42.大雨
雨が降っていた。
空は稲妻で光り、それに呼応するかのような大粒の雨が大地に叩きつけられている。
強風が吹き荒れ、並の戦士であればまともに立っていられないほどであった。
もっとも、バッシュにとってそれは運動後のシャワーのようなものだったが。
「雨、やまないっすね」
「そうだな」
バッシュがビースト国の首都リカントから出立し、数日が経過していた。
旅の途中に降り始めた雨は、すぐに止むかと思われたが、次第に強くなり、やがて嵐となった。
嵐は止む気配が無く、何日も森を揺らし続けている。
「うーん、とはいえ、流石にちょっと見通しが悪いっすね」
ゼルが何度か森の上まで上がり偵察を行ったが、雨で視界が悪く、百メートル先もわからない有様だった。
とはいえゼルは歴戦のフェアリーだ、『たぶん』『だいたい』『なんとなく』のTDNを指標に、目的地の方角を割り出せていた。
完璧だ。
「さ、デーモンの国はこっちっすよ! ちょっと天気が悪いけど、気張っていくっす!」
「ああ!」
大雨によって川が氾濫し、森の至る所で洪水が起こり、通れるはずの道が濁流で埋め尽くされている。
バッシュは時に腰まで水につかりながら、ゼルの導く方向へと進んでいく。
デーモン。
七種族連合の盟主であり、全種族中最強であったこの種族を、四種族同盟は最も恐れた。
ゆえに和平にあたり、四種族連合はデーモン国を大陸の端に押し込めることにした。
大陸の北西にある、険しい山と断崖に囲まれた痩せた土地。
戦略的に最も価値の薄い土地をデーモンに与え、閉じ込めたのだ。
ゆえに、デーモンの国に入るには、大きな谷を越えなければならなかった。
アルガーディア渓谷。
そう名付けられたその谷は極めて深く、かつ広い上、底には川が流れている。
川の流れは非常に激しく、バッシュレベルの戦士であっても、橋を使わずに渡るのは困難であろう。
谷に掛かる橋はいくつか存在しているが、そこには必ず関所が設置されている。
関所は要塞化されており、四種族同盟の管理の元で運営されていた。
それだけ、デーモンという種族は恐れられているのだ。
「お、あれ、国境じゃないっすか?」
そうこうしていると、前方にうっすらと何かが見え始めた。
それは戦時中に見慣れた石造りの建築物。
ヒューマンの砦だ。
「物々しいな」
「このあたりは物騒っすから。国境も頑強に作ってあるんすよ。多分」
ここはデーモン国との国境を隔てる関所である。
要塞と化したその関所は、とてつもなく物々しかった。
各所が耐性塗料によって塗られ、要所に魔法陣が描かれている。
ヒューマンの建築様式、ドワーフの耐性塗料、エルフの魔法陣。
ここはビーストの領地であるが、デーモンの国を見張る場所として、各国が協力しているのだ。
無論、そんなことをバッシュとゼルが知る由もないが。
関所の入り口は、ヒューマンお得意の分厚い鉄扉によって施錠されている。
これが開くのは、正当な通行証を持った者が現れた時だけだ。
そう、例えば今のバッシュのような。
「不用心っすね。扉が開けっ放しっすよ」
「うむ」
しかし、そんな砦の扉は開放されていた。
両開きの分厚い扉が、激しい風を受けてギシギシと音を立てて揺れていた。
「……なにかあったな」
バッシュは背中の剣を抜いた。
長年の戦いの勘が、剣呑な気配を感じ取っていた。
「血の匂いはしないっすけど……?」
「人の気配もないな」
「ふーむ、とりあえず偵察してくるっす!」
「頼む」
ゼルがバビュンと音を立てて砦の中へと入っていく。
それに続き、バッシュもまた油断なく砦の中へと入った。
「……なんだ、これは?」
そこに広がっていたのは、不気味な光景だった。
書類の置かれた机に、倒れた椅子。砕けた棚。床にバラバラに落ちたカード。
争った後だ、とバッシュは判断した。
くつろいでいる所を、唐突に何者かに襲撃された時、こういった光景が残ることを、バッシュはよく知っていた。
しかしながら足りないものがある。
死体や血痕だ。
争いがあったなら、確実に存在するもの。
誰かが死体や血痕を片付けたにしては、家具やカードの荒れ具合はあまりにも不自然だ。
「……むう」
この光景を作り出したであろう、何者かの気配は無い。
バッシュは傍から見れば隙だらけに、しかし見る者が見れば油断無く、その空間を歩いていく。
バッシュは不気味な状況が広がる空間を通り抜け、通路の奥、デーモン国への入り口……すなわち砦の出口へとやってきた。
馬車がすれ違える程に広い通路の奥では、入り口と同じように大きな扉が嵐に揺れていた。
さらに嵐に揺れる扉の奥を見ると、叩きつけるような雨が、谷に掛かった石橋を濡らしている。
石橋もまた、ボロボロに崩れていた。
激しい戦闘があったのは、間違いなかった。
「旦那ー」
と、そこでゼルが戻ってきた。
ゼルはバッシュの周囲をビュンビュンと飛び回りつつ、身振り手振りで状況を教えてくれた。
「砦の中はもぬけの空っす。何が起こったのかも、ちょっとわかんないっすね。ただ、何者かがここで暴れて、死体を消したのは間違いないっす」
「そうか」
バッシュはふっと肩から力を抜いた。
この場で何が起こったのか、気にならないと言えば嘘になる。
だが、おそらくバッシュ達には関係の無いことであった。
「しかし困ったっすね。関所に誰もいないとなると、密入国を疑われかねないっす」
「……どうすればいい?」
「そっすね……」
ゼルは周囲を見渡し、散乱した書類に目をつけた。
「そうだ。ヒューマンってよく紙に命令とか書いてるじゃないっすか。だから旦那が通ったって紙に書いておけばいいんじゃないっすか?」
「なるほど、そうするか」
「じゃ、オレっちが書いときますね。『オーク英雄のバッシュ、ここを通過する』っと」
書き置き。
オークでもフェアリーでも、あまり使われない行為だ。
文字を書けるオークやフェアリーはほとんど存在していない。
だが、ゼルは文字の読み書きが可能だった。
文字の読みだけならまだしも、書くことが可能なフェアリーは数えられるほどしかいない。
それも、他種族が判別出来るレベルの文字を、となると片手で数えられるかどうか……。
ゆえにゼルはフェアリー本国では『達筆のゼル』という名を欲しいままにしていた。
「これで大丈夫っすね……この状況はちょっと心配っすけど」
「ヒューマンの兵と出会うことがあれば、教えておいてやろう」
「そっすね!」
あるいは、これが戦時中であったなら、二人は砦の状態から危機を察知し、本国まで状況を知らせに戻っていただろう。
だが、今は戦争中ではなく、二人には目的があった。
それを思えば、砦がもぬけの空であることを誰かに伝えることを優先するわけにはいかないのだ。
「では、いくか」
「ういっす!」
バッシュは剣を背中に背負い直すと、嵐の中へと足を進めた。
暴風で速度をました雨がバッシュの全身に叩きつけられるが、所詮は雨粒、戦争中に受けた水魔法に比べればシャワーのようなものであった。
しかし、雨はバッシュの視界を奪うに十分だった。
「むっ!?」
違和感を覚えた時にはもう遅い。
雨によってか、あるいは何者かが砦を襲撃した時にできたものか。
石橋には、大きな亀裂が走っていた。
そして、その亀裂はバッシュが足を載せた瞬間、ビキビキと音を立てて広がり……。
橋が崩れた。
「だ、旦那ー!?」
バッシュはゼルの叫び声を聞きながら、為すすべもなく川へと落ちていくのであった。
□
バッシュは歴戦の戦士だ。
あらゆる敵と戦い、あらゆる敵を打倒してきた。
とはいえ、彼も無敵かつ不死身というわけではない。
(これは、まずいな……)
嵐によって増水した川は濁流となり、バッシュの体を激しく回転させ、為すすべもなく何度も岩肌へと叩きつけていた。
彼は水に弱いのか。
否、そんな事はない。
オークは森の民であるが、戦争中は水に関連した戦場が数多く存在した。
泳げない戦士など、数えるほどしか存在しない。
だが、踏ん張りのきかない場所で濁流に呑まれているとなれば、さすがのバッシュとて体の自由はきかなかった。
(息が……)
オークはヒューマンの数倍長く息を止めていられる。
中でもバッシュは、数いるオークの中でも、トップクラスで長く息を止めていられる。
それが炎によって酸素が著しく失われた場所であれ、水の中であれ、変わらない。
そうして息をひそめることもまた、オークの戦士にとって重要な資質なのだ。
だが、それでも限界はある。
「がぼっ」
やがて、バッシュの口から空気の塊が漏れ出た。
バッシュの目が見開かれ、こわばったバッシュの体から力が抜ける。
先程まで一瞬でも機会があれば川底を蹴り、少しでも浮上しようとしていたバッシュの体は、剣の重みによって沈み、川底を転がるように流され始めた。
バッシュが水面に浮かぶことは、二度とないだろう。
そう思われた、その時だ。
「?」
ふと、バッシュの体の回転が止まった。
薄れた意識の中、バッシュは何かを見た。
水の中でうごめくものがあった。
目をこらそうとも、その輪郭を見ることはできない。
水と同化しているのか、あるいは水そのものなのか。
ただ、その存在はバッシュを優しく包んでいた。
苦しいはずの息が、ふっと楽になった。
姿勢が安定し、川底や岩に叩きつけられることもなくなった。
(精霊……か……?)
川か、あるいは雲か、嵐か。
正確なことはわからないが、それが水に属する精霊であることはわかった。
バッシュは精霊を見るのは初めてであるが、その存在については聞き及んでいた。
彼らは世界の至る所に存在しており、自由で奔放で、時として人々に力を貸すが、時として人々に仇をなす。
(何にせよ、感謝せねばなるまい)
バッシュは夢現の中、水に流されつつ、精霊に感謝した。
精霊はその言葉を受けてか否か、ぐねぐねとうごめいている。
バッシュは、なぜだかそれが、自分に何かを伝えようとしているように見えた。
精霊は気まぐれな自然そのものだ。
意思を持って人を助けることは、基本的に無い。
精霊に愛されている者は別だが、そうした者でも、幼い頃から精霊との交流を繰り返していくものだ。
バッシュは今までそういったことは無かった。
ただ精霊に愛されている者でなくとも、精霊が何かを願うことはある。
そうした願いを蔑ろにする者には、大いなる災いがある。
そんな言い伝えが、オークの国にもあった。
ゆえにバッシュは水の精霊の言葉を聞こうとする。
(何を……?)
わかるわけもない。
精霊の言葉がわかるのは、幼い頃から交流を繰り返してきたものだけだ。
あるいは、これが風の精霊であれば、ゼルあたりが聞いてくれただろう。
かの妖精は、風の精霊とマブダチだと言ってはばからないのだから。
(ぐ……)
バッシュの意識が遠ざかっていく。
目の前の精霊は、何か意志のある動きを見せつつも、依然として理解はできない。
はたしてこれが現実なのか、それとも死ぬ間際に見ている幻なのか。
それすらわからず、バッシュの意識は深い闇へと落ちていった。