第三話 酒が腐るくらい遠く
指示書を封筒に入れてもらい、私はアルタミラーノの画廊を出た。
アルタミラーノの画廊を出て、十分ほど歩いたころ、見慣れた我が家への家路となる通りに入ったところで、声をかけられた。
「ピエリック、何やってんだ? ちょうどいいや、今からお前の家に行こうと思ってたんだ」
私は声の主のほうへ向いた。案の定の人間が、そこにいた。ベニート・オンディヴィエラ。私が元々住んでいたピソの管理人の弟で、引っ越した今は私は通りを二つ挟んだ一軒家に住んでいるが、この男だけは腐れ縁とばかりにしょっちゅう世話を焼かせにくる。私のアトリエにさえ堂々と入ってくるのは、アルタミラーノの他にはベニートとその姉、ピソの管理人であるお節介なイサベルくらいだ。
浅黒い肌の青年ベニートが右手で持っている紙袋の中には、ちらりと酒瓶の頭が見える。それどころか、左手にも栓の空いたラム酒の瓶を掴んでいた。
「やめてくれ。その手の瓶、もう飲んでいるのか」
「味見しただけだよ、お前の分の瓶はこっちだ」
ベニートは紙袋を揺らした。酒に強いベニートと違って、私は人並みだ。グラスを傾けることはあっても、瓶でラッパ飲みするようなことは決してない。ましてや、往来で酒を飲むなど言語道断だった。
私は強く首を横に振る。
「今日は飲まないよ」
「じゃあアイスにかけろ。美味いぞ」
「分かった、それじゃあまた今度」
私はそのままベニートの横を通りすぎ、自宅へ向かう。
すぐにベニートは私を追いかけてきた。
「いや置いていくなよ。俺も行くぞ、行くからな」
特に私は承諾するとも断るとも言わず、辿り着いた家の門の鍵を開ける。ベニートが続けて入ってきて、慣れた手つきで鍵を閉めた。家の中に入ってからも、ずっと私に話しかけてくる。
「姉ちゃんに言われたんだよ。お前があんまり飯食わねぇから、作りに行けって」
「それは有り難いんだ、でもそれなら酒は飲むな」
「お前だって絵ができたら飲むだろ」
「じゃあベニート、仕事は? 終わったのか?」
「まあ、明日には誰かが終わらせてくれてるだろ」
もうベニートには何を言っても無駄だと私は思った。ベニートは大工だったはずだが、こんなにいい加減でも仕事が絶えることなく生きていける。それがエスベリアノヴァという場所の特徴でもあるのだから、余所者の私が文句を言う道理はなかった。
玄関からキッチンを通り抜け、パティオの縁の影が差す廊下を進む。吹き抜けの中庭の奥にはリビングと、奥庭に面した部屋にはアトリエがあった。
私はアトリエの入り口に立てかけていた、一番大きな杉の木枠を取った。大きいと言っても、私が両手を広げたよりも少し小さいくらいの幅だ。棚から潰れた紙箱入りのタックスと買い替えたばかりのトンカチを引っ張り出して、アトリエの作業机の上に並べる。
リビングのテーブルに紙袋の中身を出しながら、ベニートがアトリエまで聞こえる大声で喋る。
「今度は何描いたんだ?」
私も負けずに声を出さなくてはいけなかった。
「南の国の、ヤシの木と、昔の商人」
「そういうの好きなのか?」
「いや、頼まれたから」
「次描くのは?」
「北国の猟師」
「全然違うじゃねぇか」
ベニートは哄笑する。よく笑う男だ。くよくよしているところなんて見たこともないし、たまにぶつくさ言っているのは姉のイサベルに叱られたときくらいだ。
私が作業机に麻布を貼る道具を並べていると、ベニートがやってきてきょろきょろと何かを探していた。
ベニートは勝手気ままに、私のアトリエを徘徊する。
「そういやさ、こないだ描いてた天使の絵。まだあるんだろ? 突き返されたとかで」
私は手を止め、近くにいたベニートの肩を引っ掴みそうになった。だが、思ったよりもベニートは素早く動き、遠くにいたため、それは叶わなかった。
ベニートに話したことはある。あのクライアントが帰ったあと、私は独りアトリエに篭って、何日か絵筆も手に取らずにじっとしていた。酒に溺れようにも、そもそも我が家にはそう何本も備えておらず、外に買いに行くほどの気力もなければ欲しいとも思わなかった。それでもなけなしのワイン一本を片手に、アトリエの椅子に座り込んでいたら、ベニートがハンマー片手に門扉の鍵を壊してやってきた。死んでいないか確認に来た、と言っていた。ベニートは顔色の悪い私を見るなり、キッチンに入ってリゾットを作った。
私の前にリゾットを持ってきて、いつもよりは真面目にベニートはわけを話せと言った。それで私は、しょうがなく閉じこもっている理由を簡単に話した。クライアントに天使の絵を満足してもらえず、報酬を受け取らずに絵を返してもらった、たったそれだけのことを話すのに随分手間取った覚えがある。上手く話せないのは酒のせいなのか、それともやっと話せたのは酒のおかげなのか、それは分からない。
わけを聞いたベニートは、それ以上踏み込んでは来なかった。キッチンへ戻って、野菜スープを作りはじめた。あんなに人生を適当に生きている男なのに、家庭料理の魅力的な腕は姉譲りなのだ。昔、ベニートの両親は貧乏で共働きだったから姉の手伝いをしていた、と聞いた覚えがある。
しばらくベニートは私の家に通って、ときどき泊まって、家事をして酒盛りをしていた。その間仕事はどうしたと聞く気は起きず、私はベニートの厚意に甘えた。あれでも、私を気遣ってくれている。ベニートは決して無神経ではない、情に厚い男なのだ。
その男は、私の気も知らずに、壁に立てかけておいたキャンバスを包む布を取り払い、目的のものを見つけ出した。
「あったあった。これ、いくら?」
「買うのか?」
「安かったら」
ベニート、それはいくつも金塊を積まれて描いたものなんだ。
そう伝えることは、あまりにも忍びなくて、私は金のことは口に出せなかった。代わりに、他の理由を探す。
「いや、それはまだ完成していないから、駄目だ。描き直していて」
「そうなのか。じゃあ完成したら考えといてくれよ」
「お前が買う理由なんてないだろうに、必要なのか?」
私はベニートを蔑んでいるわけではない。ベニートが絵を必要とするなら、なるほど、天使の絵ではなくても何かを用意することはできる。しかし、そのベニートは絵を必要とする性分ではないし、ましてや絵画とは生活のどこかで必要に迫られるものでもない。だから純粋に気になったのだ。
すると、ベニートは両手のひらを上に、肩をすくめた。
「そこの教会、昨日、祭壇に飾ってたボロ絵が破れた」
「は?」
「いや、やったのは俺じゃねぇよ。近所の子供が騒いで破って、買い換える金があるわけねぇからどうしたもんかってあのアホ神父がだな」
私はベニートの言いたいことを察した。
この近くには、小さな町教会がある。近所の住民が通うような、ごく小さなものだ。エスベリアでは大して珍しくもなく、何百年も前に建てられた質素な建物と祭壇を、世話になっている住民の寄付で維持している。派遣されてくる若い神父はいくつも町教会を掛け持ちしていて、ベニートと同い年なせいかよくベニートがちょっかいを出している。
そんな状況だから、祭壇に飾る宗教画が破損すれば、修復することも買い換えることもできない。もちろん住民に寄付を募って用意することもできるが、裕福な人間の少ない地域だから無理を言うわけにもいかない。
ベニートはちょうど、私が天使の絵を描いていたことを思い出したのだろう。返してもらったあと、行くあてがないことも分かっていたから、いらないなら売ってもらえないかと思った、ただそれだけだ。他意はない。
「だから俺が出すんじゃなくて、いや俺もちょっとは出すけど、うん」
しどろもどろになったベニートを無視して、私は考える。政治と宗教には関わりたくない、アルタミラーノにもそう私は言っている。しかし、町教会の祭壇画一枚くらいは、と思う私もいるのだ。それに、これは商売ではなく、地域貢献なのだから、そういう言い訳も頭の中に立っている。
私は、いい人である自分を欲する。少なくとも、悪人やろくでなしと評されたくはないのだ。守銭奴呼ばわりされても本当のことだから許せるが、私に悪性があると思われることは耐えがたい。誰よりも真実に近い光を描こうとする私が悪であるなど、到底受け入れられないのだ。
私は、自分とべニートを納得させるためのロジックを組み立てて、提案した。
「それならそう言ってくれれば、新しく描くよ」
「だってお前、忙しそうじゃん」
「いつも描く絵より随分小さかったし、それくらいなら片手間でよければ。教会のことだからお代はいらないよ」
「マジか。お前、すげぇな。よっ、太っ腹!」
「その代わり、私が描いたということは黙っておいてくれ。アルタミラーノがうるさいから」
べニートはあっさり了承した。べニートもアルタミラーノの強欲さと強引さはよく知っている、私のアトリエに雑な性格のべニートを入れることをアルタミラーノがよく思っていないことも、知っていた。
こうして、匿名を条件に寄贈という形で、町教会へ私の新しい絵を贈ることにした。べニートはイサベルのお下がりの携帯端末で町教会の神父へメールで連絡を入れて、いたずらが上手く行った子供のように喜んでいる。
私は、そこまで素直にはなれない。もし私一人で絵を寄贈しようと思えたとしても、実行に移すことは難しいだろう。口下手だし、良好な人間関係を築く術を持っていない私には、匿名で祭壇画を寄贈するという器用な真似はできないに違いない。私のこの善意を、たとえ偽善であったとしてもその気持ちを現実のものとするには、べニートの手助けが必要だった。それがどうにも、私は座りの悪さを覚える。
つくづく、私は面倒な人間だ。光を描くという絵画にかける情熱こそ誰よりも強い自負はあるが、それだけだ。だからできるだけシンプルに生きようとしているのだが——上手く行っていない。
成人するまでの前半生の何もかもを捨てて、絵筆と金を頼りにしてきた今の私には、何が足りないのだろう。そこまでしてもあのクライアントの求めるものが描けなかった私は、未だプライドを修復しきれていない。
私は、嫌になってきた。わずらわしい一切合切を放り捨てる方法はないものか、真剣に考える。
とはいえ、そんな自暴自棄な考えも、べニートの調子っぱずれな鼻歌が止まったことでそちらに意識が向かう。がさごそと手を突っ込んだまま、べニートはまだ何か入っている紙袋を持ってきた。
「ピエリック、これもやる」
「酒瓶ならキッチンに置いて、後で片付ける」
「違ぇよ。何か昔の写真アルバムだよ、古市で買ってきた。めちゃくちゃ安かったから」
べニートは私の作業机の上に、紙袋から取り出した正方形の厚紙に挟まれた写真アルバムを置いた。私は写真アルバムの表紙から若干アルコール臭がしたので、ベニートを咎める。
「酒と一緒にアルバムを入れるな」
「固いこと言うなよ」
まるで反省しないべニートは、横から手を出してきて、写真アルバムの表紙をめくる。
そこには、月並みな言い方をすれば、驚くべき宝が眠っていた。
色褪せた茶褐色、モノトーンのセピアだけでなく、ボルドーに近い色合いの写真もある。それらは一様に、遠影の風景写真ばかりで、たまに人物が写っているものもあるが焦点はそこに当たらずほとんど顔が分からないくらいだ。状態は良好で、写真アルバム自体には多少汚れや日焼けがあるものの、写真は綺麗なものだった。おかげで一昔、二昔前の光景を、私が目の当たりにすることができる。
砂漠の国の城壁から見たバザール。
雪が残る煉瓦造りの街並み。
新大陸へ向かうであろう客船。
その写真たちには、共通するテーマがあった。
無垢なほどに、未来への希望が感じられる。前時代的なバザールにだって不潔な場所は多く、溶けた雪でも隠せない浮浪者の死体は街中に転がっていて、客船には止むに止まれず子供を残して出稼ぎに向かう父母がいる。それらがまったく、姿を見せないのだ。決して美しいわけではない、不幸を排除したわけでもない。この写真を撮った人間は、未来へ何かを残そうとした。そして、結果的に希望が残った。
過剰に光が映っていないにもかかわらず、必要十分な光を見取らせるその技術もまた素晴らしく、明朗な画面を映えさせている。やはり、光や明るさは人間に希望を見出させるのだ、と私は再確認した。
私が感心していると、隣にいたべニートが腕を組んでいた。
「参考になる写真でもあったか?」
「ああ、うん。すごいな、これ」
私は写真アルバムをめくり、ざっと目を通したところでこの写真アルバムに登場する風景について伝えようとする。
「日付が大体五、六十年前から、ちょうど三十年前まで。北のエメルテイアからシャイナーヴ、それにクオークランドの軍服か? こっちは昔のエスベリアノヴァだ。帆船がまだある」
つまりは、この写真アルバムの元の持ち主か、写真の撮影者は、半世紀も前に世界各国を巡って当時の風景を写真に収めてきた。おそらくは同じカメラで撮ったのだろう、日付の位置やフォント、サインが同じだからだ。
二十ページほどにわたって貼られたモノトーンの写真の数々によって、この写真アルバム一冊の中には世界の歴史の一部が切り取られて残されている。止まってしまった時間の中で、希望ある世界を見せようとしている。
ただ、私にとっては、ある国の写真だけは、そうは見えなかった。
はるか東南の国、赤道よりも南極にほど近い南半球の島嶼部に築かれたどこまでも続く摩天楼の写真は、星よりも人工光の煌めく夜半に至っても活気に満ち溢れているように見える。
「これは、マナイスだ」
私は、思わずつぶやいていた。
故郷の名を、今日は何度も聞いた気がする。
べニートが摩天楼の写真を覗き込み、感心したように、へえと声を漏らしていた。
「マナイスってこんな都会なのか。ビルがいっぱいだな」
「そうだな」
「お前の家もこんな感じか?」
「いや、うちは郊外の公団住宅で」
そこまで言って、私は口をつぐむ。言いたくないと訴える子供のような私自身からの要請があり、私もまた捨てたものを語るべきではないと思った。
その代わり、たった一言に、捨ててきた私の気持ちのすべてを託す。
「もう、マナイスに火が灯ることはない。そう言われて育った」
マナイスは、私が生まれたころには、もう希望は残されていなかった。
『大戦』での敗北、経済不況、政情不安、そして国際社会からの孤立。
約三十年前、怒涛のごとく押し寄せた不運の波がマナイスを襲い、二度と立ち直れないほどの衝撃を残した。
その後に生まれた私たちの世代は、十五を迎えるころには衝撃に耐え切れなくなった故郷が瓦解して暗い海に落とされ、冷たさに泣き喚きながらもがき、陸地を目指した。冷たい海から暖かな土地へ抜け出すために、私は故郷を捨てた。生きるため、嫌な記憶を捨て去るため、後ろを振り返らなかった。
偶然再会した過去の故郷は、明るかった。希望を抱いていた。その栄光はすぐに没落し、暗黒の時代に迷い込んでしまうとは思えないほどに、眩しい。
遠く大陸の果てまでやってきた私には、そんな時代があったなどととてもではないが信じられなかった。
べニートは、先ほどまでの気安さがすっかりなりを潜め、写真アルバムを見下ろして、こう言った。
「遠い国だな。酒が腐るくらい遠くだ」
私は、べニートが知りもしない国を、知らないのだと、そんなことは関係ないのだと言ってくれた気がした。
「そう、遠い国だ」
私は、写真アルバムをゆっくりと閉じた。
この話は恋愛orヒューマンドラマorSFのどれにしようか迷ったんですが、決め手があってですね、それを今言うとネタバレ甚だしいので言えません。お口チャックやで。
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