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第十二話 本当にそうなのか

 私はキャンバスの前に戻った。パレットを手に取り、細い筆を握る。


 故郷マナイスで見た、あの花を思い出した。街中の庭園に写生をしに行ったとき、ビオトープの池に咲いていた白と桃色の輪郭の花弁を持つ花。桃色の輪郭が淡く、しかし白の中に映えて、まるで白が透明感を持ったかのように見えた。光を通さないほど分厚い花弁だったにもかかわらず、作り物のように見事な質感と美しさを兼ね備えていた。いつか聞いた話では、その花言葉は、救済を意味していたと——。


 爽やかな華美さを、風雅さを持つその花の名前は、何と言ったか。喉元まで出かかっているのに、思い出せない。


 記憶の花の色を、白を、桃色の輪郭を、今このキャンバスに必要な色と線に微妙に調整しながら置き換えていく。不思議と筆には一切の迷いがなく、そこにあるものをなぞっているだけかのように、滑らかに素早く動く。もっと早く動かせないのかとやきもきしながらも、私は無意識の中にいた。私の背後から私を見ているように、私の視線はキャンバス全体と筆先のすべてを俯瞰して捉えていた。手は勝手に動く。まるでもう一つの脳が手に備わっているかのように、私とは別個の、それでいて共通する思考を持っているかのように、筆先はどんどん私の想像を現実のものとしていく。


 意識があるようで、どこか夢の中にいて、その夢からキャンバスへ想像を引きずり出してきている。それが心地よく、多幸感さえ湧いて、私はのめり込んでいく。その先へ、もっと先のものを見たいその一心で、徐々にもやのようなベールが解けて露わとなっていく映像をそのままに、キャンバスには絵が出来上がっていく。


 それは私が描いているはずなのに、私以外の第三者が——おそらくそれも私なのだろうが——介入している気がした。集中し切った私では思いつかないようなものが脳裏に浮かび、それがあっという間にキャンバスに浮かんでくる。油を加えても、どんどんと薄いブリックとラベンダーの絵の具が減っていく。また色を作る時間さえも惜しい。あと少し、描き切るまで保ってくれと願いながら、私はもっと細い筆に持ち替えた。


 花弁の先端を彩るわずかな色素さえ逃さない。私の記憶は決して鮮明ではないが、光と色だけはしっかりと刻まれている。復元はわけもない、その色を今ならより美しく描ける自信があった。


 彼女は喜んでくれるだろうか。故郷に咲いていた花、その中でも一等彼女にふさわしい花だと贈る私は思っているが、彼女はどうだろう。知りもしない、とうの昔に亡くなった少女へ、私は今、やっと親近感を覚えていた。


 彼女が蘇ることはない。だが、この絵を見る者へ彼女がこの世にいたことを、『マナイスの天使』を知る者へ彼女が天使になったことを伝えるには、十分となれば。


 私のそんな願いが、私を動かす。絵を描く者が持てる技術を尽くして伝えたいと思ったのならば、きっと絵は応えると切に信じている。


 彼女の人生を、私は知らない。過酷な運命にあったことは知っている。私の想像を超えた大戦の負の遺産を抱えた彼女へ、ブレイズ・ペリヤは手を差し伸べた。その手を彼女は取った。どんな気持ちだっただろう。故郷から見捨てられた彼女の心には何が残っていたのだろう、何が生まれたのだろう。彼女は何を奪われ、何を与えられたのだろう。きっと幸福ばかりが彼女を待っていたわけではなく、戦った傷の痛みや苦難も彼女には残っていたに違いない。ブレイズ・ペリヤの動かなくなった右足のように、立ち直れなくなった故郷マナイスのように、大戦はあらゆる人々に治しようのない傷を与えた。彼女だけ例外だったことはありえない。


 少女一人さえも逃さない世界の澱んだ泥濘の中から、その救いは生まれた。


 だから彼女には希望を、救われた証拠である花の羽を。


 小さな透けた花弁が彼女の背にはある。幾枚かの羽は輪郭に窓辺からの光を受けて濃淡を決め、そこに羽があることを天頂からの光によって明らかにさせられる。


 降り注ぐ光は弱々しく、だが彼女を柔らかく照らす。彼女はいつか辿り着いただろう、そこは彼女を受け入れただろう。光差すそこがどこであるかは分からない、どこであるかを決められるのは彼女を記憶に留めているブレイズ・ペリヤただ一人なのだから。


 私は息を吐いた。久しぶりに肺に新鮮な空気を送り込んだ気がする。息切れしそうな呼吸を抑えて、私は着実に仕上がっていっている絵を、隅々まで見渡す。


 美しい少女がいた。作り物のような彼女のその瞳には豊かな色彩が生まれていて、白いワンピースドレスは黄色とも金色とも行き来する光沢が波打ち、セミロングの金髪をリボンでまとめている。その背中には、あの花——そう、思い出した。蓮だ。蓮の花弁のような桃色の輪郭を持つ無数の羽が浮かんでいて、光を透過し、あるいは反射している。


 見つめてくる彼女の瞳に何を思うか、少なくとも私に浮かんだ感情は一つだけではなかった。いくつもの喜怒哀楽の種類は入り乱れ、これと言い切ることは難しい。不器用な彼女が表現に長けていなかったせいかもしれない、汲み取るのは少しばかり時間がかかるだろう。


 それでも、彼女の思いに接することができたなら、この絵の本質に手を伸ばすことは容易だ。


 そこから先は、唯一の鑑賞者が労を惜しまないだろう。


 私にできるのは、ここまでだ。


 微調整ののち、乾燥を待って、タブローを塗って、海を渡ろう。


 彼に届けるのだ。写真を返して、この絵を見せて、どんな反応をするのか知ることができれば、私の仕事は終わりだ。


 集中しすぎた私は、ベニートが昼食の呼びかけに来るまで放心状態でキャンバスの前に突っ立っていた。


 こんなにも絵の完成が待ち遠しいのは、何年ぶりだろうか。一日千秋の思いは強く、私は次の絵に移るためのクールダウンに苦労していた。





 私はその日、ガラルサの家へ電話を入れた。


 先日はすまなかった。どうしても見せたいものがある。私の家へ来てくれないか。


 それを伝えると、ガラルサは一言、「分かりました」と言って電話を切った。夕方、仕事を終えたであろうガラルサが私の家の門扉横にあるブザーを押した。


 私は、興奮と不安に苛まれながら、門扉を開けた。いつものガラルサがそこにいた。夕日を浴びて、焼けて色濃い肌がさらに濃淡をはっきりさせている。ガラルサの深いしわは、笑っているようにも怒っているようにも見えた。


「お呼び立てしてすみません」


 内心怯えながらも、私は玄関へガラルサを招き入れようとした。


 ガラルサは気を害したふうもなく、口元を緩めた。


「かまいませんよ、ラペルトリさん。それで、何かご用でしょう」

「ええ、ガラルサさんにしか頼めないことです」


 そう言って、私はガラルサを家の中へ連れていく。後ろで門扉が閉まった金属音がした。私は振り返らず、アトリエへ向かう。足音でガラルサがついてきていることは分かっていた、一歩一歩が重い。彼の人生を歩んできた足の出す音は、しっかりとこの大地を踏み締めていた。それはまるで彼の意思であるかのように、元来彼はとても頑固者なのかもしれない。


 そのガラルサが私のアトリエへ入ってきた。私はアトリエの電灯を点け、立てかけていたイーゼルに載ったキャンバスを指し示した。


「この絵ですが……実は、耳に入れたくもないことかもしれませんが、『マナイスの天使』だった少女を描いたものなんです」

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