第一話 失敗した
賞で落ちたことが確定したので出します。
最後まで書いてるのでそのままドーンと。
光を描く。
それに関しては、私、ピエリック・ラペルトリは他の追随を許さない。
陽光差し込む聖者の来訪、冬の澄み切った空気の暁、昼の空に浮かぶ星々。
私の右手は光を浮き彫りにして、この世に灯るすべての光をキャンバスの中に写し取ってやった。
まるで手中に収めたかのような満足感は余人に理解できぬと思えば、優越感も鎌首をもたげる。人目を気にして、去年移った一軒家のアトリエの中で独りきりになってから、私はよく悦に浸る。
しかしだ、その後のことは知らない。描いた後は、もう私は興味はない。その光は描けたのだから、次の別の光を描きたい。完成次第、さっさと依頼人へ渡すか、出入りする画商アルタミラーノへ売る。アルタミラーノはうんざりするほど強欲だが、目利きはここ芸術の古都と名高いエスベリアノヴァでも群を抜いている。それに、強欲ではあるがよそに売られまいと渋らずきちんと金を払うから、私はもっぱらアルタミラーノを信用していた。
描けば描くほどに、私は光を筆先で捉えられるようになっていく。子供と同じで自身の上達を感じられることが何よりも嬉しい。
理想に近づいていく中で、私は服を引っ張られた。
顧客の一人が、私の絵の受け取りを拒否した。金を置いて、去っていく。
そのとき初めて、私は自分の絵に至らぬところがあるのか、と屈辱に耐えて尋ねた。私はどんな絵だって手を抜かない、持ちうる力を尽くして描く。なのに、気に入られないというのか。その顧客は私を貶めたのだとさえ思ったが、あまりにも傲慢な考えだと私は何とかして自戒した。
その顧客は私の神経を逆撫でするようなことを言い残した。
——そうじゃないんだ。君は悪くない、私が勝手に期待をしただけだ。
赤茶色の煉瓦の街に植えられた街路樹は、レモンだ。
目に鮮やかなほど黄色く色づき、街のボランティアが一つ一つ収穫していく。この時期は市役所に行けば、酒に漬け込むためのレモンを無料で配っているのだ。
どこかの新鋭の画家に今年も頼んだのだろう。高台の赤茶色の長い壁に白地を塗り、レモンへキスする褐色の肌に黒髪の女が大きく描かれている。遠目にも海上からもよく見える。エスベリア共和国首都エスベリアノヴァという街と住民たちは、特産品というわけでもないのにレモンが好きだ。エスベリアノヴァ市の紋章にもレモンの果実が配されている。歴史を紐解けば、大昔の戦争の講和に際して相手方からレモンの木が送られたことから平和と繁栄の象徴になったそうだ。それ以来エスベリア共和国はどこでどれほどの大戦があろうと、巻き込まれずに戦火を逃れているのだから、案外レモンのおかげなのかもしれない。
古都の路地を歩く。石畳は轍ができるほど削れ、車がガタゴトと左右に揺れながら徐行していく。見上げれば両脇のアパートメントの窓から各家庭の洗濯物が風に吹かれ、水色の晴天の中で遊んでいる。
雲一つない空から降り注ぐ光は、ごく薄い赤紫色がかっている。赤茶色の壁の反射だろうか、それとも私ほど気にしなければただの白っぽい眩しい光にしか見えないのだろうか。
太陽光の色は、光の波長を分析した結果のスペクトルからすれば、黄色に見えるべきらしい。六千度の光は黄色だ、と科学者が言っているのだから、実際もっとも有力な仮説なのだろう。誰も直接出向いて温度を測ったわけではないから、あくまで仮説だ。
だって、私の目には、今のエスベリアノヴァから見える太陽光はごく薄い赤紫色をしている。人間は厳密には他者と色を共有することができない、なので私がおかしいのかもしれないが、それを確かめるすべはない。
私は生まれつき、色彩に過敏な反応を示す傾向にあった。ほんの少しの色の変化を捉えるだけの目を持ち、それを再現するために早い時期から絵画の技術を習得しようとした。子供のころは、他者にはほとんど同じ色にしか見えない青を描き分けて、毎日の空の色を調合して塗り続けた。
その微細な違いを実際に表現する手段を得てからは、人生が花開いた。毎日が楽しかった、いくらでも絵を描いていいと言われてその通りにした。
私は目に映るものの色彩が毎日変わり、なぜそうなるのかを考えた。そしてその答えは、窓辺の彫像のスケッチを描いているときにふと思いついた。
光が違うのだ。光源も色合いも強弱も、毎日違う。一時として同じ光は現れない。だから、昨日描いた分のスケッチと、今日描いた分のスケッチは、同じものを同じ場所から描いているにもかかわらず、違うものだと私の目は認識した。
それから、私は光というものにこだわりはじめた。黒の主線だけで表現できないか、油絵の具の凹凸も含められないか、人間の目には何も映らないところが輝いているさまを人間はどうやって視認するのかを追求していった
木炭やインク、絵の具の中にそれを閉じ込めることだけを追求した。
風景やオブジェクトはそのための添え物だ。だが主役をサポートするためには脇役とて決して欠かせない。今のところ、私は脇役を描かなければ主役を描けないのだ。光という主役だけですべてを表現できるだけの高みには、残念ながらまだ辿り着けていない。
ある芸能演劇では、一切の動作を用いずにすべての感情を表現して観客へ伝えることを奥義としているそうだ。過去、そのもはや表現の極限に至った人間がいるのだろうか。だとすれば——私も、描かずに描けるほどの技を手にしたい。
白い洗濯物に反射する光は、大分に白みを帯びているが、やはり中心はわずかに赤みがかっている。
私は細い路地から大通りへ抜けて、エスベリアノヴァ有数の目抜き通りを目指した。元王宮の市役所からまっすぐ西へ貫く目抜き通りの根元に、目的地はある。
目抜き通り二本の角、そこには三角の、大きな三階建ての石造りが建っている。二面のショーウィンドウには電光掲示板、そこに絵画が順番に表示され、道行く人々が目をやる。バルコニーの黒い鉄柵や黒い窓枠が壁の赤茶色としっくりくる、しかし出入り口となる扉はささやかに、どこにでもありそうな茶色の木の扉だ。掲げられている金色の文字抜き看板に『ギャラリー・アルタミラーノ』とある。
私はそこへ入った。