57.暗黒将軍
『暗黒将軍』シーケンスは、ギジェ要塞の最奥にある作戦会議室で項垂れていた。
「……」
目を閉じ、肘置きに手を置き、眠るように考えるのは、自分の今までの人生と、死んでいった仲間たちと、そしてデーモン族の行く末についてだ。
シーケンスは年寄りだ。
エルフと同程度に長生きするデーモンの中でも、特に年寄りだ。
具体的に言えば、サンダーソニアの次ぐらいに長生きしている。
その一生は戦いに彩られていた。
何も知らぬ若造の頃に始まり、『知将シーケンス』の時を経て、デーモン王ゲディグズの即位を見届け、数多の戦場で功績を上げて『暗黒将軍』の名を戴き、レミアム高地の敗戦で撤退戦の指揮を執り、その後の戦に負け続けてなお、死なずに戦い続けている。
もう歳だ、もう無理だ、そろそろ後進に道を譲れ、そう言われ続け、何年たっただろうか。
シーケンスは前線に立ち続け、生き続けた。
仲間たちは次々と死んでいった。
妻も大勢いたが、全員死んだ。
娘も大勢いたが、残ったのは一人だけだ。
戦後には三人残っていたが、一人は戦後の混乱で死に、一人は出奔し、もう一人はつい昨日、死んだ可能性が高いと知らせが入ってきた。
残った一人も、連絡がないだけで死んでいてもおかしくはない。
家族はもういない。
それどころかシーケンスには、もう力も時間も残されていなかった。
わずかに残った頭脳を、この作戦会議室で使うだけだ。
数日に一度ある会合で、解決策の見えないデーモンの未来について、知恵を絞るだけなのだ。
(皮肉だな)
と、シーケンスは思う。
ゲディグズがここに要塞を建設すると言った時、最も反対したのがシーケンスであった。
こんな場所に要塞を建ててどうする。限りある資源を無駄にするな、と。
当時、ゲディグズに反対したことは後悔しておらず、自分の言葉は何一つ間違っていないと思っている。
だが、ここに要塞がなければ、デーモン族の生き残りは逃げ場を失い、全滅していただろう。
そう、敗戦の折にこの要塞に逃げ込むと決めたのもまた、シーケンスであった。
ここならば追撃は無く、あったとしても対処できる、と。
ゲディグズはこれを想定してこの要塞を建てたわけではない。
そんなことは、シーケンスも知っている。
だからこそ思うのだ、実に皮肉だ、と。
不要であるとひたすら言い続けた自分が、デーモンの誰よりもこの要塞を頼ることになったのだから。
そんな中、シーケンスは今日も考える。
デーモンの明日はどこにあるのか、と。
戦争が終わり、三年。
いや、もう四年になるか。
デーモンは、四年もの間、この土地に閉じ込められている。
雪原は想像より動物がいるため、国民が食うには困らない。
決して豊富というわけではなく、餓死を免れているという程度だが、少なくとも餓死者はほとんどいない。
生きていくだけなら、ここでもなんとかなったろう。
奴がいなければ。
天空の覇者。
大陸最強の生物。
ドラゴン。
ここら一帯は、奴の縄張りだった。
ゆえにデーモンは昼間はロクに外にも出られず、明かりも付けず、結界を張って要塞に籠る他なかった。
夜になると鼠のように這い出して生きるための糧を探すのだ。
気高きデーモンが、鼠のように……。
国民も、最初こそは多少気楽であった。
「この程度で我々を封殺したつもりか」
「生き残りを全員奴隷にしないどころか、土地まで与えるとは浅はかなことよ」
「根絶やしにしなかったことを後悔させてやろう」
「愚かなヒューマンよ。勝利を目の前に、油断したな」
そんな風に、勝者を見下す者すらいたほどだ。
なんなら、シーケンスもまた、その内の一人であったと言えよう。
ヒューマンを見下していたわけではないが、ここから立て直すことは十分に可能だろうと考えていた。
デーモンの身体は頑強で寒さに強く、数日は食わずとも平気で、魔法技術は全種族中トップクラス。
優れた種族であるデーモンは、この死地である雪原においても、十分に生活していくことができた。
土地を耕し、家畜を作り、十数年ほど戦力増強に勤めれば、この雪原をデーモンで埋め尽くすことも可能だろうと思っていた。
たとえドラゴンがいたとしても、だ。
ドラゴンは確かに最強の生物だ。
生半可に勝てる相手ではない。
それはこのヴァストニア大陸の生物全ての共通認識と言えるものだ。
だが、レミアム高地では確かに一匹のドラゴンを倒している。
レミアム高地のドラゴンが出現した時は、その威容と圧倒的な火力に恐れおののいた。
誰もが「どうするんだ、あんなの」と呆然と空を見上げたものだ。
だが、倒してしまえば大したことのない相手だったと言える。
想定よりも弱かった、という手応えすらあった。
なにせ地表に引きずり下ろした後、とどめを刺したのは一人のオークの戦士だ。
オークはデーモンに遥かに劣る種族だ。
オークにできて、我々にできぬはずがない。
レミアム高地の戦いより戦力が整ってはいないがゆえ、犠牲も出るだろう。
だが、必ずや討伐し、この雪原は我らの手に入る。
それはデーモンたちにとって決定事項と言えるものだった。
その考えが思い上がりだと知ったのは、討伐隊を組織し、ドラゴンに戦闘を仕掛けた後だ。
最初の戦闘で、討伐隊は全滅した。
指揮官は、シーケンスの娘の一人、リメンディアだった。
その上、ドラゴンは思いもよらない行動に出た。
ギジェ要塞に飛来し、報復を行ったのだ。
地獄だった。
ドラゴンのファイアブレスはデーモンの魔法障壁をあっさりと突き破り、屈強なデーモンを一瞬で消し炭に変えた。
デーモンの使う魔法はドラゴンにほとんど当たらず、あたったとしても鱗に弾かれた。
不幸中の幸いだったのは、ギジェ要塞が堅牢だったことか。
崖に作られた地形ゆえ、ドラゴンは地表に舞い降りることが出来ず、要塞中に張り巡らされた結界により、ファイアブレスが要塞の全てを焼き尽くすには至らなかった。
だが、だからこそというべきか、ドラゴンは満足しなかった。
ドラゴンは数日に一度はギジェ要塞に飛来し、空中からブレスを見舞うようになったのだ。
デーモンたちはギジェ要塞の周囲に隠遁の結界を張り巡らせた。
ドラゴンからは視認できなくする結界だ。
だが、それでもドラゴンはやってきた。
見えなくとも場所は憶えているのだろう、やたらめったらにブレスを吹き付けてきた。
見えなくてそれだ。
要塞の外を出歩いているのが見つかろうものなら、当然のように舞い降りてきて食われた。
ゆえにデーモンたちは、日中は要塞外にでることが叶わなくなった。
それどころか、恐怖から、要塞内であっても、目立たぬようにフードをかぶり、余計な声を上げぬよう静かにする者が増えた。
ドラゴンは夜行性でないためか、夜に襲ってくることはなかったが、デーモンたちに恐怖を植え付けるには十分だったと言えよう。
一連の攻防でデーモンたちは心を折られたのだ。
ドラゴンには、勝てない、と。
(どうすればいい……)
シーケンスは、毎日悩んでいる。
どうすれば、この状態からデーモンは日の目を見ることができるのか。
毎日悩んでいる。
答えは出ない。
せめてドラゴンがいなくなればとは、誰もが思っている。
だが、有効な手が浮かぶことは無い。
デーモンたちの大半は、すでに諦めている。
自分たちはこの雪と氷に閉じ込められたまま、死に絶えるのだと。
わからない。
シーケンスはデーモン随一の知将と言われ、あらゆる戦場で答えを見つけ出してきた。
その結果『暗黒将軍』などという称号まで頂いたシーケンスでも、わからない。
どうすればいいのか。
ただ悩むことしかできない。
今日も一日、椅子に座ったまま、体を霜で覆われてもなお微動だにせず、無為に……。
「失礼します。閣下、お客人をお連れしました」
しかし、その日は、どうやら違うようであった。
兵士が一人、作戦会議室の入り口に立っている。
気配に憶えがある。最近になって兵になった若造だ。
「客だと? 誰だ? 会議までは誰も来るなと言っておいたはずだ」
「はっ、しかし国外からですので」
国外と聞いて、シーケンスはようやく目を一つ開けた。
そのまま流し目で入り口の兵士を見る。
そして、その隣に立つ者を見て、全ての目を見開いた。
「お前は……!」
左右側面に四つある目と、前方に並ぶ四つの目。
八つ全ての目を見開いて、その男を見た。
オークだ。
ただのグリーンオーク。
どこにでもいる。戦場で木っ端のように死んでいく有象無象。
優秀な戦士はいくらかいるが、それでも所詮『数』で数えられる程度の消耗品。
そういう認識だから、シーケンスには、オークの見分けなどつかない。
友人が「オークの中にも骨のあるやつがいる」と言っても鼻で笑ったぐらいだ。
だがそいつを見た瞬間、全身が総毛立った。
全身にビリビリと震えが走る。
こいつを見たのは一度だけ。
だが忘れるものか。こんなオークは二人といない。
シーケンスはオークの名前をほとんど憶えていない。
けどそいつだけは、忘れるはずもない。
「バッシュか!?」
「お久しぶりです」
シーケンスは思わず立ち上がっていた。
何週間かぶりの起立だ。
シーケンスの腰と足がバキバキと音を立て、体表に張り付いた霜が地面に舞い散った。
バッシュ。
かのグリーンオークは、レミアム高地での決戦の前後から、目覚ましい活躍を見せていた戦士だ。
シーケンスの友人である『剛剣将軍』ネザーハンクスが、生涯で唯一、己の剣を贈った相手でもある。
ゲディグズの死後、敗戦が続く中において、このオークの活躍だけは聞こえてきた。
ヒューマンの猛攻に対し指揮官の滞在する陣地をいくつも潰し、エルフの大魔道を倒し、絶体絶命に陥ったサキュバスを救った……。
それに、かのゲディグズの最後を看取った男でもある。
勇者レトを屠った男でもある。
この男がゲディグズの死体を抱え、シーケンスの所に訪れた時のことは、忘れるはずもない。
あの時の絶望は、思い出したくもないが。
だがそんなことより、シーケンスはもう一つ、知っていることがある。
バッシュの二つ名だ。
多くの二つ名をもつこのオークは、特にデーモンの中ではこう呼ばれている。
『竜断頭』。
ドラゴンスレイヤー。
バッシュは、レミアム高地の決戦で、ドラゴンを打倒した。
倒したのだ、あのドラゴンを。
今、まさにデーモンが探し求めていた人材と言えよう。
このオークを使えば、あるいはデーモンを恐怖に陥れたかのドラゴンを……。
だが、シーケンスが安易に感情を露わにすることはない。
目の前のオークが自分に都合のいい理由で現れたはずはなく、また自分の思い通りの駒になる時代でもないことを、理解していたからだ。
「……なぜここに?」
ゆえに、冷静にその疑問を口にした。
冷静に考えれば、『オーク英雄』たるバッシュがここにくるはずがない。
オークとて、デーモン同様に四種族同盟に頭を押さえつけられている立場のはずだ。
そんな国の英雄が、なぜ国元を離れて、こんな場所まで来るというのか。
「ヒューマンの王子ナザールより、書状を預かってきた」
それを聞いて、シーケンスは目を四つ閉じた。
やはりと内心で頷く。
オークが自分の考えでここまで来るはずはない。
問題はその内容だ。
「受け取ろう」
バッシュが懐から取り出した紙は、道中の過酷さを物語るものであった。
角は全て潰れており、一度水にでも浸けたかのように全体的にゴワついていた。
かろうじてヒューマン王家の封印が残っていたため、それがナザールのものであることが真実であるとわかる。
(ヒューマンの若造からの書状、か……)
ゴワゴワの封筒を鋭い爪で切り、中の手紙を取り出す。
「ふむ……」
文字は滲んで見えなくなっていた。
何が書いてあるのか、まったくわからない。
オークなんぞに手紙を運ばせるからだ。
「なるほどな」
とはいえ、ヒューマンの王子ナザールが、オークに書状を持たせてまで問い詰めたいことの予想はつく。
シーケンスの娘、ポプラティカとその一味のことだろう。
彼女達は「ゲディグズ様を復活させる」と息巻いて出ていった。
シーケンスがデーモンの国からなんとか持ち出した国宝まで盗んで、だ。
彼女に追従して出ていった者たちも大勢いる。
だが、彼らが今はどうしているかなど、わかろうはずもない。
なにせ、ここには大した情報は一切入ってこないのだから。
「で、貴様はなんだ? この手紙を届けただけか? 『オーク英雄』が、ヒューマンの小僧の走狗と成り下がったか?」
シーケンスはいつもの調子でそう言ったが、運び手の選出に間違いは無いと思っていた。
バッシュでなければ、ここまでたどり着けなかった可能性も高い。
むしろどうやって国境からここまで、ドラゴンの目を搔い潜ってたどり着いたのか、どうやって隠匿された要塞を見つけ出したのか、酒でも飲みながら聴きたいぐらいだ。
シーケンスは見た目とは裏腹に、若者の武勇伝を聞くのは結構好きだった。
それぐらい、バッシュに書状を運ばせるという判断は正しい。
たどり着けた時点で、正しかったと言い切れる。
それでも口から嘲るような文言がついて出たのは、デーモンの癖みたいなものだろう。
相手を侮らずにはいられないのだ。自分たちが落ちぶれても。
さて、バッシュに手紙を運ばせるのは正しいとして、『どうして』という疑問が残る。
どうしてバッシュはそれを引き受けたのか。
下等とはいえ誇り高き戦士の英雄が、なぜ手紙の運搬などという雑事をするのか。
「走狗のつもりはない」
「だろうな。ただの使い走りがここまで来れるものか。夜にここを訪れたということは、貴様も見たのだろう? 奴を」
「ドラゴンか。ああ、見たぞ」
「見たぞ、ときたか。で、どうした? 倒してきたのか?」
「いや、落とす手段が無かったからな。雪に隠れて夜を待った」
「そうか、まるで……」
シーケンスは「まるで落とす手段があれば倒せるとでも言わんばかりだな」と言いかけて、やめた。
それを一度成し遂げた者に言うのは、愚かだ。
「貴様の口から目的を聞きたい。こんな紙切れでも、寒さで縮こまっているフェアリーでもなく、貴様の口からだ」
シーケンスは、敬意を込めてそう言った。
デーモンがオークに敬意を込めるなど、そう無いことだ。
オークの言葉など、本来であれば聞く価値などない。
もし隣に別の種族がいたなら、そっちに聞く。
オークなど口を開いても大した言葉を発しないからだ。
どうせ大言壮語を口にし、馬鹿なことを口走るだけだ。
フェアリーの方がまだマシだ。
だがそれでもシーケンスはバッシュの言葉を待った。
それほどシーケンスは、バッシュを高く評価していた。
「……」
バッシュは凄まじい眼力でシーケンスを睨みつけた。
歴戦のシーケンスの背筋がぞっとするような、強い視線だ。
「お前の娘を、紹介してほしい」
「ポプラティカか? 儂はアレの居場所など知らんぞ」
「別の娘は?」
「リメンディアは死んだ」
「確か、もう一人いたはずだ」
「いたとも! アスモナディアがな!」
「ではその娘を紹介してくれ」
シーケンスは考える。
娘を紹介して欲しい。
デーモンの常識で考えると、「お前の娘と付き合いたい」という意味だ。
それを普通のオークの言葉に当てはめると「貴様の娘を犯し、子を孕ませてやるぜ」という意味になる。
デーモン貴族として、許せぬ発言だ。
叩き潰して思い知らせるしかあるまい。
だが、目の前にいるのは『オーク英雄』バッシュだ。
このオークが、いかなる人物か、シーケンスはよく知らない。
ただ、かつての友人はバッシュを評して「骨のある奴だ」と言った。
頑固で、他人を滅多に褒めない男だった。
まして自分のお気に入りの剣を渡すなど、シーケンスが生きていて一度しか聞いたことがない。
ヒューマンの王子ナザールは、この男に紋付きの書状を託した。
ヒューマンが、オークにだ。
確かにバッシュは運び手として最高だろうが、もっと他にも人はいただろう。
オーク以上に信頼できる者など、いくらでもいるはずだ。
「貴様は……アスモナディアがなにをしているのか、知っているのか?」
ゆえにシーケンスは真意を探る。
「いや、知らんな」
「今は、ドラゴン討伐の指揮を執っている」
「そうか」
と、フェアリーが動いた。
オークの耳元で、こしょこしょと何かを話している。
何を企んでいるのかは知らんが、オークとフェアリーの企むことなどたかが知れている。
フェアリーはオークよりも賢いが、デーモンからすれば同じぐらい馬鹿だからだ。
「倒せる算段はついているのか?」
バッシュの言葉は、ある意味デーモンを侮るものであった。
そんなものは無い。
あればとっくにドラゴンは骨と化し、デーモンはこのレス雪原全土に版図を広げているはずだ。
「いいや。だが奴の巣は見つけた。東の山中だ。空にいるならともかく、地面を這いずり回っている時なら、勝機はある」
「そうだな」
「簡単に言う」
これが知らないオークであれば、シーケンスも苛ついたかもしれない。
簡単に同意するな、と。
そう易々といく相手ではないぞ、と。
「簡単ではないが、前に一度殺したことがある」
「そうだな!」
だが、目の前のオークは、それを証明してみせた男だ。
この世で唯一「地面を這いずり回っているドラゴンなら殺せる」と豪語していい男だ。
冗談のような実例を持つ男だ。
まぁ、その実例が、デーモン族を死地に追いやらせたとも言えるが、気高きデーモンがオーク如きの真似事すらできずに追い詰められているとは、口が裂けても言えるものではない。
「我が娘は、前例があるなら自分にもできると、そう言って、何日も前に若者連中を連れて出ていった」
「つまり、今はドラゴンの巣にいると?」
「かもしれん」
予定では、もう帰ってきているはずだが、戻ってきていない。
そして日が落ちる前に、偵察部隊長が、全滅を確認したと言ってきた。
死亡が確認できたのは、出撃した人数より少なかったらしいので、全員が死んだとは限らないらしく、また死体の判別もできないほどに焼け焦げていたらしい。
ゆえに、生きている可能性はゼロではない。
未だドラゴンの巣の近くに潜伏しているかもしれない。
勝機という点は、すでに失われているだろうが……。
愚かなことだとシーケンスは思う。
相手はドラゴンだ。
そこらの魔獣とは違う。狡猾で残忍で、執念深く、知恵もある。
自分の巣に襲いかかる脅威に対する術を、持っていないはずがないのだ。
仮に追い詰めることができたとしても、何かしらの奥の手を隠し持っている可能性だってある。
娘にも、彼女を取り巻く若者たちにもそう言ったが、所詮はただのでかいトカゲだと聞く耳を持たなかった。
ならどうして、奴はギジェ要塞に舞い降りないのか。
ならどうして、空からブレスを吐くだけなのか。
地上に降りたら我らに勝てないからだと、そう豪語して。
その結果が全滅だ。
「我が娘とは思えぬほどに愚かなことだ。そんな娘で良いのならば、紹介しようではないか。なんなら、嫁にでもするか?」
「っ! いいのか!」
「儂はゆるそう。生きていたならな」
オークの嫁。
それはデーモンにとって、許されざる存在だった。
デーモン貴族が愚かなオークの嫁となり、首輪を付けられ、全裸で孕み腹を晒しながら犬のように連れ回されるなど、デーモンの名誉と誇りにかけて、絶対に許せない。
もしそんな事があろうものなら、デーモン全軍を以て、オークを滅ぼしにいくだろう。
だが敵戦力を見誤り、自分のみならず部下を勝算のない戦いに引きずり込み、死に絶えさせるなどということもまた、聡明なデーモン貴族にはあってはならんことだ。
(昔なら、名誉を優先しただろうがな……)
そう、戦時中なら、どれだけ愚かな娘でも、オークに差し出したりなどしなかった。
だが名誉は栄華を極めてこそのもの。
滅びに抗う今のデーモンには無用のものだ。
娘は『人材』という、滅びに対し少しでも蓄えねばならぬ虎の子を無駄にした。
ならば、オークの嫁という立場に堕とすのは、相応の重罰だろう。
まぁ、その前に死という名の軽罰が下ったようだが。
「今すぐ、その山に赴く」
「……本気で言っているのか?」
その言葉に、シーケンスは訝しげな視線をバッシュへと送った。
すでに死んでいる。
それぐらい、オークにもわかるはずだ。
オークは馬鹿だが、戦いに関する嗅覚は意外に鋭い。
どこの戦場が勝っていて、どこが負けているかを、なんとなく判別できる者も多かった。
「旦那、旦那……こしょこしょ……」
と、そこでフェアリーがまた耳打ちをする。
不自然な動作だ。
何かを企んでいるのは、間違いない。
バッシュはフェアリーの言葉に「うむ」と頷き、シーケンスをまっすぐに見た。
「娘のみならず、他に生き残りがいれば、俺のものにしてもいいか?」
「……!」
バッシュの目は、まったく笑っていなかった。
酷く現実的で、ありていに言えば本気の目だった。
シーケンスは幾度かこの目を戦場で見たことがあった。
死を覚悟した者の目だ。
死ぬより大事なことがあると、そう信じている者の目だ。
シーケンスの脳裏に、まさかという単語が浮かぶ。
生き残りを自分のものにする。
討伐隊は女ばかりではない、むしろほとんどが男だ。
つまり、このオークはデーモンの嫁を娶るより、別のことのために赴くつもりなのだ。
そして、ドラゴン討伐隊の生き残りをまとめ、何かをしようというのだ。
それは何だ?
「今行けば、お前も戦うことになるぞ! ドラゴンと!」
「ああ、だがそのために来た」
そのために。
ドラゴンと戦うために?
こんな所まで?
なぜ……?
と、疑問にまみれたシーケンスは、先程の手紙を思い出す。
水に濡れ、滲み、何も読めない手紙だ。
だが、もしかするとここには、その旨が書かれていたのではなかったか?
すなわち、援軍だ。
ドラゴンを打倒するため、ナザールが援軍をよこしたのだ。
だが、なぜナザールがそんなことを。
なんの利益もないはずだ。
……いや、思い出せ。停戦を持ち出したのは誰だった? あの王子だ。
停戦協定の場で一度だけ話したが、能天気で天然で、善意の塊のような男だった。
他のヒューマンと違い、デーモンを末代まで痛めつけてやろうという、薄暗い意思を感じ取れなかった。
とはいえ、やはり益があるとは思えない。
ヒューマンは名誉より利益を優先する種族だ。
「ナザールは、なぜこのようなことを? なぜお前はそれに了承した?」
「……? いや、俺から言い出したことだ。ナザールはその手助けをしてくれたに過ぎん」
「なん、だと……」
ナザールは関係ない。
とすると、このオークは、自分の意思で、わざわざこんな所まで来たということか。
ナザールの書状は、せいぜい国境を越えるための許可証と、バッシュを援軍として認めるための嘆願状ということか。
しかしバッシュは、なぜドラゴンを倒すために、こんな所にくる?
なぜデーモンを助けようとする?
「窮地を見かねて、救ってくれようとでも言うのか? オークが、デーモンを?」
「……そうすれば、デーモンとて少しはオークを見直すのではないか?」
デーモンに見直されるためにやる?
馬鹿な。
と、笑い飛ばせないのは、この男が『オーク英雄』と呼ばれる存在だからだ。
こいつはそうだった。
戦場で、どんな所にでも助けに現れて、劣勢だった戦況をぶち破ってくれた。
シーケンスとて、当時はオークなんぞにと思い、認めてこなかったが、わかっていたのだ。
こいつのお陰で、レミアム高地も助かったのだ。
ドラゴンを倒し、勇者レトを倒したお陰で、七種族連合は戦力を残したまま撤退できた。
その後の活躍もまた、全体で見ればデーモンにとってプラスだった。
サキュバスを助けた一件もそうだ。
サキュバスが滅びれば、エルフの戦力はデーモンに集中していただろう。そうなればデーモンは停戦の日まで戦い続けることは出来なかったに違いない。
バッシュのおかげなのだ。
だからシーケンスは、バッシュに一目置いているのだ。
そもそも、こいつは『オーク英雄』だ。
『オーク英雄』は、長らく誕生していなかった。
その名に値する戦士がいなかったからだと聞いているが、オークは馬鹿だ。
普段は誇りだの、名誉だのと口にしているが、戦闘中に女を見つければ、見境なくそこらの茂みに連れ込むような、下等生物だ。
強い者に媚びへつらうが、内心では自分の方が強いと考えているような下種な種族だ。
そんな馬鹿な連中が、バッシュを認めたのだ。
自分たちの頂点、『オーク英雄』だということを。
バッシュが、その称号に値する戦士だということを。
ならば、もはや理屈ではあるまい。
この男は、オークの名誉のために、己を捨てて動ける男ということだ。
オークがデーモンに見直されるため、という理由に、これほどの信憑性があろうか。
「一つだけ聞きたい。なぜお前は、それほどの危険をさらす?」
「決まっている」
バッシュはシーケンスに背中を向けつつ、半目だけこちらに向けていった。
「デーモンの女を妻にしたいからだ」
その冗談に、シーケンスは声を上げて笑った。
心の奥底から笑ったのは、ゲディグズが生きていた時以来のことだった。