何も知らないままでいて
――助けて、という声が、耳鳴りのように頭の中で響いている。
今も尚、どこかの部屋から、そんな風に泣き叫んでいる誰かが居たのだろうか。
私はそちらに足を向けようか、ほんの一瞬だけ悩んだ。
だがそれも一瞬のことだった。結局、声のする方には背を向け、周囲を注意深く見回しながら、元の予定通りに長い階段をゆっくりと下り始める。
怪我をしている右足は引き摺るようにして歩く。
一ヶ月ほど前の怪我だが、未だ完治はしていないから、手すりが無いのを下りていくのは大変だった。
私――キアラ・カナイは、神殿で勤める八代目の聖女である。
三歳の頃に親元から引き離され、突如として特別な役割を与えられ――それから、この広いようで狭い箱庭の中で、十二年もの時を過ごしてきた。
聖女としての修練の日々が、苦しくなかったと言えば嘘になるだろう。血反吐を吐くまで魔力を練り上げ、祈りの儀式に臨み続け、魔物が出れば力不足だと非難されることもあった。
(でも、そんな生活も……もしかしたらこれで終わるのかな)
どこか場違いなくらいに。
脳天気に、私はそんなことを考える。
というのも――今まさに、私が暮らしてきた神殿には火が回り、激しく燃えさかっている最中だからだ。
こちらまで火の手が回れば、私が下りる木造の階段だってきっと脆く崩れ落ちることだろう。
だがそうして逃げ道が無くなったとして、おそらく、自分の命にだけは助かる保証があることを私は確信していた。
(水魔法に全身が包まれていて、熱くも何とも無いし……それに風魔法でずっと私の周囲にだけ酸素が供給されている。煙や臭いを遮断しているのも風魔法の効果だよね、たぶん)
このとんでもない事態を引き起こした何者か――おそらく相当な手練れ――はどういうつもりか、私だけは無事に神殿から脱出させる心積もりでいるらしい。
というのも私の寝室にだけは、特殊な防御魔法でも施されていたのか影響は一切無くて。
そのおかげで、目が覚めてしばらく経ってからも火事に気がつかなかったくらいなのだ。
(何なのかなぁ、聖女を欲しがっている隣国アゼリ、それともナイヤルの刺客とか……? それとも国王と仲の悪い宰相の一派がクーデターを引き起こそうとしているとか? うーん、よく分からないけど……)
もともと私は考えるのが苦手だ。考えるよりも眠って、嫌なことだってなるべく早く忘れるようにしている。
だから現実逃避のための思考はとりとめなく流れ、やはりまともな像を結ぶこともなかった。
そうして、七階から四階まで。
片足を引き摺りながら階段を下りてきた私は、きょろきょろと周囲を見回す。
火が放たれたのは下の階からなのか。
このあたりはだいぶ火の勢いが強い。煙を吸うことはないと分かっていても、何となく鼻をつまんでしまうし、息が荒くなってくるような気がする。
そうしながらも燃える道を歩いてみて。
何となく廊下の角を曲がってみて、はっとした。
(……死体……)
まるで人の目から隠すようにして。
積み上げられたその山は焼け焦げて、ほとんど人の原型は留めていなかったものの――その正体が神官たちであろうことはすぐに察しがついた。
考えるまでもなくここは神殿で、神殿には常日頃は聖女と神官しか居ないからだ。
魔法の効果により、その臭いが感じられなかったのは私にとって幸いだったのだと思う。
もしもまともに嗅いでいたなら、その場に蹲って胃の中身をぶちまけていたことだろう。
私は来た道を戻ってから、別の棟へと進んでみた。
その棟にある西階段は、一階から三階までが既に倒壊して崩れ落ちていたが、廊下を歩く限りは支障はない。魔法に守られた私は炎の上を歩いたところで、まったく問題ないからだ。
そして思った通りというべきなのか。
そちらでもまた廊下の影に、大量の死体が隠されていた。
決して、眺めていて気分の良いものではない。
すぐにその場を離れようと思った私だったが、死体の山の中で何かがキラリと反射したのに気がついた。
おっかなびっくりと近づき、確認してみると……それはどうやら、腕輪のようだった。
焦げついてはいるが、眩しいほどの輝きに衰えはない。
表面の、見覚えのある意匠に私は目を細めた。炎に照らされて、その複雑かつ精緻な模様はよく見えた。
そして腕輪をした人物に折り重なるようにして息絶えているもうひとり……他の死体と異なったものを発見する。
「………………やっぱり、そうなのね」
私は呟き、その場を後にした。
◇◇◇
ようやく長い階段を下り、一階まで辿り着くと。
肩で息をしながら私はまた、周囲を念入りに見回した。
だが動いている者は見当たらなかった。生き残りは既に神殿の外に逃げたのかと思ったが、神殿の中の惨状を見る限り、この状況下で生き残った者が居る可能性はひどく低いものに思えた。
すると、見渡していた一階の景色に……気がつけば、ひとつの変化が生まれていた。
いつからそこに佇んでいたのか。
神殿にひとつしかない、外に繋がる扉の前に立って。
背景に炎を背負った男が――ひとり、こちらを見ていた。
男が狂ったように笑っていたなら、逃げ出せたかもしれない。
しかし、彼は静かな微笑みを浮かべているだけだった。目の合った私への慈愛だけに満ちた、温かな笑みだった。
私は観念して、その男に近づいた。
「ユノ……」
「ああ。――おはよう、キアラ」
この異常な状況下にも関わらず。
道ばたでばったりと会ったかのような、柔らかな挨拶を繰り出す男――ユノを、私は見上げる。
いろいろと訊きたいことはあったが……そのすべてを呑み込んで、私も挨拶の言葉を返した。
今が何時かも定かじゃなかったけど。
「おはよう」
ユノは私より年上の、十八歳の青年である。
神殿に連れて来られたのは私の方がずっと早かったので、私にとってユノは弟のような存在だ。
血の繋がらない弟へのひいき目というわけじゃなく、彼はとても見目麗しい人だと思う。
クリーム色の色素の薄い髪に、甘い蜂蜜を煮立てて溶かし込んだような瞳。
整った鼻筋も、薄い唇も、高い背丈も……見れば見るほど人を魅了する要素だけを詰め込んだような、容姿に優れた青年である。
だがそんな彼は、普段は人の目に触れることなく、この神殿で不自由な生活を強いられていた。
ユノは六属性もの魔法を自在に使いこなす天才だった。
それで物心つく以前に、力を制御できず自らの母親を焼き殺してしまったのだ。
ユノのような境遇の子どもは決して少なくはない。
そして彼らのような、魔力に優れながらも人を傷つけてしまった人間の多くは神殿へと放り込まれるのだ。
表向きは魔力制御の技を身につける修行に取り組むため――ということになっているが、実際は違う。
それは、ユノの白い手首に残る痛々しい枷の跡を見れば明らかだ。
ユノは、国のために使われる殺戮の道具だ。
瘴気が発生し魔物が出れば、あるいは他国との武力衝突が発生すれば、最も危険な前線へと送られて使い捨てにされる。
有事に消費され、誰にも惜しまれない命。
それがユノという青年で――いくら才に恵まれているといっても、彼が成人するまで生き残るとは、この神殿の誰も思っていなかったと思う。
だって彼以外の全員は、すでにここには居ないのだから。
(って、あれ? 枷の跡……?)
私は何かがおかしいのに気がつき、首を傾げた。
「ユノ、枷はどうしたの?」
「ああ。あれならうざったいから壊しちゃったよ」
「壊しちゃったって……」
私はじとっとした目でユノを見たが、彼は照れたように俯いて頬を染めた。何でだ。
あの枷は国で最も優れた鍛冶師が造り、付与師が数多の制約魔法を掛け、神官たちが大量の魔力を注ぎ込んだ呪いの塊なのだ。
枷をつけられた者は、権限を持つ神官が一声命じれば命を奪われる。そういう仕組みになっている。
それがあるからこそ、今まで誰もが有無を言わさず従わされ、死ぬまで戦わされてきた。そんな代物を、自ら破壊してみせたというのだろうか。
「この火事も、あなたがやったの?」
「うん、そうだよ。炎魔法が暴走しちゃっただけの、単なる事故だけど」
母親を焼いたときと一緒だよ、と。
あっけからんと言い張るのに私は絶句した。
「事故って……神官たちの死体、あれってどう考えても」
「ああー……見ちゃったの?」
風魔法で切りつけられて、殺されていたじゃない。
そう言おうとしたのは遮られて。
吐息を間延びさせて、ユノが苦笑する。
背筋に粟立つものを感じながら、私は頷く。
「それに、神官だけじゃない。あの中には――」
「そんなことよりさ。こんな風に神殿が燃える中、目を覚まして……怖かったよね、ごめんねキアラ」
再び強引に話を遮り、唐突にユノが謝罪してきた。
何が「そんなこと」なんだろうと思いつつ、私は頬を膨らませる。
「そう思ったなら、早く起こしてくれない?」
「だってあんまり気持ち良さそうに眠っているからさ。火事だからって無理に起こすのは忍びないじゃないか」
ユノはこれ見よがしに盛大に溜め息を吐いた。
おそらく、薬か何かを私に盛っていたに違いない。しかも寝顔まで盗み見られている。溜め息を吐きたくなったのは私の方だった。
「それなのに君は思ったより早く目覚めて、しかも部屋の外に出てしまったものだから……慌てたよ」
「……さすがに、『助けて』って声が聞こえてきたら私だって目を覚ますけど」
「そんな夢を見たの? 何だか怖そうな夢だね、得体の知れない人に助けを求められるなんて」
どうもうまく話がかみ合わない。私は肩を竦めた。
その拍子に、肩に痛みが走り――思わず顔を顰める。
「……傷が痛むの?」
ユノは途端に心配そうな顔になり、私の前にそっと傅いた。
お姫様にする騎士のような仕草に、思わず頬が熱を持った。
「大丈夫? ごめんね、俺が治癒魔法を使えれば良かったのに」
「……治癒魔法なんて、とうに失われた魔法体系でしょ。ないものねだりしたってしょうがないわ」
脂汗を浮かべながら私が言うと。
ユノは――ゆっくりと、唇を笑みの形に歪めた。
「……うん、そうだよね」
その瞬間。
彼のまとっている空気が一変したような気がして――私は小さく身を震わせた。
「そうなんだよ、だから君は傷つけられて……苦しめられ続けて。こんなにもボロボロになってしまって」
蜂蜜色の瞳が、光るような炎の波を孕んで不穏に揺れる。
何も言えず私が呆然としていると、彼は唐突に私の腕を掴んだ。
「あっ……!」
「……ほら。ここも」
私の二の腕に巻かれた、血の滲む包帯に彼が口づける。
甘い痺れによく似た、痛みが走って――ぎゅっと目を閉じる私の隙を突くように、ユノは私の頬に、首筋に、胸元に、唇の感触を落としていく。
しまいには法衣の裾を捲られ、不自由な足を愛おしげに撫でられたかと思えば……生温かな感触に襲われ、ぞくりと背筋に震えが走った。
(舐め、られた……っ)
注意の声を飛ばそうとするが、それより彼の動きの方が素早い。
しかも、殴りつけようと振りかぶった手すら、簡単に抑えつけられてしまった。
弟分だろうと、歴とした男の人の手だ。
私の力なんかじゃ、敵うはずもない。
「それに、ここも。……ここだって、そうだ」
「ちょ、ちょっと……!」
腰が砕けて、とても立ってはいられず――ふらりと傾いだ私の身体を、同時にしゃがんだユノの逞しい腕が受け止める。
だが、そのまま助け起こされることもなく……ますますユノは調子づいて私のあらゆるところを探ろうとした。
「や、やめて。やめてったら! バカ!」
「……嫌だよ。可愛いキアラのお願いでも、それは聞いてあげない」
「ユノ!」
叱りつけるように名前を呼ぶと、ようやくユノはぴたりと動きを止める。
「か、火事の中でこ、こんな……バカじゃないのっ! バカでしょ、あなたっ!」
「……だって、ずっとキアラにこうしたかったんだ」
「だっても何もないッ! バカ、バカバカバカバカっ!!」
真っ赤に火照った顔を隠して夢中で罵ると、次第にユノは困ったような顔になっていった。
その間に私は這々の体で彼の腕の中から逃げ出す。こんなムードも何も無い、炎燃えさかる神殿で好き勝手に身体をまさぐられるなど冗談ではない。
「いいから逃げるわよ! このままじゃ私もあなたも捕まっちゃう」
「……逃げることないよ。これは事故だし」
「事故で偶然――いつもは神殿に居ない私の婚約者と、彼と仲の良い令嬢まで死ぬってことはあり得るの?」
ユノが無言のまま私を見る。
「……どうして分かった?」
底冷えするような声音に、私はごくりと唾を呑み込む。
もし少しでも発言を間違えば、彼はその瞳に宿る鋭利さによく似た、鋭き魔法の刃を私の首にも向けるのだろうか。
そうだとしても、口にしてしまった以上……もう後には引けない。
「羽ばたく不死鳥と、盾の入ったシンボルよ」
「……?」
「腕輪。……彼が、いつも着けてたから」
数秒が経ち、ようやくユノは合点がいったようだった。
「ああ、あの王族の紋章か。そうか、婚約者が死んだって分かっちゃったね。キアラ、悲しいよね」
「私が言いたいのは、そういうことじゃなくて……」
「大丈夫。何も考えなくていいよキアラ。辛いことも怖いことも、全部考えないで」
考えなくていい。
当たり前のようにユノはそう言う。私が眠っている間にあった事実に蓋をして、何にも無かったみたいに装って。
私はそれが悔しくて仕方が無かった。
静かに唇を噛み締める私には、気がつかずに――ユノはそれは嬉しげに顔を綻ばせる。
「でもこれで、ようやく俺の長年の目的が達成できそう」
「目的……?」
「うん。ずっとキアラを、この汚らしい檻の中から出してあげたかったんだ!」
無邪気に抱きついてくるユノ。図体ばかりでかい犬のような彼を、私は振り払えなかった。
それでも、このまま見て見ぬ振りをしていていいのかと自問自答する。
「あの、ユノ……」
「これで君を虐める奴はもう誰ひとりとして居ないんだよ、キアラ」
「ユノ」
「だって君をナイフで切り刻んだ奴も、関節を外した奴も、骨を折った奴も、足首を縛った奴も、階段から突き落とした奴も、君を捨てようとしていた男も、そいつを蠱惑した女だって……全員、不幸な事故で死んじゃったんだから」
ユノは私の両肩を掴み、嬉しそうに私の顔を覗き込む。
私が笑っていないのに気がつくと、彼は少しだけ悲しげに笑ったが……それでも、私の頬をそっと両手で包み込んだ。
恐ろしいほど冷たい手のひらだった。
「俺が一生、君を守ってあげる」
「………………」
「君を傷つける奴や、苦しめる奴が居るなら――全部、俺が排除し続けてみせるから」
いっそ太陽よりまばゆく、炎が燃えて。
轟音が鳴り、火の粉が散り、すべてが焼き尽くされていく中。
「好きだよ、キアラ」
そんな、ありきたりな言葉と共に。
私と彼は口づけを交わした。
永遠のように長い触れ合いには、それでも終わりが訪れて……。
まるで祈るように、最後にユノは言った。
「キアラ。君はどうか、何も知らないままで居てね」
(…………いいえ、ユノ。何も知らないのはあなたの方よ)
私はそんなユノに、ぎこちない笑みを向けながら思い返す。
(誰も私のことを虐めてなんていない)
彼は大きな思い違いをしているのだ。
そして、そう仕向けたのは私だった。
(私を虐めたのは私自身なんだよ、ユノ)
神官たちも。
婚約者であった王子や、彼と仲の良かった幼なじみの令嬢だって、私には何もしていない。
確かに聖女の役目は辛かった。投げ出したいと思った日だってある。
だけど少なからず聖女は、彼らに必要とされ、大事にされて――地下に繋がれた少年と違って、狭い箱庭の中で、ある程度は幸福に育てられてきたのだから。
ある日、囚人のように地下で暮らす子どもたちが居ると知って、私は何となく興味を抱いたのだ。
聖女の我が儘は、この神殿内ではある程度は通じる。それを利用し、私は子どもたちに会いに行った。
そこに居たのがユノだった。最低限の食事だけ与えられ、鎖と重しのついた枷をつけられ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、私を見つめていた。そんな哀れな少年が、そこに居た。
私は偽善的な態度で、彼に近づいたのだ。
私よりもよっぽど可哀想で、惨めで、愚かしい……取るに足らない少年の心を慰めてあげようと思って。
(でも、そのとき、あなたは私に『助けて』って言った……)
――私は、その願いを叶えなかった。
地下牢でのやり取りはすべて記録される。
ユノは聖女に助けを乞うた罪人として、七日間に渡る折檻を受けた。
私はそのことを、ユノからではなく、彼を槍で突いた兵士から笑いながら聞いた。
だってユノは初めて会ったあの日以降、一度も私に助けを求めてはこなかったからだ。
――それからもユノが戦地に赴き、ひどい怪我を抱えて帰ってくるたびに。
私は自分の無力さが嫌で、嫌で嫌で嫌で仕方が無くて――喉から血を吐くように『助けて』と叫ぶ彼の声が、ずっと耳にこびりついて離れなくて。
だから考えた。必死に、彼を助け出す方法を考えた。
だって顔を合わせるたびにユノは、楽しそうに私の話を聞くばかりで。
私は気がついた。もうユノは、私には絶対に助けを求めてこない。
だって私は、彼のことを裏切ってしまったのだから。
それなら、どうすれば彼を救えるのか。
必死に考えて、考え抜いて――私が辿り着いたのが、自傷行為を何度も繰り返し行うという、頭のおかしい策だった。
(だってユノは、何でなのか……私のことを慕ってくれていたから)
だから私が――彼に声なき助けを求めれば、と思ったのだ。
そうすればきっと、ユノは私を助けようと実行する。彼の魔力量を神官たちは見誤っているが、ユノのそれは私を遥かに凌駕するほど優れているのだ。
だとすれば結果的に、私は彼を救えることになるかもしれない。
彼を救う力のない私は、彼自身の手で彼を助けさせることにしたのだ。
彼が腕を曲げて帰ってきた日は、私も歯を食いしばり、扉と布をうまく使って腕を曲げた。
彼が足を引きずって帰ってきた日は階段から飛び降りた。骨を折った。ナイフを胸に突き立てた。
痛くて仕方が無かった。泣き叫ぶほど辛くて身もだえた。
何でこんなことをしなくちゃならないのと、自分で決めたことなのに、理不尽だと神に向かって絶叫したこともある。
それでもこうして思った通り、彼は傷つけられた私のために人を殺した。
何人も、何百人も殺した。きっとユノにとっては、私の周囲に居るすべての人間が屠るべき敵のように見えていたのだろう。
(でもね。あなたがそうしてくれて……良かったって思っちゃうの)
涙がこぼれそうになったのを、寸前で耐える。
ユノに苦痛を与えた人だけではない。何の罪もない無実の人まで死んだのだ。
さすがに、その事実に目を背けて泣く権利は私には無いだろう。
それでも、心から思う。
(だって他の人間なんて、どうでもいいくらい――私はあなただけを、愛してしまってるから)
「……君だけはずっと、きれいなままでいてね……キアラ」
「……ユノ、何か言った?」
「いいや。何も」
ユノが薄く笑う。そんな彼の首元に、私はぎゅっと抱きついた。
足の不自由な私は彼に背負われ、神殿を脱出したところだった。
背後では神殿が燃え、今まさに崩れ落ちようとしている。
しかし私は振り返らない。今やそうする必要さえ、感じられない。
嘘を吐いたひとりの娘のためだけに、数百人を惨殺した。
ユノは自分のことを、狂ってしまったと思っているのだろうか。
でも、それが事実ではないと私は知っている。
彼ではない。本当に血に濡れているのは私の両手なのだ。
(おかしくなっちゃったのは、たぶん私のほう……)
だけど、もともと私は考えるのが苦手だ。
考えるよりも眠って、嫌なことだってなるべく早く忘れるようにしている。
だから私は、ユノの広い背中に片耳を当てて、ゆっくりと目を閉じる。
ずっと、彼の身体が震えているのを知っている。気づかない振りをするには、眠るのが最適だった。
(あなたこそ、どうか……私のことを何も知らないままでいてね、ユノ)
憎々しげに、炎が爆ぜる音がする。
地獄の業火で焼かれる日が来るまでは、私はこうして、ただ彼のことだけを想っていたかった。