65.デーモンの再起
その日、デーモン軍偵察部隊長『千里眼』のキュロスは、ギジェ要塞の物見櫓にいた。
彼の仕事は毎日のように現れ、町を破壊するドラゴンを早期に発見し、避難と迎撃を促すことであった。
デーモンの中には、特別な目を持つ者が多くいる。
キュロスは、デーモンの中でも特に遠方を見通す目を持っていた。
彼の一族は皆そうであるが、昼夜を問わず何百キロと離れた敵を発見できる魔眼を持っていた。
デーモンの偵察部隊は、決して敵を見逃さない。
ハーピーやサキュバスといった、空を飛ぶ種族と比べても、その差は明らかであった。
ゲディグズ亡き前から、その卓越した眼力にて敵軍をいち早く発見し、デーモン軍に勝利をもたらしてきた存在だ。
ドラゴンのねぐらを見つけたのも、キュロスだった。
そのせいで、シーケンスの娘とその配下たちがドラゴンのねぐらへと突入し、全滅した。
全滅の瞬間を目にしたのもキュロスだ。
最後の一人で空中でかみ砕かれて地面に血をまき散らした後、シーケンスへと報告し、一日寝込んだ。
もちろん、それでも偵察は怠らない。
彼の仕事であるというのもあるが、見つけなければ、もっとよくないことが起こる場合が多いのだから。
だからその日も、彼はいち早くドラゴンを発見した。
いつものように、ねぐらから飛び立つドラゴンを。
ゆえに、キョロスはいつものように鐘を鳴らし、敵襲に備えようとした。
だがその前に、異変に気付いた。
「どこにいくつもりだ?」
ドラゴンが、南東の空に向かって、一直線に飛んでいく。
いつもとコースが違う。
いつもであれば、自分の巣を確認するかのようにグルリと山を二週回った後、南に向かって少し進み、それからこちらに向かってくるはずだ。
それが一直線に南東に。
「気まぐれか、それとも……」
キュロスは観察を続けた。
ドラゴンは、いつもとどこか違うようすで、まっすぐ南東へと飛んでいく。
とんでもない速度だ。
飛び方も何かおかしい。
毎日観察しているキュロスだからわかるが、どこか浮足だっている、まるで恋こがれた乙女のように……あるいはまるで、何かから逃げるかのように。
そうして、ドラゴンはキュロスの視界から消えた。
卓越した眼力を持つ一族の中で、特に『千里眼』とまで言われたキュロスの視界から。
十数キロ離れた場所の蟻を数えられるキュロスの視界から。
おそらく、ドラゴン自身の縄張りから。
その姿を消したのだ。
「なぜ……?」
キョロスは見えなくなったドラゴンから視線を外す。
ひとまず、見たものを報告する必要がある。
彼は目であって、脳ではないのだ。
「む……」
と、その瞬間、あるものを捉えた。
人である。
もっとも、デーモンはかつて、彼らを人間と扱っていなかった。
人間にも魔獣にもなれぬ、哀れな下等種族として、見下していた。
オークとフェアリーだ。
「まさか……!」
キュロスは胸騒ぎを覚えつつ、あることを思い出した。
つい先日、あの二人がこの要塞へとやってきた。
その二人が国内に入ってきたのを確認したのは、まぎれもないキュロスだ。
討伐部隊の全滅を見届けた所で視線を外したから、その後彼らがどういった行動を取ったのかは見ていない。
どうせドラゴンに見つかって死ぬだろうと思っていたが、彼らは全滅した討伐部隊の一人に治療を施し、この要塞へと連れてきてくれたらしい。
そんな彼らは、ドラゴンを倒すと言って、旅立っていったそうだ。
それを聞いたキュロスは鼻で笑った。
なんなら、デーモンの誰もが、鼻で笑っただろう。
お前ごときがドラゴンに勝てるわけがないだろう、と。
だが奴は『竜断頭』だ。
ドラゴンを倒したことがある。
デーモンがドラゴンを地上に叩き落し、大勢で攻撃し弱らせたからこそだという声もあるが、それでも淡い期待を抱いてしまっているのも確かだ。
二人は、要塞に向かってはきていない。
ドラゴンは山から遠ざかっていく。
キュロスは物見櫓から飛び降りた。
かつては伝令員がいたが、今はもういない。
キュロスは自分の足で報告を届けなければならなかった。
■
「伝令!」
キュロスが作戦会議室に入ると同時に、その場にいた者たちが立ち上がる。
昨今、キュロスが報告に来るということは、ドラゴンの襲撃を意味していた。
迎撃に出なければならない。
たとえ叶わぬとわかっていても、抵抗の意志を見せなければ、ドラゴンとてこの要塞を攻め落とすだろう。
「ドラゴンが飛び立ち、南東の空へと消えてゆきました」
しかしその報告を聞き、彼らは中腰のまま互いに見合わせることとなった。
「どういうことだ? 南東? 国境に向かったということか?」
しかし、その報告に目をカッと見開いた者もいる。
『暗黒将軍』シーケンスだ。
「オークは見たか!?」
シーケンスは全ての目を見開いていた。
普段はほとんど喋らない老将の切羽詰まった大声に、キュロスはややたじろぎつつも、こくりと頷く。
「ハッ、オークとフェアリーはドラゴンからやや時間を置き、国境の方に向かって移動しておりました。それが何か関係が?」
「やったのか! バッシュ!」
シーケンスは気色満面の笑みで立ち上がった。
その場にいたデーモンたちは瞠目する。
ここ数か月、シーケンスがここから立ち上がることは無かった。
それどころか、身動きすら取らない日が多かった。
このジジイ、死んでるんじゃないかと疑いたくなるほどだ。
「シーケンス様、一体どういう」
「先日、『オーク英雄』バッシュがドラゴン討伐に出たのは知っているな?」
「そんな、いや、まさか……」
シーケンスの言葉に、デーモンたちはどよめいた。
確かに彼らも知っている。
『竜断頭』。
レミアム高地の戦いで、バッシュがドラゴンの首を落とした事は、あまりにも有名だ。
だが、あれは、あくまでデーモンがドラゴンを魔法で地面に引きずり下ろし、大軍勢をもって疲弊させたからにすぎない。
デーモンの多くは、そう信じていた。
オーク一人でドラゴンと戦って、勝てるものではないはずだ、と。
あくまでデーモンの力のおかげだ、と。
「信じたくなければ、信じずとも良い。だがバッシュは宣言通りドラゴンと戦い、殺すには至らず、撃退したのだろう」
「ならばなぜ、このギジェ要塞に戻ってこないのですか? オークならば、凱旋するはず!」
「まだ倒していないからだろう。とどめを刺すために追ったのだ」
律儀なことだ、とシーケンスは思う。
ドラゴンの生態はよくわかっていないが、一説によると、一度縄張りを脱したドラゴンは、その縄張りには二度と戻ってこないとされている。
あくまで一説にすぎないが……しかし、ドラゴンが消えたのは確かだ。
ドラゴンが戻ってこないとも限らないが、少なくとも、数日ぐらいは昼間に自由に活動ができよう。
「何にせよ、デーモンは、救われたのだ。オークの手によってな」
バッシュはドラゴンと戦い、勝利したのだとシーケンスは確信していた。
対し、この場にいるほとんどのデーモンは、半信半疑だ。
だが、長らくドラゴンの脅威に怯えて暮らし、幾度となく討伐を試みて失敗してきた経緯があった。
伊達や酔狂でドラゴンがいなくなることなど無い。
そして、ドラゴンの山に踏み入り、無事に降りてきた者も、いない。
バッシュは確かに勝利したのだろう。
ドラゴンが尻尾を巻いて逃げ出すような勝利を得たのだ。
「これほど屈辱なことはないな」
シーケンスの言葉に、デーモンたちは歯噛みした。
デーモンは、ドラゴンに手も足も出なかった。
一度勝利したのだから勝てると意気込んで敗北し、本腰をすえて戦ってなお勝てなかった。
結局、デーモン王ゲディグズがいなければ、レミアム高地でのドラゴン討伐も、ありえなかった事なのだと痛感させられた。
そこにきて、たった一人のオークが、ドラゴンを倒してみせた。
『竜断頭』のバッシュが、その名に違わぬ戦果を収めたのだ。
ならば、デーモンは何なのだ。
無駄に高貴にふるまって、居丈高にオークを馬鹿にして。
一体いつまで自分たちが上位者でいるつもりなのだ。
「……」
ガタリと音を立て、デーモンの一人が立ち上がった。
女であった。
青い肌に白い髪、赤い目を持つハイデーモン。
体は引き締まりつつも、女らしく出る所は出ている。
バッシュがこの場にいたなら、跪いてプロポーズしたこと間違いなしの美女であった。
「もはやデーモンの威光は地に落ちた」
女はハッキリとそう言い切ると、部屋の中は沈痛な空気に沈んだ。
認めたくなど無かった。
だが、しかし認めなければいけないのだ。
デーモンは負けた。
自分たちが思っているほど屈強な種族でもなければ、強くも偉くもなかったと。
馬鹿にしていたオークにすら、勝てないのが今のデーモンなのだ。
「閣下。『オーク英雄』バッシュ様は、デーモンの救い手となりました。このまま礼もなく帰してはデーモンの誇りに傷がつきます。威光が地に落ちようと、誇りまで失っては、あの世にてゲディグズ様に合わせる顔もなし」
「礼か」
「バッシュ様は、デーモンの女を欲していたと。そう聞き及んでおります」
「そうだな。冗談交じりではあったが、確かにそう言った」
バッシュは冗談など一言も言ってないが、確かにそう言った。
「ならば、私がかの英雄を娶り、生涯を賭して礼を尽くして参りましょう」
「馬鹿な!」
「デーモンがオークのモノになるだと!?」
「それがどういうものかわかっているのか!? 誇りを捨てるつもりか!」
女はその言葉を鼻で笑う。
「勘違いするな。私とてデーモンの女だ。私がオークのモノになるのではない。オークが私のモノになるのだ」
「そうは言うが……」
「オークだぞ、あの醜く愚かな種族にデーモンが嫁ぐなど……」
デーモンたちが不満を漏らす中、シーケンスだけが静かだった。
だがその言葉を聞き、口を開く。
「もう一度言うぞ。我らはオークを下等な種族だと見下してきたが、そのオークがドラゴンを撃退し、脅威は去った。レミアム高地に続き、『オーク英雄』バッシュは二度、我らデーモンの窮地を救ったのだ」
「むぅ……」
「この数年、我らを苦しめ続けた元凶の一つを消し去ったのだ。それも単身でな。デーモンならば、真に力を持つ者に対し、弁えた言動をせよ」
デーモンたちは難しい顔をして唸った。
それほどまでにオークを認めるというのは難しいことであった。
しかし、確かにシーケンスの言う通り。
危機は去ったのだ。
この三年、デーモンたちがどれだけ策を弄しても勝ち得なかった相手を、オークが撃退したのだ。
無論、また戻ってくる可能性も無いではないが、久しぶりに太陽の下を出歩けるのだ。
「そうだな……オーク全体は無理だが、少なくとも『オーク英雄』だけは認めなければなるまい……」
デーモンは気高き種族だ。
己が上位であることを至上とする。
しかしそれは、あくまで力が、知恵が、上だからだ。
存在が上位にあるからだ。
他者に上を行かれた時にそれを認めず、何が気高いというのか。
シーケンスはその返答に満足し、女へと振り返る。
「さて、我が娘アスモナディアよ」
「はい。父上」
「儂はすでに、バッシュ殿にお前をやる約束をしている」
「ほう、それは好都合。ですが……なぜ?」
「もう死んだと思っていたからだ」
「死んでいたでしょう。あの雪原で、かの英雄に救われなければ」
女――アスモナディアが思い返すのは、つい先日の出来事だ。
血気盛んな若者たちを引き連れ、意気揚々とドラゴン討伐へと赴いた時のことだ。
勝てると思っていた。
若者たちは、若者とはいえ腕が立つ。
皆、ヒューマンの執拗な追撃を生き延びた者たちだ。
ドラゴンの巣に裏口を作り、寝込みに奇襲をかければ、苦戦はすれども倒しきれる。
そう思っていた。
結果は無残な敗走だ。
ドラゴンは、魔法で限りなく存在を薄めたデーモンたちの侵入にあっさりと気づき、その巨体で一瞬にして数人をひき肉に変えた。
ドラゴンが爪を振るう度、ドラゴンが牙を突き立てる度、一人、また一人と死んでいった。
デーモンたちの魔法は全て鱗にはじかれ、ならばと剣や槍を突き立てようと、鱗には傷一つつかなかった。
苦戦はすれども勝てると思った自分がいかに愚かだったか、思い知らされた。
ドラゴンは別格の存在なのだと。
半数がやられた所で撤退を決意した。
しかしそれが正しかったとは言えまい。
なんとか巣からは脱したものの、身を隠す場所のない雪原にて追い付かれ、なすすべもなくブレスで黒焦げにされたのだから。
ハイデーモンとして、高い魔力耐性を持っていたからこそなんとか即死は免れたが、まさに虫の息だった。
自分を信じて付いてきてくれた若者たちの死骸の中で、情けなさと申し訳なさに塗れていた。
このまま死にたくないと思いつつも、目は溶け、肺は焦げ、筋肉は炭化し、身動きどころか意思表示すらできなかった。
そこに現れたのがバッシュだ。
彼は貴重なフェアリーの粉をアスモナディアに振りかけると、黒炭になった体を背負い、ギジェ要塞へと運んでくれたのだ。
ドラゴンがまだ空にいるかもしれない中、危険を顧みずに。
「とはいえ、死体を受け取っても礼にはなりますまい。生きていてよかった」
忘れまい。
忘れるものか。
命が助かり、安堵したあの瞬間を。
あの広い背中の温かさを。
仲間の仇を討ってくれた恩を。
「父上の戯言の詫び、ドラゴンを撃退したことで救われたデーモンの礼、そしてドラゴンに敗れ、死を待つばかりだった私の命の恩、全て返して参りましょう」
「うむ」
娘の言葉にシーケンスは深く頷いた。
「では、すぐにでも出立させていただきます」
デーモンの将『暗黒将軍』シーケンスの最後の娘、アスモナディアが会議室を出ていく。
旅立つのだ、『オーク英雄』バッシュの元へ。
きっと過酷な旅になろう。
ドラゴンのせいでほとんど国外との関係が絶たれていたが、ヒューマンたちがデーモンに対し過剰なまでの警戒心を抱いていることに変わりはないのだから。
それに、以前出ていったポプラティカの一味が暴れているなら、肩身の狭い思いもしよう。
だがそれでも、シーケンスは自分の娘なら試練を乗り超え、バッシュの元に嫁ぐだろうと確信していた。
なにせ、『オーク英雄』バッシュが、きっと似たような道のりを歩んできたのだから、その妻になろうというデーモンが同じ道を歩けぬはずもなし。
二人の婚姻は、オークの種族的地位を向上させるだろう。
かのオーク英雄の望み通りに……。
それよりも、とシーケンスは改めて会議室を見渡す。
ドラゴンが飛び去ったと知り、困惑気味のデーモンたち。
降ってわいた幸運と、自分たちがオークより遥かに脆弱だったという事実に、どうしていいのかわからない顔の配下たち。
そして、窓から見える、ドラゴンのいない蒼天の空。
ドラゴンがいなくなればやろうと思っていたことが、山ほどあった。
デーモンはこれから、忙しくなるだろう。
「バッシュの英雄譚を聞きそびれたな」
そう呟くシーケンスの口元は、礼も言わせず去っていった英雄がこの先起こすであろう逸話に想いを馳せ、自然と上がるのだった。