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第六話 そっとしておいて

 べニートと約束した町教会へ寄贈する祭壇画を手がけはじめて、二日ほど経ったある日のことだった。


 今ごろあのクライアント、クオークランドのブレイズ・ペリヤへ送った手紙は海を越えはじめただろうか、などと考えながら私が終わりかけの油絵の具のチューブを絞っていると、玄関口にある電話が鳴った。私は一旦手を止めようか、と思ったが、油絵の具で汚れきった手で受話器を持つことを躊躇い、無視することにした。重要な電話ならまたかけてくるだろう、私が今集中すべきは目の前の絵だ。聖母をキャンバスいっぱいに描くだけ、とはいえ手は抜かない。艶かしく光煌めくショールと透けるようなローブの中に、微笑みをたたえる黒髪の若い女性。前の祭壇画を踏襲してもよかったが、とっくに私が描く絵のイメージは固まっていた。


 しかし、こうも思った。ただそれだけの絵に、人々は何を目に映して信仰を深めるのだろう、と。


 以前の祭壇画もただ聖母が描かれているだけだったが、人々は何十年もの間それを見て頭を垂れ、祈りを捧げてきた。だが、信仰心のいまいち薄い画家の私からすれば、もう少し飾り気があってもいいと思うのだ。エスベリアノヴァの大教会にあるような大規模なステンドグラスほどにしろというわけではない、せめてそう、天使くらい配しておいたほうがいいのではないだろうか。


 この世にあり得ない羽の生えた人間を見て、人々はそのようなものがいるのだ、と信じる。その教えの中にはそのような美しい幻があり、目には見えなくても存在して神の使いをするのだ、と考える。それだけ視覚的に効果があるオブジェクトだ、利用しない手はない。有用性を知っている先人たちはこぞって祭壇画に描いてきた。私もそれに倣うべきかもしれないが——。


「人は空を飛べない、か」


 私の中の常識が、未だ忌々しいあの依頼が、天使を描くことをやめさせた。代わりに聖母の頭へ光輪をかけるとして、さてそうなれば光源の計算をし直さなければならない。私がペインティングナイフを手に取ったそのとき、玄関のブザーが鳴った。


 誰かは知らないが、訪ねてこられては出ないわけにはいかない。私は持ったばかりのペインティングナイフをテーブルに置いて、大声で「今行きます」と叫んだ。油で手についた絵の具をさっと落とし、布巾に手を突っ込む。目立った汚れがなくなったところで、急いで玄関へ向かう。


 門扉を開けると、一人の小柄な老人がいた。ラフな服装ながら、着ている青い帆布製の頑丈そうなエプロンのポケットからスコップや園芸鋏の持ち手が見えている。じっくり焦げた肌に深いしわが、この老人が屋外の作業に長年従事してきたことをよく示していた。


 庭師の老人ガラルサ。彼はおっとりと笑った。


「こんにちは、ラペルトリさん。庭木の簡単な手入れに来ましたよ」

「ああ、ガラルサさん。ありがとう、そろそろ頼もうと思っていたところでした」


 私は愛想笑いを浮かべて、ガラルサを家へと招き入れた。


 月に一度、自宅のパティオと外壁の花壇の草花を整えてもらうため、私はこの老人へ金を払っていた。とはいえ大した出費でもなく、それが逆にわざわざ呼びつけているのに申し訳ないと思いつつ、自分で自宅の庭木も整えられない私は楽をさせてもらっていた。


 ガラルサは温厚な人で、実に穏やかに仕事をこなす。絢爛豪華な美しい庭よりも、素朴で日常に溶け込む庭を作ってくれるため、他人よりは鋭敏な私の感覚を落ち着かせるのにちょうどいい。私は彼の仕事に全幅の信頼を置いていた。彼はこともなげに仕事を終えて、言葉を飾らず多弁することもなく帰っていく。そこもまた、他人と付き合いづらい私にとっては楽で仕方がなく、赤の他人よりは気を許せる人間だった。


 ガラルサはパティオの大きな植木鉢の前に陣取って、床の石畳の上に園芸鋏を取り出す。私に背を向けたまま、会話を始めた。


「最近はどうです? ラペルトリさんの絵はあちこちで引き合いがあると聞きましたが」

「そうですね、順調といえば順調です」

「それはよかった。そうだ、外の花壇の花をあとで切り揃えておきます。伸びてきているんでね、見栄えがよくない」

「じゃあ、それもお願いします。暑いので無理はしないでください、お茶くらいは出しますので」

「おやおや、ご心配はいりません。どれ、本腰入れてやりますか」


 膝を突いて、ガラルサは植木鉢から伸びた長い葉っぱを取り除いていく。その背中は案外小さいが、頼りなさとは縁遠い。彼の歩んできた人生という道は怯懦や怠惰から離れたものだったのだろう。そう思わせられる。


 その背中を見ていると、私はついこんなことを口走ってしまった。


「あの、ガラルサさん。つかぬことをお伺いしますが」

「何です?」

「ガラルサさんは、大戦のころ、どうなさっていたかお聞きしても?」


 私の問いに、ガラルサは少し首をひねっていた。


 大戦が終わったおよそ三十年前、ガラルサは何をしていたのだろう。エスベリアは大戦で上手く立ち回って、勝利国にも敗北国にもならなかった。大戦の前と後でほとんど何も変わらず、ただ今の今まで続く平穏な日々を過ごせたと聞いている。彼もその平穏を享受できた人間なのだろうか、しかし何となくそうではないような気がする。それとも彼は私が思う以上に苦労を重ねてきたのかもしれないが、そうだとしても彼の人生という物語はおそらく興味深いものだろう、と私は直感的に捉えていた。


 私のその直感は捨てたものではない、ということが、すぐに判明する。ガラルサが訥々と、自らのことを語りはじめた。


「うーん……若いころ、といっても大戦が終わったころは私は三十と少しくらいで、実は傭兵をやっていましてね」


 傭兵、という単語を私が咀嚼して理解するまで、時間がかかった。滅多に聞かない言葉であるし、そもそも私は言葉として傭兵というものを知っていても実物とは何ら関わりがない。金で雇われて兵士となる人々、くらいしか知らないのだ。


 とはいえ、その程度の理解でも問題ないように、ガラルサは語る。


「そのころ、私はとある小国に行って、反政府組織を相手に戦っていた。まあ、それは暫定政権がそう言っただけで、現地の人々がどちらを正当な政府と認めていたかはまた違う話なんですがね。それに、その国は大戦のあとも内戦が続き、三大国のうち敗北したマナイスとシャイナーヴが手を引いたあともずっと戦いは収まらなかった」


 運命とはとても残酷で、世界中の小さな国たちは三十年前の大戦の大波に飲み込まれ、引きずり回されて、原型すら残らなかった国さえもある。クオークランド、マナイス、シャイナーヴの三大国のどこか一国につくだけならまだしも、どこの国を支持するかで国内世論が分断されて争い、内戦に陥った国もあると聞く。ガラルサの行った国は、そういうところだったのだろう。同じ国の同胞がいがみ合い、命を奪い合う。私には想像できない類の悲劇が、そこにあったに違いない。


「結局のところ、私は金のために戦っていただけで、その国のことなど微塵も考えなかったんです。エスベリアに帰ってきて、家業の庭師を継いでからしばらく経って、その小国がやっと平和になったと聞いて……私は何一つ貢献していなかった、それどころか混乱を広める手伝いをしてしまったんじゃないか、と思ってしまったほどです」


 ガラルサの声には、後悔の色があった。内戦はどこの勢力が勝っても、国と国民に治しようのない傷を負わせてしまう。時間が解決することもあるが、それには人生よりも長い時間が必要だ。そんなことに本来部外者である人間が関わってしまったとき——後悔しないことなどあるのだろうか。


 ガラルサは園芸鋏を取った。小気味よい音を立てて、パティオの植木が切り揃えられる。


 その音で、ガラルサは何かを誤魔化していた。


「戦争が云々と言えるほど、私は偉くはありませんからね。若いころは貧乏で、金がなくては生きていけないから他国に行って命の奪い合いで稼いでいた。ただそれだけなんです」


 それはガラルサの控えめな言い訳だったのかもしれない。誰もそれを責めたりはしないだろうに、ガラルサは若いころの行いを恥じているかのように、そう言った。


 私には、ガラルサの人生のことなど、何も分からないも同然だ。ガラルサの後悔も、傭兵の仕事も、小国の悲劇も、何一つ実感が湧かないことばかりだ。所詮大戦のあとに生まれた私には、これまでの人生に何ら交差するものがないのだと痛感する。彼の人生という物語を理解しようとすることは、私には荷が重いのだろうか。


 ガラルサの手が植木の葉を撫でた。都合よく切り揃えられた葉は、随分と見違えるように初々しくなった。空から降り注ぐ黄色がかった今日の太陽の光を反射して、緑が映える。植物に感情があるのであれば、無精の主人を恨みつつも、整えられた己の姿にきっと喜んでいるのだろうと私は思った。


 ガラルサが腰を上げる。


「ラペルトリさんは戦後の生まれでしょう」

「ええ、でも故郷が故郷なので」

「どちらのお生まれです?」

「マナイスです」


 その国名を聞いた途端、ガラルサは振り返った。その顔に浮かんでいるのは、気遣いでも何でもなく、聞いてしまって悪いことをした、というやはり後悔の色だ。


「ということは、肩身の狭い思いをされたでしょう」

「なるべく、言わないようにはしていました。誰が聞いているか分かりませんので」


 私はエスベリアに来てから、アルタミラーノやイサベル、ベニートくらいにしかマナイス出身であることを明かしていない。単純に人の耳目が気になるからだ。エスベリアの人々は比較的大戦に悪いイメージを持っていないが、よその国ではそうもいかなかった。私がマナイス人であることを知って露骨に避ける者もいれば、侮蔑の言葉を投げつける者もいた。世界を巻き込んだ大戦の敗戦国とその国の人間というのは、ただそれだけで恐ろしいほどの嘲笑と怨恨を受けなければならない立場にされるのだ。それ以来、私はマナイス出身であることを明かしてはならないのだと学び、遅まきながら素性を隠すことにした。画家として、エスベリアノヴァで暮らす人間として、必要な最小限の情報だけしか口にしないことで、自分を守ってきた。


 ガラルサに私がマナイスの出だと明かそうと思ったのは、話の流れだけではない。ガラルサならば、私をそんな理由で侮辱しない人間と信じられたからだ。ガラルサもまた複雑な過去を私に話したのだから、私もそれについては他人へ喋らないし、後悔しきりのガラルサを軽蔑することもない。


「ラペルトリさんを悪く言うわけではありませんが、マナイスはいろいろと評判が悪かったですから……まことしやかに、非人道的な人体実験をしているだとか、敵国の兵士を虐殺していただとか、そんなことどこの国もやっていただろうに」


 私は、ガラルサが何を知っているのか、瞬間的に興味が湧いた。


 ガラルサは、マナイスの悪かった評判、その何を知っているのだろう。私の故郷マナイスを、もう誰にも聞けない故郷についてのことを、私は聞けるのではないか。


 そしてあの言葉だ。あの依頼で私を失敗させた原因、決して普通の天使ではないだろう『マナイスの天使』についても、ガラルサは知っているのではないかと思った。悪しき評判のうちに入っているかどうかは分からない、それでも一縷の望みを託したかった。それだけ、私は飢えていた。


 震えそうな声を隠して、私はガラルサへ問う。


「私は大戦のころのことは故郷のことでさえろくに知らないんですが、ガラルサさんは『マナイスの天使』という言葉に聞き覚えはありませんか?」


 ガラルサは目を見開いた。眼をそんなにも大きく開けること、ガラルサが鳶色の目をしていることを私は初めて知った。


 ガラルサは、答えを待つ私へ、問い返した。


「どこでその言葉を?」


 今は尋常ではない状況なのだと、私は分かっていた。


 ガラルサは動揺している。あんなにも大きく見えた背中は小さく、岩のようにあった存在感は急激になりを潜め、きわめて険しい顔を作り出した。


「ラペルトリさん、それは早く忘れなさい。あなたのためだ」

「どういうことですか?」


 ガラルサは顔を背ける。この様子では、ご親切に説明してくれるとは思えない。


「外の花壇を整えてきます。お気遣いなく」


 明らかに逃げようとしているガラルサの肩を、私は掴む。力を込め、絵の具の残った手の甲が筋張る。


「ガラルサさん、どうしても知りたいんです。『マナイスの天使』を描かないと」

「あんなものを絵に残すというのか」


 ガラルサが声を荒げた。


「残してはいけないものなんですか?」


 私は引けなかった。たとえこの老人の顰蹙を買ったとしても、私は失敗を回復したいのだ。その思いが、あまりにも強すぎた。私が思っている以上に、私の心はあの依頼の失敗を認めていない。掴んだかすかなヒントのロープを絶対に手放すまいと、ガラルサの肩を掴む手と同様に、信じられないほど力強くなっている。


 だが、ガラルサには、その思いは届かなかった。


「もう彼らは生きてはいない。だから、そっとしておいてやってほしい」


 私の手は払われた。


 ガラルサは足早に去っていく。


 私は、しばらくの間、立ち尽くしていた。

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