第四話 思い出すだけでも
夜半も過ぎ、パティオの石畳の上で、酒瓶を抱えたべニートがひっくり返っていびきをかいて寝ている。
ベッドに連れていこうとしたが、べニートは起きない上に運べないほど重くて、私は断念した。せめてタオルケットを持ってきて、覆うようにかけておく。エスベリアノヴァは夜も暖かい、野外で寝ていても風邪を引くことはないだろう。
私は二階の寝室へ向かい、ベッドメイクを一通り行って、天井の電灯を消す。ベッドに潜り込むと、窓辺からの月明かりが部屋の中を照らしていた。今日は一際、月が大きく感じられるほど、明るい。青く仄暗い月光は、今日は化粧直しをしたかのように、緑がかった柔らかな光を放っていた。
そういえば、あのときもこんな月夜だった。電灯が必要ないほど明るい月夜で、夜遅くにエスベリアノヴァへ到着したあのクライアントが私のアトリエにやってきたのだ。天使の絵の完成を聞いて、大至急プライベートジェット機を駆ってやってきたと言っていた。それほどまでに、あのクライアントは絵を待ち望んでいたのだろうかと思うと、今でも私は気が重くなる。
あのクライアントは、私のアトリエに来て、イーゼルに立てかけていた天使の絵を見て——しばらく立ち尽くしていた。何を考えているのか、当時私にはまったく分からなかったし、今も分からない。そうして、あのクライアントは賞賛を待ち望んでいた私へ、おもむろにこう言った。
「すまない、これではないんだ」
その一言がどれほど私を奈落の底のようなどす黒い感情の渦巻く谷へ突き飛ばしたのか、彼もまた想像できていないだろう。もしかすると、それを配慮して私へ怒鳴ったり貶したりしなかったのかもしれない。だが、私には、堪えた。自尊心が傷つけられ、屈辱に塗れ、頭に浮かぶ罵倒が的外れだときつく自戒して、そこに立っていた。
あのクライアントは、申し訳なさそうに、形のいい眉を下げていた。若い頃は相当ハンサムだっただろう、今でも老年の域に達するというのに女が持て囃しそうな顔立ちとスタイルだった。こんなことがなければ、未来に描くであろう絵画のモデルにしていたかもしれない。
しかし、そんな友好的な未来は訪れない。
あのクライアントはこう告げた。
「報酬は払う。だが、絵は受け取れない」
私はついに、尋ねてしまった。
「何が、悪かったんですか」
それは、私にとっては敗北宣言にも等しい。
私は負けたのだ。あのクライアントの要求以上のものを完成させることができず、受け取りを拒否されてしまった。
初めてのことだった。私はエスベリアノヴァに来て、最初の仕事を受けてそれからずっと、すべてをクライアントとアルタミラーノに満足してもらってきた。何も遮るもののない道を歩んできたようなものだ。かけがえのない天職に就き、自分にしか捉えられない光を描く技を磨いて、いくつものキャンバスを手がけ、送り出してきた。
すべてが上手く行っていたのだ。私はそのための対価を払った。二十歳にもならない若造が払えるものを、すべて放り捨ててきたのだ。エスベリアノヴァへの道すがらに日銭を稼いで絵筆を取り戻し、寝食を惜しんで最初の絵を完成させ、小さな画廊に持ち込んだ。それがたまたまアルタミラーノの目に留まり、必要な金も道具も用意してもらえることになって、そこから私は上昇気流に乗るかのように駆け上がってきた。軽い凧はどこまでも飛び上がり、このまま天の光さえも手に入れられるかのようだった。
この日、緑がかった柔らかな月光の差し込む夜、私は歩みを止めてしまった。
あのクライアントは、私の言わんとするところを察したのだろう。
あろうことか、私を気遣ったのだ。
「そうじゃないんだ。君は悪くない、私が勝手に期待をしただけだ」
そう、私はその期待に応えられなかった。
私は、無様にも失敗したのだ。
私の意識はまだ奥底にあり、呼び立てる声を緩やかに拒絶したいと願っていても、無理矢理にべニートの聞き慣れた声量ある叫びで現実へと引き戻された。
「ピエリック!」
どうやら、べニートは大声だけでなく、私の体を思いっきり揺すってもいた。起き抜けに頭を揺さぶられた私は、焦点のはっきりしない目をどうにかべニートのほうへ向ける。当のべニートはまったく悪気がないのだから、腹を立てるだけ無駄だ。
私はゆっくりと上体を起こして、ベッドから足を下ろした。べニートは見下ろして私を待っている。
「もう昼だ。いつまでも寝ていちゃ体が悪くなる」
「ああ……おはよう」
何か、悪い夢を見ていたようで、私の頭は鉄球のように重たい。布団を放り、ベッドから腰を上げた私は、姿見の鏡に自分が映っていることを確認した。
ひどい顔だった。青白さを通り越して、くすんだ濃い土気色の顔に、我ながら情けなささえ覚えてしまう。
「顔洗ってこい、カフェに飯食いに行こうぜ」
べニートはそう言いつつも、私を引っ張って洗面所まで連れていった。寝ぼけた頭のまま、私は用意された水を張った洗面器へ手を差し入れ、顔を洗う。太陽からの熱を持った水道管を通ってきた水はぬるくて、私の頭には何の刺激も与えない。
のろのろとフェイスタオルを棚から引っ張ってきて、顔を埋めた私へ、べニートはこう言った。
「姉ちゃんが言ってたんだが」
「何を?」
「過去はいつまでも足を引っ張ってくる。だが、それを振り払う手は自分だけ、その自分を支える手は他人だけだ」
なるほど、イサベルの言いそうなことだ。いつでも堂々とした女傑は、その真っ直ぐな考え方で自分を縛る。それでもなお前進し、至極マイペースなべニートまで巻き込んでいるのだから、生き方や生命力というものがとても力強いのだろう。ただ、私はその恩恵に与るというよりも、ベニートを通じて迷惑を被ることが多々あるのだが、イサベルもべニートもそれを伝えたところで自分を省みることなどないだろうから私は黙っている。
「落ち込むなよ。コーヒー飲んで目ぇ覚ましたら、いい考えも浮かぶ」
「そうだといいんだが」
「俺は昼の三時から仕事行くから、飯食ってそのへんぶらぶらしようぜ」
「真面目に仕事しろ」
「お前に言われたくねぇ」
画家の私に指摘されるほどなのだから、べニートの仕事への怠慢ぶりと時間のルーズさは相当なものだ。だが、ベニートは冗談として受け止め、笑っている。
それはそれでいいのだ。私は何も、ベニートを変えようなどと思っていない。ただの挨拶、私が体得した、性格がまるで違うベニートとの付き合い方の一つだ。お互いに会話を続けてもかまわないと思えるほどに仲がよくなった人間は、私の人生の中では片手で数えられるほどしかいない。だから、ベニートと会話するために、私は少し努力をした。初めこそ鬱陶しくも世話になった礼を返すためだったが、今では——今もあまり変わらないのかもしれない。
そうだ、切り替えよう。私はタオルを放り捨て、財布をズボンのポケットに差し込んで、昨日の服装のまま玄関へ向かう。私がこんなに怠惰に、どうでもよくなってしまったのは、きっとこのエスベリアノヴァとベニートのせいだ。そういうことにしておこう。
私は先頭切って歩くべニートについて、門扉に近づく。すると、門扉にくっついている郵便受けから手紙がはみ出ていた。それはべニートも気付いたようで、べニートは何の気なしに郵便受けのふたを開けた。
それは盛大に、中に入っていた新聞や封筒が地面に雪崩れ落ちた。幸い、門扉の向こうには飛んでいっておらず、私とべニートは慌ててしゃがみ、拾い集める。
「お前、何でこんなに手紙を溜め込むんだよ」
「悪い。拾ってくれ」
「ったく、しょうがねぇなぁ」
二人して紙の束を抱き抱え、しょうがなくまた家の中へ戻っていく。一旦この荷物を置いてこなければ、家の外へ出られそうにない。
リビングのテーブルの上に雑に並べ、べニートが新聞を分けはじめた。私は封筒を取って脇へよける。
私はその封筒の裏面の差出人名をいくつか見た。以前の依頼人である西の国の美術館もあれば、東のロワール共和国の高級ホテルからの手紙もある。何度か断った、絵のお披露目の式典への参加を求める手紙だろう。そんなところへ見せ物になりにいくなんてごめんだ、また断りの手紙を出さなくてはならない。そう思うとうんざりする。
そんな中、私は一通の手紙に目を留めた。差出人名は知らない名前だ。住所によれば差出人の国はクオークランドのようで、見知らぬ土地の見知らぬ通りの名が連なっている。
その差出人の名前に、私はどこかで聞いたような気がした。誰だか知らないはずだが、知っている気がする。
これもまた、故郷の名のように、忌々しい記憶とともに手がかりとなりそうな情報が、私の頭に浮かんでくる。
「あのクライアントの名前、何だったか」
手紙を手に、私は考え込む。昨日聞いたばかりだ、アルタミラーノが秘密にしていたはずの依頼人の名前を喋ったからだ。
確か——。
「そうだ、思い出した! ブレイズ・ペリヤ!」
ぴたりと、パズルがはまったような小さな達成感とともに、私の心には恐怖が沸き起こってきた。