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優一とシャープペンシル

 彼らは指で、その良い音が鳴る部分をかちかちとする。発表者の声がかき消されているというのに、誰もその音が鳴るのを注意していない。大きめのパネルを指で繰る男だけが、その心地よい音を発さずに発言を聞き流していた。男は、残念そうな顔をしていた。彼は、こう考えていたに違いない。『シャープペンは、どこにも見当たらない。また、忘れてきてしまったのだ』。


 会議中、唯一シャープペンを持っていなかったので、物忘れの多い優一はなんだか悔しい気分であった。この組織の中では最年少であることから、パソコン周辺機器に詳しいためタブレット端末での会議参加をしていた。周囲の痴呆症患者たちは、常識の範囲内でIT化に適応している彼に期待の眼差しを向けているらしい。しかし彼は、本当はシャープペンを用いていたいのだ。忘れるなんて馬鹿馬鹿しいことをしなければ、彼らと同様シャープペンを用いてメモを取ることが出来ていたはずなのに。

 優一は成績優秀な生徒であったが、社会に迎合することが得意でなかったため、あまり会話のない職場を選ぶことになった。会話の乏しさから職場内は暗い雰囲気に包まれているように思う。労働環境もさして良いと評価することはできない会社で、インターネットを用いた口コミサイトでも評価は平均より少々下を貫いている。社内の人間もお察しの通りの出来の悪さであることは言うまでもない。しかし優一は人を差別しない男であるから、社内にいる痴呆を小馬鹿にしたりはせず、つかず離れずの距離感でもって接していた。彼にとって会社選びは、会話の少なさがすべてであった。給料が低くとも、意味のない残業が多かろうとも、福利厚生が皆無であろうとも、会話が少なければそれでよいのだ。

 そんな彼は会議中に鳴る、シャープペンのノック音を聞くことが、近日中の何よりの楽しみであった。発表者のぼそぼそとした声を遮るように轟く、リズミカルなノックに得も言われぬ幸せを抱いている。彼にはその音響は、オーケストラのように感じられた。ストリングスやラッパの音はいらない。このシャープペンこそ最高の楽器なのだ。ステージを借りてどんちゃん騒ぎする指揮者共に、音楽とは何であるかを説いてやりたい気分であった。

 しかし彼は、彼の人生において最重要であるはずのシャープペンを忘れるのだ。何と間抜けなことであろう。会社に持っていく他の必需品については忘れたことがないのに、シャープペンだけは頻繁に忘れてしまう。時代は便利になりつつあるもので、周囲のコンビニエンスストアやらに行けば購入の機会はあるはずである。しかし、彼のプライドがそれを許さなかった。二十万円はたいて買ったシャープペンが、家にあるのだ。それを周囲に見せびらかし、その良質なノック音を弾き鳴らして見せたいのだ。家では肌身離さずノックしているそのシャープペンでなければ、家から連れ出す気になれないのだ。


 ここからは少し信じられないような話になるが、優一は幸運の神と出会うことになる。幸運の神を名乗る不審者と言っておく方が正しいかもしれないが、少なくとも素直な優一は彼の言い分を信じたのであった。一つだけ願いを叶えてやると云うので、優一は熟慮した。社交性を重視して、金が欲しいだとか、嫁が欲しいだとか言ってのける方が明らかに正しい選択であったろう。しかし彼はご自慢のシャープペンにまつわる願いをした。もう二度と、相棒のシャープペンを職場に持って行き忘れたくない。その旨を伝えると、幸運の神は的を射ない解釈をもってして、願いを叶えてやることにした。願いの内容は『職場へ持って行く鞄に、前日にノックした回数分だけ同本数のシャープペンが出現する』というものであった。優一は彼がどうしてそのように回りくどいことをするのか理解ができなかったが、前日にノックし忘れなければシャープペンを忘れることはないと気が付いた。

 嬉々として、彼は寝る前に二十万円のシャープペンをノックした。一度では飽き足らず、五回ほどノックしていたように思う。途中でノックの回数だけペンが増えると聞いていたことを思い出し、明日は会社に不必要に大量のシャープペンを持って行くことになると自覚した。二十万円のシャープペンをノックするだけで倍になるのだ。これ以上良い金策はあるまい。しかし転売の類が嫌いな優一は、そのような思考には至らなかった。


 翌日の優一は、特段に機嫌が良かった。普段は相槌だけで会話を雑に終了させる彼も、しっかりと職場の痴呆と会話してやることにした。それくらいにはシャープペンを忘れなかったということに幸せを抱いたらしい。会議中は彼のリサイタルであった。周囲のプラスチックゴミ共が聞くに値しない騒音を放っているのに対し、彼のシャープペンは人を唸らせるには十分すぎるほどの純潔たる声を立てた。死地に赴いて苦し紛れに飲む霊峰の水に似た希望に満ちた音であり、最愛の夫の死に際した妻の零す涙のように清らかな音であった。彼は勝ち誇って、にやにやが止まらなかった。このような思いをしたのは、三か月前シャープペンを会社に持って行き忘れなかった日以来であった。

 あまりに調子に乗って弾き鳴らしてしまったものだから、会議の終わりにお叱りを受けることになった。優一はお得意の謝罪でその場をやり過ごしたが、その後もその癖が治すつもりはなかった。耳に糞の詰まった連中にこの耽美な音は分かるまい。これこそ音楽史に名を刻むユーイチ・ヤオエダの最高のパフォーマンスであるのに、気が付かないなんて間抜けそのものであろう。このリサイタルを聞ける社内の痴呆症共は幸せ者であると、分かるはずがないのだ。その耳に汚物がひしめいている限りは。そう考える優一はただシャープペンの先端を弄っているだけに過ぎない。自身には何の力もないと自覚をし、音楽史からも見放された八百枝雄一は再び我に返った。

 翌日も機嫌よく、会社に向かっていった。普段よりも少し重く感じる鞄に疑問を持ちながら、電車に揺られ十五分。会社の前でゴルフのフォーム確認をする、脳みそがゴルフボール程度しかない課長に見せかけだけの挨拶をしてやり、今日も社内で自分の人生を無駄に浪費することにした。自分のデスクに座り、いつものように髭面印の缶コーヒーを三百五十回振った後、その飲料に適しているとは思えない液体を同僚に渡した。優一は父親の顔に似たその髭面が大嫌いなので、このような冒涜的なことをしている。優一の頭の中には、髭面印の会社に勤める新入オフィスレディを全裸にして、その泣きっ面に熱々のコーヒーを掛けてやる妄想が展開されている。その事実に気が付くはずのない同僚は、手垢まみれの缶を見て、ぬか喜び顔を優一にくれてやる。優一は満足げにしながら、鞄を開けて業務を再開しようと試みた。そして絶句する。お気に入りのシャープペンが、鞄の中にぎっしりと詰まっていたのであった。

 一部は書類の入ったクリアファイルを貫くようにして、目分量だけでも百本はゆうに超える数のペンが何食わぬ顔で鎮座していた。そうして、幸運の神とやらの叶えた願いが再び想起せられることになった。『職場へ持って行く鞄に、前日にノックした回数分だけ同本数のシャープペンが出現する』。優一はどうやら、昨日のリサイタルで本気を出しすぎたらしい。十分すぎる量のシャープペンが優一を元気づけるように鞄の中をひしめき合っていた。優一は、ほんの少しばかりの喜びと困惑をもってして、一本だけシャープペンをへし折った。二十万円するそれをただのプラスチックゴミにしてやった優一は、心臓を直にくすぐられるような背徳の喜びに浸りながら、思いをはせた。一本へし折ったとしても、まだ大量に代わりがいるらしい。鞄の中が現代社会の縮図になっていることに気が付き皮肉な笑いが漏れ出た後、残ったシャープペンを弾き鳴らしながら朝の会議に参加した。

 再び注意を受けた。優一は昨日よりも声を荒げる目の前の男を、心の中で茶化しながらシャープペンを彼に見えない位置でノックしていた。この男も今朝のシャープペンと同様、クビにしてやれたら爽快なのにな、と思いながら。

 翌日はもっと驚いたことに、シャープペンが鞄を貫くほどに増殖していた。親に買ってもらった鞄をこのようにズタボロにしてしまったのだ。身震いと共に、涙が止まらなくなった。親の怒号を思い出して、彼は持ち前のパニック障害の歯止めが効かなくなり、電車を止めて見せた。彼がやってのけた偉業の中でもとりわけ影響力の強い行動であったため、優一は武勇伝がまた一つ増えたと警察署で喜んだ。冷静さを取り戻し、彼は会社に行けなかったことを強く後悔した。上司である課長は優一をいたわってくれたそうだが、彼は罪悪感が胸にぎっしりと詰まっていた。謝罪の一言をせめて、対面して言わなければ気が済まない。彼の家まで行って、翌日の早朝まで謝罪の言葉と共にインターホンを鳴らし続けた。

 このままではいけない。優一はこうなってしまった原因の究明を試みた。そうだ。シャープペンを増えるようにしたのが問題なのだ。このままシャープぺンが増え続けることになろうものなら、社内全員に迷惑をかけてしまう。飄々としているように見えて責任感の強い優一は、幸運の神に頼み込むことにした。お願いですからこれ以上、シャープペンが増えないようにしてください。


 願いは叶えられたらしい。課長の家から離れ、自宅に帰ってみると、持って行く鞄が嘘のように全快していることに驚いた。一度も傷を負っていないその鞄を見て、優一は安堵した。これで親から怒られなくて済む。今日もまた、火傷を負わなくて済む。

 入社してから一番に機嫌よく、入り口でへとへとになっているらしい課長に挨拶をした。彼は優一を見るなり、小さな悲鳴を上げた。なぜそうなるか、優一は気が付いていないらしい。いつもの缶コーヒーを買って、ボブカットの似合う気弱そうな全裸の女性社員にコーヒーをぶちまけて、ご自慢の髪の毛を崩してやった後、隣の男に缶を渡した。受け取ってくれないのを見て、優一は疑問に思った。まあ、いいや。今日も仕事を頑張ろう。そう思って鞄を開けた。


 シャープペンは、どこにも見当たらない。また、忘れてきてしまったのだ。優一は少しばかり心が痛んだ。どうして昔からこうなのだろう。会議に集中できるわけもなく、時間が過ぎていった。シャープペンの事が忘れられない。何でも相談に乗ると云ってくれた、向かいのロングヘアが似合う同期の女性社員に尋ねてみた。今日もまた、シャープペンを忘れてしまったのですが、どうすれば、忘れずに済むでしょうか。

 すると、思いもよらぬ返答が帰ってきた。『あれ? 優一さん、一昨日に自分で、シャープペンを折っていたじゃないですか。もしかしてあれの事?』。


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