第十話 天使へ救いを
それならば最初からこの写真を渡して、彼女を描いてくれで済む話だ。天使として描く、その言葉の意味はどこにあるのか。なぜこの写真に映る少女を、天使に仕立て上げなければならないのか。もっと言うなら、なぜ私でなくてはならないのか。まだそこに、私がマナイスの出身であることが関係あるのか。『マナイスの天使』という単語も、関わりがあるのか。
ブレイズ・ペリヤは私の何に、そこまでの期待を寄せたのだろうか。
いくら考えても、私の中だけでは答えが出ない。便箋を読み進めれば情報が得られるだろう、私は目線を次の段落へと動かす。
文章の少し先へ行くと、話題は変わって本題に入っていた。
『同封の写真には、若いころの私と彼女が写っている。彼女の名前はエミ・ルヴィエ。約三十年前に私が助けた彼女は、片足が動かなくなった私の世話を買って出てくれた。そして私の理解者であり、友人であり、ほんの短い間だったが私は彼女と暮らしていた』
暮らしていた、その意味するところは決して男女の仲ではないだろうな、と私は察した。それを疑うことはできるが無意味だろう。ここまで開け広げに話しておいて、そんな下世話な自分語りを聞かされる羽目にはなりそうにない。
写真の少女はエミ・ルヴィエというらしい。クオークランド人らしい名前で、人種的にもクオークランドの上流階級にいそうな金髪に、珍しい赤目だ。マナイスに移住する前の私の祖先はクオークランドにいて、確かに私は金髪に碧眼なのだが、くすんで黒髪の混じった金髪だし、碧眼というより鳶色に近い。親近感はまったくない。羨ましいかぎりだ、私は幼いころの外見的なコンプレックスが思い起こされた。
『彼女は不器用な子だった。上手く感情を表せなくて、いつも口数少なく私の傍にいた。私が助けたことを恩と思っていたらしく、まるで親鳥の後ろをついていく雛鳥のように一緒にいた。あれだけの美人だったが、彼女はとても他人に冷たく、困ったことに私以外誰も寄せ付けなかった』
この文章を書いているとき、ブレイズ・ペリヤは何を思っていただろう。過去に思いを馳せて、懐かしんでいただろうか。それとも——つらいことを思い出してしまって、耐えていただろうか。
何となくだったが、私がそう思うだけの根拠は、すぐに次の文章で明らかになる。
『もう気付いていると思うが、彼女はすでに亡くなっている。二十八年前、その写真を撮ったあとに急死した。事故や病気ではなく、彼女の寿命だった』
ああ、やはり。
そうではないかと私は思っていたのだ。文章に過去形を用いているほかにも、画家としての勘や経験というべきか、今どき実在の人物を描いてほしいという依頼はそのほとんどが故人を偲ぶものばかりと私は知っていた。ブレイズ・ペリヤも故人を、エミ・ルヴィエという亡くなった少女を、この世にない天使として描いてほしいと思っていたのだろう。その気持ちは、私はまったくもって否定などする気はなく、だから私への期待は大きくて失敗に落胆したのだろうと得心がいった。
しかし、であればなおさら、最初から写真を私へ渡さなかった理由が分からない。まだ私はブレイズ・ペリヤの真意に大して近づいていない。なのに、私の中で膨れ上がっているエミ・ルヴィエという少女の想像、キャンバスに描くさまざまな表情やポーズ、背景、小道具、光の有無と角度、その質感に至るまでの考えが、早く現実のものにしてくれと騒ぎ立てていた。
描きたい。彼女の姿をこの世に再度、蘇らせたい。その思いばかりが先走って、私は頭を振ってやっと手紙へ意識を集中させなければならなかった。
ただ、寿命という単語の意味が私には分からなかった。事故や病死でもなく、若い少女が亡くなるという悲劇的な状況で、それを寿命という言葉で終わらせられるのは、どういうことだろう。
頭の片隅にその疑問を置きながら、私は次へ読み進める。
すぐに私の火照った頭は、息が止まるほど唐突な衝撃に浮かれた熱を冷ますことになる。
『彼女の出身地はマナイスだった。具体的なことはほとんど何も分からないが、マナイスという国が彼女を作り出したことは確かだ。私と彼女は遠い戦場で出会い、私は死を待つだけだった彼女をクオークランドへ連れ帰って治療した。そうして彼女と話して分かったことはごく少なく、彼女が『マナイスの天使』であること——それは確実であるようだった』
どうやら、私の人生というものは、どうしても故郷の名から離れられないらしい。故郷からいくら離れても、誰かが結びつけて、繋げてくる。私は逃げながら、故郷の名から放られた縄を引きずっていくしかない。捨てても捨てても、私の体のあちこちに縄は縛り付けられていて、いつしか私は故郷の名という重石を認識せざるをえなくなっていく運命にあるかのようだ。
ブレイズ・ペリヤは知っていただろうが、奇しくも、私は写真の少女エミ・ルヴィエと同郷だった。そう言っていいのかどうかは分からないが、少なくとも彼女が『マナイスの天使』という名を冠する以上、彼女もまた故郷の名から逃れられなかったのだろう。
私は一旦、手紙から手を離した。テーブルの上に置いて、ソファに深く背をもたせかける。
両手で目を覆う。パティオに降る雨音が、ほんの少しだけ聞こえた。遠くで町教会の鐘の音がして、昼の十二時であることを町中の信徒の人々へ告げていた。
マナイスには、世界中から移民が集まっていた。そこでは人種宗教に関係なく、能力主義と拝金主義が徹底されていて、企業が国家運営を行うことによってきわめて効率的な社会が築かれていた。三十年前まで、そう謳われていた。私は神を信じることもなく、ただ絵を描くことができるその一点の能力を見出されて、自由に絵を描いていた。しかし敗戦後の社会はついには体力の糸が切れてしまい、私は絵を描く以外の能力がないまま放り出された。生活に困った私は故郷を捨て、私の絵を描く能力を評価してくれる国、エスベリアを目指した。
私とエミ・ルヴィエは、大戦を挟んで前と後のどちらに生まれたかこそ違えども、故郷を離れたことは同じだ。故郷にいられなくなったのだ。どういう事情かはまだ分からないが、『マナイスの天使』である彼女は少年兵として戦場へ、そして負傷してクオークランドへ行かざるをえなくなった。マナイスという国は管理社会だったが、取りこぼされる人間——敗者という意味ではなく——というのは確実にいて、私とエミ・ルヴィエはそういう類の人間だった。
親近感なんて覚えない。だが、私同様そういう人間がいてもおかしくないのだと信じられた。
彼女を人間と言えるなら、だが。
私は行儀悪く、手紙を手に取って、ソファに寝転がって続きを読む。気を張って読むのは疲れた。ここまでですでに相当の気力を使ったように思えたからだ。
きっと、ブレイズ・ペリヤもこのことを書く決断をしたとき、ひどく決心が要ったことだろう。そう思える記述が続いていた。
『『マナイスの天使』とは、企業国家マナイスが作り出した兵器だ。私が独自に調べて分かったことといえば、それは人間の体を作り変えて、飛行モジュールと銃身や刃を埋め込み、戦場へ投入するという非道な実験の成れの果てということだ。彼女たちは多くの欠陥を抱えた兵器だった、短い寿命もその一つだ。そして、いくら戦果を挙げても、マナイスが開発のために投資した膨大な費用を回収できるほどのパフォーマンスを発揮できなかった。ゆえに、大戦の終盤には、彼女たちは使い捨てにされた。祖国に生きて帰ることを許されなかった』
ブレイズ・ペリヤは真面目にそう語っているのだろう。
まるで悪い冗談、掃いて捨てるような映画の脚本と設定のようだ。それを信じるには——きっと、私が庭師のガラルサや画家のレンテリアと話していなければ、頭から鼻で笑っていただろう。
きっと、ガラルサは戦場で『マナイスの天使』と出会ったのだ。ガラルサは戦ったのかもしれない、そうして生き延びたガラルサは『マナイスの天使』についての記憶を三十年もの間封印してきた。現実にあるなら残酷すぎる境遇の彼らをそっとしておいてほしいと願って。
画家のレンテリアは『マナイスの天使』の詳細にまでは手を伸ばせなかった。しかし、彼は一個人で辿り着けるところまで行ったのだろう。『マナイスの天使』というものの存在を、マナイスの軍部との関わりを噂レベルでもまったくの第三者が掴んだ。
ブレイズ・ペリヤが手紙で語った内容は、事実と認定するにはおぼろげなところが多すぎる。しかし、私は捜査機関や報道機関の人間ではない。そこまで正確なことを客観的に証明しろと言うつもりはない、私が信じられればいいのだ。信じるに足ることが、複数人から伝わった以上、私は信じざるをえないのだ。
信じて、その先にどうするかは、私次第なのだから。
写真の少女はもう何も語らない。自分が『マナイスの天使』であることも、兵器として誰かを殺したことも、故郷に帰れなくなったことも、ブレイズ・ペリヤとどんなことを話したのかも、彼女の口からは二度と語られることはない。
『マナイスの天使』だった彼女のことを語り伝えられるのは、ブレイズ・ペリヤただ一人だろう。それ以外の人間は『マナイスの天使』について語れるかもしれないが、エミ・ルヴィエについては誰も語れない。彼女を語るには、『マナイスの天使』である彼女と、エミ・ルヴィエとなった彼女の両方を知らなくてはならないからだ。
私は、エミ・ルヴィエとなった少女を、たとえ故郷から見放されても『マナイスの天使』でありつづける彼女を、描かなくてはならない。
『マナイスの天使』を描くということは、おそらくブレイズ・ペリヤが知る『マナイスの天使』である彼女を、この写真と想像だけでキャンバスに描かなくてはならないということで、では何をもって彼女を天使とするのだろう。私の思考はどんどん進んでいく。もうすでに、私は彼女を描くと決めている。完璧なものを、私の求めるものを描くのだ。ブレイズ・ペリヤが私を指名した理由は、私とエミ・ルヴィエが同郷の人間だったことだけではなく、まだ何かあるのだろうが、私が天使を描けると確信したからだろうと思った。
きっと、私の求める光と、ブレイズ・ペリヤが求める天使は、同じところを通過する。交差するものがあるのだ、でなければわざわざ私を見出したりしない。私の絵がいくら心に訴えかけてくるものがあろうと、ブレイズ・ペリヤの心に残るエミ・ルヴィエという少女を描けと言うのなら、そこには必ず彼自身の理想の果てに私が最適任だと信じたからなのだ。
ブレイズ・ペリヤはそれほどまでに、エミ・ルヴィエという少女を大切に思っている。今もそうだろう。そこに疑心や虚言を挟む余地はないはずだ。
でなければ、こんなことを書くものか。
『初めて出会ったとき、私は彼女にひどく同情していた。助けてやりたいと思った。だから実家の伝手と金を使って、彼女を安全なクオークランドへ移送し、専門機関へ治療を手配した。そのあとに彼女の事情を聞いて、もう彼女には帰る場所はないのだと知った私は、彼女を引き取った。遠縁の親戚の姓を与えて、彼女と旅をした。終戦後、戦場となった各国を巡って、慰霊の旅をした。それは自己満足ではあったが、私と彼女にとっては大事な区切りだった』
自己満足?
人を一人、助けることがどれほどに難しいことか。人生に区切りをつけることが、どれほど苦痛に塗れることか。
『マナイスの天使』という兵器だった彼女へ、ブレイズ・ペリヤは聖人のように手を差し伸べた。
『そのときの彼女はもう、兵器として求められてはいなかった。私は普通の少女となって欲しかった。彼女は葛藤の末にそうあろうと努力してくれて、短い寿命の最期を、残された時間を精一杯生きてくれた。そして』
——そして、彼女は、どんな顔をしただろう。
『救われたと言ってくれた。だから、どうか彼女に救いを与えてほしい。私の目にも、彼女が救われたことを示してほしい』
彼女に救いを。
ブレイズ・ペリヤが求めたものは、エミ・ルヴィエが得たという救いの証拠だ。
そのために私は選ばれ、一度の失敗を乗り越えた末に、ここまでの思いを得た。
彼女に救いを、光を与えなければ。
それがあの写真の二人へ、私にできるたった一つのことなのだから。
私は、しばらく胸の上に手紙を置いて、雨音の中で考え込んでいた。