺境伯は勢い任せに私の身体を押し倒した。ベッドとはいえ衝撃の強さにうめき声が出る。

「可愛いだと? 得意の見栄か? 今さら取り繕っても意味は無いぞ」

 怒気を含んだ声が顔に降りかかる。

「違います。私は本当に……」

「本当にこの顔を可愛いと思ったのか? ずいぶん悪趣味じゃないか。こんな爛れた顔を可愛いなどと」

 嘲るように笑いながら右手で見えない仮面でも外すように火傷痕を掴んでいる。痛そうな仕草に思わず手を伸ばす。しかしその手を拒むように掴まれる。

「ならばこの顔で抱かれても文句はないな! 先程震えて小さくなっていたにも関わらず、可愛いなどと虚勢を張れる度胸があるのだからな!」 

 痛いほど手を握られて、憎々しそうな顔で怒声を浴びせられる。つい勢いに負けてしまい、本当にこのまま抱かれてしまうのではないかと焦りと怯えで震え出してしまう。私のその様子を見て彼は勝ち誇ったように鼻で笑った。瞬間、私は無性に腹が立った。

「ですから! 違います!」

 私は勢いよく起き上がりざまに肩を突き飛ばして叫んだ。

「あなたの顔が怖くて震えてたんじゃありません!」

 彼は一瞬呆気に取られていたが、すぐに睨み返し、

「じゃあ何だというのだ」

 と何を言われても納得しなさそうな威圧的な態度を取った。

「それは……」

 否定はしたものの、理由を言う心の準備はしていなかった。初夜に緊張していたなど、淑女として口に出すのはさすがに恥ずかしくて口籠ってしまう。しかし、急に言い淀んだ私をまたユリウス辺境伯は鼻で笑った。私はまた腹が立ち、どうしても鼻を明かしたくなった。それにここで黙っては、顔に怖がっていないことをきっともう信じてもらうことはできなくなるだろう。私は意を決した。

「は、初めてだったからです……」

 自分にとっても思いの外、小さな声が出た。

「え?」

 聞こえたのか聞こえなかったのか、ユリウス辺境伯は素っ頓狂な声を出した。

「ですから! 男性とこういったことをするのが! 初めてだったからです!」

 もはや自棄になって叫んでいた。恐る恐る彼の方を見ると、呆然とこちらを見て固まっていた。

「いや、すまない……その……」

 ユリウスは自分が何を強要したのか理解したようで、なんとか謝罪しつつも絶句していた。

「本当に、すまない……」

「いえ、大丈夫です……」

 こちらとしても予想外に狼狽えているので、大丈夫と言う他にできることが無かった。

「すまない……その……そこまで気が回っていなかった」

 全く予想していなかった返答なのだろう、あまりに何度も申し訳無さそうに謝るので気の毒になってしまう。本来のユリウス辺境伯はきっと真面目で優しい人なのだろうと察せられた。

「本当に大丈夫ですよ。なんだか、ようやくユリウス様とお話できた気がします」

 ユリウス辺境伯は目を見開くと、バツが悪そうに口を押さえた。

「本当に俺は……君にはたくさん申し訳ないことをしているな……」

 まるで憑き物が落ちたように、項垂れて困ったような顔をしている。それがまた母性をくすぐるような可愛さがあったので、またつい、ふふっと笑みを漏らしてしまった。

 それを見たユリウス辺境伯は今度は怒らずに苦笑した。

「本当に俺は自分のことばかりだった。君はこの土地に一人で来て不安だったろうに。緊張で震えるのも当然だ」

「わかって頂けたなら良かったです」

 本当はホッとしてようやく一息が吐けた。

「君が嫌なら無理に抱くことはないから安心してほしい」

 先程とは打って変わって別人のように心配してくれている。

「すみません……嫌というわけではないのですが、どうしても緊張してしまって……」

 説明しているとまた気恥ずかしくなってくる。

「今日ゆっくり寝ると良い。結婚式もあって疲れただろう」

「それでは、あの、仲直りの印にキスだけでもしませんか?」

 なんとか一つだけでも夫婦らしいことをしようと言っただけなのだが、私の言葉は彼をひどく驚かせていた。

「本当に良いのか……?」

「その、ユリウス様がお嫌でなければ……」

 言いながら、どんどん恥ずかしくなってくる。ユリウス辺境伯の顔は恥ずかしいというより戸惑いが強いように見え、またその様子が可愛く見え、私はゆっくりと彼の右頬に触れた。

 すると彼は目を見開いていたが、しばらくすると同じように私の頬に手を添えてゆっくり顔を近づけ優しく唇に触れたのだった。

 

 今日から領政の補佐としての仕事が始まる。主書斎でユリウスとカイン副官から領地の報告を受ける。

「――街道近くの洞窟にゴブリンが棲み着いたようで、街道を通る行商人や旅人に被害が出ています。また農耕ですが、今年は日照り続きで作物が育たず、予定されていた収穫量を下回るようです。以上の理由から前年より税収が少なくなると見込まれます」

 カインの報告を聞き終わると、ユリウスは難しい顔をして悩んでいた。

「ゴブリンは早急に排除するとして……あとは不作だな。アイリア、君はどう思う?」

 急に名前を呼ばれて戸惑いを覚える。結婚式から一夜明けて、今までの素っ気ない態度は消えずいぶん打ち解けたように思う。

「そうですね……天候による不作は今後も起こることと思いますので、人工的に雨や日照りを起こせる魔法道具を手配するのはいかがでしょう」

 振られたからにはなんとか良い返答をしようと緊張しながら答える。

「ふむ……やはりその辺りになるか……とすると、それをするために新たな税を課すしかないか……」

 ユリウスは資料を見ながら溜息混じりに苦笑する。

「すみません。この程度のことしか言えず……」

 私は思わず赤面して俯いた。

「いや、そんなことはない。何度かその提案を受けたこともある。しかし税収が下がってる今、どこからその費用を捻出するかが問題でな……」

「設置費用はこちらが出して、その後魔法道具使用税として徴収するのはいかがでしょう」

 私に助け船を出すようにカイン副官が提案する。

「その場合はそれぞれの農地から敷地と作物に見合う魔法道具を提出してもらって審査する必要があるな。また既に困窮している農家などは使用税を上乗せしたらそのまま払えずに潰れてしまうかもしれない」

「しかしそういった農家はそのままでも不作で潰れてしまうのではないでしょうか」

「ならば――」

 ユリウスとカインは真剣に意見を交わし合う。私はその二人の話に付いていくのが精一杯だった。

「この件はまた詳しく調べてからだな」

「すみません、その、よくわからずに提案してしまって」

「構わない。何事も案が無ければ前へ進めない」

「アイリア様は領で気になったことなど、ありませんか?」

 カインが優しく微笑み私にも意見を促してくれる。

「その、孤児が多いことが気になっています……」

 脳裏には先日の子どもたちに囲まれて日傘を盗まれたことが過ぎる。

「孤児か……それもまた改善すべき問題だな……」

 ユリウスは悩ましそうに眉間に皺を寄せる。

「場所がらモンスターに出会うことも多く、運悪く襲われた一般人や我々騎士隊で犠牲になった者もいる。その子どもたちが路頭に迷うことがよくある」

「今回のゴブリンによってまた一人孤児が出たと報告されています」

 カインは書類をめくりながら報告する。

 予想はついていたものの、やはり子どもたちの境遇を思っていたたまれない気持ちになる。

「先日、東門の外壁付近で子どもたちに盗みを働かれました」

「なんだと?」

 ユリウスが急に怒りの籠もった声を出す。

「幸いにも盗まれたものは日傘やハンカチ程度でしたが、しかし年端もいかない子どもたちが数人で協力して盗みをしなければいけないのには心が痛みます」

「彼らには我々も手を焼いていてな……しかし、このまま孤児が増えるのは領としても良くない。治安は悪くなり、孤児たちを利用した悪人どもが出始める。既に何人か行方不明者も出ている」

 ヒュッと血の気が引くような心地がした。治安が悪いということはそういうことも起こるだろうと予想はついていたのに、実際に起こっているとわかると気分が悪くなる。

「こちらとしましても、教会に孤児院を作ったりいろいろ手は打っているのですが、やはり元を断たない限りはこれからも増えるでしょう」

 カインが資料をさらっと確認する。

「元、というのは……?」

「魔物や事故による両親の死です。これを無くすことは不可能でしょう」

 次々と頭を打ち付けられているような気持ちになる。当たり前だが、あの孤児たちには全員親がいないのだ。彼らも何も好きで孤児をしているわけではない。住むところも稼ぐところもなく、やむなく孤児になってしまっているのだ。

「あの東門の子どもたちは教会にも入れてないということなのでしょうか」

「そういった子どもたちもおります。教会、というより大人自体を信用せず街で盗みを働いている子どもたち、家はあるけれども、働くとこがなく盗みをしている子どもたちなど、様々ですね」

 孤児の資料もあるのか、カインは手元を見ながら丁寧に教えてくれた。

「教会の孤児院は保護を強化するとして、問題は東門付近の盗みだな。おかげであの辺りには何の施設も建てられん」

 ユリウスは大きなため息を吐く。私は何か良いアイデアは無いかと今世だけでなく前世の記憶まで思い返す。――そうだ。

「保険制度、なんていうのはどうでしょうか」

「保険制度……?」

 聞き慣れない言葉にカインだけでなくユリウスまでもが首を傾げる。

「保険制度といいますのは、制度を利用する人たちで少しずつお金を出し合い、魔物や事故で負った損害を補い合う仕組みです。例えば、魔物に襲われてケガをしたり、家が火事で焼けてしまったりした場合に、それの治療、修復に掛かった費用を提供します」

「被害に遭った者に見舞金を出すということか」

「もちろんそれも一つの保険かと思いますが、私が今回ご提案したいのは、基金を立ち上げ、領民が自分たちで資金を出し合い、その積み立てた資金から必要な時に補償すると言ったものです」

「自分たちで?」

 ユリウスは怪訝な顔をしているものの、興味深そうに聞いている。

「そうです。領民全員が毎月少額ずつお金を出し合い、その資金を一つの基金として管理します。この基金は領民の代表によって運営されます」

「何故領主ではダメなんだ?」

「その時の領主に左右されずに透明性を高めるためです。もちろん領民が管理した場合でも不正を防ぐために監査を行います」

 私が話し終わった後、ユリウスはしばらく考え込んだ。

「制度自体は良いのだろうが……あまり良い案には思えないな……」

 ユリウスの渋い顔つきに、私は自分が説明した内容が何か間違っていなかったか何度も思い返す。その間にユリウスは申し訳無さそうに口を開いた。

「つまりは他人のケガや損害のために自分たちの金を出し合うということだろう? 誰しもがそんなお人好しではなく、自分のためで精一杯だ。とても資金が集まるとは思えない」

 ユリウスの説明を聞いて、まだ弁解できるチャンスがあるとホッとする。

「失礼しました。私の説明が誤解を生んだようです。保険は自分の将来ために備える制度です」

「ほう、それはどういう……」

「そうですね、では医療保険を例に上げるとしましょう。現在ハンドラーク辺境伯領では、ただの風邪でも1万前後の医療費が掛かります。大きな病気では100万以上掛かることも珍しくありません。ですのでその備えとして月々1万ずつ貯金したとします。しかし1年も経たない内に大きな病気に掛かった場合、手元にあるのはその貯金したわずかなお金です。ですが――」

「保険に入っていれば、その医療費である100万が補償される……」

 カインがようやく理解したように頷く。

「はい、その通りです。費用は他の制度利用者たちが積み立てた資金から補償されます」

 私はユリウスとカインとそれぞれ目を合わせながら頷いた。

「そのおかげでこの方は医療を受けられ、生きながらえることができます。そしてその結果、孤児を生まず済みます」

「なるほど、そこに繋がるのか……」

 ユリウスはようやく理解したように考え込む。

「そんな制度があるのか……いやしかし、そう上手く人が集まるだろうか。民にとっては結局税を徴収するのと同じこと。広まるには時間が掛かる」

「はい。やはり最初は補償する資金を寄付などの支援に頼らざるを得ないと思います。確かに時間は掛かりますが、今回だけの一時凌ぎではなく、長期的に領の孤児を減らし働き手を安定させる案だと思います」

 ユリウスは聞こえているのだろうが返事は無く、難しそうな顔をして黙り込んでいる。私は内心気が気じゃなく、ユリウスの返答を待ちきれず、

「そこへ我々貴族が多額の寄付をして、さらに領民が主体で管理することを伝えれば、ハンドラーク辺境伯は領民のことを一番に考える領主だとアピールできるのではないでしょうか!」

 と思わず力を込めて発言していた。ユリウスはそれを聞いてフッ、と声を漏らした。

「ずいぶんとその保険制度を推すんだな」

 突然笑みをこぼされて、私は急に恥ずかしさが込み上げた。

「申し訳ありません。熱くなってしまいました」

 何故ここまで保険制度に詳しく、こだわっているか不審がられただろうか。頬を押さえながら緊張が走る。

「カインはどう思う?」

 ずっと黙っていたカインの方を見ると、私たちのことを微笑ましく見守っていたらしく、話を振られて焦っている様子が見えた。

「そうですね。実際孤児を減らすとなりますと、父母が死なない、または父母に代わる生活費が必須となりますので、保険制度はこの2つを満たせているとは思います」

「ふむ」

「ただ……」

 カインはユリウスの相槌に被せるように続けた。

「それを優先的に進めていくかというと、それはまた考えていかねばならないと思います」

「というのは?」

「まずはやはり費用です。集めるのには他者の協力が必要ですし、領民主体とはいえ先導しているのは我々ですから、ユリウス様が仰ったように民にとってはやはり税を徴収されるのと同じです。でしたら、例えば不作なので減税をしたり、孤児を減らすのであれば、子どもを雇用できるようにしたり、もしくは父母の賃金を増やす政策を作ったりする方が先決かと思います」

「ふむ……」

 カインの言葉にまたユリウスは顎を触りながら考え込んでいる。私もカインの指摘に納得してしまい、前世の記憶に引きずられて保険制度にこだわりすぎてしまったかもしれない、と少し反省していた。

「そうだな……」

 ユリウスがおもむろに口を開いた。やはり却下されるのだろうかと緊張が走る。

「では、並行して取り組もう。カインは減税できそうなところのリストアップを、アイリアは保険制度の素案を作ってくれ」

 思ってもみなかった言葉に私は呆気に取られてすぐには反応ができなかった。

「よ、よろしいのですか……?」

「案自体は悪くない。すぐには効果は出ないだろうが、長期的に考えれば医療に安定して掛かれるというのは孤児だけでなく領としても大きな利を生み出すだろう」

 ユリウスに微笑まれ、どうしようもなく嬉しさが込み上げた。

「ただやはり俺には馴染みがない制度だ。すまないが君が先頭になって進めていってほしい」

「もちろんです! ありがとうございます」

 まるで前世で初めて契約を取った時のような、上司に初めて褒められた時のような、そんな心地がした。

 

 それから数ヶ月、ユリウスたちと保険制度の詳細を詰めていった。まずは死亡保険と医療保険を軸として契約書を作成した。資金はユリウス辺境伯自身の資産から出資されたのに加えて、孤児院を有する教会から寄付を募り、またユリウスの伝手から信頼できる豪商数人に資金の運用を頼む手筈も整った。豪商たちはこちらがしようとしていることの理解はあまりできていなかったが、滞りなくお金が支払われ、また利益を生み出して返すことのみに重きを置いて了承してくれた。

 そしてついに後は領民を契約させるだけとなった。

 まずは誰から契約させるか、いろいろ考えた結果、最初は危険が伴うことの多い騎士たちに頼むこととなった。

 騎士隊はその職業の危険性から、平均的な給与の平民よりも少しだけ裕福な位置にいる。保険という、必要だけれど家計には負担の掛かるものにも手が出しやすい存在だった。

 隊長であるユリウスも上に立つものとして騎士隊の家族のことを心配しており、保険制度について話す場を設けてくれた。

 訓練場の広場に騎士たちが集まる。朝の訓練が始まる前の、いつもの号令を待つ緊張した雰囲気の中、普段現れない私が騎士たちの目前に立つ。騎士たちは隊列を乱さないようにしながらも、動揺しているのが見て取れた。

「皆様、朝の訓練前のお時間を頂き感謝申し上げます。これから説明することは皆様の暮らしにとても重要なことです。まずは保険制度について説明致します」

 私は前世でのプレゼンの時を思い出しながら、騎士たちに保険制度について説明した。彼らは突然の出来事のはずなのに静かに話を聞いてくれた。

「……以上が保険制度の概要です。何故この話をしたかと言いますと、皆様は立場上、危険に身を晒すことが多いでしょう。そしてもしものことがあれば遺された家族が心配かと思います。その憂いを少しでも減らす手助けができればと、この保険制度を提案しました」

 騎士たちが顔を見合わせてまだよく理解していないのが見て取れる。

「もちろん、加入は強制ではありません。ですが、今後の生活の備えとして、ぜひ入って頂ければと思います」

 まるで選挙の街頭演説でもしているかのような気分だった。マイクの無い世界で、保険のことを何一つ知らない人達に精一杯の声で訴えかける。言い終わってもまだ皆一様に戸惑いを見せている。私も手応えがなく冷や汗が出そうだった。一番後ろでユリウスとカインが見守ってくれていることだけが支えだった。

「一つ、よろしいですか?」

 私から見て前から3列目あたりの右側から、まっすぐと手が伸びた。

「はい、どうぞ」

 顔までは見えていなかったけれど、私の返事とともにその彼は前へと進み出た。ウェーブの掛かった茶髪と面長でニヒルな顔つきの平均的な身長の騎士だった。

「奥様、あなたは我々に死ねと仰っているのですか?」

 彼はいたずらでも仕掛けるように意地悪な笑みを浮かべていた。

「そんな、どうしてそうなるのですか?」

 私は心底驚いて、思ったままを口に出していた。

「つまりは死んだら報奨金を出す、ということではありませんか? 生活を手助けして頂くのなら生きている間に出して頂かないと」

 ニヤニヤと笑うその騎士は、私が領主の妻であるにも関わらず、明らかにこちらを下に見た態度を取っていた。近くにいる騎士たちも釣られてヘラヘラと笑い出した。

 怒りが込み上げてすぐにでも言い返そうと思ったが、ふと、目線を奥にやるとユリウスが目付き鋭くこちらを睨んでいた。カインも苦笑しており、この場が間違った雰囲気になっているのがわかった。それを見て私は奮い立った。私の説明は間違ってない。味方が居てくれるとわかると冷静を保ち直せた。保険の営業で幾度もこんな反対意見を受けていたのだ。落ち着けば言い返せる。

「そういうことではありません」

 私はしっかりと目を見て言い返した。

「これは報奨金ではありません。言うなれば貯金です。毎月、例えば1万円ずつ支払い、いざという時にそこから引き出すのです。そして不足分を皆で補い合う。それが保険です」

 私の堂々とした態度に気圧されたのか。彼は少し顔を歪めた。

「貯金ならば自分ですれば済む話です。わざわざ契約などしなくとも賄えます」

「はい。充分にお金がある方ならそれでも良いと思います。しかし、あなたは明日、自分がどうなるか知っていますか?」

 不意の問い掛けに彼は怪訝な顔をした。

「何ですか。不敬で私を飛ばすのですか」

 不敬の自覚があることに私は内心笑ってしまったが、それは出さずに極めて冷静を装った。

「そうではありません。あなたはいつ、自分が死ぬかわかりますか?」

 問い掛けの意味がわかったのか彼は何度か頷いた。私は反論の隙を与えずに畳み掛けた。

「誰しも、自分がいつ亡くなるかわかりません。災害や事故で亡くなる方を耳にしても、次のゴブリン退治での危険性を忠告されても、皆様は明日も同じように生きていると思うでしょう。しかし、現実はそうではありません」

 私の抑揚を付けた言い方に、数人の騎士が息を飲むのがわかった。

「先日も街道を襲ったゴブリンのせいで死者が出ました。遺された家族は生活に困窮しています。その方の子どもは東門で盗みを働いています。その方はこの事がわかっていたでしょうか? わかっていてその貯金が間に合ったでしょうか?」

 私は問い掛けとも、話の途中とも思えるような形で言葉を切った。目の前の彼は周りの空気が変わったことを感じているようだった。

「ですが、それならやはり奥様や領主様が面倒を見てくれたら良いではないですか。我々が命を懸けて街を守った暁に、我々の妻たちを、子どもたちをどうかお守りください!」

 彼は場の空気を振り払うように大げさに芝居じみた声を出す。私も負けじと表情を崩さず見つめ続ける。

「もちろん、あなたやここにいる皆様はそれで良いでしょう。私としても助けたいと思います。しかし、他の領民は? この先生まれてくる次の世代は? その都度助けるには我々でも手が足りません」

 私もつい身振り手振りが大げさになった。しかし、そのおかげか騎士たちもよく注目してくれている。

「そこで、領民がお互いに助け合うのです! その時の領主が信用できるとも限りません。もしかしたら領民を蔑ろにするかもしれません! それを防ぐために、基金を設立して領民が主体で管理するのです。自分たちで、自分たちの生活を守るのです!」

 私が言い切るとしばらくの間辺りが静まり返った。彼もなんと言い返そうか迷っているようだった。

「それは――」

 彼が言い掛けたその時、遠くから拍手が起こった。見るとカインだった。続いてユリウスが大きく音を立てて拍手をする。するとバラバラとあちこちから拍手が沸き起こった。目の前の彼はもうそれ以上何も言えなくなっていた。

「皆、アイリアの話を聞いてくれてありがとう。そろそろ訓練の時間だ」

 ユリウスがよく通る声で呼び掛けると、騎士たちの姿勢が一気に正された。

「皆様お時間頂きありがとうございました。ぜひとも検討をお願い致します」

 私は慌てて一礼し、訓練場を後にした。

 扉を通り過ぎると一気に力が抜けた。その場に倒れ込んでしまいそうな疲労感だ。

「お疲れ様です」

 後ろからカインがやってきた。

「ありがとうございます」

 2人で並んで居住棟へ向かう。

「お見事でした」

 歩きながらカインが労いの言葉を掛けてくれる。社交辞令とわかりながらも今はその言葉が嬉しい。

「上手くできたでしょうか」

 尋ねながら、まるで緊張を思い出したかのように手が震えてくる。

「もちろんです。突然の無礼をあなたは立派にあしらいました」

 カインは迷いなく言い切ってくれた。

「本当に彼が申し訳ありません。騎士としては有能なのですが、些か性格に難がある男なのです」

 臆面もなく言うカインに思わず吹き出してしまった。何か不興を買ったり失態を犯したんじゃないかと心配していたが、違うと知って安堵の笑いが出る。

「彼はニコラウス・フォン・プルトーニュ卿。子爵家のご令息です。何かとユリウス様をライバル視しておりまして、今回のこともアイリア様を使って恥をかかせようと思ったのでしょう」

 カインは呆れたように溜息を吐く。ニコラウスのあの下に見た態度に納得がいく。一塊の男爵家の令嬢出と知って、発言もしやすかったのだろう。

「しかし、それもあなたが返り討ちにして頂きました。とても喜ばしいことです」

 カインの喜びようを見ると、余程日頃から性格の悪いことを言っているのだろうと想像が付いた。

「さて、ようやく保険制度が始まりますね」

 居住棟の扉の前で立ち止まる。

「契約は来るでしょうか……」

 途端に、先ほどの演説が思い出される。ニコラウス以外にも、顔を見合わせて戸惑っている人は何人か見えた。皆必要性をわかってくれだろうか……。

「来ますよ。あなたの演説は素晴らしかった。自信を持ってください」

 掛け値なく手放しにカインは褒めてくれた。思わず開けられた扉を通ることも忘れるほど、その言葉に赤面してしまった。

 後日、その言葉の通り、騎士の8割程度が保険の契約にやってきた。契約の完了手続きに時間を取られながらも、人々の心に響いたことの実感が湧いた。

 ようやく保険制度が始まったのだ。

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