91.お前らの想像通りのヒューマン
そうして、その日がやってきた。
「大いなる大樹は、御手を天に差し下す
にべなるかなは、赤き大地の大きな傷
はるかなるかな、青き山の小さな耳
かたわれしとき、黄昏る深海
呻れ大霊地の魔狼、とぐろを巻くは来年の顎
古今東西、陶器のコップ
最後の聖戦、巨人の右手に起こる
最初の混戦、爪痕は浅黄色の爪の中
見えざるは見えるだろう、儚き眼球が馬を食す
大角をほじくり、渦が消える
千年生きた小魚が、根菜を煮て流す
偉大なる太古の竜よ
我が願いを叶え
望む姿に変えたまえ」
ニュート。
それは生物の理を超える魔法。
体を変化させ、"それそのもの"へと成り上がる魔法。
巨大な竜は人になり、人は巨大な竜となる。
そして小さな妖精は、姿を一度光と変えて、体を大きく変えていく。
かつて雪山で見たドラゴンのように早くはない。
ゆっくりと、少しずつ、羽化でもするかのように、じんわりと変化していく。
触れてしまえば壊れてしまうのでは……そんな予感すらさせる、神秘的な光景であった。
「……」
バッシュの目はその神秘的なものを、別に神秘的に捉えていたわけではない。
魔法ってすごい、ぐらいの認識で、どちらかというとその瞳は、徐々に膨らんでいく乳房や尻に向けられていた。
光が治まっていく。
いつものようなフェアリー光もなくなっていく。
しばらく後、そこには白い肌の一人の女がいた。
ヒューマンの女だが、髪の色だけはヒューマンらしくない、薄紫色だった。
体つきは細身だが、付くべきところには肉がついており、ヒューマンらしい体形と言えた。
あえて言うなら、かの女騎士ジュディスが近いだろうか。
バッシュの好みの体形であった。
「これが、オレっち……?」
部屋の隅に置かれた鏡に映る己を見て、ゼルが感動の言葉を吐く。
そう、念願のヒューマンであった。
オークとの生殖が可能な生物。
(あれ……? なんかおかしいっすね……?)
いつもと違う感覚、言い知れぬ違和感がゼルを襲う。
だがゼルはその感覚に身を任せる前に、バッシュの方を向いた。
「だ、旦那! ど……どうっすか?」
いつもの軽薄さはなりを潜め、本気で心配する声音がゼルから漏れた。
「……」
バッシュはじっとゼルを見ていた。まだ言葉は発していない。
だがその股間は大いに盛り上がり、鼻から発せられる息は、戦闘時のそれよりも荒かった。
興奮しているのが、ありありとわかった。
「ぜ、ゼル……!」
「は、はいっす!」
バッシュがゼルへと詰め寄る。
その肩をがしりと掴むと、ゼルに痛みが走った。
「ちょ、旦那、痛いっす……」
「フーッ、フーッ……」
「や、あの、旦那……旦那……? え?」
ゼルが感じていたのは、痛みだけではなかった。
ゼルの体に走っていたのは、震えだった。
「あれ?」
そう、いつしか、ゼルの全身は震えていた。
足が、膝が、肩が、小刻みに震えていた。
そして、さらに走っていたものもあった。
「おかしいっすね……なんか……旦那が……オレっち、おかしいっす!」
「フーッ、フーッ!」
「ヒッ……!」
それは、恐怖であった。
目の前に迫る、性欲をむき出しにした巨大なオークに、ゼルの全身に怖気が走っていた。
目からは涙が出始め、歯は打ち合わされてカチカチと鳴った。
性欲のままゼルを押し倒さず、訝し気に思って手を離せたのは、バッシュの経験のなせるものだろう。
経験があったなら、きっとそのまま襲い掛かっていたに違いない。
「ヒッ、ヒッ……」
「……ゼル?」
腰を抜かしながら、喉から声にならない声を上げながら、ゼルはずるずるとバッシュから離れていく。
あのゼルが。
何も言わずともバッシュにまとわりついてくる、ゼルが。
バッシュから、距離を取ったのだ。
「旦那……あの、おれ、おれっち、む、無理っす……ダメっす……」
ゼルは四つん這いのまま、逃げるように入口へと……いや、入口へと逃げていった。
そして、入口の扉を開けて、そのまま外へと出ると、力を振り絞るように、入口の縁から空中へとジャンプした。
「へぶっ!」
そして、無様に頭から着地した。
「……?」
鼻から血を垂らしながら、困惑した顔で己の背を見て、そこに羽が無いことを確認すると、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
大事なものが無い。
そこにあるべきものが、今まであって当然だったものが無い。
そのことに、言い知れぬショックを受けて。
それでも本能に突き動かされてか、立ち上がり、よろよろと走り始める。
「……」
その様子を、バッシュは呆然と見ていた。
ゼルが自分から逃げていくというのが、信じられなかった。
飛ぼうとして、飛べなくて、泣きだして、でもバッシュに助けを求めるでもなく、ただ離れよう、逃げようとする。
その姿には、さしものバッシュもショックを隠し切れなかった。
ゼルがが、本心からバッシュを恐怖し、忌避していることだけは、わかった。
そしてバッシュは、その様子に見覚えがあった。
ヒューマンだ。
オークの里を出てすぐの頃、それこそゼルを助け出した時にいた女商人たちが、今のゼルと同じような態度でバッシュから逃げていかなかっただろうか。
「クク……」
呆然としているバシュの脇で、誰かの喉が鳴った。
「クク、クハ、ハハ、ギャハハハハハハ!」
喉の鳴りは次第に大きくなり、笑声へと変化していった。
バッシュが振り返ると、そこには心底愉快そうに笑う魔女の姿があった。
腹を抱え、涙を流しながら、馬鹿のように笑い続ける魔女がいた。
「貴様が、何かしたのか?」
バッシュは思わず、魔女の胸倉をつかんでいた。
泰然とした『オーク英雄』にとって珍しい行為である。
普段の彼ならば、きっとこのような恫喝はすまい。
恫喝するよりも、先に剣で真っ二つにされるのが先であろうから。
だが、ひとたび恫喝すれば、彼を知るあらゆる存在は震え上がるだろう。
ドラゴンですら、震え上がったに違いない。
「ギャハ、ハハ、ハハハハハハ!」
しかし、魔女は笑うのをやめなかった。
愉快そうに、しかしどこか不愉快そうに口元をゆがめながらの嘲笑は、バッシュの神経を逆なでした。
バッシュの拳が魔女へと振りぬかれる前に、魔女は笑いを止め、嫌らしい笑みのままバッシュを見る。
「あたしが何かしたのかってぇ? 恩知らずなオークだね。あたしは何もしてないよ。強いて言うならあんたも見ての通りさ。あたしはね、『ニュート』を教えてやったんだよ。あのフェアリーにね!」
「ならば、なぜああなった?」
「なぜぇ~? おかしなことを聞くんじゃないよ。お前らの想像通りのヒューマンになったんじゃあないか。何がおかしいんだい? お前たちの望む通りじゃないか? えぇ?」
「だが、ゼルの様子はおかしかった」
「そりゃあそうだろうさ! 『ニュート』はね。文字通り、自分の思った通りの存在に変化する魔法なんだからね!」
思った通りの存在に変化する魔法。
だからなんだというのだろうか。
「お前らはね、ヒューマンをああいう存在と見てるのさ! オークを見たら怯えて逃げる弱者! 泣き叫び、逃げまどう食い物としか思ってないのさ! 自分たちの子供を産ませる道具か何かだと思ってんのさ!」
魔女の笑いは続く。
「そんなお前らがヒューマンを嫁にするだぁ? ちゃんちゃらおかしくて涙が出てくるね!」
「……」
絶句するバッシュに、魔女は畳みかけるように言葉を続ける。
「嫁ってのはね、妻ってのはね、結婚ってのはねぇ! 対等の立場になることさ! 少なくともヒューマンやエルフにとってはね! 信頼しあう相手と家族となり、血を残し、子を愛することさ! 女を孕み袋か何かと思ってるオークにはね、到底できない契約なんだよ!」
確かに、バッシュは甘く考えていたかもしれない。
嫁を作り童貞を捨て、子供も作る。
それしか考えていなかった。
妻を持つという事の意味など、考えたことも無かったのだ。
だが契約と聞いて、納得はした。
そもそもヒューマンにとって結婚とは、宗教的な意味合いの強い行為であったと聞いている。
ただ子を為すためのものではないと、バッシュは知っていた。
自分にとってもそうであるとは、一度たりとも考えなかったが。
「馬鹿なフェアリーだよ。あんな魔力の薄いヒューマンになったら、二度とニュートを使うこともできやしない。一生、弱くて不自由な体を抱えて生きていくのさ!」
バッシュはそれを、黙って聞いていた。
バッシュはオークだ。
決して頭は良くはない。
ただ、今の話から理解できた。
ゼルはヒューマンになった。
外見や肉体だけでなく、全てがヒューマンになった。
フェアリーではなくなった。
その事実を、バッシュは考えることなく、受け入れた。
あるいはバッシュがヒューマンであれば、受け入れることはできなかったかもしれない。
そうはいってもゼルはゼルだと、そう思ったかもしれない。
だがバッシュはオークだ。
オークは頭が悪い。
ゆえに言われたことをそのまま信じ、鵜呑みにする。
いや、それはバッシュがことさら素直であったがゆえか。
ともあれ、バッシュは魔女の言葉を、鵜呑みにした。
「どうした? あたしを殺すのかい? やってみな!」
対する魔女は覚悟を決めていた。
そもそも、魔女は最初からこうなるであろうことは予測できていた。
だからカスパルは、この二人をここによこしたのだろうと思っていた。
ヒューマンを舐めた連中が、舐めたヒューマンになる。
その喜劇を楽しんでやろうと思い、ゼルに『ニュート』を教えたのだ。
その結果として、激高したオークに殺されることも……。
「あたしはね、とうの昔に死んでいてもおかしくなかったんだ。今更オークに殺されたところで……」
だがバッシュは魔女の襟首を離していた。
魔女は、床に卸され、不思議な顔でバッシュを見上げていた。
「殺さないのかい?」
「ああ。お前は、俺達の望むものを教えてくれた」
「ああそうさ! デメリットを黙ってね! あたしにはわかっていたんだよ! こうなるってね! なーにが異種族間の愛だよ。笑わせてくれるよ。お前らが交わることなんてないんだよ」
自暴自棄ともいえる魔女の態度に、バッシュは首を横に振った。
「それは、わからん」
バッシュは踵を返した。
「どこにいくんだい?」
「ゼルの所だ」
「何をするつもりだい?」
「何をすべきかは、知っている」
オークが何を知っているんだい、と魔女の口から出てはこなかった。
この不思議なオークは、確かに何かを知っている。そんな風に思えた。
オークごときが、何かを知っているなどありえないはずなのに。
「……」
バッシュが出ていくのを、魔女は困惑した表情で見続けていた。
■
カーラ・シンドラーというヒューマンの女がいた。
彼女は生まれた時から優れた魔力を持っていた。
聡明で、子供ながらにして難解な魔法の法則を解き明かし、デーモンの秘術の一つを明らかにした。
歳の頃が十二を超える頃には、ヒューマンの扱う魔術の全てをあっさりと習得し、天才の名を欲しいままにした。
十五で賢者カスパルの弟子になった。
当時はまだ賢者などと大層な名で呼ばれてはいなかったが、カーラと同じように天才の名を欲しいままにしていた魔法使いだ。
カーラとカスパルは歳にして十ほども離れていたが、話は合った。
魔法について、同レベルで語れるのは、お互いだけだった。
あるいは某エルフの大魔導あたりであれば、二人と同レベルの会話が出来たのかもしれないが、しかしヒューマンの国においては、二人しかいなかった。
年若いカーラがカスパルに恋をするのは、時間の問題であった。
二人はヒューマンのために魔法を開発しながら、少しずつ関係を築いていき、それに比例するようにカーラはカスパルに惹かれていった。
カスパルはその魔法力とは裏腹に、女っ気のない男だった。
まるで女に興味など無いように振舞っていた。
けれど、カーラに対してだけは優しかった。少なくともカーラはそう感じていた。
自分だけがこの変な男の隣にいられると、カーラはそう信じていた。
だが、そんな蜜月も長くは続かない。
カーラが二十歳になった頃、カーラは魔法使いとして従軍することとなった。
カーラはカスパルの弟子、その魔力はカスパルをも凌駕し、その繊細な指先から放たれる魔法は、万の軍勢に匹敵する。
期待の星だった。
現実は非情であった。
どれだけ優れた魔法使いであっても、初陣には魔が住んでいる。
初陣で完璧に戦える者などいない。
二割は何もできずガタガタ震え、六割はパニックに陥り、残り二割もせいぜい上官に言われたたった一つのことを、震えながら実行できる程度。
そして運が悪ければ、大抵の新兵は死ぬ。
新兵に状況を打破できる余裕はない。
彼らを生き残らせるのは、運だけだ。
カーラも例外ではなかった。
カーラはガタガタ震える方の二割に属した。
そして運も悪かった。
カーラの部隊はその戦闘において壊滅的な打撃をこうむった。
カーラは魔法も使えず、後ずさった先で見つけたくぼみの中で震えながら、目の前で自分の上官や同僚たちが殺されていくのを見ていた。
そして最悪なことに、カーラは死ななかった。
全てが終わった後、髪を掴まれてくぼみから引きずり出され、捕虜となった。
さらに不幸なことに、その時の敵はオークだった。
そこから先のことを詳しく説明するのは憚られる。
カーラがオークに捕まっていたのは十年ほどだ。
それまでの間にカーラは十数人ものオークの子を産み、体はボロボロになり、心は折れていた。
助け出されたのは、運がよかったからにすぎない。
デーモン王ゲディグズが健在だった当時の情勢で、カーラのような捕虜が奪還されることは、ごく珍しいことであったからだ。
しかし、本当に運がよかったのかは、誰にもわからない。
カーラは、そのまま死んでしまった方が幸運だったのかもしれない。
オークによって完全に壊されたカーラは、カスパルの元へと戻った。
ヒューマンは、オークの捕虜にされた女に対しては優しい。
余程戦意の残っている者以外は、戦線に戻さない。
そうでなくとも後方において有益な者であるなら、前線に出さず、後方で大切にされる。
カスパルもまた、前線からの離脱を許可されていた。
カーラが弟子になった時からそうだった。
弟子であるカーラも、そうなるはずだった。
そもそもカーラが従軍したのは、魔法の開発者として、戦場を知っておくべきだという理由からだった。
カスパルは前線からの離脱を許可されていたが、それでも前線に出て、己の開発した魔法を試していた。だから彼に倣って……。
たった数度の戦闘を生き残るだけでよかったはずだ。
そうすれば、カーラもカスパルのように、戦場で圧倒的な火力を誇る魔法使いとして、名を馳せたはずだった。
ともあれカーラは戻って来た。
戦場を知り、敗北を知り、オークに捕まるということを知り、その後、知りたくもないことも、経験したくもないことも全て知り、戻って来た。
抜け殻のようになったカーラを、カスパルは酷く冷めた目で見てきた。
ゴミ捨て場に捨てられた、ゴワゴワでシミだらけになったぬいぐるみに向けるような視線をカーラに向けてきた。
オークに10年間犯され続け、子供すら産めなくなったカーラを、無価値だと言わんばかりの目で見てきた。
ように思えた。
カーラがそう思っただけだ。
実際の所、カスパルは帰ってきたカーラに対して優しい言葉も掛けてくれた、心配もしてくれた。気遣ってくれた。
けれどもカーラは、もうダメだった。
10年前のような、恋する乙女の心持ちでカスパルと接することは出来なかった。
それに、わかってしまった。
カスパルは元々、カーラに興味など無かったのだ、ということを。
オークに捕まるより前、15歳から20歳にかけての5年間で、カスパルは一度たりともカーラを女性として見たことなど無かった。
魔法に対して同程度の理解のある同僚として、見てきただけだ。
舞い上がっていたのはカーラだけで、カスパルはカーラを出来のいい弟子としてしか見ていなかった。
彼の興味はずっと他にあった。
カーラにはわかった。10年間、オークの欲に晒され続けた彼女にはわかってしまった。
ずっと前から、カスパルには好きな女がいたのだ。
カーラ以外の誰かを、ずっと好いていたのだ。
だから、ひどく冷めた目に見えるのだ。
彼の目が。
カーラはそれでもカスパルが好きだった。
壊れた体で、折れた心をなんとかつなぎ合わせながら彼の傍に留まり、彼の手伝いをした。
カスパルには好きな女がいる。しかし、決してその女のところに行こうとはしなかったからだ。
カーラは、きっとカスパルの想い人は死んだのだろうと思っていた。願っていた。
なら、きっといつか自分にも、目を向けてくれるかもしれないと、そう祈っていた。
まさかカスパルの想う先がデカいトカゲだなどとは、思いもしていなかった。
カスパルは、本当に色んな魔法を開発した。
ディスガイズも、ニュートも、その中の一つだ。
その魔法のほとんどが、自身がデカいトカゲと添い遂げるためだと知った時、カーラは気が狂いそうになったものだ。
そして、ある日を境にカスパルはどこかへと行ってしまった。
あのデカいトカゲがオークに倒された日を境に、姿をくらましてしまった。
研究成果を残し、いなくなった。
だからその日、カーラは魔女になった。
その後、戦争は好転した。
だが、魔女の心は晴れなかった。
画期的な攻撃魔法をいくつも考案した。
自分の鬱憤を、魔法開発で晴らそうとした。
和平の噂が持ち上がり、開発中止の命令がきても、魔女は魔法の開発をやめなかった。
開発内容が他国に知られれば糾弾は免れない。
研究結果が他国の手に渡れば、ヒューマンすら危ないかもしれない。
ゆえに全ての研究成果を破棄しろとの命令を、魔女は徹底的に無視した。
ある日、カスパルの友人の使いを名乗る者にこっそりと逃がされたのは、誰の思惑か。
魔女にはわかる。
全てを壊してやろうと思う者は、まだ存在している。
そいつにとって利があるから、魔女は生かされたのだ。
魔女は己の新居をフェアリーの国の近くに定めた。
一番最初に滅ぼすのはこいつらだと、心に決めていた。
なぜなら魔女の魔法によって破壊された体を癒せるのは、フェアリーの粉だけだから。
次はオークだ。
復讐……と、口に出してしまえば簡単なことだが、実際の所は少し違う。
魔女はオークの所に10年もいたせいで、オークに詳しくなってしまっていた。
オークが女を攫い犯し子供を産ませることに、悪意が無いことを知っていた。
そしてそれなりに誇りを持ち、案外気のいい奴らもいるということを知ってしまっていた。
そういう生物、そういう文化なのだ。
ゆえに、魔女もまた、オークに捕まっていた10年間へのやるせなさと憤りは覚えつつも、そこまで復讐心が強いわけではなかった。
馬鹿にはしているし、嫌悪感もある。
だが、復讐と言えるほど強い衝動があるわけではない。
でも、魔女はオークを皆殺しにするつもりだった。
なぜそうするかと言われれば、オークが実験台として最適だからだ。
魔法へのレジストを持たず、ただ高い生命力と体力を持つ種族。
己の作った魔法がきちんと作用するかを確かめるのに、これほど最適な相手はいない。
ついでに言えば、全滅させた所で四種族同盟の連中から糾弾される可能性も低い。
そして次が本番だ。
ヒューマン。
あのいけすかない連中だ。
あいつらを皆殺しにしてやるのだ。
なぜヒューマンをと言われると、魔女も答えられない。
別に恨んでいるわけじゃない。
ただ心中に渦巻く薄暗い情動を、叩きつけてやらないと気が済まなかった。
要するに魔女は……カーラはやらかしてやりたいのだ。
うまくいかなかった自分の人生の鬱憤を、自分の成果で晴らしたいのだ。
その結果はカーラの死で終わるだろうが、このクソッタレな人生の最後に鮮やかな花火が咲くなら、それで良し。
そんな破滅思考で魔法を開発している所に、馬鹿なオークと馬鹿なフェアリーがやってきた。
カスパルの遺言を持って……。
■
傑作だった。
何が面白いって、カスパルが死ぬ間際にカーラを紹介したことだ。
ニュートを教えられる唯一のヒューマンとして。
あのトカゲフェチは、カーラのことを女として見てはいなかったが、同格の研究者としては見てくれていた。
今際の際においてカーラのことを思い出すぐらいには、カーラを高く評価していたということだ。
光栄で誇らしくなる。
そして、それを伝えた相手がオークだった。
カーラが過去にオークになにをされたのか知っていて、伝えやがったのだ。あのトカゲ好きの変態野郎は。
傑作すぎて笑いが止まらない。
そこまで、そこまでカスパルはカーラに興味が無かったのか。
ずっと一緒にいたつもりだったのに、心はどれだけ離れていたというのか。
自分が甲斐甲斐しくカスパルのお茶や着替えを用意していたのは、何だと思っていたんだ。
さらに傑作なのは、そのオークはフェアリーを嫁にするという。
フェアリーをニュートでヒューマンに変えて、それを犯したいのだという。
『オーク英雄』。
この数十年で、最もヒューマンを殺したオークだ。
ヒューマンなんぞ犯し飽きているのだろう。
エルフだってビーストだって、なんならあまり相手にされないとされるドワーフだって飽きるほど犯してきたんだろう。
そして実際、飽きてきたんだろう。
だから、長年相棒だったフェアリーをヒューマンに変えてヤろうってんだ。
イカレてやがる。
ふざけるな。
なんでお前らの倒錯した性欲に付き合わなきゃならんのだ。
そうは思ったカーラだが、それでも教えてやった。
ほかならぬカスパルの頼みだからだ。
その結果、カーラは多いに笑わせてもらった。
傑作だった。
あの能天気なフェアリーが、ニュートで変化した途端、ヒューマンのように怯え、震え、逃げ出したのだ。
ニュートはそいつの思った通りの存在になる。
少なくとも、カスパルとカーラの作りだしたニュートはそうだ。
きっとドラゴンの使うニュートも、多かれ少なかれそういった性質を持っているはずだ。
で、そうなったということは、あのフェアリーはヒューマンを"そういうもの"だと思っていたということだ。
オークに迫られて怯え、逃げまどう弱者だと見下していたということだ。
大方、オークの方も嫌がらないヒューマンとシてみたいとか、軽く思っていたのだろう。
いるわけないのだ。そんなヒューマンは。
そして、ヒューマンになってオークに犯されてもいいなんていうフェアリーも、消え去った。
見たところ、大して魔力のないヒューマンだった。
呪文や魔法陣を憶えていたとしても、二度とフェアリーに戻ることはあるまい。
カスパルはきっと、復讐のためにあいつらをここによこしたに違いない。
最初からこうなることを予見していたのだ。
きっとカーラの過去を知って、最後にプレゼントしてくれたのだろう。
最高に愉快な見世物だった。
『オーク英雄』も無様に動揺していた。
ドラゴンを前にしても動じずに戦って勝利したとかのたまっていた奴が、混乱していた。
戦友だったフェアリーが、自分を拒絶したことが、信じられないんだろうな。
だが、オークを前にしたヒューマンなんて、そんなもんだ。
思い通りになる、都合のいい人間なんていないんだ。
現実を受け入れろ。
で、次はどうするんだ?
やるべきことはわかっている?
オークらしく追いかけていって、泣きじゃくる元フェアリーに無理やり突っ込むのかい?
今までそうしてきたように。
あたしがそうされたように。
やるといいさ。
そして本当の意味で、戦友だったフェアリーを失うんだ。
知ってるよ『風に愛されし者』ゼル。
フェアリーの中でも特に有名な、風の精霊に愛されたフェアリー。
戦場でずっと一緒にやってきた二人だ。
お前にとって一番大事な戦友の一人だろう?
(人から奪ってばかりのオークが……最も大切なものを失うんだ)
カーラはその光景を思い浮かべ、イヒヒと笑うのだった。