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第二話 手がかりがそこに、でも

 扉についたベルが、来客を知らせる。


 すると、画廊の奥からすぐに一人の太った男がやってきた。スーツ姿に蝶ネクタイとサスペンダーがよく似合う。いかにもな軽装の私とは違い、きちんとした仕事に就いていることが一目で分かる。


 画商アルタミラーノは私を見るなり、険しかったモノクル付きの顔が綻び、カウンターにモノクルを外して置いた。


「やあピエロ! どうした、わざわざこちらに来るなんて珍しいじゃないか! まあ何か飲んでいくといい、外は暑かっただろう!」


 上機嫌なアルタミラーノが、ビール樽のような腹を揺らしながら、私の小枝のような手を握ってぶんぶんと振る。大分前に私のことをピエリックではなく愛称のピエロで呼ぶのはやめてくれ、と言ったことがあるが、すっかり忘れてしまっている。もう何を言っても無駄だろう、私は無視することにした。


「おかまいなく。先日の絵の売れ行きを知りたくて、それと次の絵のクライアントからの指示を」

「ああ、そういうことか! 分かった分かった、座ってくれ。順番に話そう、重要なことだからな!」


 アルタミラーノは樽のような腹を抱えて、そばにあった細めの木の椅子に座る。ギシギシと椅子が悲鳴を上げていた。私も勧められて、小さな丸テーブルの横にあった同じ椅子に腰掛ける。


「この間の『木陰で休む商人たち』、やはり南国の日差しというのは人気でな、すぐに買い手が付いた。もちろん安売りなんかしていないぞ、このくらいだ!」


 アルタミラーノは三本の指を立てる。それだけあれば、エスベリアの郊外に一軒家が建つだろう。


「ありがとうございます、都合のいいときに振り込んでおいてください。すぐに入り用ではないので……売れたかどうかが知りたかっただけなんです」

「そうか。大丈夫だ! お前の絵はエスベリアどころか世界中の金持ちがこぞって欲しがる、儂はその中からふさわしい買い手を選んでいるだけだ! 決して、政治や宗教に利用しそうな輩には売らんからな!」


 それは私の商品価値を落とさないため、アルタミラーノは気を遣っているようだった。政治や宗教に巻き込まれると、正しい評価をされなくなる。クライアントの幅も狭められ、絵の価値は驚くほど下がる。そんな下らないレッテルを貼られた画家は、今までいくらでもいた。私はそうはなるまい、そう思っていたから、動機はともかくアルタミラーノの気遣いは有り難かった。


「それからだ、次のクライアントだが……ああっと、ちょっと待ってくれ。指示書があったはずだ。それを渡したほうがいいだろう!」


 アルタミラーノは若い女性の秘書を呼びつけ、指示書と飲み物を持ってくるよう言った。秘書は慌てて事務所の奥に引っ込み、すぐに出てくる。一枚のファイルをアルタミラーノへ手渡し、小さな丸テーブルに氷入りのレモネードを置き、これ以上何かを言いつけられる前に退散した。


 私はそれをアルタミラーノから受け取って、中の指示を読む。


「今度は北国の美術館ですか」

「ああ、王立美術館ができるということでな、そこにお前の新作の絵を飾りたいということだ! あちらは日が短いだろう? だから雪の中でも暖かい光の差すような、それでいて北国の猟師を描いてほしいと。どうだ?」

「できると思います。ここにあるもの以外、特に指定の資料はないですよね? なら、自由に描かせてもらいます」

「うむ、頼もしいな!」

「ああ、それと」

「何だ?」

「アルタミラーノさんは北国に行ったことはありますか?」

「ああ、あるとも! この間も取引に出向いたばかりだ!」

「冬の人々の顔というのは、明るいですか? 暗いですか? 青ですか、赤ですか?」

「青だな。昼も夜も、何せ光が弱い! どうやっても暗いから、あちこち明かりが灯っているんだが、どうしても影が出てしまう。赤い絨毯を敷いていても、こればかりはどうしようもない。ただ、雪の上は違うぞ。雪焼けは分かるか?」

「いえ、知りません」

「昼間に雪上を歩くと、太陽の光が白い雪に反射して、ひどい日焼けをしてしまうんだ。それこそ、こっちの日差し並みだ!」

「へえ……遮るものはないんですか?」

「何もない、見渡すかぎりのひらけた雪原だからな! あと、雪の影は青い! 儂も気になって雪に飛び込んでみたんだが、どこまで掘っても下に地面があっても色は変わらん! 青白い! 人間の青白さは緑だが、あれは本当に青い!」

「ふむ。雪国の人々の血色は、明るくても青いんですね」

「ああ、そうなる! もっとも、儂らは赤黒い肌を見慣れているからそう思うだけかも分からん! しかし儂の目が確かなら、北国の色は青だ、白よりも夜と闇の青さだ。血の通わん青さ、そういうところにやつらの本質があるような気がしてならん!」


 アルタミラーノは饒舌だ。必ずしも上品ではないが、私にしっかり、情報を余すことなく伝えようとしていることが分かる。


 ひょっとすると、アルタミラーノは——先日の、あのクライアントのことで私が落ち込んでいるように思っているのかもしれない。私へクライアントの希望を伝えきれていなかったから、あんなことになってしまったと責任を少しは感じているのだろうか。私の名前に傷が付いて困るのは、私だけでなくアルタミラーノもまた同じだ。あんな失敗を再びさせるわけにはいかない、そう思っていても不思議ではない。


 レモネードを飲みながら、私は誤解を解いておこうと思った。


「アルタミラーノさん。お話は大変参考になりました、ありがとうございます」

「おお、そうか!」

「気遣わせてしまってすみません。先日の、クライアントの希望に沿えなかったことはアルタミラーノさんのせいではありませんし、あれは……相性が悪かったというか、その」


 上手く言えない。口下手が災いしている、私は自分の口先の不器用さを呪った。筆であればいくらでも雄弁に語れるのに、そう悔やんでいるうちに、アルタミラーノが興奮して喋り出した。


「そうだ! ピエロ、実はな! あのクライアントの正体、掴んだぞ!」

「え? 秘密、ということじゃなかったんですか?」


 アルタミラーノは首の肉を思いっきり左右に振る。先の私が失敗した絵の依頼、その依頼をしたクライアントは、名前も何も明かさなかった。そういう契約で絵を描いたのだ。不思議に思ったが、別に私の絵には関係ないから、そう思っていたのだが——。


「ああ、だからこっそり調べたんだ。そうしたら、何と! クオークランドの最大手海運グループの会長だった! ペリヤ・シッピング・エージェンシーの名前は聞いたことがないか?」

「ああ、はい。聞いたことがあります、世間知らずの私でも名前くらいは」

「クオークランドの最大手となれば、実質世界一の企業だからな! そこの会長が、わざわざ身分を隠してお忍びでここへ来て、お前を指名して依頼したんだ! それだけ聞くとどういうことだかさっぱりだが」


 クオークランドといえば、世界の覇権を握る超大国だ。そこの大企業、ともなれば小国の国家予算を軽く超える資産を有していることも珍しくない。それほどの希代の大金持ちが、なぜ匿名で私へ絵の依頼をしてきたのか。その事情は分からないが、私はクライアントの正体に驚くと同時に、急に恐怖が湧き、落ち込んでしまった。


「すみません。それを、失敗してしまって」


 おそらく、アルタミラーノにとっても、相当大口の取引だったに違いない。


 あのとき私は、報酬を受け取らなかった。絵を返してもらったからだ。今もその絵は私の手元にあり、見ることがないよう布に包んでアトリエの片隅に立てかけてある。


 それを台無しにしてしまったことに、少なからず私は責任を感じていた。何せ初めてのことだった、今まで依頼を失敗したことはなく、誰からも賞賛の言葉をかけられていた私は、自分の能力が及ばない事象に直面して戸惑った。結局、仲介したアルタミラーノも仲介料を受け取れず、タダ働きに終わってしまったのだ。


 責められても文句は言えない。しかし、アルタミラーノはそうはしなかった。


「ピエロ、責めるわけじゃない。おそらくだが、あれでは誰もあのクライアントの望む絵は描けなかった!」

「どういうことですか?」

「何、儂も腹が立って色々手を尽くしたんだ! そうして、あのクライアントのプロフィールくらいは分かった。名前はブレイズ・ペリヤ、年齢は五十一歳で独身! 約三十年前にクオークランド陸軍に志願して従軍、そこで負傷して退役する。それ以来、実家の海運会社を継いで、ただでさえクオークランド有数の企業だったペリヤ・シッピング・エージェンシーを世界一の規模まで押し上げた実業家だ!」


 それはもう、バイオグラフィ・ドラマができそうな経歴だ。あのクライアントはそこまですごい人物だったのか、と私は驚嘆するしかない。右足が動かないだとかで杖を突いた、落ち着いたいかにもな紳士だったのだが、若いころは随分とやんちゃをしていたようだ。


 しかし、それよりも重要なのは、約三十年前に従軍、ということだ。私が生まれる数年前、およそ三十年前に、世界中を巻き込んだ史上類を見ない戦争があった。今ではそれは大戦と呼ばれ、以来その大戦の勝利国であるクオークランドが世界の覇権を握ってきた。


「三十年前というと、もしかしてあのクライアントは大戦の経験者ですか?」


 確認するような私の問いに、アルタミラーノは強烈な頷きを返した。


「そうだ、それだ! ブレイズ・ペリヤは大戦に参加していた。そこが鍵になるんじゃないかと思って、調べたんだ。あのリクエストの、『天使』というキーワードだ! すると、一つ行き当たることがあった!」


 私は得意げなアルタミラーノの顔を思わず覗き込んだ。『天使』、あのクライアントが私へ寄越したたった一つの指示、それは『天使を描く』ということだったのだ。


 だが、私の描いた天使の絵は、彼の期待に背いた。そうではないのだ、彼のいう天使は、もっと別の何かなのだ。頭上に金の輪を、背中に純白の羽を持った白い肌の女性ではないのだ。


 その手がかりを、アルタミラーノは掴んだらしい。


「『マナイスの天使』。具体的なことは分からん、伝説のことか何かの暗号なのか、それさえもだ! だが、そういう存在は確かにあったらしいんだ。ピエロ、お前の故郷はマナイスだったろう? 何か知らないか?」


 ぽんと、腹の中に氷の塊でも置かれたような気持ちだった。


 その国の名を聞くだけで、私はくらりと目眩がする。私が捨ててきた何もかもを、その名前は思い起こさせるから嫌いだ。


 だから、私は正直に答えた。


「いえ、知りません。私はごく一般的な家庭で育ちましたし、そういう、大戦と関わりがあるようなこととはまったく縁がなかったものですから」


 心の底では、ただただ腹立たしかった。氷塊が溶けてから、ふつふつと怒りが湧いてくる。私を、故郷の名でレッテルを貼って、できもしない依頼を持ってきたそのクライアントが、とても憎々しい。


 第一、私の故郷でも天使は天使だ。エスベリアやクオークランドと大きく宗教が違うわけでもない、なのになぜそんな訳の分からないことを。『マナイスの天使』、聞いたこともない単語に、私はもはや不快感を覚えるほどだった。


 そんな私の暗澹たる気持ちなど、エスベリア出身のアルタミラーノに分かるはずがなかった。


「そうか。だがまあ、あのクライアントはお前の故郷を調べ上げて、お前にその『マナイスの天使』を描かせようとしたんじゃないか、と儂は睨んでいる! そんなこと、さっさと最初から言ってくれればよかったんだ! そうしたらお前だってあのクライアントの満足行くものが描けた、そうだろう?」


 まったくだ、私もそう思う。できることなら別の画家へ話を持っていって欲しかったが、私でさえできないことなのだとあのクライアントに分からせられたのだから、私も多少は溜飲が下がる。


「とにかくだ、あのクライアントのことはもう気にするな! そういえば、あの絵はどうする? 買い取ろうか?」

「いえ、手直ししようと思っていますので、また機会があれば」

「そうか、相変わらず真面目だな! よし、お前にはいくらでも仕事が来るんだ、頑張ってくれよ!」


 私は愛想笑いを浮かべ、レモネードを飲み干した。

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