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第五話 ペン先を走らせる

 そんなことはべニートには関係ない。私の傍に来て、べニートは迷惑そうな顔をしていた。


「何だ、いきなり大声出すなよ」


 べニートは封筒の裏を覗き込むが、これが何なのか、と訝しむ。


 分かるわけがない。


 あの天使の絵のクライアント、初老の紳士、ブレイズ・ペリヤ。彼が私の住所へ直接、名前も明らかにして手紙を送ってきた。


 そのことが、私の臓腑が見えない手に掴まれたかのように、キリキリと痛む。絞り上げられるようで、息もしづらくなってきた。だが、私は目と手を離せない。そこにある手紙は、私を責めるために出されたに違いない。そう思ってしまう。中身を確かめたわけでもない、だから私は封を切ろうと、震える手を動かそうとするが、それは叶わず手紙を落としてしまった。


 私はただしゃがむつもりだったのに、膝から崩れ落ちてしまった。指先を手紙へ近寄せる、しかし一向に距離が縮まらない。私の指は止まっていた。差し出したまま、手紙へは一寸たりとも近づいていない。


 私はたった一通の手紙から、呪いのように湧き出てきた絶望感に身を固められたようで、その喉から出そうとする声さえも、とても情けない、泣き出しそうな声色だった。


「何でここに手紙を送ってくるんだ、どうして」


 それからどのくらいだろう、私はただ座り込んだままだった。


 べニートはそんな私を無視して、やるべきことをやる。私を慰めることが今べニートのやるべきことではない、すみやかに動きはじめた。


 私をソファに放り投げると、べニートはキッチンへ入った。何やら戸棚を壊れそうなほど音を立てて開け閉めしている。鼓膜に響くからやめてくれ、そう言いたくても私は首さえ動かない。


 だが、その音が私の意識を少しだけ楽にした。手紙への意識の集中を削いでくれた。次に香ばしい匂いが立って、私をどん底の気持ちから誘い出しているかのようだった。


 べニートの声がはっきりと聞こえる。


「あー、姉ちゃん? 手ぇ貸してくれ。ピエリックの家に昼飯届けて、頼むよ。俺、ピエリックの面倒見てるから」


 つくづく、私はこの姉弟に迷惑をかけている。世話を焼かれ、その恩を返せていない。


 これだけ稼いで、好き勝手に求めるものを求めておいて、今更ながら罪悪感を覚える。私には一体何ができるのだろうと考えても、彼らの人生に私が寄与できることなどほんのわずかなのだと思い知らされる。そしてそのほんのわずかなことは、今できはしないのだ。


 何と私は無力なのだろう。今も昔も、故郷を出る前も出た後も、私にできることなど絵筆を握ることしかない。それでは誰も救えないのだと知っていても、私は光を求めた。善性の光を描こうとした。その先を求めて、まるで性悪な自分を浄めたいかのごとくに、絵へのめり込んだ。浮かれて悦に浸って、そしてできたこととは、何と寂しいのだろう。


 私は、今べニートが差し出してきた一杯のブラックコーヒーほども、誰かに手を差し伸べたことがない。


「ほら、コーヒー」

「あったのか」

「前に置いてった粉があった」


 いつの間に、と言う暇もなく、べニートに無理矢理ブラックコーヒーを飲まされた。言いたいことは分かる、落ち着けと強いている。だが、私はブラックコーヒーなど飲まないし、べニートはそれを分かってやっている。


 苦い黒の液体が入ったマグカップからようやく唇を離し、口に含んだ分を飲み込んで、私は一息ついた。


 もう、怖くない。震えは止まり、先ほどまでの混乱を客観視できるほどになっていた。


 私は一体、何をそこまで怖がっていたのだろう、と。


 クライアントであるブレイズ・ペリヤから責められることが、それほどまでに恐怖で、嫌なのか。いや、そんなことはない。私は彼の依頼については失敗したが、それはそれで終わったことだ。彼が言った、君は悪くないという言葉を、確かにこの耳で聞いた。


 では、私のこの湧き上がってきた絶望感は、どこから来たのか。

 私は、ようやく手紙を開けることができた。自分で立ち上がり、手紙を拾い、またソファに戻ってくる。べニートはそれをずっと目で追っていた。何かあれば手を差し伸べられるように、そう言いたげな目で見ていた。


 今度は指先で封を切って、私は中身を取り出せた。一枚の便箋、そして一枚の小切手。


 便箋を読む。こちらの言葉で書かれていた。私はそれを読んだあと、小切手を一瞥して、ため息を吐いた。


「聞かないのか」


 随分と図々しい問いだと、私は言ってしまったあとに悔いた。それを気にするべニートではない、私の前に立って腕を組んで、鼻息荒く答える。


「お前が俺に話したかったら話せ。そうじゃなきゃ聞かない」

「どうしてそんなことを言うんだ」

「お前が決めることだからだ。俺が決めることじゃない」


 べニートははっきりと、私へ選択権を与えた。


 今、私に何が起きたかを喋ろうと、喋るまいと、べニートが口を出すことではないということだ。それは巻き込まれたべニートには尋ねる権利があっただろうに、それを行使しないと言っている。


 その気遣いが、私の心には痛い。べニートは気安くて、身軽で、ずけずけと踏み込んでくるかのようで、きっちりと引かれた一線を踏み越えてくることはない。私とべニートは違う人間なのだと、分かり切っている。混同することはない、決して。


 だから私は、封筒から取り出した小切手をべニートに渡した。べニートは訳も分かっていないだろうが、受け取る。


「ベニート、これ、やる」

「何、何だこれ」

「小切手。いらない」


 べニートは小切手が必要な生活を送ったことなどないだろう。


 一瞬、それは何なのか、という顔をしていたが、やがて自分の知識のどこかにアクセスできたのだろう。小切手という言葉の意味を理解して、額面を見て、思いっきり吹き出した。


「こんな額受け取れるか、馬鹿!」

「いらないんだ! そのへんに破って捨てておいてくれ!」

「馬鹿! 金は大事だろ!」

「いらない!」


 べニートは二回も私を馬鹿と言った。私は言い返そうとしたが、その気力はなかった。口からその分の吐息が漏れ、俯く。


「失敗したんだ。クライアントの意に沿うような作品ができなかった、だから報酬は全部返した。なのに、半額でも受け取れと、小切手を送ってきた」


 それは何ともご丁寧な話だった。


 秘密にされていたはずの依頼人の名前も、これですっかり明らかにされてしまった。ブレイズ・ペリヤは私の労を重く受け止めて、報酬を支払いたいと言ってきたのだ。そんなことを私は求めていないにもかかわらず、彼の勝手なお節介でとんでもない額の記載された小切手を送りつけてきた。


 それはまるで、私を侮辱しているかのようだった。そして私は、そのことを認めたくなかった。私は金のために描いたのだから、自分が描きたいものを依頼にかこつけて描いたのだから、それを恥ずかしげもなく棚に上げて彼の気遣いを無駄にしようとしている。


 何もかもが許せない。私も、ブレイズ・ペリヤも、あの絵も、依頼に失敗した私を責め立てるかのように、私を追ってくる。とうに過去の話なのだと流そうとしても、いやまだ息のある話だ、とばかりに私へ掴みかかってくる。


 私は、自分自身が一番許せないのだ。失敗した自分も、敗北宣言をしてしまった自分も、ブレイズ・ペリヤの気遣いを受け入れられない自分も、あまりの狭量さに泣きそうになる。どうやって受け入れればいい、それを問いかけられる相手はいない。今の私にはどうすることもできない。


 べニートは言った。


「お前はそうされたことが許せないのか」

「そうだ。笑いたければ、笑え」

「どうしてだ。お前はプライドを傷つけられたんだろ。それで黙ってられるほど、俺たちは聖人じゃない」


 べニートは私を責めなかった。


 私の肩を力強く両手で押さえ、彫りの深い顔面を近づける。


「なあピエリック。お前はどうしたいんだ? 見返したいのか? それとも、忘れたいのか?」


 その言葉の真意は、どこまでも単純に、私の求めた善性に近い。


 ああそうか、と腑に落ちた。私は傷ついたのだ。


 プライドというものはあった、だがそれはへし折られた。それは私の傲慢さが育てたもので、歪んで醜悪なものだとばかり思っていた。しかし、べニートはそれすらも傷つけられてはならないものだと言った。


 それでいいのだろうか。私の心は、プライドは、きわめて醜い。それが分かるだけに、私はべニートの善性から出た言葉を信じきれない。彼は聖人ではないだろう、だが私よりもずっと人間らしく、善き行いを働いている。その彼と、私は違うのだ。


 それでもべニートは認めるだろう。何も変わらない、お前は傷つけられたプライドの報いを受けさせることもできる、そうしないことも選べるのだ、と。


 べニートに保証されても私の行いは善とはならないだろうが、それでも足掻きたかった。


「私はお前ほど誰かと争える人間じゃない」

「ああ、だろうな」

「失敗が嫌なんだ。取り返したい、でもどうすればいいのか分からない」


 ぱっとべニートは私から手を離す。ソファにすとんともたれかかった私の前で、べニートは首を傾げた。


「失敗、したんなら……そりゃ、もう一度描かせてくれって言うか? 今度は成功する自信はあるのか?」

「分からない。何が失敗だったのか、それさえも分からないんだ」


 なるほど、とべニートは偉そうに頷く。


 そして、私の持っていた手紙を指差した。


「住所は分かってるんなら、手紙で聞いてみたらどうだ?」


 私は一笑に付しそうになった。私を責めようともしないクライアントに、また失敗の理由を尋ねるというのか。何も事情を分かっていないべニートには、それができないのだと説得することは難しい。


 しかし、私はこうも思った。今更、私は手段を選べるほどの立場にいるのか。この醜くも存在する肥大化したプライドを正しく修復するためには、なりふりを構ってはいられないのではないか、と。


 であれば、話は早い。


 私はその行動を受け入れ、選ぶ。


「アルタミラーノには、知らせないほうがいいか」

「だな。仲介料を寄越せって言ってくるだろうしよ」


 私とべニートは顔を見合わせる。私は少しはましな顔をしていたのか、べニートが安堵した表情を見せていた。


「そうする。手紙を書く」

「そうか。そうしろ、今日じゃなくてもいい」

「いや、今日中に書く。今じゃないと、気持ちが揺らぐ」


 私は立ち上がって、文房具を納めた棚の引き出しを開けた。テーブルに一式を持ち出して、ソファに座り、万年筆を手に取る。


 はたと、何を書けばいいのだろう、と私は思った。あの絵の何がいけないのか、と問うのは前と同じでしかなく、手間をかけてでもこちらの望む回答を引き出さなくてはならない。あの絵を受け取らなかった理由、私に期待した理由、それらを聞き出すには、どうすればいいのか。


 文面に悩む私へ、べニートは茶々を入れる。


「大丈夫か? 俺が書いてやろうか?」

「べニート、いくら何でも過保護すぎだ。それにお前は壊滅的に字が下手くそだと自覚しろ」

「読めりゃいいじゃねぇか」


 べニートの書く文字には知性のかけらというものさえも感じられない。読めても読もうと思わない字だ。よくそんな字を書いていて自分が手紙を書くなどと言えるものだ、それもまた私を思ってのことだろうからそれ以上私は何も言わない。


 玄関のブザーが鳴った。イサベルが来たのだろう。べニートが門扉を開けに行く。


 私はブレイズ・ペリヤに関することを思い出そうとしていた。大戦の経験者、右足が動かない、クオークランド海運企業グループの会長で、私へ寄越したリクエストの『天使』、それはアルタミラーノによれば『マナイスの天使』ではないか——。


 こうなれば、不確定要素を潰してしまおう。分かり切っていることを聞いても仕方がない、私を選んだ理由を尋ね、そしてそれには『マナイスの天使』というキーワードが関わっているのではないか、と問いかける。故郷から遠く離れた今の私には到底調べようのないことだから、ブレイズ・ペリヤから辿っていくことは何らおかしなこととは思えなかった。


 大体、私の頭の中で文章がまとまってきた。私は万年筆を握る手に力を込めて、便箋にペン先を走らせはじめた。

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