第九話 やってきた手紙
エスベリアでは雨は滅多に降らない。ちょうど今は雨季に当たるからいつもよりは降るのだが、それでも髪が濡れるほど降られることはない。マナイスでは雨季は激しいスコールが連日のようにあった、それに比べればごくささやかなものだ。
その珍しい雨の中、郵便配達人が門扉の郵便受けに手紙を入れた音が聞こえた。
私は町教会へ寄贈する予定の祭壇画制作に一区切りがついて、ちょうどキッチンへ昼食を探しにやってきたところだった。かすかな、鉄の郵便受けの底を打つ音を耳にして、もしかするとと期待を膨らませて玄関へ向かう。
すでに郵便配達人は去ったあとだった。門扉の郵便受けを開けると、少し分厚い白い封筒が入っていた。私はすぐに差出人を確認する。
クオークランド、ブレイズ・ペリヤ。その単語を見た瞬間、私の心臓の鼓動は跳ね上がったように強く脈打った。待ち望んだ手紙の返事がやっと来たのだ、嬉しさと期待とほんの少しの羞恥心や後悔が入り混じる。純粋に喜べない気持ちに混じった後ろめたいものを私は直視できず、ただ黙って感情を押し殺し、ペーパーナイフを引き出しから持ってきてリビングのソファへ座る。
封の隙間からペーパーナイフの先端を差し入れて、慎重に開けていく。紙が破れていく音を聞き分け、中身を傷つけていないかを判断しながらペーパーナイフに力を込める。息をするのを忘れてしまうほど集中して、やっと封筒は開いた。私は大きく息を吸って、それから吐いた。そっとペーパーナイフをテーブルへ置き、封筒の中身を取り出す。
テーブルに現れたのは、複数枚の便箋、そして白の半透明のグラシン紙と厚手の上質紙に挟まれた一枚の写真。私はまず写真を見てみることにした。
グラシン紙をめくると、すっかりセピア色に色褪せた写真——どこかの高級ホテルのラウンジだろうか、手前には一人の美しい少女が、奥には一人の青年がそれぞれテーブルに向けて一人がけのソファに座っていた。撮影者へ少女は無表情に、青年は困ったような顔を投げかけている。
私は一目見て、その青年があのクライアント、ブレイズ・ペリヤの若いころだと分かった。年を重ねても面立ち自体はほとんど変わらないし、その身にまとう高級感あるスーツも気品ある雰囲気も軽々に余人が身につけられるものではない。なるほど、手前にいる陶人形のような少女とは少し年が離れているが、お似合いのカップルだ。
ただ、少女の目は冷たい宝石のように、秘める思いというものを感じられなかった。本当に彼女は人間なのだろうか、そう思えるほどに形は美しく、喪服かと見紛うような黒のワンピースは異様に彼女を飾り立てていた。もし目の前にいたとして、私は彼女を人間の少女と認識できるだろうか。その自信はない、そう思えた。少女の前にあるテーブルに彼女の分のティーカップがなければ、本当に人形か何かだと思ってしまっていたに違いない。
写真を裏返してみると、案の定と言うべきか、撮影日時と場所が記されていた。
今から二十八年前の四月二十日、クオークランドの首都テルリアスにあるホテル・ベルティンで、彼らはこの写真を撮影した。ホテル・ベルティンといえば世界的に展開する老舗高級ホテルグループの五つ星ホテルで、私も名前は聞いたことがある。もはや嫌味にも感じないほど、ブレイズ・ペリヤは上流階級の人間のようだ。私には到底理解しようのない別世界に生きているとしか思えない。
しかし、ブレイズ・ペリヤはそんなことを証明するために写真を送ってきたわけではないだろう。この写真に、私の問いに対する答えがあるはずだ。天使を描くために私を選んだ理由、そして『マナイスの天使』というキーワードが関わっているかどうか。その二点の答えがここにある。
もしや、写真に映る彼女のために絵を依頼したのだろうか。そう考えて、私は首を傾げる。こんな少女と私は何ら関係もないし、『マナイスの天使』というキーワードとも関わりがあるようには思えない。確かに少女は美しいが、天使と形容するにはいささか無機質な印象を受ける。温かみがあり、神秘的で、白の衣をまとった羽を持つ中性的な人間を天使と呼ぶのなら、少女はまさに人形だ。神の手で作られたかのような完璧な造形と比率の美しさに、機械を見たときに感じるような鋼の冷たさ、それらは混在して写真の中に存在していて、私が生まれる前にこの世にそれほどの美しさを備えた少女がいたことを証明していた。
美しさというものは、一種類ではない。内包する意味があまりにも広範で、個人差の激しい形容詞だ。だから枕詞や接続する単語が重要になってくる言葉なのだが、それでも正確に表せるとは限らない。おそらく、古今東西生み出されてきた美しさというものは、誰一人、過不足なく意味するところを言葉で表せたことがないだろう。それでも美しさという言葉は使われてきた。そう表現するほかないものが、目の前にあったからだ。
だから、きっとこの写真の少女も、大変に美しいにもかかわらず、誰も少女の美しさを客観的に適切に表せなかっただろうと私は思った。美人でも美女でもなく、人間よりも天使よりも、ましてや幻想的でもなく、彼女は美しくそこにある。宝石のような目で、こちらを見ている。無表情ながらも何かを言わんとする顔で、でも何を言おうとしているのかは読み取れない。気難しい性格だったかもしれない、あまり笑わなかったのだろうか、それともブレイズ・ペリヤの前では感情を露わにしていたのだろうか。どんな関係で、彼らの過去には何があって、写真の時代から未来である現在はどうなっているのか。
私は、俄然彼らに興味が湧いてきた。今までのことなどすっかり忘れて、彼らを知りたいと思った。今この熱を冷まさないうちに、手紙を読まなくてはならない。
写真をテーブルに置き、私は便箋を手に取った。内側の一枚から読んでいく。
『……先日は報酬代わりにと無礼にも小切手を送りつけてしまったことを謝罪したいと思っている。君がそこまで私の依頼へ熱意を持って取り組んでいてくれたとは思ってもおらず、ただ弁解させてもらえるならば、私は君に期待していたのだ。君ならば、マナイスの出であり稀代の芸術家である君ならば、私が出会った彼女を天使として描いてくれるのではないかと、勝手に期待した。それは間違いで、少なくとも私の過剰すぎる期待が先日の依頼を失敗させたことは間違いないだろう。君には大変、失礼なことをしてしまったと思っている……』
つらつらと書かれている端正な文字は、私への謝罪で始まっていて、私は随分と拍子抜けさせられた。もっと向こうの言い分をぶつけられるかと思っていたのだ。依頼の失敗や私の能力不足をあげつらうことはなくても、私への期待が肩透かしを食らった怒りが文章から滲み出るだろうと思っていた。
しかし、ブレイズ・ペリヤはそんなことは一切しなかった。それどころか、自分の非を認めていて——それは逆に私にとっては肩身が狭く感じられるほどに自虐的だったが——私はそれに納得せざるをえない。これで許さなければ、私の心があまりにも狭量すぎるように取られてしまう。私はそんな無様な人間にはなりたくなかった。
ならば、私はやはり描かなければならないのだ。ブレイズ・ペリヤが描いて欲しかったものを、白いキャンバスに写し出さなくてはならない。そしてそれは、この手紙の一文のとおり、写真の彼女を天使として描いて欲しかったという依頼なのだとすれば。
——いや、それはおかしくないか?
私の頭に、疑問が浮かぶ。