ヒッチコックみたいにはなれなかったけど
雨宿りのつもりで入った喫茶店は意外とこじゃれていて好みな雰囲気だった。窓辺の木製のテーブルに肘をついて、コーヒーカップから昇ってくる湯気を嗅ぎ、窓の外をぼっと眺めていた。雨はカーテンのように降り注いでいる、私はそれをぼっと見ていた。雨粒がアスファルトの上を跳ねる、私はそれをぼっと見ていた。窓にもひっきりなしに雨粒が線を引いては消えていく、それをぼっと見ている私の顔が、うっすらと硝子に映っている。
私のほかに客はいなかった。コーヒーをなめる程度に口に含む。雨の日が嬉しくなるような、懐かしさのする味わいだった。もう一度店内を見渡した。店員のおじいさんと目が合ったが、話しかけられることはなかった。そこに妙な安心感をおぼえた。もう一口、やはりここは懐かしかった。
窓の外を眺める。休みなく雨が降り続いている、私はそれを眺める。人通りもなかった、私はそれを眺める。見れば見るほど心安らいでいった。路傍に停められたバイクの座席が、裸のまま雨にさらされていた、私はそれを眺める。窓の外に置いてある観葉植物が、風でふらふら揺れている、私はそれを眺める。なんだか懐かしい気分だった。車が通ると路上の水が無節操に跳ねた、私はそれを眺める。学生らしき大勢の人だかりが、がやがやと通りを歩いている、私はそれを眺める。まったく、雨なんて憂鬱だな。
「ねえ、聞いてる?」
ゆかりがカチャンと音を立ててカップを置いた。想定以上に大きな音になってしまったのだろう、彼女は気まずそうにカップのほうに視線を動かしたあと、再びこちらを射貫くようににらみつけた。
「聞いてるよ、なんだっけ」
「聞いてないじゃん」
はぁ、と大げさにため息をついて、ゆかりはたばこを取り出して火をつける。そしてまたため息をつく。けむったい臭いの濃度が増す。ただでさえけむったい店内なのに。
「中山も抜けるって。ついでに石井も。もう終わりだねあたしたち」
「そうかぁ」
他人事のように答える。冷たい雨が降り注いでいる、私はそれを見ている。窓の外のことなのに、雨が冷たいとなんとなくわかった。
「だから、さ。あたしも抜けるわ、映研」
「えっ」
「そもそも本気なのあたしたち二人だけだったしさ、でも二人じゃ映画は撮れないから」
「撮れるよ。いままでだって二人で撮ってたじゃん」
「昔はね。でもさ、もうそういう時期じゃないんだよ」
私の顔がくしゃっとなった。それをゆかりに見せまいと窓の外ばかりを見た。冷たい雨がアスファルトをさらしていた。人々が雨のなか歩いていた。私はそれを見ていた。そればかりを見ていた。
「諦めたの?」
心ばかりの抵抗は、窓を透過して雨になじんだ。ゆかりはたばこを吸った。そのにおいも雨になじんだ。ゆかりが喫茶店を出るまで、私はついぞ彼女の顔を見なかったし、私の顔を見せなかった。
ただ窓の外を眺めている。雨はすっかり弱まってきていた、私は一人、ただそれを眺める。禁煙の店内ではもうあの懐かしいたばこのにおいはしない。けど窓越しの雨と、ここのコーヒーのにおいだけは、違ったみたいだった。
会計を済ませて外に出た。綺麗な曇り空だった、私はそれを見上げて、それから一歩踏み出した。
初出「てきすとぽい」2020.10.17
お題:匂いの記憶
制限時間:1時間15分




