39.平和の使者
ナザール・ガイニウス・グランドリウス。
ヒューマン王家グランドリウスの第三子にして、第二王子。
ヒューマン最強の剣士にして、デーモン王ゲディグズを倒した来天の王子。
まごうことなき英雄である。
そんな彼の人生は栄光に彩られていた……わけではない。
彼の人生の最初の一幕は敗北から始まった。
ナザールには姉がいた。
リーシャ・ガイニウス・グランドリウス。
双子の姉だ。
優秀な姉だった。
ナザールにとって記憶も定かではない赤子の頃から、ナザールは彼女に負けて育った。
まず生まれた時、ナザールはリーシャの後に生まれた。
母親の乳を先に吸ったのも、四つん這いで動き始めたのも、二足で立ったのも、全て姉が先だった。
剣を振り始めた頃には、周囲の者にハッキリとわかるほど、差が現れ始めた。
剣の腕も、足の速さも、学問も。
ナザールは、何一つ、姉に勝てなかった。
もっとも、ナザールに才覚が無かったわけではない。
ただ一手、あるいは一歩、姉に及ばないだけで、もしリーシャが生まれていなければ、ナザールはヒューマン史上最強の存在になっていたであろう。
当時のヒューマン王、ナザールの祖父であった男は、二人を分け隔てなく育てるよう、ナザールの父に命じた。
この双子が、戦争の行く末を変えてくれると、固く信じて。
その約束は守られ、ナザールとリーシャは同じように育てられ、そして、最強の双子となった。
リーシャはヒューマン王家の秘宝である『雷雲の宝剣』を、ナザールは『太陽の宝剣』をそれぞれ受け継いだ。
『降天の王女』と『来天の王子』。
その名を聞けば、名のある敵将であっても震え上がる存在となった。
ナザールに劣等感が無かったと言えば嘘になる。
が、そんなものを気にしていられないほど、当時の戦況は悪かった。
むしろ、姉という絶対的に信頼できる存在がいることが心強かった。
仲が悪かったわけではない。
二人はいつも一緒にいて、同じものを食べて、同じものを見て、同じような冗談を言って、同じように笑いあった。
ナザールはリーシャのことを、全て知っていた。
だから、劣等感が原因で、何かがあることなど無かった。
ただ、ずっとそれが続いたわけではない。
リーシャは、ナザールより必ず一歩先を行く女だった。
ナザールより一歩早く戦場に行き、ナザールより一人多く敵を倒し、ナザールより一人多くの味方を救った。
そして、ナザールより早く死んだ。
激戦区となった戦場で味方を逃がすため、少数の決死隊と共に残り、そして帰ってこなかった。
死体を見たわけではない。
リーシャは優秀な娘だから、きっと逃げ延びてどこかで生きていると、誰もが言った。
だが、その後に敵軍が『ヒューマンの王女リーシャを討ち取った』と喧伝し、敵軍の指揮も上がったことで、誰もが絶望した。
リーシャは間違いなく、ヒューマンの希望だったのだ。
ナザールは、自分は次の戦場で死ぬのだろうと核心した。
今まで、ずっとそうだったからだ。
一歩遅れてはいたものの、リーシャにできて、自分にできないことは無かった。
リーシャに起きて、自分に起きない出来事もなかった。
だから死ぬ。
そういうものだ。
そう思って次の戦いに臨んだ。
そして生き残った。
レミアム高地の決戦で、デーモン王ゲディグズを打ち倒して。
そこから先の戦いは、何やら夢心地だった。
勝利に次ぐ勝利。
二、三度の敗北はあったものの、大勢には影響は無かった。
いつしかナザールは、ヒューマンの王子、ゲディグズ殺しの英雄としての名声を欲しいままにしており……リーシャの名前は、人々の記憶から、ほとんど消えてなくなっていた。
いや、ほとんどの人が、聞けば思い出すだろうが、「ああ、そんな人もいたね」と、まぁ、その程度だ。
どこの国の英雄でも、死んで次の英雄が現れれば、過去の人となる。
勇者レトのように、次の英雄が現れなければ、長く記憶に残ることもあるが、ほとんどは殺した者の記憶にのみ残り、その者を称える詩にのみ登場する。
でもナザールは憶えている。
リーシャと話した日々のことを。
彼女が死ぬ前日に話した、荒唐無稽な話を。
ナザールが想像もできず、ポカンと聞いていた、夢の世界の話を。
全ての種族が手を取り合う、争いとは無縁な世界の話を。
だから、戦争が完全に四種族同盟の優勢に傾いた時、ナザールはあることを決意した。
リーシャの語った実現しよう、と。
世界を平和にしよう、と。
だからナザールは誰よりも早く、和平という案を出したのだ。
ゆえにナザールは『ナザール・リーシャ・ガイニウス・グランドリウス』なのだ。
彼はナザールであり、リーシャであり、世界平和を目論む者であるから。
■
そうして三年。
ナザールは世界平和のために奔走し続けてきた。
各国を見て周り、争いの目を摘んで歩いた。
最初こそ、ナザールの名を使って、大々的に。
だがヒューマンの王子ナザールの名は、いらぬ騒動を産んだ。
ナザールの活動を隠れ蓑に、私腹を肥やす者や、ナザールの耳に入らぬよう、裏でこそこそと動き始めるもの、王子が遊びで他国を渡り歩いていると揶揄し始める者、様々な者が現れだした。
ゆえに途中から、愛と平和の使者エロールと名前を変えた。
それでも、ナザールの名を使わなければならない時は多かった。
エロールの名では、人はついてはこない。情報も集まらず、動きは鈍る。
だから普段はエロールとして行動し、必要な時だけナザールとして。
朝も夜も無く、ナザールは動き続けた。
話し合いで解決できる時は話し合いで、そうでない時は実力行使を用いながら。
正直、実力行使になる事の方が多かった。
戦争に勝利した四種族同盟は、七種族連合の国々を食い物にし、利権を得た者はそれを手放そうとはしなかった。
完全なる平和を目指すナザールは、それを正そうとし、ヒューマンの権力者達に嫌われ、煙たがられた。
各国の状況が悪くなっているのはわかっていたが、ナザールの名を使っても手に入らない情報が増えていった。
幾度となく暗殺されかけた。
ナザールを煙たく思う者たちはナザールを殺そうとしてきたし、そういった相手に対し、返り討ちにする以外の選択肢をナザールは持ち得なかった。
しかし、殺した所で次の問題が浮上するだけであった。
戦争が終わったはずなのに、ナザールの手はずっと血で汚れていた。
ナザールは、平和が何なのか、わからなくなってきていた。
そもそも、ナザールは戦争しか知らない。何をどうすれば平和に近づくのかもわからない。全てが手探りだった。
その手探りも、疲れてきていた。
所詮、リーシャが口にしたのは夢物語なのだと、心のどこかで諦めかけていた。
そんな彼の耳に、ある情報が届く。
『デーモン王ゲディグズを復活させ、戦争を再開しようとしている輩がいる』
デーモン王ゲディグズ。
その強さは、実際に戦ったナザールはよく知っている。
だが、個体としての強さなどどうでもいい。
あの程度の者であれば、腐るほどいる。
デーモン王ゲディグズの恐ろしい所は、それ以外の全てだ。
もしゲディグズが復活し、戦争再開となれば、今度こそ、四種族同盟は滅ぶだろう。
あるいは、七種族連合もまた、何種族か欠けることになるだろう。
その結果、きっと平和にはなるだろう。
ゲディグズの支配下の元、世界は一つとなるだろう。
が、それは違う。
ナザール・リーシャ・ガイニウス・グランドリウスの目指す平和は、全ての種族が笑って暮らせる世界なのだから。
リーシャがそう語ったのだから。
だからこそ、ナザールはそれを阻止するつもりでいた。
そのために、小規模な争いは起きようとも、全身全霊を持って敵に計画を叩き潰すつもりでいた。
それが、決して真なる平和に向かう行動だと、胸を張って言えなくても。
それぐらいなら自分にも出来ると確信を持って。
■
ナザールはヒューマンの王子。
ヒューマン最強の剣士であると、自他共に認められている。
だがそんな彼であっても、勝ち目の薄い相手が何人かいる。
まず『喘声』のキャロット。
戦争中に彼女と相対したのは三度。
ナザールは三度共に敗北し、姉であるリーシャに助けられている。
リーシャはキャロットを圧倒し、早々に撤退へと追い込んでいる。
リーシャとキャロットの間には、負ける可能性を感じさせないほどの差があった。
リーシャはナザールより強いとはいえ、せいぜい一手か一歩。
であるなら、ナザールもキャロットとまともに戦えば恐らく勝てるのだが、『魅了』の存在がそれを許さない。
ナザールとキャロットでは、勝負にすらなるまい。一方的な捕食活動が行われるだけだ。
ゆえにナザールは、そしてヒューマン王家は、サキュバスへの対策だけは、ずっと練ってきた。
一対一なら勝負になる程度には。
しかし……。
「まさか……君も彼女の仲間なのかい……?」
『オーク英雄』バッシュ。
ナザールが彼と相対したのは二度。
一度目は、それほど驚異とは捉えなかった。
というのも、まともに戦ったわけではないからだ。
その時、ヒューマン軍は撤退のさなかであり、バッシュは撤退中の数ある驚異の中の一つでしかなかった。
そして、当時のバッシュより脅威度の高い者は数多くいた。
後々になって、「そういえばあの時、強いグリーンオークがいた。あれがバッシュだったのか」と気づく程度だ。
二度目は忘れもしない。
デーモン王ゲディグズを倒した直後。
奴は現れた。
血まみれの姿で、圧倒的な存在感を持って、圧倒的な絶望感を届けにきた。
ゲディグズ王を打倒した直後で、ナザールは深手を負い、サンダーソニアは気絶し、ドラドラドバンガは死亡していた。
勇者レトしか戦える者はおらず、そのレトとて、まともに戦えるとは言えない窮状だった。
そして、ナザールは撤退し、レトは死亡した。
後々になって、そのオークが数々の異名を持つ化け物だと知った。
レミアム高地の決戦で、ドラゴンを打ち破った勇士だと知った。
そしてゲディグズが死んでから、終戦までの数年間。
彼の噂を聞く度に、いずれ自分が決着をつけるのだと思っていた。
勝てる気はしなかったが、あの時にサンダーソニアを担いで撤退した自分がケジメをつけるとなれば、それしかないと思っていた。
だが、その前に戦争は終わった。
ナザールが終わらせた。
オーク国との和平会談にも参加し、バッシュの近くで『血塗れリリィ』の演説を聞き、バッシュに見守られながら調印した。
会談の際にバッシュは、他のオークの中でも特に立派で、特に獰猛そうで、平和とは無縁の存在に見えた。
とはいえ、あの日は、もう彼と戦う機会は訪れないだろうと、そう思った。
そう信じた。
「仲間か、だと……?」
でも今、恐ろしい顔でナザールとキャロットを見比べているバッシュを見て、その考えを否定した。
もともと、無理のある話なのだ。
全種族の平和など。
キャロットが訴えたように、敗戦国には厳しい現状が続いている。
戦勝国の有力者が肥え太る中、敗戦国の中でも特に嫌われていた種族はやせ細り、虐げられている。
そして、その現状に満足できぬ者が出奔し、各国で悪事を働く度、その状況は悪化した。
キャロットは努力したようだが、叶わなかった。
ヒューマンの所にも来た時、ナザールと会うことができれば、なんとかしてあげることができたはずだ。
本当に微々たるものかもしれないが、ナザールとして動けば、食料の少しぐらいは融通できたはずだ。
でも、ヒューマンの有力者が、サキュバス如きと英雄ナザールを会わせるなどという愚を犯すはずもなく、ナザールに届く前に訴状は握りつぶされた。
ナザールは各国を巡ったが、それでもサキュバスの国がそこまで追い詰められていることまでは、わからなかった。
ナザールは、オーク国の現状に詳しいわけではない。
外交をほとんど行わないオークの情報は、サキュバス以上に入ってこない。
だが、ナザールの知らない所で、七種族連合はどんどん衰退している。
オークは、サキュバス以上に外交が不得意な種族だ。各国の食い物にされていてもおかしくはない。
それが証拠に、かの『青き雷声のガガン』は、凶悪なはぐれオークとして指名手配されている。
そう、生き残った数名の大隊長ですら、国の現状に満足できず、出奔しはぐれとなっているのだ。
正直、バッシュが旅に出た、という情報を聞いた時は肝が冷えた。
『オーク英雄』とまで言われる者がはぐれとなったとあれば、オークの国が崩壊するだろうと予想できたのだ。
でもバッシュが、各国ではぐれオークや、オークが問題となる存在を排除していると聞いて、胸をなでおろした。
エルフが、ヒューマンが、ドワーフが、かのオーク英雄によって、オークの誇りを理解し、意識を変えてくれたのが嬉しかった。
それはほんの一部だが、それでも、今までオークという種への偏見を強く持っていた者たちが、オークもまた人であり、誇り高き戦士の集団だと思い直してくれたのが嬉しかった。
バッシュがオークの誇りを取り戻すためにそうしているのだと聞いて、勇気づけられた。
少し形は違えど、自分のやっていることと、バッシュのやっていることは同じ方向を向いていると、そう思ったからだ。
だからバッシュがビースト国に現れた時も、彼に協力した。
国境を通し、王宮へと案内した。
ビースト王族が、勇者レトを殺した恨みをオークに対して持っているのは知っていたが、だからこそ、この祝いの席で、オーク側が真摯に結婚を祝ってくれれば、ビーストも考えを改めると思ったし、バッシュならそれが可能だと思ったのだ。
そうであればいいな、とナザールは期待したのだ。
しかし、バッシュは会場から追い出された。
ビーストの姫君たちから、オークという種族への憎悪が取り除かれることはなかった。
後日、姫君に「なぜ、あれだけ真摯にビーストに歩み寄ってくれたバッシュを追い出したのだ」と聞いた所、彼女らは鼻で笑った。
服装を変え、殊勝な態度を取ることぐらい、四種族同盟の人間なら誰でもできる、と。
オークにとって、それがどれだけ困難で常識外なことかなど、考え及びもしないのだ。
それを聞いた時、ナザールはバッシュが旅の中でしてきた苦悩に思いを馳せた。
彼が旅を初め、ここまで来る間に、どれだけ心無い言葉を浴びせられられただろうか。どれだけ屈辱に涙しただろうか。挫けそうになった事もあったかもしれない。
もし。
もしも、そんな彼が。
戦争の誘いを受けたら、どうなるだろうか。
ゲディグズの復活を知ったら、どうなるだろうか。
もう一度戦争が起き、こんな屈辱をもう二度と味合わなくて済むと知ったら……。
ナザールがバッシュなら、その話に飛びつくだろう。
オークという種族が、どれだけ戦いと子作りに重きを置いているかは、戦友であり、ヒューマン軍人の中で特に信頼している者からも聞いたことがあった。
戦争になれば、オークはそれだけで誇りを取り戻すことが出来るだろう。
勝てぬ戦いだからと和平に応じたのだから、ゲディグズが復活し、勝てる見込みのある戦いとならば、なおのこと。
「むぅ……」
『喘声』のキャロット。
『オーク英雄』のバッシュ。
ヒューマンは知恵と知識の種族だ。
自力で劣る相手であっても、対策を練り、武器と防具を用意し、用意周到に挑み、勝利をもぎ取る。
だから根回しをして、この王宮にも最高級の武具を持ち込んだ。
キャロット相手でも、バッシュ相手でも、ナザールはそれが出来るつもりでいた。
だが二人同時となれば、話は別だ。
絶対に勝てない。
キャロットはまだしも、バッシュは無理だ。
一対一ですら勝ち目が薄いのに、キャロットの『魅了』で動きを鈍らされている状況では、万に一つもない。
今、この状況で逃げることすら叶うまい。
仮にここにサンダーソニアが現れ、キャロットを相手取ってくれたとしても、敵うかどうか……。
「キャロット」
バッシュの声は、深く、落ち着いて聞こえた。
困惑など何一つなく、すでに何と口にするかを決めているように。
またせたな、とでも言わんばかりの声音。
「はい、お待ちしておりました。バッシュ様」
そして、それに応えるような、キャロットの歓喜の声。
もはや、バッシュはキャロットの仲間と見て間違いないだろう。
ナザールの知らない所で、キャロットはバッシュの勧誘を終えていたのだ。
ナザールは覚悟を決める。
例え勝てないのだとしても、抗わなければいけない時はある。
ナザールは王子ゆえ、ずっと守られてきた。ナザールの命を救うため、ヒューマンの勝利のため、何人もの将兵が勝てぬ戦いに挑み、散っていった。
(なんとかして、逃げないといけない。シルヴィアーナ姫は見捨てることになるが……)
自分の番だとは思わない。
なぜなら、自分が死ぬことで、その意思を継いでくれる者がいるわけではないからだ。
世界には、己のことしか考えぬ者ばかりだ。自分が死ねば、すぐに敗戦国は飲み込まれ、次は四種族同盟同士の戦争が巻き起こるだろう。
いや、それより前に、キャロット達がゲディグズを復活させ、四種族同盟が滅ぶか。
そう思った時、ふと、ナザールの体が軽くなった。
体中に身につけた装備が一瞬だけ輝きを強め、シュンと光を消した。
しかし、ナザールは動けなかった。
なぜなら、いつしか自分の目の前に、オークの巨大な背中があったからだ。
「その足をどけろ」
ナザールは咄嗟に、自分の足を上げた。
自分に言われたのかと思ったのだ。
だが、両の足の下には、なにもない。何かを踏んでいたわけではないようだ。
(魅了が……)
足が動いたことで、ナザールは『魅了』が解除されたことを理解した。
いつしかキャロットの瞳は、赤く光るのをやめていた。
「えっ……」
キャロットは一瞬、呆けたような顔をしたが、すぐにツンと唇を尖らせた。
「いいえ、どけませんわ」
「……なに?」
「聡明なるバッシュ様はすでにお気づきだったかと思いますが、この女はバッシュ様を騙していたのです。バッシュ様に近づき、バッシュ様が手を出してきたら合意なき性交をされたと騒ぎ立て、オークという種そのものにその責任を被せようと、そう企んでいたのです」
「……むぅ」
「オーク英雄がビーストの姫君を無理やり手篭めにした。それが姫君の嘘でも、きっとビーストの王族はそれを是とするでしょう。だって彼女らは、オークの事が嫌いだから。あわよくば絶滅させたいと思っているから」
ナザールはそれを聞いて、さもありなんと思った。
擁護のしようがない。
シルヴィアーナ姫のオークへの悪感情は有名だった。
かの王宮での騒動で心を入れ替えたとか、そんな噂も流れてはきていたが、まぁ、そんなすぐに心変わりするわけもない。
彼女がバッシュに近づいたのなら、それが目的だったのだろう。
「だよねぇ?」
キャロットがシルヴィアーナの髪をひっつかみ、顔を持ち上げ、そう聞いた。
シルヴィアーナは苦痛に歪んだ表情をさせつつ、不敵に笑う。
「……そ、そんなのは嘘ですわ! 私はただバッシュ様をお慕い申し上げているだけ! この女は、バッシュ様が好きで、私とバッシュ様が仲睦まじくしているのを嫉妬しているだけなのです!」
瞳は泳ぎ、声は震え、冷や汗を垂らし、なんとか、口八町でこの場から逃れようとしていると、傍から見ていてもわかった。
それは、誰が見ても嘘だとわかる言葉だった。
バッシュは少々困惑していた顔をしていたが、フェアリーが何かを耳打ちすると、納得した表情となった。
「なるほどな」
バッシュのその言葉は、ため息まじりに聞こえた。
そんな嘘、最初からわかっていると言わんばかりに。
「よくも、ぬけぬけとすぐバレる嘘がつけるわねぇ……」
「ず、図星を付かれて、頭にきてしまいましたか? ほらバッシュ様、これが証拠です! この淫売は、私を陥れようとしているのです!」
シルヴィアーナの言葉は支離滅裂で、必死で、見てて痛々しかった。
やがてキャロットは、もう相手にしていられないとばかりにため息をついて、バッシュへと向き直った。
「バッシュ様、聞いての通りです。他国の英雄を弄び陥れようとする嘘つきの姫、ごっこ遊びで人をおちょくるヒューマンの王子……所詮、四種族同盟の連中は、オークやサキュバスを人とは思っていないのです。だからこんなふざけた真似ができる」
キャロットはそう言うと、バッシュへと手を伸ばす。
握手でも求めるかのように。
「バッシュ様。我らは七種族連合全ての種族の誇りを取り戻すため、戦うつもりです。どうか、私の手を取り、共に戦ってください」
真摯な言葉で、バッシュに懇願する。
バッシュがうなずくと、そう固く信じていると言わんばかりに、言葉を続ける。
「実を言うと、あまり時間がありません。なので、詳しい説明と作戦は後ほどさせていただきます。まずはこの嘘つき女とふざけた王子を殺し、この場を脱出しましょう」
どうやら、キャロットはバッシュの勧誘を終えてはいなかったらしいが、とはいえそれは今になっただけだ。
ナザールが何を言おうとも、バッシュの心は変わるまい。
自分の言葉など、届くまい。
バッシュからすれば、エロールを名乗る者についていったら、王宮で屈辱的な扱いを受けた形になる。その正体がヒューマンの王子となれば、怒り心頭だろう。
ビーストとヒューマンが結託し、バッシュを陥れたと見られても仕方がない。
そんなつもりは無かったと言っても、もう遅い。
最初からナザールを名乗り、王宮での騒動を聞いた時に謝罪に行くべきだった。
ゲディグズ復活を目論む者たちを探していて、それどころでは無かったが……。
決定的なのは、シルヴィアーナ姫の最後の嘘だ。
せめて謝罪をしておけばいいものを、嘘をついてしまった。
キャロットを小馬鹿にするような態度まで取ってしまった。
バッシュからすれば、姫君だからと、屈辱的な扱いを受けつつも丁重に扱っていたのに、それを裏切られたことになるだろう。
「……」
バッシュは数秒ほど黙った後、ちらりとナザールの方を見た。
(……ここまでか)
その瞬間、ナザールは死を覚悟した。
どうにかしてこの場から離れようと考えていたが、逃げ切れる気がしなかった。
『オーク英雄』バッシュ。
その威圧感たるや、そこらの歴戦の戦士とは比べ物にならない。
ナザールは自他共に認めるヒューマン最強の剣士であるが、だからこそ、彼我の実力差を見極める力は持っているつもりだ。
死ぬ覚悟はある。
戦う覚悟もある。
だが、それだけだ。
勝てる気はしないし、逃げ切れる気もしなかった。
思い返すのは、ゲディグズを倒した直後のあの時。
バッシュが現れた時の絶望感。
「それは、できん」
だが、バッシュはすでにナザールの方は見ていなかった。
「え」
キャロットの呆けた声が、やけに大きく響いた。
「なぜですか!? 先日は、共に戦ってくださると言ってくださったではないですか!」
「この男には借りがある」
「借り……!?」
「ああ」
「ならば、受け入れるというのですか!? 今のこの現状を!」
「……現状の何が悪い?」
「サキュバスは、今、子供すら飢える有様なのです! オークだってそうでしょう!? 現に戦後、オークキングの治世に満足できず、多くの戦士が出奔したではありませんか! 大勢の誇り高き歴戦の戦士達が! そこで転がっているガガンだってそう、大隊長まで上り詰めた男が、女すら抱けないから国にいられないと出ていっているのですよ! 女さえ抱けるなら奴隷になってもいいと、私に訴えてきたのですよ!? 私みたいなサキュバスに! その結果がこれです!」
バッシュはガガンの死体を見た。
ナザールからは、バッシュの表情は読み取りきれない。
ただ、どこか悲しそうな表情に見えた。
「ガガンの気持ちはわかるが……」
バッシュはそこまで言って、しばらく沈黙した。
まるで言葉を選ぶように。
やがてバッシュは、ぽつりと言った。
「敗北するとは、そういうことだ」
それを聞き、キャロットはハッとした顔をして、うつむいた。
「……そうでしたね。バッシュ様はバッシュ様で、決意を持って、こうしてこんな所にまでやってきていらっしゃるのでしたね」
キャロットはそう言うと、ゆっくりと立ち上がる。
その顔は泣きそうにも見えた。勝てぬ戦いに身を投じる戦士を、見送っているかのように見えた。
「何を言っても、考えを変えてはくださいませんか?」
「ああ」
「……例え、デーモン王ゲディグズが復活する、と言っても?」
「関係ないな」
キャロットはゆっくりと目を閉じ、ふぅと息を吐いた。
「わかりました……道を違えども、あなたが尊敬する戦士であることには変わりません」
「俺もお前のことは尊敬に値する戦士だと思っている」
その言葉に、キャロットはほんのりと頬を染め、口元を緩ませた。
その少女のようなはにかんだ笑みは、しかしすぐに消えた。
彼女は表情を引き締める。
英雄に憧れる女から、一介の戦士の顔に。
「あなたを倒してでも、私は私の道を行かせていただきます」
「……そうか」
キャロットはバッシュの眼前に進み出ると、拳を構える。
二人の戦士に、これ以上の問答は無用であった。
「元サキュバス女王国・第一大隊総指揮。『喘声』のキャロット」
キャロットは名乗る。
髪をかきあげ、妖艶なる名乗りを。
「元オーク王国・ブーダーズ中隊所属戦士。『オーク英雄』のバッシュ」
バッシュも名乗る。
堂々たる名乗りだが、どこかその声音には躊躇があるように思えた。
サキュバスの現状に共感できるゆえ、彼女と戦うことへの迷いがあるのだろう。
「……」
バッシュはキャロットを睨みつけ、拳を構える。
武器はない。
バッシュもキャロットも、王宮に入場する際に、武器は預けていた。
この場で武器を持つのは、事前に許可を得て武具を持ち込んだナザールとのみ。
そんな、彼は動かなかった。
逃走する絶好の機会であったが、逃げなかった。
(そうか……そういうことなのか……)
ただ、感動していた。
(なんと素晴らしいのだろうか……)
ナザールは二人の関係を知らない。
見ていない所で、二人の間に、どんな会話があったのか知らない。
だが、少なくともキャロットが持ちかけた話は、バッシュにとって悪くはないはずだ。
戦争が起きれば、いくらでも戦いに身を投じることが出来る。
女も不自由しないだろう。不自由しないどころか、サキュバスが尽くすとまで言っているのだ。
そして、ゲディグズが復活したなら、勝利は確実だ。
まさに全てを得ることが出来る。
それをバッシュは蹴ったのだ。
ナザールに借りがあるから、と。
ナザールが出来たことと言えば、国境の通行を許してもらった程度だ。
王宮にも案内したが、その後に起きた問題を思えば、申し訳なく思っている。
普通なら、感謝されることはあるまい。
罠にはめられたと思ってもおかしくないはずだ。
だが、バッシュは『借り』と受け取ってくれた。
『貸し』ではなく、『借り』だと。
それを理由に、キャロットを蹴った。
ナザールの胸が熱くなる。
彼は敗北を受け入れつつ、オークの誇りを守ろうとしているのだ。
今の時代に沿って、オークも変わるべきだと考えているのだ。
あるいはそれは、オークという種全体から見れば、非難されることかもしれない。
何が敗北を受け入れる、だ。
俺たちには戦いしかない。戦って女を捕まえて犯すのが、我らオークの至上の生き方だ、と。
でもバッシュはそれを否定し、正しいと思う道を行くことにしたのだ。
ナザールは、バッシュの目指す所は、ナザールと似ていると思った。
形は違うが、同じ所を目指しているのだと思った。
だが違う。
きっと、彼の目指す所は、ナザールより先なのだ。
きっと、このオーク英雄は、もっと先を見据えているのだ。
このまま平和な時代が続いた、その先を。
ナザールですら見えぬ、何かを。
でなければ、たいして力にもなれなかったナザールに、正体を隠していたナザールに、借りがあるなどと言ってはくれまい。
(ヒューストン、君が手紙であれほどバッシュ殿を褒めていた理由が、今わかったよ)
この場から逃げるなど、できようはずもない。
ナザールは、目の前のオークの選択を、戦いを、誇りを、見届ける覚悟を決めた。