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第七話 画廊に逃げ込む

 朝日差すリビングのテーブルの上には、発光しているかのように黄色の鮮やかなレモンが山盛りになった葦の編みかごが二つあった。私は一つ手に取ってみたが、はちきれんばかりの皮に触れるだけで爽やかな香りが手にこびりつく。自己主張の激しい果実だ、おまけに枝には棘があって手に刺さりそうになった。


 この大量のレモンは、べニートが持ってきたものだ。当のベニートはご機嫌に流行歌の鼻歌を鳴らしながら、キッチンでレモンの皮を剥いている。私の家でやるなと言ったのだが、ベニートの住むピソにはレモンを漬け込むガラスの大瓶をいくつも置く場所がないから、と押し切られた。朝からレモンだけでなく蒸留酒や砂糖まで持ち込まれて、キッチン周りはそれらで溢れ返っている。数時間もしないうちに、きっとシンクの下の棚はレモンの皮だらけのガラスの大瓶で埋まるだろう。


 エスベリアノヴァの住民たちは、街路樹のレモンが実るこの時期になると一年分のレモンリキュールを作る。各家庭それぞれに作り方があって、漬け込むのに使う酒の種類さえも違う。ただレモンの皮を大量に使うことは同じだから、ほとんどの家庭は市役所から無料で配られるレモンを抱えきれないほど持ち帰る。そういう文化があって、それに沿った人々の動きがあって、今私の家にはべニートが押しかけてきている。


 それにしたって、朝から蒸留酒のアルコールの匂いが家に充満していた。だんだん私は耐えきれなくなり、家の鍵と財布を手に立ち上がった。キッチンへ少し張り上げた声を向ける。


「べニート、ちょっと出かけてくる。留守番、頼んだ」


 べニートの鼻歌が止んだ。べニートはひょいとキッチンから顔を出す。


「いいぞ。どこに行くんだ?」

「アルタミラーノの画廊。絵が欲しくなった」

「は? 自分で描けばいいだろ?」

「違う、見本が欲しいんだ」


 私はそう言い捨てた。


 本当はただ家を出たかっただけなのに、そんな言い訳をしてしまったことを後悔しながら、外へ出る。門扉の郵便受けには何も入っていなかった。毎日確認する癖がついてしまったことに、不思議と嫌気は差さなかった。たとえ侮辱同然のことをされた相手からでも、海の向こうの国からどんな返答が来るか、私は楽しみにしているのだろうか。だとしても、時間が少し経てば、私の心だって落ち着く。エスベリアからクオークランドまでの距離が大海を隔てるほどに、大陸が違うほどに離れていることが幸いした。その時間が今か今かと待ち侘びる時ではなく、私の心の冷却期間となったことは、喜ばしい。


 照りつける太陽の光は、石畳に白く反射している。その中に、わずかに金色に輝く微細な粒子が含まれているように、私は感じた。朝日はまれにそういうことがある。科学的に説明すれば空気中に含まれる水分だとかで明らかにされてしまうことだろうが、その光景に立ち会った昔の人々はきっと神秘的な存在を信じる動機になったに違いない。それは馬鹿にしたものではなくて、私だって現代の画家でなければそう思い込んでいたかもしれなかった。


 もし、光を神格化した古の人々の情緒豊かな感性を私が持っていたら、もっと追い求める光に近づくことができるのだろうか。そのためには、私はあまりにも現代人としてその感性が薄汚れすぎた気もする。決して鈍くはないだろうが、科学的な視点というものを知ってしまった現代人の私の想像力は、説明される範囲と説明できない範囲のうち、どうしても説明される範囲を逸脱しきれないに違いない。意識して想像力に翼を与えようとしても、飛び立たせるころにはほぼ絵が完成している。


 ただ、ほんの少しでも私の想像力が、人の口では説明できない範囲に到達しているだろうと、そう思えないこともなく——きっとその部分は他の誰にも真似できないところなのだと、私は密かに自信を持っていた。あの依頼のせいでプライドをひどく傷つけられてもなお、そこは揺るがない。


 それが大切にすべきところなのか、壊れたプライドとともに修復すべきところなのかは、未だに私は分からない。


 私は頭を振って、歩き出した。日が高くなる前に、アルタミラーノの画廊へ辿り着こう。


 エスベリアノヴァの朝は比較的穏やかで、滅多に車のクラクションが鳴ることもなければ、喧騒もない。各々が人生を謳歌して、毎日を楽しんでいる。朝から仕事に行きたくなければ平気で時間をずらしたり休んだりするし、昼が暑ければさっさと昼寝に入る。夜は酒盛りをするために早めに帰るし、真夜中は酔っ払いも家へ帰って静かだ。数百年の平和によって、エスベリアノヴァに住む人々のサイクルはさほど変わらずに、緩やかな時間の中を生きている。


 それが羨ましくもあり、私には真似できない。やはり私はエスベリアでは外国人という異分子なのだろう、とどこか冷たい気持ちにもなる。もちろん、彼らは私を迎え入れてくれているのだ。私が勝手にそう思っているにすぎない。いつか、私はエスベリア人のようになれるのだろうかと期待してみて、やはり落ち込む。


 私はマナイス人だ。世界最大の企業国家マナイスに生まれ、金によってすべてが統制された社会が崩壊していくさまを目の当たりにして育ち、家族も過去も捨てて外国へ逃げ、なのに血と育ちは隠せない。


 私はきっと、いつかマナイスに戻るだろう。そんな予感がしていた。嫌だと言っても、そうなってしまう未来の幻想が頭の片隅から離れない。あの秩序が瓦礫のようになった国で、私は何のために帰るというのか。画家である私に何ができるというのか。その答えはまだ、出ていない。出ないうちは帰らずに済むのなら、そんなふうにさえ思う。私の追い求める光が手に入るまで、二度と日の昇らない故郷に帰るわけにはいかないのだ。


 夏の肌に刺すような日光の気配がしている。にもかかわらず、私の体は心底冷たかった。早く、アルタミラーノでもいいから、誰かと会話をして自分が血の通った生きている人間なのだと確認したかった。駆け足で目抜き通りを目指し、息切れしながらもようやくアルタミラーノの画廊の扉に手を触れた。


 私は茶色の木の扉を開く。エアコンの冷気が外へと流れ出ていった。まもなくベルが鳴って、すぐにアルタミラーノが奥から出てくる。私の姿を見るなり、アルタミラーノは驚いていた。


「どうした、ピエロ! お前が朝早くから来るなんて、珍しいな!」

「おはようございます。あの」


 肩で息をしながら、私はもつれかけた舌を回す。


「絵をください。一枚、見繕ってください」


 アルタミラーノは、面白いくらい目を丸くしていた。秘書を呼びつけて水を持ってこさせ、私に押し付ける。


 それは厚意なのか、それとも金のなる木を枯らせまいとしているのか、とにかく私は十分に冷えた水を喉に流し込む。切子のガラスコップを手放して、アルタミラーノの背中が画廊の奥へ入っていくのを見た。少し待っていると、アルタミラーノは秘書とともに、それぞれ大小のキャンバスを運んできた。二回ほど往復して、画廊のあちこちに立てかける。


 水彩の童話調の兎跳ぶ草原、油絵の幻想的なオーロラと夜空、リアリズムを追求した水色の海を泳ぐ熱帯魚たち、写実派の老婆が糸を紡ぐ様子や点で構成された子供が笑い合う様子。図形を組み合わせた原色のカラフルな現代アートまである。アルタミラーノの扱う作品の手広さとそれだけのものを集める手腕に、私は感心する。


 アルタミラーノからすれば、私は上客だろう。何のしがらみもなく、絵を転売することもなく、ただ眺めるために大枚を叩ける客。安心して売れるというものだ。


「この中でお前が欲しいものに近い絵はあるか? どれでもじっくり見て選んでいいぞ!」


 私は頷き、一つ一つ絵を眺めることにした。どうせアルタミラーノは喋りかけてくる。


 ようやく全身に温かい血が巡ってきたような気がした。私は誰にも見えず、誰にも話しかけられない幽霊のような存在ではないのだと実感できた。私はここにいる、たとえ異分子だったとしても、ちゃんとここにいると自他ともに認められた。


 そればかり考えていて、私はアルタミラーノの話を半分ほども聞いていなかった。

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