77.怪物
賢者が変貌を遂げ、その巨体が聖堂の天井を突き抜け、崩れ始める。
それと同時に、動く者がいた。
いち早く動いたのはキャロット。その魅了の魔眼で一瞬にしてヒューマンの騎士二人の動きを止めた。
やや遅れてブーゲンビリアが動いたものの、名無しの女も早かった。
ブーゲンビリアの短刀に対して鋭いカウンターを放ち、ブーゲンビリアの体から血しぶきが舞った。
サンダーソニアとナザールは、彼らより少しだけ初動が遅れた。
怪物に気を取られたのもあるが、この場で最も仕留めなければならない者を、仕留めようとしたのだ。
すなわち、ポプラティカ。
『影渡り』の術を使い、数多の地より脱出してきた、逃走のエキスパート。
だが、それは阻止された。
ハーピーの女がナザールの剣を受け止め、リザードマンの男がポプラティカを庇った。
サンダーソニアの魔法がリザードマンを黒焦げにし、ナザールの二太刀目がハーピーの女を屠った時には、すでに遅かった。
ポプラティカの魔法が、完成していた。
ぬるりと、死体となったハーピーとリザードマンを除く四人が、影へと消えていく。
当然、ポプラティカの手にヒューマンの聖典が握られたままで。
「待て!」
と、叫んだ時には、すでに四人の姿は闇に消えていた。
『影渡り』は種の割れたマジックだ。
使うとわかっているのなら、エルフの魔導士であれば、追うのは決して不可能ではない。
だが、
「キュアアアァァァァァ!」
崩れる聖堂の中、怪物が動く。
敵を追う処ではなく、崩れる瓦礫の中、朦朧状態のヒューマンの騎士二人を助けつつ、脱出しなければならなかった。
とはいえ、この場にいたのは歴戦の猛者ばかり。
難なくそれをこなすと、地上へと戻ってくる。
「なんだあれは……」
ナザールは、困惑の表情で賢者だったものを見上げた。
月明りに照らされたその姿は、何と形容すればよいのか。
大きさはドラゴンと同程度。
ドラゴンのような爬虫類にも見えるが頭にあたる部分に顔は無く、棍棒のようなごつごつとした醜い突起があるだけであった。
羽もある。だがドラゴンのような強靭な一対ではなく、キラービーのような半透明の羽が四対。
前足は足ではなく、人間のような五指の指が生えていた。
後ろ足は馬のような蹄があった。
そして、手の指にも、足の蹄にも、白く輝く爪があった。
その爪は、あるいは見る者が見れば神聖さを感じさせるものであっただろう。
"それ"を構成するパーツの一つでなければ。
ただただ、おぞましい怪物が、そこにいた。
あんな生物は見たことが無かった。
いや、あるいは古い記憶を遡れば、子供の頃に読んだおとぎ話の挿絵に、あんな怪物がいたような気もするが、どんな話だったかなど誰も覚えてはいない。
「……な、なんなんだよ、あいつは!」
「わからない、だが、あの爪を見るに……」
「あんなのが、ヒューマンが信仰していた神だとでもいうのか?」
「ならばまさか、我らの神も……?」
ヒューマンの騎士が、エルフの弓手が、ビーストの戦士が、慄く。
怪物の爪には、ヒューマンの聖典と同じものがついていた。
あれは、あの生物の一部だったのだと、本能的に悟ったのだ。
となれば、自分達は、一体なにを神と崇めていたのか……。
「そんなわけないだろうが、賢者だって神の姿を見たことあるわけないんだ! 太古の昔にだって、あんな気持ち悪い生物がいてたまるか、あいつは私たちを恐怖させて、縛り付けるためにあんな姿になったんだよ!」
サンダーソニアの一喝で、恐れ慄いていた者達全てが、ハッと顔を上げた。
「とにかく、さっさとこいつを何とかしつつ、ポプラティカ達を追うぞ! ここまで来て逃がしてやるもんか!」
と、そこで。
「!」
怪物がナザールたちを見下ろした。
どこに目があるか分からないが、それでも見下ろされているとわかる。
悍ましい悪寒が背筋を駆け抜けていく。
怪物はナザールたちに向けて、その大きな手を振り上げ……。
何もすることなく、聖堂を突き破り、城に向けての移動を始めた。
「いかん、城には陛下がいる!」
「ノースポールなら自力で逃げ出せると思うが……放っておくわけにもいかんか!」
城にいるのは、各国の重鎮だ。
ヒューマンの王、エルフの王、ドワーフの組合長、ビーストの女王、そして、彼らを守る護衛たち。
全員が、すぐにでもこの異常事態を察し、脱出を図るだろう。
だが、それは怪物を放置して、ポプラティカたちを追っていい理由にはならない。
「くそ、腐っても賢者ってことか!」
姿は変えども、知能は賢者。
どう動けば、この場にいる全員を釘付けに出来るか、わかっているのだ。
ナザールは叫ぶ。
「怪物を城から引きはがすぞ! 賢者に理性が残っているなら、我らが相手をすれば、城に固執はしないはずだ!」
「城から引き離すってことは、町の方に誘導するってことだぞ!? 民衆はどうする!?」
「……それは!」
ヒューマンの王子ナザール。
彼は苦渋の顔をしていた。
だが、それでも、決断せねばならぬ時であった。
この場に、ヒューマンの町をどうこうする権利を持つのは、彼しかいないのだから。
「我らヒューマンなら、異常事態に対し、必ずや逃げ延びてくれる! 戦いましょう!」
「よし、行くぞ!」
サンダーソニアの言葉で、戦いが始まった。
■
「ベルモン! ガルモン! くそっ!」
「ブーゲンビリア、立て! そんなところでヘバっていたら死ぬぞ! あの日、私と約束したろ! 素敵な旦那さんを見つけて玉のような赤子を抱くって! 気を確かに持て!」
戦況は、決して良いとは言えなかった。
サンダーソニアとネメシア、二人のエルフの魔導士が強力な雷の魔法を使っても、表皮を焦がす程度。
さりとて、ナザールやロームルスといった剣士の斬撃でも、大した痛痒は与えられておらず。
関節を狙ったバラバラドバンガの重い一撃は、ことごとくガードされた。
そう、ガードされた。
無軌道に暴れているように見える怪物だが、知恵があり、知識があった。
確かにそこには、意志を感じた。
できうる限りの時間を使って、この場にいる全員を釘付けにしてやろうという、賢者カスパルの意志を。
そして、ヒューマン三羽烏の一人として数えられた、老練な魔導士の戦闘技術が存在していた。
巨大な手から放たれる魔法は、ヒューマンの魔法を何倍にも大きくしたものであるし、的確に弱いものから仕留めていく手法は、ヒューマンの戦術の基本だ。
それに加えて、巨大な怪物であることの質量を使用し、手足を叩きつけてくる。
やや不慣れな様子ではあるが、ただ力任せに戦うのではなく、緩急を織り交ぜて、効率よくサンダーソニアたちを削ってきた。
誰も知らぬことであるが、この場にいる誰もが、あることを確かに感じていた。
あの賢者は、あの姿になるのは初めてかもしれない。
だが、姿を変えて戦うこと自体は、これが初めてではない、と。
そんな賢者は恐らく、こうも思っている。
時間を掛け、この場にいる全員を釘付けにした後……あわよくば数名を倒し、自分も脱出してやろう、と。
このまま戦い続ければ、要人を危地から脱出させた護衛達や、この地を守る兵士たちが殺到してくるだろう。
その前に勝負を決めるつもりか、あるいは、それすらも突破する気かもしれない。
現在位置は、城壁のすぐ外側である。
このあたりに怪物を釘付けにしつつ撃破する。
それが理想であったが、賢者もわかっているのか、突破を図っているように見えた。
そうかと思えば、時折、城の方に行きたそうな気配を見せるのが嫌らしい。
「くそ、これじゃポプラティカたちを追えない! 逃がすぞ!」
「部隊を分けますか?」
「馬鹿! そんな余裕あるか! ああ、くそ、護衛の連中がもっときてくれてたらなぁ!」
サンダーソニアの愚痴は虚空へと消えていく。
王たちの護衛は、手練れ揃いだ。
全員が集まれば、この怪物を必ずや止めてくれるだろう。
「陛下たちが避難し終えれば、護衛も何人か回してくれるはず、それまでせめてこのあたりに停滞させねば……」
「それだってこの人数じゃ……!」
怪物の出現から数分、さすがのヒューマンと言えど、即応できたのは一握りの兵士だけだ。
このストームヒル城は、外からの攻撃には備えているが、城の中に突如として巨大な怪物が湧くことまでは考えられていない。
城の外側を守っている兵士たちの到着は、しばらく後になるだろう。
そもそも、相手はヒューマンの賢者カスパルだ。
そこらの、知恵の無い魔獣ではない。
歴戦の魔法使いであり、ヒューマンの名だたる英雄の一人だ。
姿かたちが変わろうとも、その老獪な戦術に曇りはない。
対してサンダーソニアたちは、未知の戦い方をする相手に、即席のチームワーク。
すでに人員には穴も開いている。
ヒューマンの兵たちも、初めて見る、身の毛もよだつ怪物に及び腰だ。
「くそっ、止まらない!」
怪物は城の外へ、外へと移動していく。
城から離れれば離れるほど、城を警護する兵たちは追撃しにくくなる。
彼らの責務は、城を守ることだ。
決して城の外、城下町の人々を守らないという事ではないが、あの巨体が反転して戻ってくることを考えれば、城に相当数は残しておかなければならない。
「追うぞ!」
そうしたしがらみのないサンダーソニアらは当然、追撃をする。
しかし、町を蹂躙しつつ移動する怪物の足元には、まだ逃げ遅れた人々がいる。
大規模な魔法を使っていいものか。
サンダーソニアがここで暴れることで、ヒューマンとエルフの間に亀裂が入りはしないか。
そんな疑念が一瞬浮かび、サンダーソニアは躊躇する。
サンダーソニアは、全てのエルフの母ともいえる存在だ。たとえそれがヒューマンと言えど、味方に向けて魔法を撃つことなど、できようはずもない。
「『サンダーストライク』!」
などと賢者カスパルは思ったかもしれないが、サンダーソニアは躊躇などしない。
エルフの大魔導が、敵を前に、躊躇などするものか。
サンダーソニアの雷光が光る。
怪物の表皮を焦がし、弾かれた稲妻は、民家に着弾し、半壊させた。
「あの、ソニア様、街中で魔法なんか使ったら、ヒューマンの人たちが、あの、ヒューマンの、えと!」
「うるさい! そういうのはな、あとで考えるんだよ!」
だが、サンダーソニアの弟子でもあり、エルフの名だたる魔導士の一人でもある『エルフの小魔導』ネメシアの方は躊躇していた。
当たり前だ。
エルフがヒューマンの街中で大規模な攻撃魔法なんて放ったら、後で問題になるのは間違いないのだから。
とはいえ、それで一瞬だけ、怪物の動きが鈍る。
「かかれ!」
そこに、ヒューマンの一団が襲い掛かっていく。
城を守護していた者たちとは、また別の部隊が。
「防衛隊! ヒューゲル隊長か!」
「ハッ! ナザール殿下とお見受けします! この化け物は一体!?」
「説明はあとだ。現着した者より、包囲に当たらせろ! 全軍の指揮はお前が取れ、私は奴を直接叩く!」
「了解!」
ヒューマンは、集団戦法を最も得意とする種族だ。
だが、それはあくまで、知っている相手に限る。
知識と知恵と人数差で戦うヒューマンは、足りぬ戦力と見知らぬ相手に弱い。
各部隊は怪物に対する有効打がわからず、魔法や弓、剣などでバラバラに攻撃し、蹴散らされていく。
怪物は、人々を踏みつぶしつつ、大通りを進んでいく。
向かう先は……恐らく町の外だろう。
このまま逃げ切るつもりなのだ。
となると、兵士たちの攻撃も緩む。勝てそうにないなら、行かせてしまえばいいのだ。
森か山に逃げ込んだとしても、後に討伐軍を組織して追い立てればよい。
ヒューマンは、自分たちより強力な存在に対しては、常々そうしてきたのだから。
「殿下、魔獣は町の外へと向かっております、行かせては!?」
「ダメだ、ここで絶対に仕留めろ!」
「しかし!」
ナザールも、あれが元は人であり、何らかの重要な情報を持っていると説明したい。
だが、この急場で、兵士一人一人に、ポプラティカの存在や、賢者カスパルが裏切って敵側についた話をして回る余裕はない。
まして賢者カスパルがあのような怪物に姿を変えたなど、どう説明すればよいのか。
何らかの疑問に答えきる自信も無ければ、反論に言い返せる気もしない。
だから、ただ、阿呆の指揮官のように、こう言うしかないのだ。
「攻撃を続けろ! 足を止めるんだ!」
もしここに、事情を知る歴戦の指揮官がいたなら。
例えばオーク戦で名を馳せたヒューストンのような男がいたならば、あるいは違ったかもしれない。
何かしらの上手な嘘で兵士たちの士気を上げたかもしれない。
有効な手立てを考え、実行に移したかもしれない。
しかしナザールは、指揮官としての経験はあまり無かった。
「く……」
そうこうしている内に、怪物は大通りを半分ほど移動し、町の外に続く門へと近づいていた。
門の周辺には、この辺り一帯に住まう人々が集まっていた。
門がボトルネックとなり、抜けられないのだ。
もはや手はない。あの民衆が踏みつぶされ、カスパルにも逃げられる。
自分の無力さに、ナザールが打ちひしがれようとした、その時だった。
「グラアアアアァァァァァァアオオウ!」
ウォークライが響き渡った。
■ ■ ■
その日も、バッシュはナンパに精を出していた。
ナンパの方はかなり順調であった。
賢者の知恵のお陰で、ヒューマンの女はバッシュに対し、高確率で胸襟を開き、笑いかけてくれる。
かなりよい雰囲気になる。
ああ、ヒューマン女性の笑顔というものは、なぜここまでバッシュをいきり立たせるのだろうか。
はやくこの女を連れ帰り、オークとして恥ずかしくない存在になりたいものであると、期待に胸を膨らませる。
「ごめんねぇ、オークの奥さんになるのは、ちょっと無理なの。あなたはいい人だと思うけど、お父さんとお母さんもオークは嫌いだし……」
「そうか……」
しかしながら、最後まではいけなかった。
妻となるのはどうかと聞いてみても、誰も色よい返事をくれなかったのだ。
「ヒューマンの女性というのは、絶対にオークの妻となることを嫌がるものなのか……?」
「そんなことないわ。今は異種族間の結婚もブームだし、あなたみたいに紳士的なオークだったらオッケーって人もいると思う。けど……」
「けど?」
「ここはザリコ半島なの。オークによって虐殺と凌辱が行われた土地だから、ほとんどの人はオークに対してよい感情を抱いていないし……個人的に嫌だって思ってなかったとしても、ヒューマンには世間体もあるのよ。オークと結婚するなんて許せないって人も多いの。もし結婚したら、家族から白い目で見られるかもしれないし、その家族も他の人から白い目で見られるかもしれないし……それを考えると、どうしてもね……」
「世間体か」
「そうなの。だから、ここじゃなくて、もっと別の町で声を掛けてみたらいいかもしれないわ」
「忠告に感謝する」
「ううん。こっちこそ、こんな時間まで一緒に飲んでくれた上に奢ってまでくれて……ありがとう。楽しかったわ。あなたはオークとは思えないぐらい紳士的で面白いし、きっと次はうまくいくわ。応援してる」
「うむ」
その言葉に、バッシュは力強く頷いた。
ここ数日のナンパには、今までにない手ごたえを感じていた。
ドルイドルに教わったことを念頭に、ゼルとよく話し合ったうえで行われたナンパは、確実に成功に近づいている。
だというのに、最後まで行けない。
その理由が、この土地にあるというのなら、それもまた正しいのだろう。
ただ、ここはヒューマンの土地であるが、飛び地でもある。
ここからヒューマンの別の領土まで行くとなると、やはり大きな日数が経過してしまう。
それだけはネックだ。
「これは、ナザールの誘いに乗っておいた方がよかったかもしれないっすね」
「そうか? しかし城に行った所で、何にもなるまい?」
「もしかすると、ナザールは城であれば、オークのことを嫌がらない女がいるって示唆したかったのかもしれないっす。ほら、ビースト国の時だって、ナザールはそれとなく誘導してくれたじゃないっすか」
「そうだったな……奴は回りくどい男だった」
別に回りくどくなどないのである。
しかしながら、そうと考えれば、今回のナザールの誘いも意味深に思えてくるものだ。
彼は夜に、共に城に来ないか、などという言葉を発したのだ。
しかし、その時、バッシュは先ほど別れた女へのアタックへの真っ最中であった。
かなりの手ごたえを感じている瞬間であった。
ゆえに、ナザールに対して「まだやることがある」と返し、この場に残ってしまった。
しかし、ビースト国でのナザールの行動を考えれば、ついていった方がよかったかもしれない。
「しかし、城で嫌がらない女と言われてもな。どんな女がいる?」
「うーん……町の方はどうにも全体的にオークが嫌いみたいっすけど、城の方はそこまでオークが嫌いじゃないヒューマンが多いのかもしれないっす。あ、ほら、城と言えば兵士、兵士といえば、拠点を守るために遠くから派遣されていることもよくあることじゃないっすか。ここらの人じゃないんすよ!」
「女兵士か!」
女兵士は、女騎士に比べて幾分かランクが落ちる。
オーク英雄の妻となると、格が低いと言わざるを得ない。
だが、バッシュにとってはそんなこと、どうでもよかった。
ともあれ、この地のヒューマンでないなら、可能性が高いだろう。
なにせ今やバッシュは、同じヒューマン女性からも、「あなたなら大丈夫」と太鼓判を押してもらったのだから。
「今からでも間に合うっすかね?」
「……いや、ヒューマンはもう寝る時間だ。難しかろうな」
「そっすか……なんだったら、もう移動しちゃうのもいいかもしれないっすね。このあたりで一番近いヒューマンの領地は……」
ゼルが脳内地図を見つつ、次の目的地を考え始める。
とはいえ、ここからの移動となると、かなり遠くになってしまう。
このあたりはドワーフの国とビーストの国の近隣だ。
ヒューマンやエルフの国は遠いのだ。
「……ドワーフや、ビーストでも構わんが」
「ドルイドルの教えが、ヒューマン以外に効くとは限ら……いや、そっすよね! そういう種族に限定したものじゃなかったっすよね! まさに叡知と呼べるものだったっす! なら近場の国に移動してみるっすか!」
バッシュ的には、ヒューマンかエルフがいい所である。
だからデーモンを諦めて、ここまで戻って来たのだ。
しかし、ビーストが嫌というわけではないし、ドワーフでも、ドバンガ孔で出会ったプリメラのような女であれば、問題ない。
「ま、時間は腐るほどあるんだから、気長に行くっすよ!」
「……」
ゼルは知らないが、バッシュとしては、そろそろ本格的に焦りが出てきている時期である。
この土壇場になってドルイドルから叡知を授かり、後少しという所まできているという感覚がある。
だから、次こそは確実に決めたいところだ。
このさい、ドワーフでも構わない。
「そうだな。明日、城に行き、それでだめなら、隣国にいこう」
「オークの戦場にならなかった場所がよさそうっすよね! どこかあったかなぁ……?」
二人はそう言いつつ、城を見上げる。
朧げな霧の中、大きな月が城の背後で輝いていた。
「む?」
そんな城が、大きな影に覆われた。
いや、違う。
何か、大きなものが、城の中から突如として発生したのだ。
やや遅れて、轟音が鳴り響いた。
何事かと、周囲の家々から、人が出てくる。
人々はバッシュを見ると、お前の仕業か、と言わんばかりの視線を向けてくるが、すぐにそうではないと気づいた。
城の方から、轟音が鳴り響き続けていたからだ。
そしてその轟音は、次第にこちらへと近づいてきているように感じた。
「な、なんだ。何が起こって……」
誰かがそう漏らした時、
「キュオオオオアアアアァァァァァァァァ!」
咆哮が響いた。
今までに聞いたことがない生物の咆哮。
圧倒的な力を感じさせるものだった。
根源的な恐怖を感じさせるものだった。
窓を開けているものが咄嗟に窓を閉め、外に出てきた者が思わず腰を抜かした。
寝ぼけ眼の子供は涙目になり、老人は悲鳴を上げようとして、しかし声を出さぬよう口元を抑えた。
何かが出た。
それは、戦争の中で生まれ、死を身近に感じ続けていた者達ですら身震いするほどの何か。
もしかすると、ドラゴンよりも恐ろしい、何かが。
「なんだ、あれ……」
「あ……」
城壁が崩れた。
土煙の中、その何かが、月明りに照らされて、ゆっくりと浮かび上がる。
巨大だった。
ドラゴンもかくやというほどの巨体だった。
遠目に見れば、ドラゴンに見えたかもしれない。
だが、どうみてもそれは……まともな生物ではなかった。
「あ、ああ……」
その姿を見た時、その場にいた全員が、
「あ、ああ……」
「うわああぁぁぁぁぁ!」
恐慌に陥った。
自分達が、神聖だと思っていたものが、ひどく汚されてしまった気分に陥っていた。
見てはならないものを見てしまった。
知ってはならないことを知ってしまった。
そんな気持ちが心中に溢れだし、言いえぬ焦燥感と不安感で頭が一杯になった。
「なんだあれ、なんだあれ!」
「逃げろ! はやく、はやく逃げろ!」
「起きろ、寝てる場合じゃない、起きろぉぉ!」
「うわ、うわ、うわああああ!」
混乱が巻き起こる。
町中、家という家、建物という建物から人がまろび出てくる。
あっという間に道が人であふれかえった。
互いに押し合い、中には転び、踏みつけられた者もいる。
しかし、ヒューマンはほぼ全員が、こうした"撤退"をしたことがあった。
混乱しながらも、我先にと思いながらも、転んだ者は助け起こし、歩けぬ者には肩を貸し、町から逃げ出そうとする。
怪物は、無軌道に暴れまわっているように見える。
いや、よく見れば、無軌道ではなく、何者かと戦っているのが見て取れた。
人影が宙を舞い、雷光が暗闇を割く。
当然だ。
どこから現れたのかもわからぬ怪物だが、ヒューマンの国を襲ったのなら、ヒューマンの兵士たちは、騎士たちは、黙って蹂躙させなどするものか。
だが、怪物はこちらへと動いてきている。
なぜか……と、人々は気づいている。
知っている者は知っている。
今日、あの城には各国の重鎮がいる。
死んではならぬ者達がいる。
だから、城の兵士たちは怪物を城から遠ざける。
だから民衆は逃げねばならぬ。
無駄な犠牲にならぬため、避難せねばならぬ。
それを知らぬ者もいるが、何も疑問には思わない。
ヒューマンは群れでこそ力を発揮する種族だ。それが数千年も戦い続ければ、誰もが魂に刻んでいる。
逃げるべき時に逃げぬ者はいない。
特に、戦争中に猛者と恐れられたわけでもない者は知っている。
武器を持たぬ時、指揮系統の下にいない時、己が無力であることを知っている。
バッシュから見れば、それは浮足立ってはいるものの、無軌道な遁走ではなく、見事な"撤退"であった。
こと集団行動に関しては、ヒューマンという種族の右に出るものはいないのだ。
「さすがはヒューマンだな。撤退が早い」
バッシュは人の波にもまれながら、そう呟く。
だがそれでも、間に合うまいとバッシュは見抜いていた。
ヒューマンたちが避難しきるより、怪物の方が早い。
「旦那はどうするんすか? あいつと戦うんすか?」
戦う理由など無い。
バッシュに、ヒューマン達の前に立って戦う義理など無い。
彼らを守る理由など、無い。
もしかすると助けた女が惚れてくれるかも、などと考えるほど、オークは頭が良くはない。
しかしバッシュはオークであり、『オーク英雄』だ。
「オークは敵から逃げん」
「そっすよね!」
人々の波の中、バッシュは立ち続ける。
怪物が迫る。
バッシュは剣を構えた。
「グラアアアァアアアアアァァァオオオウ!」
ウォークライが響き渡る。
『オーク英雄』と怪物の戦いが、始まった。