55.レス雪原
デーモンの国。
そこはアルガーディア渓谷を抜け、さらに二つほど山を越えた先にある。
サキュバスの国を出立したバッシュたちは、洪水の収まったアルガーディア渓谷を登攀し、この国へと侵入した。密入国ではあるが、国境には書置きを残したから大丈夫だろうという判断だ。
そんなバッシュたちの目の前には、雪原が広がっていた。
人はそこを、レス雪原と呼ぶ。
レス雪原は、かつて誰も住んでいない土地であった。
一年の大半が雪で覆われたその土地は、草木の生えぬ不毛の大地である。
デーモン王ゲディグズが即位して間もなく、デーモンはそこに拠点を作った。
ヒューマンもエルフも、直属の配下であるデーモン族ですらも、その拠点の意味を知らなかった。
デーモン王ゲディグズが何を思い、そこに目を付けたのかはわからない。
なにせ戦略的に見て、あまり意味のある拠点ではなかったからだ。
そんな拠点が役立ったのは、ゲディグズが崩御した後だった。
ゲディグズが崩御した後のデーモンは、ひどいものであった。
四種族同盟からの苛烈な攻撃を受け、戦線は後退し続け、やがて首都すらも陥落。
デーモンは昔から慣れ親しんだ土地を追いだされ、この地へと逃げ込んだ。
そこで、ゲディグズの建てた拠点が役に立った。
渓谷と山に阻まれた拠点は、意外にも守りに強く、また戦略的に価値が無いということで、積極的に攻める理由もなかった。
攻めに適した地形ではない。アルガーディア渓谷に唯一かかる橋に軍を置いて備えておけば何もできまいと、四種族同盟の首脳陣も思ったのだ。
そして実際、デーモンに戦線を押し戻す力は残されていなかった。
デーモンと四種族同盟がアルガーディア渓谷とレス雪原を挟んでにらみ合っているうちに、戦争は終わった。
そして、デーモンはそのまま、雪原へと閉じ込められることとなった。
多少の外交をするために、許可を得た上位種がわずかに出入りできるだけで、他のデーモンはこの地から外に出ることを禁じられた。
出入り口となる場所は、アルガーディア渓谷にかかる一本の橋のみ。
そこは四種族連合によって砦が建設され、精鋭によって警備が引かれ、入出国したい場合には厳しい審査が行われる。
それほど徹底して、デーモンは隔離された。
サキュバスと同等か、それ以上に。
現在、デーモンの元を訪れる者はほとんどいない。
バッシュとゼル、歴戦の戦士である二人も、同様であった。
■
「いやー、何にもない! その上、めっちゃ寒いっすねぇ!」
「そうか?」
「空飛ぶ花弁と呼ばれるフェアリーにとって、この寒さは身体に毒っすよ! 花は寒さに弱いんす! 花はあたたかな日差しとポカポカの大地でのみ花開くんす! そして時がきたら風にのってフワフワと空へと旅立っていくんす!」
そう言うゼルは、珍しくチョロチョロと飛び回っていなかった。
道中で狩った獣の毛皮を身にまとい、バッシュの肩の上でガタガタと震えていた。
それどころかバッシュの首に巻き付き、その体温を余すことなく奪おうと画策している。
「うひー、旦那の首筋、温かいっす~……」
もしこの情けない姿をフェアリー族の名高き戦士ゼルが見たとしたら、「フェアリーの風上にも置けない」、「遺憾である」、「自覚を持ってほしい」、「地元の恥」という罵声を浴びせただろう。
しかし、そんなゼルとて、この土地に来ればこうして毛皮に包まるより他に無かった。
あるいは偉大なる戦士ゼルであれば、それを否定しただろう。自分は違う、フェアリーとして毅然とした姿を見せてやる、と。
だが、皮肉なことに、それをゼル自身が証明してしまった形だ。
あのゼルとて寒さにはかなわないのだ、と。
「そうか」
バッシュはというと、オークという種族柄、寒暖に強いというのもあり、ケロッとしていた。
流石に寒さは感じているため、毛皮をまとってはいるが。
フェアリーが花とするなら、オークは敷き詰められたタイルの隙間から生えてくる雑草だろう。
「しっかし、全然見当たらないっすね。デーモンの町! オレっちもこのあたりに来たのははじめてっすけど、そろそろ人の痕跡の一つや二つ、見つかってもいいと思うんすよね! おっかしいなぁ! オレっちが人の足跡一つ見つけられないなんて無いのになぁ! もしかして、デーモンはとっくの昔に滅んでたりはしないっすよね!?」
「それはあるまい。奴らはしぶとい」
ここ数日、二人はデーモンの町を探して彷徨っていたが、町の影はもちろん、人の気配すら感じられなかった。
それどころか、このだだっ広い雪原では、生物の姿すらほとんど見かけることが無い。
夜間に鹿や狐、それに真っ白い熊を見る程度だ。
しかもなぜか、昼間はやたらと数が少ない。
夜行性の生物が多いのは間違いない。
だが、夜に見かける生物も、どうにも様子がおかしいのだ。
視界があまり効かないのか、妙に動きが鈍い。
まるで本当は昼に活動する生物なのに、夜に無理やり起きているかのようだ。
「……っ!」
そんな、違和感を抱いていたからだろう。
異変を察知した瞬間に動けたのは。
「わぶっ」
バッシュが、唐突に雪に頭から突っ込んだ。
雪に潜り込み、かき分け、己の身を完全に隠してから指で穴を作り、片目だけで外の様子を窺い始める。
「……うわっ、雪が! 冷たぁ! ななな、なんすかいきなり?」
「黙れ、見ろ」
切羽詰まったその言葉に、ゼルは素直に口を閉じて、バッシュの開けた穴に首をずぼっと突っ込んで首だけ出し、外を窺う。
「うっ……」
ゼルは一瞬で首を引っ込めた。
それは、空にいた。
悠々と、散歩でもするかのように空を泳いでいた。
ゼルがいつものように飛んでいれば、きっともっと早くに気づけただろう。
太陽を浴びてキラキラと光る赤い鱗は遠くからでも目立ち、遠くからでも聞こえてきそうな巨大な翼の音……。
己の存在の一切を隠すことのなく、あまつさえその威容を見せつけるような姿は、それに天敵がいないことを示していた。
「ド、ド、ドラゴン……」
ヴァストニア大陸最強の生物が、そこにいた。
「……」
さしものゼルも、ドラゴンを見ては、やかましい口を閉じざるを得なかった。
本能的な恐怖が身を支配していた。
バッシュもまたそうであった。
雪に埋もれながら空を見上げ、奥歯を噛み締め、剣の柄を握りしめていた。
「……行ったか」
やがてドラゴンの姿が見えなくなると、バッシュは雪の中から這い出てきた。
二度、三度と空を見渡し、ふぅと息をつく。
「ここらってドラゴンの生息域なんすね……」
「そのようだな」
「ひえ~……見てほしいっす、震えが止まらないっすよ……」
ゼルはドラゴンを見た時から止まらない寒気で身を震わせていた。
もしかすると寒さが原因なのかもしれないが、まぁ流石にドラゴンのせいだろう。
「ああ……」
対するバッシュはというと、ドラゴンの方を警戒はしていたものの、いつもと変わらぬ様子だった。
「やっぱドラゴン殺しの旦那! ドラゴンなんか怖くないってことっすか?」
「そんなことはない。恐怖はある」
「そんなこと言いつつも、倒したことあるくせに! 過ぎた謙遜は体に毒っすよ! ほら、言って欲しいっす! オレはドラゴンなんざ怖くねぇ、むしろドラゴンの方がオレを見たら震え上がってしょんべんちびるだろうよ! って! オレっちを安心させて欲しいっす!」
「言ってやってもいいが、ドラゴンから見れば俺など芋虫も同然だ。震えまい」
バッシュは嘘や冗談を言ったつもりはない。
勇敢な戦士とて、恐怖を持つことはある。
それを否定するほど、バッシュは子供ではなかった。
戦うとなれば、震える身体に活を入れ、ウォークライと共に突撃していくが、それはドラゴンを侮っていいという意味ではない。
たしかに、バッシュは一度、ドラゴンを倒したことがある。
だがそれでも、かの生物が、この大陸全ての生物の頂点に立つ存在だという事実は変わらない。
その事実は、たかだか一匹と戦って勝ったから変わるものではないからだ。
ドラゴンが一瞬にして数百のオークを消し炭にできる事実に、変化が無いようにだ。
無論、バッシュは必要とあらば戦うし、勝って見せる。
その覚悟が決まっているというだけで、怖いものは怖いのだ。
「今でも、戦ったら勝てるっすか?」
「勝てんだろうな。この何もない雪原では、飛び回るヤツに対して打つ手が無い。お前に奴を引きずり下ろす手段があれば別だがな」
「さしものオレっちにも無いっすね! とはいえ、そういうことなら見つからないようにしないといけないっすね」
無防備に雪原を歩くのはリスクが大きすぎた。
ドラゴンは目がいいのだ。
ここ数日は運よく見つからなかったが、もし発見されていたら、今頃消し炭にされていただろう。
「昼間に生き物がいないわけだな」
「昼はドラゴンの王国だったってワケっすか……」
「ならば夜を待つか」
「そうっすね。ヘタに移動して見つかってもコトっすから!」
ゼルはバッシュに巻き付いたまま、こくこくとうなずいた。
バッシュもゼルも、夜間の隠密行動はさほど得意ではない。
とはいえ、苦手であってもやらなければならないのが世の常である。
大体、昼ならもっとダメなのだから、気にする必要もない。
「とりあえず、さっさと町を見つけたいっすけど……これだけ探しても見つからないなら、先にどっか魔獣の巣でも見つけたいっすね。ここらの魔獣なら、ドラゴンから身を隠すに適した場所に巣を作ってそうっすから、そこを拠点にして偵察に回りたい所っす」
「腰を据えるわけか」
バッシュはドラゴンが去っていった方向に気を配りつつ、身体の周りの雪を押し広げて雪洞を作り、あぐらをかいて座った。
そして、目を閉じる。
夜に行動するのなら、しばらくは暇だ。
バッシュは何日も休まず行動することができるが、休める時には休む男だった。
「む……?」
だが、そんなバッシュの耳に、聞き慣れた音が届いた。
大勢の人間が戦う時の音。
鬨の声。
やや遅れて、過去に一度だけ聞いた音も届いた。
全身が震えるような大音声。
ドラゴンの鳴き声。
ブレスが大地を爆ぜさせる轟音。
つまり戦いの音だ。
■ ■ ■
バッシュが現場に到着した時、すでに戦いに決着がついていた。
死屍累々。
十名程度の死体が転がっていた。
半分は炭化しており、もう半分は四肢がバラバラになっていた。
ドラゴンの姿は遠い空にあり、その口には何かが咥えられているのがわかった。
人だ。
生きている。
ドラゴンの歯に体を貫かれながらも、手をバタバタと動かしていた。
だが、今がどうであれ、運命はすでに決まっている。
空中で噛みちぎられるか、巣に持ち帰って食われるか……どちらかだろう。
バッシュはドラゴンが視界から消えるのを待ってから、慎重に死体の方へと近づいていった。
全てが炭になっていた。
雪に覆われていたはずの地面が露出し、真っ黒に焦げ、ちろちろと火が残っている。
死体はそんな焦げた地面と同化していた。
「たったこれだけの人数で、ドラゴンと戦ったのか……?」
バッシュはそう嘯きつつ、死体の数を数える。
バラバラの死体も多いが、手足の数で見ても、十名に満たない。
どうあがいても、ドラゴンに勝てる戦力とは思えなかった。
頭のいいデーモンが、少人数でドラゴンと戦うなどという愚を犯すだろうか。
移動中に偶然襲われたと考えてもいいが、この地で暮らしている者が、迂闊に外を出歩くとは考えにくい。
それだけ安全な場所なら、とっくの昔にバッシュたちはデーモンの一人や二人と遭遇しているはずだからだ。
「旦那、足跡は山の方からきてるっす」
ゼルの言葉でそちらをみやれば、確かに雪にくっきりと、彼らが移動してきたであろう痕跡が残っていた。
山の方へと続いている足跡。
となれば、元々はもっと大人数でドラゴンと戦い、勝てずに撤退した結果、追撃を受けた……と考える方が自然だろう。
「あっ! 旦那、一人だけ息があるっすよ!」
と、周囲を飛び回っていたゼルがそんなことを言い出した。
バッシュがそちらに向かうと、確かに一人、全身を炭化させつつも、ヒューヒューと息をしている奴がいた。
目は開いているが、眼球は焼け焦げて無く、意識もあるのかないのかわからない。
種族どころか、男女の区別もつかない。
だが、ドラゴンのブレスで即死しないのであれば、よほど魔法耐性が高いのだろう。
となれば、デーモンか、あるいはエルフだ。ここまできてエルフはあるまい。高位のデーモンであろう。
何にせよ、バッシュはゼルを見上げて言った。
「助けてやれ」
「了解っす!」
ゼルの粉が撒き散らされる。
雪よりも白く、しかし時折金色が交じる、けっこうヤバイ値段で取引される粉が、かなりの量をこぼしながら。
とはいえ、かなりの重症だ。いかにフェアリーの粉といえど、即座に完治するということはなく、表面の炭がボロボロと落ちた程度。
相変わらず、全身は炭化している。
しかし、その奥では、間違いなく新しい皮膚が誕生していることだろう。
「助かるか?」
「わかんないっすね。デーモンならまぁ、生命力も強いし、なんとか生き残るんじゃないっすか」
生きていれば、火傷もいずれ消えて、一週間もすれば肌が元通りになるだろう。
だが、皮膚が再生しきる前に息を引き取る、というパターンもありえた。
フェアリーの粉は死体を再生させることは無い。
その時は、運が悪かったと思うだけだ。
そういう事は、よくあるのだから。
「他は死んでるっすね~」
「そうか。なら、ドラゴンが戻ってくる前に隠れるとしよう」
ドラゴンが戻ってくる気配は無い。
敵を討ち滅ぼし、腹も満たされたのなら、戻ってくる道理もない。
だが、何を考えているのかわからない生物に道理を説いても意味はあるまい。
さっさと逃げておくのが正解だ。
「あっ、旦那! あっちに岩場があるっす! あそこなら身を隠せる場所も見つかりやすいかも!」
「よし!」
こうして、バッシュたちは瀕死の誰かを担ぎ、岩場へと移動したのだった。
■ ■ ■
バッシュたちはドラゴンから身を隠せる岩場を見つけ、そこにある洞窟に住み着いていた一匹の魔獣を殺した。
そして、そこで夜を待った。
分厚い氷柱の下がる入り口は地上からはよく見えるが、空からは見えにくいはずだ。
なにせこの穴は魔獣の住処だ。
オークやフェアリーと同様、魔獣も等しくドラゴンを恐れている。
このあたりに生息している魔獣なら、なおさらだろう。
なら、この穴はドラゴンに見つかることは無い。
日が落ちるのを待ち、バッシュとゼルは穴の中から這い出て、周囲の偵察を始めた。
バッシュの背中には、先程助けた人物がくくりつけられている。
周囲は思いの外、明るかった。
空では巨大な満月が存在感を主張している。
その光が雪に反射し、足元をうっすらと光らせていた。
オークは夜目が効く種族ではないが、洞窟の暗さで目は慣れていた。
加えて、近くに光源もあったため、十分に周囲の様子が窺えた。
それだけ明るければ、夜を待った意味が無いのではないかと思う所だが、ドラゴンは夜行性ではない。
なら、十分だ。
「随分と賑やかだな」
「そっすね。やっぱヤバイ生き物が生息してるとなると、こうなるんっすよ。ホラ、エルフのいる森って夜は静かじゃないっすか。あいつら夜に狩りに出たりするっすから」
「そうだな」
雪と氷に覆われた夜の岩場には、昼には見なかった生物が多く見受けられた。
羽毛の生えたトカゲや、全身を剛毛で包んだ四足獣、獣なのか虫なのかもわからない毛玉のような生物などが闊歩していた。
名も知らぬその生物たちは、バッシュを見ると、一目散に逃げ出していった。
「じゃ、ちょっくら探してくるっす」
「ああ」
ゼルが飛び立ち、バッシュはその姿を見守った。
光り輝くフェアリーが夜に偵察を行うのは、かなりリスクの高い行動だ。
だが、バッシュもゼルもそんなことは気にしない。
戦時中から幾度となく行ってきた行為だから。
ついでに言えば、ここでは昼に偵察を行う方がリスクが高いと言える。
それともう一つ。
夜の方が何かが見つかるだろうという確信があった。
これはバッシュたちにとっては単なる勘だが、言い換えれば経験則に従った推論である。
ドラゴンが昼に飛ぶ。
バッシュは隠れる、ゼルも隠れる。魔獣も隠れる。
そして、夜に生きる魔獣達が、バッシュたちを見て、逃げ隠れする。
それは、夜に魔獣達を狩るハンターが存在することを示していた。
オークと似たような二足歩行の生物が、夜に彼らを狩っているのだ。
となれば……。
「旦那、あったっす!」
「でかした」
ゼルの言葉で、バッシュは移動を開始する。
岩場を抜け、丘を一つ越えた所から、それは見えた。
崖の際に作られた建築物は、一つの巨大な城のように見えた。
そこには火が灯り、人の気配が感じられる。
町だ。
昼間見てもわからないよう、魔術的な細工の施された町が、確かにそこにあった。
「あれが『ギジェ要塞』か」
『不攻不落』のギジェ要塞。
戦争中、ただ一度も攻め込まれることが無かった要塞が、そこにあった。