53.英雄vs名もなき女
巨大な、殻があった。
亀の甲羅とも、かたつむりの殻とも、あるいは虫が脱皮した跡にも見えるそれは、ただただ大きかった。
高さは成人したオーガ男性よりも高く、端は森の木々に消えて見えず、全容が掴みきれない。
苔むした森の中において、それには決して苔がつかず、虫もつかず、ぼんやりと発光していた。
当然周囲は豪雨であるが、その殻は雨を弾くのか、まるで濡れていなかった。
ヒューマンの神官が見れば、神々しいと評しただろうか。
あるいは、禍々しいと評しただろうか。
女は殻の前に立ち、しばしそれを見上げていたが、やがて中に入り込んだ。
虹色に発光する内部はこの世のものとは思えない光景だったが、女は散歩するようにそこを歩き、あっさりと最奥にたどり着いた。
最奥には、宝石のように透き通る石が鎮座していた。
石はクリスタルの管で周囲に結合されており、なんとなくだが、それがこの不思議な物体の源であると察することができた。
女はそれを無造作に掴むと、クリスタルの管から引きちぎった。
パキンと耳触りの良い音がして、あっさりと石は女の手中に落ちた。
それと同時に、周囲から輝きが消えていく。
神々しさも、禍々しさも、消えていく。
誰もがわかる。
力が失われたのだ、と。
やがてこの殻は朽ち果て、森に消えていくだろう。
それはこの殻に神々しさを見出していた者たちにとって、絶望するような光景かもしれない。
だから女はつぶやいた。
「キャロットにやらせるわけにはいかないものね……」
女は塊を布で丁寧に包むと、バックパックへとしまい込んだ。
殻の中から出て雨空を見上げ、ふぅと息をつき、ぐっと伸びをした。
「んっ……ふぅ~、こんなに時間が掛かるとは思ってなかったな……さすがに骨が折れた。サキュバスの結界も、捨てたものではないね」
そう言う女の視界には、無数の死体が転がっている。
デーモンの魔鍵によって結界が破れた後、最後の抵抗とばかりに襲いかかってきた、サキュバスの防衛隊であった。
泥にまみれたその死体は、どれも艶めかしい姿態をしている。
死んでなお、サキュバスは妖艶であった。
女は、彼女らの美しい顔を、つまらなさそうに見下ろしていたが、ふと気配がしたため、顔を上げた。
「……おや」
死体の山の先に、人影があった。
小さな二つの影と、大きな一つの影。
見覚えがあった。
ふつふつと怒りがわいてくる。
「オーク! なぜまた子供たちを連れてきた!」
女からすれば、それは不可解な行動であった。
確かに先日、契約は成されたはずだ。
オークは自分に欲情していたが、それを我慢して二人の子供を助けた。
オークにしては天晴な男である。
もちろん性欲旺盛なオークのことだから、二人をどこか安全な所に送り届けた後、自分を犯すために追ってくることは考えていた。
あるいは二人が諦めず、自分を追ってくる可能性も。
だが、三人一緒でとなると、理外であった。
「ルラルラ殿の仇を取りにきた」
「……ほう」
女はバッシュの一言で、スッと怒りが抜けた。
大方、あの後二人に事情を聞いて、義憤にかられて助太刀を申し出たといった所か。
オークが何の目的であんな所にいたのかは知らないが、自分が彼の立場であっても、助力を申し出ただろう。
どんな目的で旅をしていようが、庇護すべき子供二人を放っておくのを良いと思えるわけではないのだから。
「……驚いた。オークというのは、意外に情があついんだな」
ただ、オークがそんな行動に出るとは思っていなかった。
女の知るオークがやりそうな行動と言えば、双子を助けた後、片方が女子であることに気づいて、男を殺して犯して捨てるぐらいだ。
流石にそれは偏見が入っているため、口にはしないが。
ともあれ、オークというのは、存外に理解できる行動原理で動いているらしい。
「しかし、やはりオークだ。頭が悪いな」
「なぜだ?」
「自分が負けると、思わなかったんだろう? だから自信満々でここにきた」
なんでもいいか、と女は剣を抜き放つ。
どちらにせよ、こうして立ち向かってくる以上、やることは一緒なのだから。
「オークは戦う時に敗北を考えん」
バッシュもまた剣を抜く。
巨大な剣は、鈍く輝いている。
女はその剣に一瞬、見覚えがあるような気がしたが、すぐに思い出すのをやめた。
剣にこだわりがあるわけでもなし、どうせ思い出せない、と。
「俺は元オーク王国――」
「ああいや、名乗る必要は無い。私は名乗れないし、君が名乗る価値がある女じゃないし、これから起こるのは名誉ある決闘じゃなくて、ただの殺しだ。殺し合いですらない」
そう言って、女は踏み出した。
女の一歩はとてつもなく静かで、自然で、大きい。
並の戦士であれば、女の動き出しはもちろん、その間合いに入ったことすら気づかなかっただろう。
「残念だ。殺したくは無かったよ」
一閃。
女はオークの首が斬り落とされ、ごとりと地面に転がる……。
そう、確信していた。
「……あれ?」
だが女の剣は、バッシュの首に届く前に、分厚い剣に阻まれていた。
「っ!」
己の剣が凄まじい膂力で押し返されたと思った瞬間、女は身を翻していた。
暴風のようなバッシュの斬撃を肘でいなし、反動で二回転して、着地する。
続くバッシュの追撃を、踊るように回避していく。
五度の斬撃をくぐり抜け、女はバッシュの間合いの外へと逃げ切った。
女は己の心臓がバクバクと音を立てていることに気づいていた。
油断していた。危うく死ぬ所だった。
「……オーク、お前、強いじゃないか。びっくりだ」
バッシュの一連の攻撃は、完全に仕留めきるつもりのものだった。
その斬撃は、一撃一撃が凄まじく重く、全てに暴風と衝撃が伴っていた。
当たれば部位が欠損し、かすれば皮膚が裂け肉が飛び散り、近くを通り過ぎただけでも体勢が崩れる。
体重の軽い女であればなおのこと。
女が戦場で、そうした斬撃のかわし方を身に着けていなければ、死んでいただろう。
通り過ぎる剣からの衝撃に逆らわず、己の体を回転させて衝撃を逃す。
相当な体幹と身のこなし、それにともなう敏捷性がなければ出来ない芸当だ。
「お前もな」
バッシュも、女が自分の想像通りの強いだと再確認した。
「私の初太刀で死ななかったのも、私に回避一辺倒の動きをさせたのも、最近だとそれこそルラルラ殿以来だ」
「それは光栄だ」
女の称賛に、余裕の返答。
普通のオークであれば、もっとこう……いや、女はオークに詳しいわけではないから、また偏見によるオークの態度が出てくるだけであろう。
とにかく、女は目の前のオークが、自分の想像よりずっと大物であると察した。
同時に、拙い知識から、ある名前が浮かび上がってくる。
「オークでここまでやれるとなると……さては、君が『オーク英雄』のバッシュか?」
「そうだ」
返答と同時に、バッシュの剣が、襲いかかる。
女は間合いのギリギリを保ち、それを回避し、切り返しを行う。
切り返しはバッシュに届かず、風だけがバッシュの肌をなでる。
あからさまに踏み込みが足りぬそれは、バッシュを測る意図があることが明白だった。
「そうか、映えあるドラゴン殺しの英雄殿に名乗らなかった非礼を詫びよう……が、名乗り返すような名前は持っていない」
「……」
「とはいえ、オーク最強の戦士が相手となれば、私も本気を出さなければならないな」
女はそう言うと、改めて剣を構えた。
バッシュの目には、どこかで見たことのあるような構えに写った。
ヒューマンの騎士の構え方と似ているが、しかし少し違う。
独特な構え。
それを見て、バッシュは己の体毛が総毛立つのを感じた。
女が危険な相手だと、バッシュの本能が告げていた。
「グラアアァァアァァアァァアアォォゥ!」
己の感情をさらに高ぶらせるため、ウォークライを放つ。
戦いが始まった。
■
戦いは長く続いていた。
バッシュの暴風のような斬撃を、女がいなし反撃を加える。
ただそれだけの攻防が、大雨の中で続いている。
ぬかるんだ大地であっても、双方よろけることなく、淡々と続いている。
バッシュの一撃は女に触れることすらせず、女の反撃はバッシュを撫でるも、切り裂くは皮一枚のみで血すら流れ出ない。
演舞のようなそれは、どちらかの技量が少しでも足りていなければ成立しないものだった。
女の技量が足りずばバッシュの剣が女を切り飛ばし、バッシュの技量が足りずば女の剣がバッシュの血管を切り裂くだろう。
前者が一撃で勝負がつくのに対し、後者は時間を掛けて仕留めるという差はあるものの、結果が死であるなら同じことであった。
一撃で命を刈り取る斬撃が体の近くを幾度となく通り過ぎても、女に焦りは無かった。
淡々と、機械的に、同じことを繰り返した。
バッシュの斬撃の振り始めを見てパターンを絞り、そのまま剣が振り抜かれれば回避、フェイントが入れば一拍おいて回避、途中で剣の軌道が変われば、己の剣でいなしてから回避する。
そこからの反撃も、決して踏み込みすぎず、さりとて引きすぎず、適正な距離を維持して斬撃を放つ。
バッシュはそれを回避する。
今より踏み込めば次の攻撃を回避できず、引きすぎれば回避動作分で溜めを作ったバッシュが、より回避困難な斬撃を放ってくるのを知っていた。
回避困難な斬撃を回避すれば体勢が崩れる、体勢が崩れた上でさらに斬撃を回避しようとすれば、さらに体勢が崩れる。
行き着く先は"詰み"である。
そうなれば女に勝機は無い。
だが女は知っていた。
それは相手も同じだ、と。
バッシュは冷静だ。
オークとは思えないほど淡々と剣を振り続けている。
常に最高の踏み込みと、最高の斬撃を放ち続けている。
決着がつかないことを焦り手を抜けば、たちまち女の剣にえぐられる。
少しでも血を流せば、そこから少しずつ形勢が傾き始める。
行き着く先は"詰み"である。
ただ、このままいけばバッシュが有利であると言えるだろう。
オークの体はヒューマンの女より遥かに大きく、体力もまた続く。
スタミナが先に切れるのは、十中八九女の方だった。
だから女は勝負に出た。
「これがオークの英雄か。誰もが一目置くわけだ」
女がポツリと呟いて、半歩引いた。
バッシュの斬撃に僅かな溜めが入り、わずかに深く踏み込んだ一撃が放たれる。
斬撃は女の首元あたりをかすめるも、まだ届かない。
女は体勢を崩しつつ、剣を構える。
バッシュの返す刀が、回避不能な斬撃が女を襲う。
「だが、オークだ」
ほんの一瞬だけバッシュの斬撃に迷いが生じた。
バッシュの視線が女の胸元へと落ち、鼻がぴくつき、きつく結んだ口元が緩んだ。
切っ先は女の肩口あたりから左手の方へと抜け、衝撃は肉を弾き飛ばし、骨を砕いた。
女は踏み込みつつも衝撃に逆らわず体を回転させ、右手の剣をバッシュの首へと叩きつけた。
血しぶきが舞った。
「……!」
バッシュの首は落ちてはいなかった。
頸動脈は切り裂かれ、噴水のように血が吹き出している。
ヒューマンであれば致命傷となりうる出血であった。
「効いてくれて嬉しいが……今のに反応できるのは想定外だ」
対する女は、左手が砕け、血をとめどなく流しながらあらぬ方向を向いていた。
胸元は大きく裂け、二つの大きな双丘がまろび出ていた。
「さて、だがここからが修羅場だね……骨が折れそうだ……いや、もう折れているか……」
女は剣を構え直す。
目の前のオークが、首から大量の出血をしている程度で止まらないことはわかっていた。
オークの目から光は失われておらず、その体は熱気をまとい、冷たい雨を蒸発させていた。
ヒューマンなら絶望するような傷を受けても、オークの戦士は止まらない。
(予想以上に強い……これがドラゴン殺しの英傑か……)
むしろ、女の方が焦りを持っていた。
予定であれば、バッシュの剣は間一髪で避けきれるはずだった。
かつて、今と同じ方法でオークの戦士を倒したこともある。
それも名のある戦士だったが、やはり英雄と称される者は、それ以上ということだろう。
こうなると、オークとヒューマン女では、体の作りが違う。
女は一気に劣勢となる。
失われる血の量はバッシュの方が多くとも、先に動きが鈍り、力尽きるのは女の方だ。
ゆえに女は前に出る。
バッシュの大木のような首を、さらなる一撃で切り倒さんと剣を走らせる。
バッシュはそれに対し、今度こそは色香に惑わされんとばかりに、女の脳天めがけた一撃を放つ。
「ヒールウィンド」
バッシュの剣が空を切った。
女は踏み込んだと見せかけて身を翻したと思えば、魔法の風に包まれていた。
妖精の粉と似た色を持つ風が、女の傷を瞬く間に癒やしていく。
女の傷は治り、バッシュの傷だけが残る。
ほんの僅かに、形勢が逆転する。
「……っ!」
だが、バッシュの斬撃は早い。
誰もが戦慄と共に語る速度は、圧倒的な破壊力を有しているが、それに対して手数が多すぎる。
バッシュは回復魔法の隙を逃さない。
一撃、二撃で女の体勢は崩れた。
一歩でも引けばそうなるだろうと思っていた状況が、まさに起きていた。
三撃目が女の胴体へと叩き込まれる。
「んんんんぅぅ!」
女は今までにないほど必死の形相で、迫る剣に己の剣を合わせた。
とんでもない金属音が森に響き渡った。
不壊と呼ばれたデーモンの剣と、女の宝剣がぶつかり合い、尋常ではない衝撃が生まれた。
バッシュですら、衝撃に体がふわりと浮き、数メートルほど後ろに飛ばされた。
土煙と共に上空を見上げると、女が空中をくるくると周りながら吹っ飛んでいく所だった。
女は魔法を使ったのか、空中で体勢を立て直すと、木の枝へと着地した。
「ハァッ! ハァッ! ハァッ!」
女の息は荒く、あらわになった胸は大きく上下していた。
だが、それは運動によるものというよりは、己が感じた死に対するものだろう。
彼女は今、まさに死線を潜ったのだ。
バッシュの速度は彼女の想定を上回っており、回復する隙すら無かった。
バッシュの斬撃も重かった。
剣に大量の魔力を乗せて相殺しなければ、女の胴体は真っ二つになっていただろう。
「っ!」
息付く暇もない。
女はとっさに木の枝から跳んだ。
次の瞬間、彼女が足場としていた木が、とんでもない速度で縦回転し、周囲の木々を巻き込みつつ吹っ飛んでいった。
女はふわりと着地しながら、身を大きくかがめた。
頭上をバッシュの剣が通り過ぎていく。
その衝撃波に流されつつ体を回転させ、肘を地面に突き立てて方向転換。
回転の力を剣に乗せ、そのまま目の前にあったバッシュの踝へと叩きつける。
同時に、バッシュの縦斬りが、女の後方に着弾した。
土砂が降り注ぐ中、女は確かな手応えを感じつつ、四つん這いになりながら距離を取る。
とっさに剣を振って防御したのは、本能によるものだ。
斬撃がどちらからきて、自分がどちらに向けて防御したのかすら、女自身わからなかった。
だが、ギィンという金属音と共に跳ね飛ばされたため、自分の行動が間違っていなかったことだけが理解できた。
バッシュの縦斬りが、そのまま地面をくぐり抜け、背後へと抜けた女に下から襲いかかったなどとは、つゆほども理解できなかったが。
「はああぁ!」
どれほど幸運が降りかかろうと、女は慢心せず剣を構え、バッシュへと斬撃を繰り出した。
■
その戦いは、どれほどの時間続いただろうか。
分厚い雲と雨によって空は閉ざされ、時間の感覚がわからない。
ただ、バッシュの戦歴を鑑みれば、そう長い戦いではなかったと言えるだろう。
かのエルフの大魔道サンダーソニアとは、三日三晩戦い続けたが、今回はまだ一日も立っていない。
せいぜい一晩。
「はぁっ……はぁっ……」
「……」
その一晩で、周囲の様子は激変していた。
聖地と呼ばれた殻は半壊し、木々はなぎ倒され、巨大な竜巻でも過ぎ去ったかのような有様だった。
そんな中、二人は立っていた。
「バッシュ殿、まだやるのかい?」
「……無論だ」
バッシュは満身創痍であった。
体中、至る所に裂傷があり、その幾つかは動脈に達しているのか、だくだくと血が流れ出ている。
いかに頑強なオークと言えど、放っておけば死ぬだろうことは、誰の目にも明らかだった。
では女の方が余裕かというと、そういうわけではない。
彼女の左手はおかしな方向に折れ曲がり、頭からはダラダラと血を流している。
致命傷でないのは、彼女が回復魔法の使い手だったからに過ぎない。
それでも、回復する部位を選ばなければならないほど、魔力に余裕がないようだった。
「このままだと、私たちは共倒れになるな」
「俺は、それでも構わん……」
共倒れ。
その予感は、戦う二人の両方が感じていることだった。
互いの力は互角。
互いが互いに、一撃で致命傷を負わせられことは叶わなかった。
女の膂力ではバッシュの急所をえぐりきれず、バッシュの一撃は女に直撃しない。
少しずつ傷がついていき、互いに力を削がれてはいくが、その関係性は変わるまい。
今はまだ、妖精の粉か回復魔法で治癒できるが、続ければ、互いが回復不能な域まで傷を追うことだろう。
そして、その分水嶺を、もうすぐ越えようとしている。
「オークの英雄ともあろう者が、こんな僻地で、名もなき女と相打ちなど、そんな名誉もへったくれもない死に方はすべきではない」
「……お前とて、戦時中は名高き戦士だったのだろう」
「ああ、でも、今は違う。今の私を倒しても名誉にならないし、私に倒されても不名誉にしかならない」
女はバッシュを見つめる。
素晴らしい戦士だと、認めざるを得ない相手だった。
ただ剣を交えただけで尊敬の念が浮かんでくるような相手は、初めてだった。
「ルラルラ殿は立派な戦士だったが、お前が死んでまで仇を討たねばならん相手か!?」
「なぜお前がそんなことを気にする」
「お前のような立派な戦士が、こんな所で死ぬべきではないからだ! 私と互角に戦える戦士だぞ! この大陸に何人いる! お前は、もっと立派に、私よりもっとふさわしい相手と戦い、誇れるような戦場で死ぬべきだ!」
女はバッと顔を上げ、ある方向を見た。
破壊の届いていない森の影から、二つの顔が覗いている。
ルドとルカ。
妖精に守られた二人は真っ青な顔で、バッシュたちを見ていた。
「聞いているか! 見ているか、子供たち! お前たちがルラルラ殿の死を認めないがために、英雄が死ぬぞ! お前達の復讐はそれほど大事か!? ルラルラ殿の名誉は、オークの英雄が死んでまで護られなければならないものなのか!」
「大体、お前達は何か勘違いしているようだが、私はルラルラ殿とは正々堂々と戦ったぞ! 過去の栄華に掛けて誓ってもいい! お前達が想像しているような、卑怯な闇討ちなど一切行っていない! ただ火急ゆえに死体を放置しただけだ! そこな『オーク英雄』殿がビーストの勇者レトにしたのと同じように! それを咎めるか!」
「それでも仇を撃ちたいというならいい。相手になろう! だが自分たちは敵わぬからと、他人に戦わせ高みの見物を決め込むとは何事か! それでルラルラ殿の誇りが守れるのか! 恥を知れ!」
それは、ある種の命乞いだった。
女はこんな所で死にたくなかったし、バッシュをこんな所で死なせたくもなかった。
だから、復讐の主である兄妹が、戦いを見ているだけという状況に、憤りを憶えたのだ。
そして、その言葉にルカは震えた。
「わ、私は……」
代わりに仇を討ってほしい。
そう言ったルカは、実際の戦いを目の当たりにして、完全に腰が引けていた。
軽い気持ちで頼んだつもりは無かった。
だがバッシュと仇の戦いは、想像を絶するほどに過酷で、凄まじいものだった。
バッシュなら簡単に倒してくれるはず。
そういう気持ちが無かったとは言い切れなかった。
そして、ルラルラとあの女が正々堂々戦ったという言葉も、戦いを見れば信用できるものだった。
母は強いから、絶対に卑怯な方法で死んだのだと思いこんでいたが、そうではないと、今では信じられる。
だが、それでも、だからこそ。
血を分けた肉親に、こんな化け物の相手をさせるわけにはいかなかった。
その思いは、戦う前より強かった。
だから、もうやめてとは、言えなかった。
自分でもどうしていいのかわからない。
だから、ルカはバッシュに助けてと言ったのだ。
「オレは、もう……いい」
そう言ったのはルドだった。
「オレは、最初から、自分の力で仇を取るつもりだった。力不足だし、オレじゃ絶対に勝てないから、師匠が戦うのもやむを得ないって思ったけど、確かにあんたの言う通り、これじゃ師匠の名誉も、母さんの名誉も、そしてオレたちの名誉も守られない」
ルカの体から、スッと力が抜けていく。
濡れた地面にバチャリと膝をつき、目から涙がこぼれ落ちる。
「オレは、焦りすぎてた」
ルドは己の無力を噛みしめる日々を思い出しながら、そう言った。
「師匠、すいませんでした。ここまで戦わせてしまって。何年後になるかわかりませんが、オレ、ちゃんと一から修行しなおして、こいつを倒します。だから、今は……」
「……ルドが、そう言うなら……」
ルカは、絞り出すようにそう言った。
バッシュに助けを頼んだのは、兄を守るためだ。
その兄が、今すぐに倒すという目標を改めてくれるなら、焦る理由も無くなる。
今は絶対に勝てないが、将来はどうなるかわからない。
でも、いずれルドとルカに、もっと自信がつくだろう。
これだけ修行して、力を付けて挑み、それでも負けて死ぬなら仕方ないと思える日が来るだろう。
そしてその時は、きっと迷わないだろう。
そう思いながら。
「……そうか」
そして、二人がそう決定したのなら、バッシュも剣を引かざるを得なかった。
それを見て、女もホッと息を吐いた。
「……ルラルラの息子殿。君はきっと、いい戦士になる。いつ死んでもいい身だと思っていたが……なるべく死なないように頑張りつつ、待っているよ」
女は剣を鞘に収めると、踵を返し、自身に回復魔法を掛けながら、ゆっくりと歩き出した。
バッシュはその背中を見て、迷う。
バッシュはもちろん、双子の決定にも異論はない。
ルラルラの仇が討てなかったのは、まぁいい。
バッシュは別に、それほど仇を討ちたいと思っていたわけではなかった。
あの女の言う通り、正々堂々と戦った結果なら、仇を討とうとすること自体が馬鹿馬鹿しい。
だから後の問題は、これで精霊が満足したかどうかだ。
このような中途半端な結末で、満足するのか。
「む……」
ふと、バッシュは違和感を感じた。
先程まであった、叩きつけるような雨を感じられなかった。
手のひらを上に向けつつ空を見上げると、分厚かった雲に切れ間ができ、光が差し込み始めていた。
サキュバス国の空に、青空が戻りつつあったのだ。
「ふむ……これでよかったか」
雨がやんだということは、水の精霊の怒りも収まったということだろう。
つまりよくわからないが、精霊も満足したのだ。
ならば、バッシュが女に固執する理由も無かった。
プロポーズは先日断られたばかりであるし。
「おい、女」
だがバッシュは、女の背に声を掛けた。
「バッシュ殿、名前のわからない女性に声を掛ける時は、『女』ではなく『ご婦人』か『お嬢さん』と言うのがオススメだぞ」
「む、そうなのか。憶えておこう。感謝する」
「どういたしまして。それで、何の用だい? 君も治療した方がいいと思うが……?」
女は肩をすくめ、飄々とした雰囲気でそう言うが、手は腰の剣に油断なく添えられていた。
警戒しているのだろう。
もちろんバッシュに彼女と戦う気は、もう無かった。
ただ一つ、言っておきたいことがあっただけだ。
「俺と引き分けた敵は、サンダーソニア以来だ」
「かのエルフの大魔道に並べてもらえるとは光栄だ。それが?」
「俺はお前と戦い、生き延びたことを誇りに思う」
その言葉に、女は足を止めた。
腰の剣柄を握り、空を仰ぎ、口元を緩め、しかしすぐに渋面となり、口を開いて何かを言いかけ、やめ、再度口を開いてこう言った。
「じゃあ私も、生き延びたことを光栄に思うよ」
女はそう言うと、手をヒラヒラと振りながら、半壊した森の中へと消えていった。
先程より、心なしか軽い足取りで……。
――かくして、ルラルラの子供ルドとルカの仇討ちは未遂に終わったのであった。