星の夜の少年と猫
若干のファンタジー
星々を映し出したような地上の明かりが美しい。ビルの屋上から、1人でそれを見下ろすのは、なんだか気分が良かった。
飼い猫のユキが腕の中でニャアと鳴く。
「ああ、うん、もうちょっとだけ……ごめんね」
慎重に膝を曲げてその場に座る。それでも心臓のドキドキは、鳴り止む気配がない。
腕時計をちらと見る。まだ少し。
こんな風に区切りをつけないと勇気を出すことも出来ない自分は、なんて臆病なのだろう。そうやって自嘲しながら、僕はぼんやりとユキの真っ白な体を撫でた。
雪のように白い体だから、ユキ。安直には思えるが、うん、我ながら良い名前だと思う。
肯定するように、ユキが鳴いた。
ニャア。
母は心配性な人だった。そして少しだけ、考え方が僕とは違っていた。
外国の事件がテレビで流れれば
「これだからガイジンは」
と言い、いじめのニュースを見ては
「いじめられる人間が弱いのよ」
と独りごちる。そうして僕を見て
「あなたは大丈夫よね? 」
などと聞くのだ。それはまったく質問としての体をなしていない、大丈夫と答える以外の選択肢が失われた言葉だった。だから僕は
「大丈夫だよ」
と、自分だけに牙をむく呪いを吐き続けていなければならなかったのだ。
教師も、別に悪い人ではなかった、と思う。
ただ、僕を底なしの絶望に突き落とすのに、充分すぎるきっかけをくれた。
いじめに耐えかねた僕が勇気を振り絞って相談をしたとき、彼女はこう言った。
「君にも何か問題があるんじゃない?」
予想していなかったわけではない。しかしそれが、あまりにもあんまりな発言だったから、もう僕は1周まわって笑えてきてしまった。
そうして僕はようやく気がついた。自分には、ただの1人も味方がいないのだということに。
カチ、カチ、時計の鳴る音が聞こえる。 冷たい風が肌を撫でる。けれど、外気よりも、胸の内にポッカリと空いた穴の方が、異様に冷たく感じられた。
僕のそんな感傷が分かったのか、ユキは僕を静かに見つめた。暗闇に映える美しい瞳で。
「……もう少しだよ。」
いつもより強くユキを抱きしめたが、ユキは抵抗するどころか、何も言わなかった。ただ、また1言だけ、静かにニャア、と鳴いた。
始まりがいつだったかは、もう覚えていない。自分の何が悪かったのか、何をしてしまったのか。そんなことを知る間もなく、僕はヒエラルキーの最底辺に落とされた。
高校生ともなれば皆、多少の知恵はついていて、人にバレないことに最新の注意を払って僕を痛めつけてきた。
例えば、顔を殴られたりはしなかったが、腹は思い切り殴ったり、蹴ったりされた。物を隠されることはよくあったが、それらは必ず失くす以前の状態を保っていた。
彼らは、分かりやすい証拠は絶対に残さなかった。考えてみれば、彼らがある程度周囲からの目を気にしていただけ僕は幸せだったのかもしれないが、今更そんなことはどうでも良い。
カチ、カチ、時計が鳴っている。
時間まで、1分を切った。
「……そろそろかな」
ゆっくりと立ち上がって、ユキをフェンスの向こうにおろす。ユキはただじっと僕を見つめている。
「今までありがとね、ユキ」
最後まで傍に居てくれたのはユキだけだった。言葉にしきれない感謝の気持ちを、全てありがとうに詰め込むと、夜空の方を向いた。
あと3秒だ。
急げ。
心臓がうるさい。
ドッ
早く。
ドッドッ
早く、
ドッドッドッ
早く跳べ
ドッドッドッドッ
跳べって!
ニャア
目をつぶって、体を空に踊らせた。
ガクンッ!
僕の体は、背後から何者かに掴まれた。そのまま後ろに投げ飛ばされる。軽い衝撃に呻きながら目を開けると、そこには少女がいた。
いや、少女とは言っても、自分と同じくらいか。白い髪に金色の瞳。月の光をその白に反射させて、彼女は美しく輝いていた。
彼女は大きな目を見開いて、僕を見下ろした。
「我が主よ。まずは感謝を述べさせて欲しい。これまで共に居てくれてありがとう。こう思っていたのは、あなただけではないのです」
彼女は少し微笑んだ。
「まさか……ユキ……? 」
馬鹿げている。けれど何となく、しかし、ほとんど確信とも言えるほどに、僕には、彼女がユキに見えた。
「はい。私はユキ。あなたの家族です」
彼女は僕の質問にあっさりと答えを出した。そして朗々と騙り出した。
「猫は20年で妖となり、千年を経て王となる。そして今日、この日がちょうど千年目。……もう1度言わせてください今まで一緒にいてくれてありがとう。そして、私に愛をありがとう」
彼女は、微笑みながら、涙を零した。しかし、なるほど、確かに彼女の佇まいには貫禄があった。猫王とでも言ったところか。
「感謝のしるしに、そして今宵の記念に。何か1つ、貴方様の願いを叶えましょう」
あの者達が憎いのでしょう?
そう言って、ユキはにたりと笑った。獲物を追い詰める時のような顔。人の姿をとっても、やはり猫なのか、なんて至極どうでもいいことを思った。
「……いや、いいよ。逃れたいとは思っても、復讐したいとかは別に思わないし」
ユキは黙って、少しだけ俯いた。月が陰り、辺りが薄暗くなる。
「……分かりました。では主様、私と共に参りましょう。どうせ手放してしまう命なら、私が頂いてもよろしいでしょう?」
僕は、ユキの言っていることが分かった気がした。だから迷うことなく頷いた。いや、たとえ何を言っているか分からなくても、僕は頷いていたに違いない。
だって僕らは、ずっとそばにいたのだ。
「うん、いいよ」
僕の言葉を聞くと、彼女はまた微笑んで僕の手を取った。
その日の月はまんまるで、大きくて、とてもとても綺麗だった。
2人の行方は、星々しか知らない。