64.ファースト・キス
戦の勝敗というのは、途中でなんとなくわかるものだ。
勝ちか負けか、どちらかに偏り始めた時に空気が変わり始める。
味方の勢いの良さであったり、敵の怯え具合といったものを、人間は敏感に感じ取るのだ。
そして、そうして感じ取った空気によって、人の強さというものは変わる。
負けそうだと思えば、死の恐怖から腰が引け、勝てそうだと思えば、手柄欲しさに勢いが増す。
そして、そんな勢いが、そのまま勝敗に繋がることもままある。
バッシュもまた、そうした戦の趨勢を肌で感じ取ったことは何度もあった。
もちろん、そうでない時もあるが、勝てそうな時はだいたい分かった。
この戦いは勝てそうだ、と。
もちろん、負けそうな時も……。
「……それで?」
レミアム高地の戦場でドラゴンを倒した話をした時、女はそう言った。
話をする前の、あの怯えきっていた表情は消えていた。
代わりに浮かんでいたのは、冷めきった表情である。
目は半眼で、唇は少しだけ開き、やや斜めから見上げるようにバッシュを見ている。
美しい顔だが、その表情はというと、別の意味で胸が痛くなるものであった。
バッシュはこうした表情を見たことがある。
何を隠そう、オークの国でのことだ。
ある戦士が、自慢話をした時、それがあまりにもくだらない話だった時、オークたちはこんな顔をする。
そして言うのだ。
「で?」と。
おめーのつまんねーホラ話のオチはなんなんだ? と。
「……それで、か?」
女から発せられた言葉は、まさに同じような言葉だった。
まさか、ドラゴン討伐の話をして、こんな興味のなさそうな反応をされるとは思わなかった。
デーモン女がどんな反応をするかなど想像もしていなかったが、せめて何らかの感情を引き出せるとは思っていた。
その感情が驚嘆か、あるいは侮蔑かはわかっていなかったが。
「それから、どうした?」
バッシュは焦った。
ドラゴン殺しの話をして、ドラゴンが来ても大丈夫だと安心させたかったのに、まさか、ホラ吹きだと思われているのだろうか。
オーク社会において、ホラ吹きはダサいとされている。
実際の所、オークの自慢話は話を盛るのが一般的だ。
多少誇張して語ったとしても、オークは馬鹿なので、単に信じてしまうからだ。
なんなら、語る本人もそれが事実だと思って話しているから、ホラ話ではないのだ。
しかし行き過ぎた誇張は、オークであっても不審に思う。
あれ? それはさすがに無理じゃねえか?
そう思ってしまえば、聞いている方の熱は急激に冷めていく。
そうなればホラ話だ。自分の力量に見合わぬホラを吹くオークはダサい。
逆に言えば、事実を語ったにもかかわらずホラだと思われるというのは、自分の力量が信じられていない証拠とも言える。
戦いを至上とするオークにとって、これほどの屈辱は無い。
「……それから、ヒューマンの軍がなだれ込んできて、乱戦が始まった。そんな中で、俺の耳にこんな声が飛び込んできた『デーモンの本陣が奇襲を受けている』と、それを聞いた俺は――」
ゆえにバッシュは、ドラゴン討伐の話に続けて、己の戦いの歴史を話した。
勇者レトとの戦いに始まり、終戦に至るまでの激戦の数々。
滅多にすることのない、自慢話であった。
相手の女より、むしろ途中からゼルの方が興奮し始め、知らない話には驚嘆を、知っている話には相槌と補足を入れてくれた。
ゆえに、かなり臨場感のある自慢話に仕上がったと言えよう。
「終わり、か?」
しかしそれでも、女の態度は冷たかった。
「お前、殺した戦士、みんな、名誉ある、戦士だな」
何の感情も浮かばない顔、発声の拙いオーガですら、もう少し感情を込めるだろう抑揚のない言葉。
ホラ話どころではない。
バッシュの話を、完全にどうでもいいものとして捉えているのは、間違いなかった。
お前の倒した戦士、みんな名誉あったんだねー、へー、すごいねー、で? オチは?……ってなもんだ。
そう、バッシュの話にはオチがないのだ。
女を犯すという最大の山場が抜けているのだ。
「それで?」の後に、オチが離せないのだ。
どれだけ臨場感のある自慢話ができたとしても、所詮は50点なのだ。
その50点も、ドラゴン討伐を満点としたら、他の戦いはせいぜい40点台だ。
サンダーソニアで48点ぐらいだろう。
途中から、バッシュも話していて辛かった。
自慢話にこれほどの塩対応をされては、いたたまれない気持ちの方が大きかった。
自慢話は、己の自信を再確認するためのものでもあるはずなのに、次第に自信もなくなっていく。
自分が童貞だという事実が、重くのしかかってくる。
それはバッシュが、オークの国で滅多に自慢話をしなかった理由でもある。
こうなることを、恐れていたのだ。
「お前、どうしても、『名誉』まもりたい、か?」
「うん?」
デーモン女の冷たい視線が、バッシュを射竦める。
こうして言葉を交わしてくれているのは、自分を助けにきてくれた義務からだろう。
でなければ、こんな感情のこもらない言葉を発することはあるまい。
「ああ、俺はいかなる事があってもオークの名誉を守るだろう」
「名誉まもるため、ドラゴン、殺す、か?」
でなければ、向けてくる視線が、これほど無感動なものになるはずがあるまい。
興味がないのだ。バッシュに。
侮蔑すらする価値がないと思っているのだ。
「む? うむ、お前のために殺してみせよう」
「死にたくない……」
「ん? だろうな」
イマイチ会話が噛み合わないのは、きっとバッシュの言葉など、まともに聞いていないからだろう。
バッシュは会話の機微などわからないが、なんとなくそういったものは感じ取れていた。
このデーモン女は、バッシュの話を聞いている時も、どこかうわの空で、バッシュの方を見ようともしない。
バッシュとゼルがどれだけ盛り上げようと声を張っても、相槌一つうちやしない。
それに女から発せられるピリピリとした空気……威圧感にも似た気配。
それは上位の女魔族や上位のサキュバスと相対した時に、よく感じていたものだ。
バッシュを完全に、ただそこに存在している下等生物だと見ているのだろう。
内心では、別のことを考えているに違いない。
「さっき、ドラゴン、逃げた。もう、勝った、違う?」
「ドラゴンは、そんな甘い相手ではない」
女は、バッシュがドラゴンを戦わないように誘導してくるように思えた。
それはきっと、バッシュの力を信用していないからだろう。
戦えば、今度は自分も巻き込まれて死ぬと思っているのだろう。
先ほどまでの話は、女の心に何も響いていなかったのだ。
あれほどの激戦を、戦いの日々を、完全に嘘か、あるいはどうでもいいものだと思われているのだ。
屈辱である。
「どうすれば、殺す以外、名誉守れる?」
「ドラゴンを殺さずに……俺の名誉をか?」
「……うん」
ドラゴンから逃げて、別の方法で名誉を守れと言われていると、バッシュはそう感じた。
もし、これがオークの国で、他のオークに言われたのであれば、バッシュは激高していたかもしれない。
俺が戦いから逃げるものか、と。
バッシュは戦いと名誉を重んじるオークだ。
己の強さにも、『オーク英雄』と呼ばれることにも、誇りも持っている。
侮辱されて、相手を許すわけにはいかない。
まずは宣言通りドラゴンを殺し、次に自分を侮った輩を、気絶するまでぶん殴ったかもしれない。
「俺の名誉は……」
「……」
だが、目の前にいるのは、美しいデーモンの女だ。
バッシュは、もちろん名誉と誇りを守ることは大事だと考えている。
だがそれ以上に、守りたいもの……いや、捨てたいものがあった。
ここで激高した所で童貞を捨てられるわけではない。
第一、英雄たるバッシュが童貞を捨てられなければ、オークの名誉も地の落ちるのだ。
だから殴るわけにはいかない。
しかし、これほどの侮辱に対し、何を言えばいいのだろうか。
どんな言葉を発すれば、この女を妻にし、合意の上で性行為をすることができるのだろうか。
バッシュはオークだ。言葉を尽くしたいと思っても、こういう時の言葉など持たない。
(旦那)
ゼルが耳打ちをしてくる。
でもそうだ。バッシュにはゼルがいる。
こういう時は、いつだってこの妖精が知恵を授けてくれた。
バッシュの窮地を救ったのは、常にこの妖精だった。
(これは多分、ダメっす……)
しかしその妖精は、珍しく力無く首を振った。
(旦那の逸話を聞いて、ここまで冷めてる奴は無理っす……デーモンっすよ? 女とはいえデーモンなのに、旦那の武勇を聞いて、何の感情も示さないなんて、オレっちですらむかついてきたっす。もう根っこから旦那のことをナメてるっす。旦那を軽んじる奴を、旦那の嫁にするべきじゃないっすよ……)
バッシュはその言葉に絶句した。
あのゼルが、ここまで言うなどとは、思っても見なかった。
ゼルはいつだって、「いけるっす!」しか言わないものだと思っていた。
ダメな時でも言うが、それに勇気づけられるのは確かだ。
そんな楽天家のゼルが、涙ぐみながら、そんなことを言うのだ。
(そうか、ダメなのか……この女も……)
バッシュはゼルの言葉に、すとんと納得した。
何を言っても、女が妻になることは無いと、諦めた。
同時に、酷い落胆が襲いかかってくる。
またダメだったのだ、と。
戦いは時に、途中で結果がわかる。
勝つ時も、負ける時も。
今回は、負け戦だ。
また自分は、負けたのだ。
雪山を上り、ドラゴンを退け、女にいい所を見せようとドラゴンを倒してみせると豪語したものの、それすら取り合ってもらえなかった。
デーモンは、ドラゴンに困っているはずなのに。
もしドラゴンを取り逃せず、倒していたのなら少しは違ったのかもしれないが、逃がしたのは事実だ。言い訳のしようもない。
倒していない以上、倒せると豪語するのは、若者の誇大妄想にしか聞こえまい。
(……やはりデーモン女を妻にすることなど、夢のまた夢か)
土台、無理な話だったのだろう。
デーモンがオークの妻になるなど、それほどありえないということなのだろう。
「俺の名誉は、お前のような美しい女を妻にすれば、守られるだろう」
「……?」
そう思いつつ、バッシュは己の望みを口にする。
完璧なお膳立てをした上で発しようとしていた言葉を。
戦士とは、負けるとわかっていても、時として勇敢に最後の一撃に臨まなければならない時もある。
バッシュが倒してきた戦士たちは、皆そうだった。
負けると知りつつも、「勝負だ」と叫び、剣を振り上げて迫ってきた。
ならば自分も、誇り高きオークの戦士として、それに倣おう。
「ツマ?」
「ああ、俺の妻となり、子を産んでほしい」
プロポーズである。
「わたしを、妻にする、番になる、名誉守れるの、なぜ?」
デーモン女はそう聞いてくる。
意地の悪いことだ。
バッシュがどれだけ身の程しらずなことをしたのか、自分で説明させようというのだろう。
「普通のオークは、お前たちを妻にすることなど、生涯の全てを賭けてもできん。お前を妻とし、子をなせば、俺はオークの中でも特に優れた者として、語り継がれるだろう。オークが滅ぶその日までな」
「……」
「お前にとっては、オークの妻になるなど、屈辱かもしれんがな……」
肯定が返ってくると、そう思った。
そうね、その通りよ。さぁ、わかったら死にものぐるいで私を要塞まで護衛しなさい。
そうしたら、私に劣情を抱いた罪を不問としてあげる。
そんな言葉が帰ってくるものだと、思っていた。
ただ、バッシュは忘れていた事がある。
負け戦というのは、肌でわかるものだ。
空気感が、周囲の士気の低さが、負けると伝えてくれる。
だが、そうでない時がある。
「わかった。わたし、お前の番に、なる」
そういう時、何も知らぬ兵士は狐につままれたような気持ちで、勝利を受け入れるのだ。
■
バッシュはなんだかフワフワとした気持ちでいた。
よくわからなかった。
プロポーズをしたら相手が受け入れたという現実が、いまいち信じられなかった。
「番は、はじめて。ドキドキ、する」
女の言葉だけが、その事実を肯定している。
無論、その言葉はドキドキしているようには見えない。
それどころか、先ほど以上の冷めた顔をしているように見えた。
女は先ほどの怯えた表情が嘘のように平然と立ち上がると、スタスタと洞窟の中をあるき始めた。
「だが番、何やるか、知ってる」
バッシュは、ただ彼女についていく。
彼女のスラリとした後ろ姿が目に入ってくる。
長く艶やかな髪、華奢な肩、長くしなやかな足、そしてキュっとしまった尻だ。
その体は、今までに見てきた女たちと比べて貧相にも思えるが、全身からはとてつもないパワーを感じた。デーモンという、強力な種族特有の力強さがあった。
その威圧感たるや、今まで見てきたデーモンの中でも随一だ。
かつて出会ったデーモンの将軍も、これほどの力強さは持っていなかった。
この女から生まれる子供は、必ず色付きとなり、オークに繁栄をもたらすだろう。
「『ホネ』に、教えて、もらった」
振り返る女の顔は美しい。
こんな女が妻ならば、こんな女で童貞を捨てられるのであれば、もはやバッシュはその場で死んでもいいかもしれないと思えるほどだ。
しかも先ほど、初めてといっただろうか。
まさにバッシュが求めていた人材であった。
「子作り、だ」
そんな女が、直接的な単語を発してなお、バッシュが女に飛びかかり、言葉通りの事を致さないのは、状況がまだ理解できていないからであった。
これほどの女が、なぜプロポーズを受け入れたのか、わかっていなかった。
警戒しているわけではない。
バッシュにしては珍しいことに、混乱していたのだ。
「子作りか」
しかしながら、バッシュの最も男らしい部分は正直である。
直接的な言葉に対し、脊髄で返事をしていた。
そうだろう、どれだけバッシュが混乱していても、彼はこの瞬間を待ちわびていたのだから。
「俺は、お前を抱いてもいいのか?」
「いい」
あっさりと許可が出た。
合意である。
オークキングの定めた『他種族との合意なき性行為を禁じる』という条件が、いま達成されたのだ。
バッシュの混乱は急速に収まっていく。
なぜならバッシュはオークだ。
誇り高きオークだ。
疑問があったとしても、女を抱けると知れば、その本能が彼を突き動かす。
「……ウオオオオォ!」
とうとう、バッシュの本能が限界に達した。
バッシュは女に襲いかかり、その体に抱きつく。
女もまた、バッシュの背に手と尻尾を回してきた。
メスのいい匂いが、バッシュの鼻孔いっぱいに広がる。
でも、なぜだろうか、いい匂いの中に、背筋がゾッとするような、何か危険な香りが含まれているのは。
「うん?」
さらに押し倒そうとして、バッシュは気づいた。
女が、先ほどより大きくなっているということに。
先ほどまで、バッシュの顎ぐらいしか無かったはずなのに、なぜか今はバッシュと同じぐらいの大きさになっている気がする。
「落ち着け」
「ん?」
押し倒そうとしても、ビクともしない。
それどころか、女はみるみるうちに大きくなっていく。
美しかった顔は、鼻から次第に尖っていく。
柔らかかった体は、鱗に覆われていく。
口の中に並んでいたぎざぎざの歯が刃のように伸びていく。
「タマゴ、ジキ、チガウ。コドモ、デキナイ。スヅクリ、サキヤル。フカ、コソダテ、アタタカイバショ、イイ。バショミツケル、メス、ツトメ」
女の声が、猛獣の唸り声へと変わっていく。
あらゆる種が聞けば、恐怖に竦みあがってしまう、最強の生物の発するの、唸り声へと。
「あ、わ、わぁ……」
バッシュの視界の端で、ゼルが腰を抜かして洞窟の壁に背中を押し付けるように後ずさっているのが見える。
バッシュも戦慄しながら顔を上げる。
抱きついていたのは、巨大な爬虫類の顔だった。
ドラゴンだ!
「なっ!」
剣は無い。
先ほど女がいた場所に置いてきたままだ。
(しまった……罠か!)
同時に、バッシュの中で、全ての疑問がつながった。
ドラゴンの血の匂いはしていたのに、洞窟の中にいたのは女だった。
当然だ。ドラゴンが化けていたのだから。
思い返せば、ドラゴンと戦っている時であろうと、女がいれば気づいたはずだ。そのためにきたのだから。
ドラゴン討伐の話を聞いても、バッシュの英雄譚を聞いても、女は顔色一つ変えなかった。
当たり前だ、自分の同胞を殺した話を聞いて、賞賛などするものか。
きっと怒りを抑えるのに必死だったに違いない。
その上、女は、プロポーズを軽く受けた。受ける理由など無いというのに。
なぜか。
この瞬間だ。
ドラゴンは賢いと聞くが、全てはバッシュを仕留めるため。
ドラゴンは女に化け、バッシュが油断する瞬間を待っていたのだ。
(……くっ!)
バッシュの体は、ドラゴンにガッシリと掴まれている。
足は尻尾の先端が巻き付いており、ピクリとも動かせなかった。
抜け出せない。
いかにバッシュがオークの中でも特別に力があるといっても、単純な力でドラゴンに勝っているわけではないのだ。
バッシュの眼前に、ドラゴンの巨大な牙が迫ってくる。
(ここまでか……!)
バッシュは死を覚悟した。
追い詰めたつもりだった。油断はしていないつもりだった。
だが、それでもドラゴンの一手が先を行ったのだ。
ドラゴンは女の姿を取ることで、バッシュを欺いた。
(……これが俺の、最後か)
だが、洞窟内でのことだ。
バッシュが正体を見破り、剣を叩きつければ、勝利を手にしただろう。
ドラゴンもまた、薄氷の上を渡ったのだ。
己の正体がバレぬよう、本性も、怒りも、努めて表に出さぬよう振舞っていたのだ。
気づいてもおかしくなかった。
つまり、ギリギリの勝負だったのだ。
ならば、負けを認めるしかなかった。
「……?」
ベロリと、バッシュの顔をドラゴンの舌が舐めた。
舌にはえた棘が、バッシュの頬に傷をつける。
だがその牙がバッシュに突き刺さることは無く、炎がバッシュを焼け焦がすこともなかった。
生臭いが、しかしどこか甘みの感じる香りが、バッシュの鼻孔を刺激した。
「くるるる……」
それどころか、ドラゴンは唸り声とは違う、少し高めの音を出しつつ、鼻先をバッシュの顔にこすりつけてきた。
バッシュの唇が裂け、血が流れだす。
バッシュでなければ顔の肉を削ぎ取られ、死に至らしめるものだったかもしれない。
しかし、爪や牙、あるいはブレスを用いたものに比べ、弱かった。
死ぬ前に、自分を痛めつけてくれた相手を甚振り、恐怖に震える姿を眺めて楽しもうとでもいうのだろうか。
「タマゴ、ジキ、キタラ、モドッテクル。ソレマデ、スヅクリ、ヤットク」
バグベアが毛皮を置いて逃げ出すであろう唸り声の中に、かすかに声のようなものが聞こえる。
だがその内容を聞き取れるほど、バッシュに余裕はなかった。
ドラゴンがバッシュから手を放す。
尻尾も離れていき、バッシュは自由の身になる。
すぐさまバッシュは距離を取ろうとする。
隙を見つけつつ、剣の場所まで戻ろうとする。
だが、その時にはドラゴンもまた、踵を返す所だった。
「メイヨ、マモル」
ドラゴンが助走をつける。
巨体の割に軽やかに、大陸最強の生物らしい力強さと勇猛さを感じさせるステップで。
ドドッ、ドドッと巨大な振動が洞窟を揺らし……。
ドラゴンは飛び立った。
■ ■ ■
そして、困惑に満ちた表情のバッシュとゼルが残った。
洞窟の外は蒼天が広がっている。
時折吹く風の音を除けば、静かなものだ。
ドラゴンの姿は、しばらく遠くに見えていたが、やがて地平線の向こうへと消えていった。
戻ってくる気配は、ない。
「……どういうことだ?」
言葉を発したのはバッシュだった。
ゼルに聞いたわけではない。
ただ、今起きた不思議な出来事について、そう言わずにはいられなかったのだ。
「あっ、えー……そっすね。えー? えーっと。多分っすけど、ドラゴンは人に化けるって伝説があるって聞いたことあるっす。旦那に勝てないと悟ったドラゴンは、咄嗟に人に化けて旦那を騙し、まんまと逃げおおせたって所っすかね」
バッシュの見解と、ほぼ同じであった。
「なぜ、奴は俺を見逃した?」
「ドラゴンは言葉を理解していたっす。旦那の話を聞いていたし、最後らへんは名誉という単語にこだわっていたようにも思えるっす。最後の一言も、なんか『名誉を守る』? みたいに言ってたように聞こえたっす。だから、自分を追い詰めた者が一流の戦士だったがゆえ、ドラゴンもその名誉を重んじて、命ばかりは見逃してくれたってこと……っすかね? ドラゴンが? ほんとに?」
「なるほど。ドラゴンもまた、名誉を重んじる生き物だったということか」
ドラゴンは、バッシュの話を終始つまらなさそうに聞いていた。
だが、決して聞いていなかったというわけではなかった、ということなのだろう。
「……」
真実は誰にもわからない。
だが、先ほどまでいた美女の姿も、ドラゴンの姿はすでに無い。
目の前に広がるのは寒々しい山々と蒼天の空ばかりだ。
バッシュは美しい妻も、ドラゴン殺しの名誉も、何一つ手に入れることができなかった。
それが現実だ。
「ふぅ……」
知らず知らずの内に、バッシュの口からため息が漏れた。
ドラゴンという脅威から生き残れた安堵を通り越し、徒労感が体全体を襲ったのだ。
北の果て、雪と氷に閉ざされた山奥まできて、強行軍で山を登り、ドラゴンと戦い、ドラゴンが化けた女に気付かず、マヌケにも口説こうとした上、逃げられた。
得られたものは何もなし。
自分は一体なにをやったのか。
さしものバッシュでも、徒労感で全身がだるかった。
「旦那、これからどうするっすか……?」
「これからか?」
むしろ、バッシュが聞きたい所だった。
情報を得て、良かれ良かれと思ってここまでやってきた。
ヒューマンの町から始まり、エルフ、ドワーフ、ビースト、サキュバス、そしてデーモン。
ここが人の住む場所の果てだ。
これ以上、先は無い。
「戻るしかあるまい」
「そっ……すね! 幸いにして、ドラゴンはしばらくこのあたりに戻ってこなさそうっすし、デーモンの所に報告に戻るのがスジっすかね」
そう聞かれ、バッシュは考える。
ギジェ要塞に戻ったとして……果たして、デーモン女は、自分になびくだろうか、と。
シーケンスは、ドラゴン討伐に出た隊の女は好きにしていいと言った。
だが、生き残りはいなかった。
洞窟内をくまなく探索したわけではないが……あのドラゴンは愚鈍なトカゲではなかった。
人に化け、人を騙す、狡猾な蛇だった。
他に生き残りがいたのであれば、見逃さないだろうし、意図的に生かしていたのであれば人化などすまい。
シーケンスからは、娘とその配下のデーモン女以外は許可されていない。
となれば、ギジェ要塞に戻り、一からデーモン女をナンパすることになるだろう。
それがうまくいくかを、今までの経験や、デーモン女の気質から考えると……。
「いや、デーモンの女が、オークである俺の妻になるとは思えん」
「じゃあ、どうするんすか? オーガの国とか行ってみるっす? それとも、ビーストの所まで戻るとか? まさかリザードマンとかハーピーの所にはいかないっすよね?」
「そうだな……」
バッシュは考える。
自分はどこに行くべきか。
オークの国を出て、様々な国を巡り、様々な女と出会い、フラれてきた。
どこにいけば、自分の望みが叶うのか。
バッシュには、まるでわからない。
オークという種族は、考える種族ではないからだ。
かつての戦場では、こういう時はどうしていたか……。
を思い出そうとしても、似たケースに思い至らない。
昔は、一つの戦いが終われば、次の戦いに赴けばよかった。
わからない時は、誰かが考え、命令してくれた。
こうして一人で、次に何をすべきかの指針がない時など、なかった。
そこでバッシュは「いや」と思い出す。
自分ひとりで考え、動いた時もあったな、と。
戦場ではなかったが……その時、指針はあった。
それに思い至った時、結論は出た。
「ヒューマンの国まで戻るか」
バッシュはオークの国を出た時、ヒューマンを嫁にしようと考え、クラッセルへと向かった。
なぜか。
ヒューマンを嫁にするのが、一番良いと思ったからだ。
なら、立ち戻るべきだ。
バッシュも旅を経て、様々なことを学んだ。
ヒューマンの国で他種族の恋愛観を、エルフの国でプロポーズの作法を、ドワーフの国でナンパの技術を、ビーストの国で服装やデートの大切さを。
戦いとは、経験の積み重ねだ。
エルフに通じる戦法の中にビーストにも通じるものがあるように、今まで学んできたものは必ずや他種族との対決で効果を発揮するはずだ。
ならば、今一度ヒューマンの女に、挑戦してみてもいいだろう。
少なくとも、デーモンより望みはあるはずだ。
「ここまで来てなんすけど、そうっすね。その方がいいかもしれないっすね。確か南東の方にヒューマンの飛地があったはずっす。ひとまずそこを目指してみるのもいいかもしれないっすね」
方針は決まった。
「よし、ならばゆこう」
「うっす!」
決まれば早い。
バッシュとゼルは頷きあい、山を下り始めるのだった。




