52.プロポーズ
バッシュが目を覚ましたのは、王宮に貸し出された自室だった。
サキュバスに用意された窓の無い部屋。
扉は重く、頑丈な鍵がついていた。
「……」
バッシュはベッドで上体を起こし、ふぅと息をついた。
安堵の息だった。
魅了に掛かりつつも、ヴィナスが助けにきてくれた所までは憶えている。
敵が全て死に、戦いは勝利に終わったということも。
ただ、運が良かっただけだとしても。生き残ったのなら次に活かせば良い。
戦はずっと続いていくのだから。
だが、局地的なもので言えば、
「負けたな」
久しぶりの敗北だった。
サキュバスという種族が、どれだけ男に対して強さを発揮するか。
戦場に出たことすらない若者にすら翻弄されたことで、バッシュは改めて理解した。
その上で、どうすればよかったのかを考えた。
殺せば、きっと切り抜けられただろう。
戦場では、ずっとそうしてきた。
戦場には敵か味方かしかいなかったし、殺してはいけない敵は存在しなかった。
屋上に登り、目を閉じ息を止め、そのまま剣を横薙ぎにすれば、敗北は無かっただろう。
相手が相応の戦士ならまだしも、あの程度の者たちであれば、文字通り、目を瞑ってでも勝てただろうから。
ただ、殺してはいけないと思った。
相手は若者だった。子供だ。
オークでも、子供を殺すのを良しとされていないのだ。
今は平和な時代で、サキュバスは敵ではない。
そんな気持ちがあったのは確かだ。
「あれは敗北じゃないっすよ。大体、旦那一人なら余裕だったじゃないっすか。オレっちが足を引っ張っちまったせいっす……」
「ゼル……」
ゼルは落ち込んでいた。
敗北は初めてではなく、守る戦いが不得手なのも理解していた。
バッシュに近づかせないようにと低空を飛行し、敵からの注目を浴びるように動いた。
その行動が、間違っていたとは思わない。
だが、それはそれとして、あの程度の若造に遅れを取ったのは事実だ。
オークと違い、フェアリーに魅了は効かない。
サキュバスに対して、男性ほど絶対的な不利というわけでもないのに。
「……」
「……」
歴戦の二人は、敗北に落ち込んでいた。
敗北が初めてではないが、それはそれとして落ち込まないわけではないのだ。
「あの」
バッシュが顔を上げると、ベッド脇に一人の少女が立っていた。
ルカだ。
「大丈夫ですか?」
「ああ。ルカ、お前には助けられたな。お前がいなければ、俺はサキュバスに食われていただろう」
「いえ、でも、すぐにやられてしまって……」
「戦において力が劣る者は、力を持つ者が来るまでの時間稼ぎができればいい。お前はその役割をしっかり果たした」
ルカがこなければ、ゼルは死んでいたかもしれない。
あるいはバッシュがその童貞を無残に散らしてしまっていたかもしれない。
童貞卒業はバッシュの望む所ではあるが、相手がサキュバスとあらば、喜びは刹那、事が終われば、魔法戦士が確定した将来に絶望していただろう。
オークの名誉が地に落ちる所だったのだ。
ヴィナスに関しては、まぁサキュバス国の不手際ということもあってイーブンだとは思うが、ルカは違う。
「お前は恩人だ。オークキングの名にかけて、お前に恩を返すことを誓おう。何かして欲しいことがあれば、言うがいい」
「えっ……!」
バッシュがそう言うと、ルカは顔を赤らめてうつむいた。
「あの、でしたら……!」
ルカは意を決したように顔を上げ、バッシュの手を握った。
子供らしく小さな、体温の高い手だ。
「わ、私と、結婚してください!」
プロポーズだった。
「……なぜだ?」
話の流れが見えず、バッシュはそう問い返した。
ルカは顔を真っ赤にしたまま、バッシュの手をにぎにぎと握る。
「あの、バッシュ様はお嫁さんを探して旅をしていらっしゃるんですよね? お嫁さんの条件は、子供が産めて、他のオークに自慢できる肩書が必要だって……私、まだ子供だから子供は産めませんけど、大闘士ルラルラの子供です! 他のオークさんたちにも自慢できるんじゃないでしょうか!」
「理由を聞いている」
バッシュとしても、プロポーズされるのは嬉しい。
よく見れば、ルカはなかなかに美しい顔立ちをしている。オーガ女が美しいのは、バッシュもよく知っている。
成長すればきっと美人になることだろう。
……成長すれば、だが。
オークは女とあらば見境なく襲うと言われているが、実際は違う。
オークが女を襲うのは、子孫を残すための本能だ。
ゆえに、基本的に明らかに子供が産めない幼体に欲情することは無い。
国に戻ればそういうオークもいるが、基本的にはそういうオークは特殊な性癖を持っているとされる。
つまり、ルカは対象外なのだ。
数年経てば、まさにバッシュ好みに育つかもしれないが、今はまだ子供なのだ。
そして数年経てば、バッシュは晴れて魔法戦士だ。
待っていられないのである。
だから、バッシュとしても即答は避けられた。
これがもしシルヴィアーナあたりの発言であれば、バッシュはすでに襲いかかっていただろう。
「理由、ですか」
「そうだ、いきなりなぜそんなことを言い出す?」
ルカは、しばらく考えるように黙っていた。
「理由……」
何をどこからどう話すのか、迷っているようだった。
だが、やがてポツリとつぶやくように口を開き出した。
「……あの、ルラルラ母さんなんですけど、実は本当のお母さんじゃないんです」
「そうなのか?」
「はい。私達を育ててくれたし、自分の子供だって周囲にも認めさせたけど、でも私たちを産んだのは、別の女性です」
バッシュ、カルチャーショックである。
オーガには、母親に本当とか嘘とかあるらしい。
「ルラルラ母さんのことは、もちろん、大事に思っています。でも、本当の父さんと母さんがいたんです。もう記憶は朧げですけど」
「その父親と母親は、どうなったのだ?」
「殺されました」
「ではお前は、ルラルラではなく、そちらのの敵討ちをするつもりなのか?」
「……しません。敵討ちの旅を始めた時は、そう思っていましたけど、調べてみたら、父さんと母さん、自業自得だったみたいで」
「自業自得?」
「スパイだったんです。父さんはオーガで、情報を四種族同盟に売ってて、母さんはヒューマンの諜報部で……で、二人で駆け落ちして、私達を産んで、見つかって……」
ルカは顔をうつむかせ、肩を震わせた。
バッシュからルカの表情は伺いしれない。
オークに「裏切り」という概念はない。
裏切れるほど頭がよくないからだ。
彼らに出来るのは、せいぜいキングの命令に従わないぐらいだ。
「その追手の中にはルラルラ母さんもいて、両親が死んで呆然としている私と弟を引き取って育ててくれました」
思い出を語るルカの口元は、いつもより上がっていた。
「ルラルラ母さんは、立派な人でした。オーガの長になるべく頑張ってたし、他の人達の面倒も見ていました。すごく、すごく立派な人だったんです。私も兄も、尊敬していたんです」
でも、とルカは続ける。
「ある日、死体で発見されました。それも、路地裏で、死体があんな……犬なんかに……」
ルカは目に涙を浮かべ、当時を思い出してボロボロと涙をこぼし、ぶるりと身を震わせて、己の体を細い腕で抱きしめた。
「母さんが、あの強かった母さんが、あんな簡単に負けるはずないんです、きっと卑怯な手で負けて、野ざらしにされたんです……母さんはあんな死に方をしていい人じゃなかった。私は、私も、兄も、許せないんです、あんなの、許していいわけがないんです……」
ルカはそう言いつつ、バッシュの手を握る手の力を強めた。
いつしか、ルカの震えはとまっていた。
「私達は誓いました。自分が死んでも、母さんがそれを望んでいなくても、仇を取りにいくことがオーガ族の務めだって……」
「オーガの仇討ちか」
オーガにはそうした風習があることを、バッシュも聞き及んでいた。
自分の親や師匠を何者かに殺された場合、命を掛けてでもその仇を取らなければならない。
そうでなければ一人前と認めてはもらえず、子供を作ることすら許されない。
オークが、戦場で女を犯すのと同じ理由だ。
だからオーガは屈強だ。
長い戦争の時代において、親や師匠が殺されないということなど無いのだから。
屍の上に立ち続けたのが、オーガという種族なのだ。
「でも……あの、バッシュ様から見て、兄さんはどうですか? 私は?」
「どう?」
「勝てますか? あの女に。私と二人で挑んで、どうですか?」
「無理だ」
即答だった。
それほど、ルドとルカの実力は、あの女と乖離していた。
百度やって一度、浅傷を負わせるのが精一杯だろう。
「ですよね」
ルカは諦めたように、肩を落とした。
「私も、わかっているんです。多分、兄さんも、勝てないってことぐらい。無駄死にするってことぐらい……」
ルカは沈んだ表情でそういった。
瞳には、また涙が浮かんでいた。
「私たちが死んだら、どうなるんでしょうか?」
「どうもならん。ただルラルラ殿と、そしてお前たちが死んだという事実が残るだけだ。あるいはあの女が酒場で語る武勇伝になるやもしれんが」
バッシュは自然とそう答えていた。
長く戦場にいたバッシュには、死は身近なものだ。
親こそいなかったものの、先輩といえる者も、教師といえる者も、戦友も、ほとんど死んだ。
こいつさえいてくれれば生き残れる、こいつがいなくなれば自分もきっと死ぬ、こいつは絶対に死なない、ずっと共に戦っていく……そう思える者が死んでも、バッシュは生き残ったし、その後も何も変わらなかった。
バッシュは思うのだ。
もし仮にゼルが死んだとしても、悲しみはすれど、何も変わらないのだろう、と。
隣にいて当たり前の相手などいないのだ、と。
「私、私は、死にたくないんです。兄さんにも生きていてほしいんです」
「うむ」
「でも、仇もとりたいんです。勝てないとわかっていても……」
「うむ」
死にたくないというのは、普通の感情だ。
そしてそれを奮い立たせるために、あらゆる種族はあらゆる手段で己を鼓舞する。
「仇は、取りたいけど、でも兄さんは、絶対に諦めようとしてくれないんです。もう、自分が絶対に勝てないって、わかってるはずなのに、無理に強がって……見てられないんです」
「……」
「もう、どうしていいか、どうしたのか、私にもわからないんです……」
二律背反に苦しむルカは両手で顔を多い、ポロポロと涙をこぼしながら懇願する。
バッシュは黙って聞いていたが、やがて聞き返した。
「それがなぜ、結婚につながる?」
「オーガの仇討ちには、家族であれば助太刀して良いというルールがあります」
「だから私と結婚して、あの女を、倒してください」
バッシュは考える。
仇討ちの協力のために、夫を迎える。
あまり聞かない話であるが、理解はできる。
オークなら、復讐ぐらい自分でやるべきだと言われるであろう。あるいはオーガでも。
しかし目の前にいるのは、子供だった。
「……私は、バッシュ様が望む限り何人でも子供を生みます。その、今は無理かもしれませんけど、でも一生懸命がんばります! 『オーク英雄』の妻として、バッシュ様の自慢になるように、生涯を掛けて努力します! だから、どうか、どうかお願いします……助けてください……」
ルカは必死にそう訴えた。
冗談などではなかった。
嘘も一切なかった。
なんなら、この場でバッシュに襲いかかられたとしても、悲鳴の一つもあげずに受け入れただろう。
だがバッシュは言った。
「お前を妻にすることはできん」
ルカはショックを受けた顔で、ストンと座った。
なぜ、と彼女が言うより前に、バッシュは続ける。
「だが、あの女は倒してやろう」
「え? でも、それは掟に反していて……」
「俺が個人的にルラルラ殿の仇を討つだけだ。オークの掟に、親族しか仇討ちをしてはいかんというものはない」
バッシュなりに頭を使った結果であった。
「それに、そろそろこの国からも出立したいと思っていた所だ」
サキュバスは、皆よくしてくれた。
しばらくはここに滞在しても良いと思っていた。
だがサキュバスの国は、やはり危険な場所であった。
それを再確認した所で、正直ここからはやく移動したいというのが本音だ。
それに、思えば本来の目的と別の所で時間を使いすぎた。
精霊の機嫌を損ねたくないと、色々と気を回しすぎてしまった。
そろそろ、本来の目的に戻るべきだ。
バッシュに残された時間は、あまりない。
目的を達成するために条件があるなら手段も選ぶが、これは違う。
ならば、手段や方法を問わず、最短で解決すべきだ。
すなわち、バッシュがあの女と戦い倒す。
それがバッシュにできる最善かつ最高の答えだ。
その結果、精霊が怒り狂ってバッシュを殺すかもしれないが、それよりここでぐだぐだと過ごした結果、魔法戦士に成り下がるよりは良い。
『オーク英雄』が魔法戦士になるぐらいなら、死んだ方がマシだ。
「お前達の誇りは守れんかもしれんが、それでいいか?」
それにバッシュは自分で言ったのだから。
オークキングの名において、ルカに恩を返す、と。
助けてくれと言われ、助けないわけがなかった。
「バッシュ様はお優しいのですね」
ルカは泣き笑いの表情でそう言った。
■
ルカはひとしきり泣いた後、ルドが目覚めたという報告を聞いて、部屋から出ていった。
ルドはバッシュより深く魅了に掛かったため、別室で治療を受けていたらしい。
バッシュはベッドに腰掛けたまま、己の体に異常が無いかを確認しつつ、部屋に用意された食事を取っていた。
これから出立し、ルラルラの仇と戦うのであれば、体は十全にしておかなければならなかった。
サキュバスの魅了の後遺症が残っていれば、勝てる戦いも勝てなくなるだろう。
一目みただけだが、それだけ注意が必要な相手に見えた。
そんなバッシュに、ゼルがふと聞いた。
「旦那、いいんすか?」
「何がだ?」
「ルカちゃん、将来はきっと綺麗な子に育つっすよ。オレっちにはわかるっす。オーガの美醜についてはイマイチっすけど、でも旦那が好きな顔のタイプは熟知してるつもりっすからね、ドストライクな女になると思うっすよ」
「なら、その時にまたプロポーズすればいい」
確かに、ルカは美少女だ。
きっと将来は美しい女になることだろう。
だが、それは今ではない。
美しく育つには五年……いや最低でも三年は必要だろう。
そんなに待っていては、バッシュは魔法戦士まっしぐらだ。
あるいは、その前に手を出してしまえば童貞は捨てられるかもしれないが、そもそもバッシュは幼いルカを女として見ることが出来なかった。
「今結婚しておけば、その年齢になるまで誰にも取られないじゃないっすか!」
「だが、他の女が手に入らなくなる可能性も出てくる」
バッシュが思い出したのはエルフだ。
エルフは男一人につき女一人まで。
これから赴くデーモン族がどういった制度なのかは知らないが、エルフと同じような制度なら、すでに妻がいる身では、誰一人捕まらないだろう。
となれば、まだ自分はフリーでいなければならなかった。
「……お話の途中、失礼いたします」
そんな二人の部屋に入ってきたのは、一人の豊満は胸を持った女性だった。
「『サキュバス女王』カーリーケール……」
「此度の暴動、『オーク英雄』バッシュ様を巻き込んでしまい、誠に申し訳ありませんでした。サキュバスの女王として、謝罪させていただきます」
サキュバス女王カーリーケールは、居丈高にそう言うと、バッシュの寝ているベッドに腰を下ろした。
でかい尻とでかい胸がバッシュのすぐ近くに出現し、バッシュは視線を反らした。
目の毒すぎた。
ついでに言えば、バッシュの二の腕に触れられた手はやけに熱っぽかったし、バッシュの太ももにわずかに触れる尻は、やけに柔らかかった。
無論、カーリーケールに悪意は無い。
サキュバスには、真摯な謝罪をする際には、密着するほど隣に座る習慣があった。
他国、特にヒューマンの国ではめちゃんこ嫌われているサキュバス仕草である。
「『オーク英雄』殿にこのような仕打ちをしてしまった上で、嘘まではつけません。お恥ずかしい話ですが、今のサキュバスはご覧になった通り、日々を食いつなぐので精一杯。これで若者に誇りを持てと言うのも酷な話です」
「……」
「それでも、ご覧になった通り"食料"はきちんと管理し、丁寧に飼育しております」
「……」
「食さえ満たせば、若者にサキュバスの誇りとはなんたるかを教える余裕も生まれるかと思います」
カーリーケールは、相変わらず少し高圧的とも言える声音で話していた。
だが、バッシュはその声の奥に、言いしれぬ必死さがあると見てとっていた。
「このような形になってしまっては、ただただ"何卒"と言うよりほかありません。バッシュ様、"何卒"サキュバスの国をお救いください」
「……サキュバス女王であるお前にそう頼まれたのなら断れまい。その時が来たならば力になろう」
バッシュ的には、何がどう転んで救うだの救わないだのという話になっているのかはわからない。
だが、サキュバスという、七種族同盟の中でも上位とされ、オークを散々見下してきた種の長が、『オーク英雄』に力を貸してくれと、そう言っているのだ。
バッシュが首を振ろうはずもなかった。
むしろ誇らしいまである。
オークはいつだってシンプルなのだ。
「そう言っていただけて幸いです」
「だが、カーリーケールよ」
「はい」
「力になると言ったが、今は無理だ。俺はすぐにこの国を発とうと思っている」
先約があるからである。
あとついでに言えば、バッシュは隣に座るカーリーケールが少し怖かった。
ゆえに尻の位置を少しずらし、体を話した上で、そう言った。
「そう……でしょうね……あのような出来事があった後では……」
それを拒絶と取ったカーリーケールは息を飲んだ。
「無理を申しました。再度謝罪を……必要とあらば、妾の首を持っていっていただいても構いませぬ」
「それに関してはこれ以上、何も言うつもりはない。サキュバスたちは良くしてくれた。お前たちにとってオークなど見下して当然の存在であろうが、心地よく過ごさせてもらった。感謝している」
「寛大すぎるお言葉です……」
その言葉で、会話は終わったとばかりにバッシュは立ち上がった。
これ以上、カーリーケールの隣にいたら、そのままベッドに押し倒してしまいそうだったからだ。
とにかく、次にやるべきことはすでに決まったのだ。
ならば、あとは目的地に赴き、戦うだけだった。
「では、さらばだ」
「……………………はい」
カーリーケールの消え入りそうな声を尻目に、バッシュは部屋から出ていくのであった。