10.シワナシの森
シワナシの森。
それはクラッセルの町から南西、オークの国を挟んでちょうど反対側に存在している。
シワナシという名の巨木がある以外は、なんてことのない、どこにでもある森である。
だがそこは、バッシュにとって、思い出深い土地であった。
戦争中、シワナシの森は激戦区だった。
オーク族最強の氏族の領土であり、オーク族にとって最終防衛線ともいえる場所だった。
ここが陥落すれば、オークは北にあるフェアリーの拠点と連携が取れなくなる。
ゆえにエルフが猛攻撃を仕掛けてきたし、オークとフェアリーはそれに抵抗した。
バッシュもまた、この森で幾度となく戦った。
どこにどの草木が生えているとか、地形の起伏がどうなっているとか、そういったことまで熟知するほどに、走り回った。
その甲斐あってか、オーク族はシワナシの森の防衛に成功した。
犠牲は大きかった。
シワナシの森の氏族長も死んだし、砦もほとんど焼け落ちた。
が、それでもこの森は、最後までオークのものだった。
もしこの森が落とされていれば、オークとフェアリーは終戦を待たずして滅んでいたかもしれない。
しかし、戦争というものは残酷なものである。
終戦と同時に、オークが死に物狂いで守ったシワナシの森は、エルフのものとなった。
それどころか、オーク族の領土であった森林地帯の6割がエルフのものとなった。
2割をヒューマンが取り、オークは残り2割の土地で、細々と暮らさざるを得なかった。
もっとも、オークが誇った三十を超える氏族のほとんどは滅びていたため、不都合はなかったが……。
「懐かしいっすね……」
「そうだな」
そんな、奪われた森を目指し、バッシュは歩いていた。
方向としては、オークの国に戻っているといっても過言ではないが、目的地がそっちの方向なのだから仕方がない。
「あ、旦那旦那! ここ、覚えてるっすか! ほら、旦那が満身創痍で隠れてた穴っすよ!」
と、ゼルが指さしたのは、一つの洞穴だ。
熊が冬眠に使うようなその穴は、かつてバッシュが大怪我を負った際、追手から逃れるのに使った穴である。
「忘れるはずもない。お前がきてくれなければ死んでいた」
「まったまたぁ! 旦那があの程度で死ぬわけないじゃないっすかぁ!」
当時は冬で、穴には熊もいた。
なので、バッシュは熊を殺し、肉を食べて毛皮を纏い、糞尿を体に塗りつけて匂いを消し、クマのフリをして追手のエルフたちをやり過ごした。
とはいえ、傷は深く、失った血の量も多く、戦いの中でゼルともはぐれたため、そのまま隠れ続けていればやがて死に至っただろう。
ゼルが必死で探し、そして見つけてくれなければ、『オークの英雄』という存在が誕生することも無かったはずだ。
「そろそろか」
バッシュたちがそう言うと同時に森が途切れ、川が姿を表した。
20メートルほどの川幅を持つ、流れの早い川。
ヒューマンとエルフの国境線を示すアンメット川だ。
この川を渡ればエルフの領地、シワナシの森となる。
ちなみに、この川を北上していくと、支流であるバーグ川との合流地点がある。
バーグ川とアンメット川の間に挟まっているのが、今のオークの領地だ。
「さて」
バッシュは迷うことなく、川へと足を踏み入れた。
アンメット川には、浅瀬になっていて歩いて渡れる場所が、何か所か存在している。
戦争中はそうした情報は機密であったが、今は特に秘匿されている、というわけではない。
川の詳細情報を記したリザードマンの地図も販売されているぐらいだ。
が、個人でこうした渡河可能な場所を知っている者は少数だろう。
バッシュはその一人だ。
ゆえにバッシュはザブザブと川を渡り始め……。
「あれ? 旦那、ここを渡るんすか?」
ゼルに止められた。
「何か問題でもあるか?」
「いやー、問題っていうか……」
今は長い長い戦争が終わり、どこも自国の事に精一杯になっている時期だ。
他国に攻め入ろうなどと考えている国は、今のところ無い。
エルフも例外ではない。
戦争が終わった直後こそ、目を血走らせてオークとの国境を睨んでいたが、オークが出てこないことがわかってからは、あまり国境沿いを警戒しなくなった。
もちろん、たまにはぐれオークが出没するがゆえ、まったく警戒していないわけではないが……。
特に、このアンメット川は、ヒューマンとの国境だ。
ヒューマンとエルフは良好な関係にあり、互いに豊かな国ということもあってか、オークとの国境より、さらに警備が手薄であった。
恐らく、誰に見つかることなく、シワナシの森に入ることができるだろう。
「さすがにちゃんと関所から入らないと、怒られるっすよ?」
「……そういうものか?」
「そういうものっす!」
が、どれだけ警備兵の数が少なくとも、国境は国境だし、エルフはオークが自分たちの領土に来ることを警戒している。
せっかく設けた関所を通ってきたのならまだしも、川を渡ってきたとなれば、問題にもなるだろう。
「そうか……では、どうすればいい?」
バッシュはそれまで、道を通って堂々と真正面から入る、ということをほとんどしないで生きてきた。
道なき道や獣道、隠し通路ばかりを通ってきた。
そのため、自然と見つかりにくい道を通ろうとしてしまうのだ。
「ここから南下すれば橋があるっす。そこを通るっすよ」
「了解した」
バッシュは頷くと、川を南下し始めた。
ゼルがこう言うのだから、きっと間違い無いのだろうと思いつつ。
「……それにしても、ここもずいぶん変わったっすね」
しばらくすると、ゼルがぽつりと言った。
ここ、と言われバッシュも周囲を見渡す。
青々と茂る木々に、透明度の高い川、聞こえる音といえば、サラサラと流れる水のせせらぎぐらいだ。
川辺で魚を釣り、昼寝でもして過ごせば、最高だろう。
「そうだな」
だが、バッシュたちの知るアンメット川は、こうではなかった。
リザードマンの援軍を抑えるため、川は上流の方でせき止められ、水量は今の半分以下で、川幅も狭かった。
せき止められている箇所で繰り広げられる戦いによって川の色はどす黒く染まり、数分毎に死体が流れてきた。
木々もまた、戦いの余波で燃えカスになったり、折れたり、枯れたりしていた。
常にどこか遠くから音が聞こえた。
オークのウォークライに、エルフの魔法詠唱、爆発音や剣戟。
川のせせらぎの音など、聞こえるはずもなかった。
「いや、違うな。変わったんじゃない。元に戻ったんだ」
「おやおや、今日の旦那は詩人っすね! でもその通りっすよ! 森ってのは元々こうなんす! こうでなくっちゃいけないんっすよ! 青々と茂る木々、澄んだ川のせせらぎ、綺麗なお花畑、陽気な太陽! こういう森を飛び回るのは、ホントに気持ちいいんすから!」
「そうか、お前も普通のフェアリーのようなことを言うんだな」
「ちょ! 旦那、そりゃないっすよ! まるでオレっちが普通のフェアリーじゃないみたいな! オレっちといえば、フェアリーの中のフェアリーみたいなもんっすよ! フェアリー・ザ・フェアリー! オレっちがフェアリーじゃなかったら、一体だれがフェアリーなのか! まぁ、普通のフェアリーみたいな暮らしに飽きたからここにいるわけっすけどね!」
「フッ……ん?」
などと話をしていると、バッシュの鼻に、不快な匂いがついた。
肉の匂いだ。
もっとも、普通の肉ではない。
嗅ぎ慣れた、しかし嗅ぎたいわけではない肉。
腐肉の匂い。
しかも、食べられない腐肉の匂い。
オークは状況によっては腐った肉でも食えるほど、頑丈な胃袋をしている。
だが、そんなオークでも、食べないものはある。
それは、人の肉だ。
もちろん人とはオークに限らず、他種族の肉も含まれている。
オークにも倫理観というものは存在する。
戦前は他種族も平気で食っていたらしいが、互いに人間として争ったことで、同じ生物という自覚が芽生えたのだろう。
「……」
バッシュが視界を巡らせると、川の向こう側にうごめくものがあった。
目を凝らすと、それが肉だった。
白みがかった茶色と、紫色のマーブル模様の肉、そのまま溶けてしまいそうなほどの腐敗具合だが、不思議と形を保っている。
人の形だ。
完全に腐りきった人の形をした肉。
「ゾンビっすね」
「ああ、ゾンビだ」
ゾンビは、バッシュの方を一瞥すると、赤い瞳を爛々と輝かせ、川の方へと躍り出てきた。
そしてバッシュの方へと走りだした。
ゾンビは、なぜか生者を嫌う。
生者を見つけると襲いかかってきて、その生命を奪おうとする。
理由はわからない。
自身が失った『生命』を持っている者への嫉妬か、はたまた死の神がそう命じたのか……。
ゾンビはその習性に従い、バッシュの方へと走ってきて……。
ドボンと川に落ち、流されていった。
「出るんすね、このへん」
「そのようだな」
戦争の後、あるいは戦争中もであったが、様々な場所にアンデッドが出現した。
特に激戦区ほど、ゾンビやスケルトンの出現率は多かった。
強い恨みや、未練を持った者ほどアンデッド化しやすいというのが定説である。
実際、激戦区となった土地は、「ここで負ければ国家存亡の危機である」といった場所が多い。
戦士たちは気合を入れて戦い、そして死んでいった。
死ぬわけにはいかぬ戦いで、死んでいった。
口惜しく、悔しく、死にきれない。
ゆえに、アンデッドも多くなるというわけだ。
シワナシの森は、まさにそういった土地だった。
だから、ゾンビが出現するのも、さして珍しいことでは無い。
そもそも今の世の中、ゾンビ自体は珍しくもない。
オーク国でも、ゾンビやスケルトンは出現する。
アンデッドの種類はオークに限らず、オーク国を攻めていたヒューマンやエルフも。
フェアリー国も、ヒューマンやエルフといった、フェアリー国を攻めていた種族のアンデッドが稀に出現する。
なら、ヒューマン国にだって出るだろうし、当然ながらエルフ国にだって出るだろう。
ちなみにフェアリーゾンビは、今の所出現していない。
日々をちゃらんぽらんに過ごすフェアリーは、未練など残さないのだ。
「行こう」
「そっすね」
ゆえにバッシュたちも、先程見たゾンビはスルーして、エルフへの国境へと急ぐのだった。
◇
関所の橋は、つい二年前にできたばかりのものだ。
エルフとヒューマンの国の境目、ということでエルマン橋と呼ばれている。
今後、エルフとヒューマンの国の間で交易が盛んになるように、また、エルフとヒューマンの友好を願って。
そんな感じの建前で建造されたこの橋は、石造りの頑丈なもので、馬車が二台すれ違えるほどの広さがある。
実際、エルフとヒューマンの間での交易は盛んに行われており、一時間に一度は商人の馬車が通過する。
一時間に一度。
決して多くはない。
まぁ、盛んになったと言っても、まだどこの国も国内の商業を活気づかせる時期だから、そんなものなのだ。
一時間に一度しか通行が無いのであるから、見張りもたった二人だけである。
本来なら、関税だのなんだのと設けるべきなのだろうが、四種族同盟の間では、まだそうしたことが明確に取り決められていなかった。
戦争が長すぎて、戦争が起きる前にどうしていたのか、今後どうすればいいのか、誰もわかっていないのだ。
もちろん戦時中は、同盟国への支援物資に税金を掛けることなどしていなかった。
もし仮にしていたとしたら、ビースト族あたりの、金銭的な余裕のない国が崩壊していたかもしれない。
ともあれ、これから十数年掛けて、そういった所で問題が起きるなりなんなりして、法整備がされていくことだろう。
さて、エルフとヒューマンの間、ひいては四種族連盟の間では、そんな感じのゆるい国交が行われているが……。
「おい止まれ! 貴様、オークだな! 何者だ! なぜヒューマンの国から来た! 目的は何だ! 言え!」
七種族連合に対しては別である。
特にオークに対しては、終戦間際に激しい衝突を繰り返していたこともあって、過敏になっている。
時折オークの国から流れてくるはぐれオークの存在も、それに拍車を掛けていた。
野蛮で法を守らぬはぐれオークは、いつだって他国に迷惑を掛けるのだ。
なのでバッシュは当然のように、二人の若いエルフから弓を向けられた。
「俺の名はバッシュ。あるものを探して旅をしている。ヒューマンの将軍ヒューストンより、ここに俺の探し求めるものがあるかもしれないという情報を聞き、やってきた」
「バッシュ? ヒューストン将軍から……?」
バッシュを睨む二人の男性エルフ。
若いエルフなのだろう。
戦争に参加していなかったか、あるいは終戦間際に兵役についたぐらいの。
でなければ、バッシュの名を聞いて震え上がらぬはずは無いし、そもそもバッシュを間合いの内側に入れることもしなかったはずだ。
歴戦のエルフは森に溶け込み、姿を隠し、決してオークの間合いの内側に入らずに、殺せるという意思表示をしつつ、尋問を行う。
そうしないのは、新兵だけだ。
「おい、聞いてるか?」
「いや、聞いてねえぞ。オークが来るなんて」
「情報を聞いたってだけだし、単なるただの旅人じゃねえのか?」
「なら、通していいのか?」
「でも、はぐれオークは通すなって……はぐれなのか?」
「はぐれの見分けなんかつかねえよ」
バッシュの堂々とした態度に、途端にまごまごし始める二人。
はぐれオークであれば、こうして足止めをした時点で襲いかかってくるものだ。
あるいは、呼び止めるまでもなく、ウォークライと共に突っ込んできて、そのまま戦闘に入る。
そうじゃないというだけで、はぐれオークじゃないかもと思えるが……。
しかし、目の前のオークが嘘をついている可能性もあった。
容易には判断できない。
「ちょっといいっすか、お二人さん、この旦那ははぐれオークじゃないっすよ!」
そこにしゃしゃり出てくるのがゼルだ。
ゼルはふよふよとエルフの前に飛び回ると、華麗に演説を始めた。
「畏れ多くものこのお方こそが、オークの大英雄バッシュ様っス! オークの国の大要人! まさにVIP! それほどのお方が旅をしているんすから、当然オークキング様の許可を得ているっす! この人をはぐれオークと言うんじゃあ、オークの国にいる全てのオークがはぐれ者ってことになっちまいますって! さぁさ、はやく道を開けて欲しいっす!」
その後、ゼルの口からバッシュを褒め称える単語がずらずらと並べ立てられた。
最強、無敵、無双、猛者……年寄りのエルフが自分語りをする時に頻発しそうな単語の羅列に、エルフの若者たちは顔をしかめた。
「知ってるか?」
「オークの有名人なんか知るわけねえだろ。嘘ついてんじゃねえのか?」
「怪しいな」
「ああ、実に怪しい。フェアリーの言葉なんか信じられるか」
エルフにはこんな格言がある。
『妖精の道案内は大火傷の元』。
かつてエルフの旅人がいた。
彼は、旅の最中に、水筒に穴が空いているのに気づいた。
水筒の穴はすぐにふさいだが、こぼれてしまった水はもう無い。
喉はカラカラ、頭もフラフラ、水源を求めて森を彷徨っていると、フェアリーが現れ、こう言った。
「こっちっすよこっち、水あるっす! めっちゃあるっす! 間違いなくあるっす!」
エルフの旅人はこの言葉を信じてフェアリーを追いかけた。
すると、確かに水場があった。
エルフの若者は喜び勇んで水に飛び込んだ。
次の瞬間、エルフは悲鳴を上げた。
最初は気づかなかったが、その水は温泉だったのだ。
全身にやけどを負ったエルフを見て、フェアリーはケラケラ笑ったという。
ま、要するにフェアリーは適当なことしか言わないから、重要な決断をする材料にしてはいけない、という意味だ。
もっとも、そうした格言が広まりだしたのは、ここ最近だ。
戦争中のエルフの国に、そんな余裕はなかった。
大方、戦争中にどこぞのフェアリーに騙されたことで、そうした格言が生まれたのだろう。
ともあれ、二人のエルフは、どいてくれるような気配は無かった。
「通さないということか?」
「そうだ! オーク風情がエルフの国に入れると思うな!」
「むぅ……」
そうなると、バッシュの方も困ってしまう。
もし何の情報も無くこの場にいるのであれば、「じゃあ別の国に行ってみるか」と、あっさり方向転換しただろう。
だが、今はあの『豚殺しのヒューストン』の情報で動いているのだ。
バッシュは、このシワナシの森には、自分の妻になってくれる、美しいエルフがいるに違いないと思っていた。
旅の目的を考えれば、これをスルーするわけにはいかない。
もちろん、これは個人の目的であるから、大義名分というわけではない。
押し通る理由にはならない。
とはいえ、単にオークであることが理由で入国を拒否されるというのなら、バッシュも引き下がれなかった。
エルフの国との条約に『オークの一切を迎え入れない』などという文は存在していないのだから。
バッシュに落ち度は無いのだ。
「おい、お前たち、何をしている? 道を塞ぐな!」
と、そこに一台の馬車が通りがかった。
ヒューマンの国からエルフの国へと進む馬車だ。
馬車はバッシュのすぐ後ろでとまると、御者台に座った男がそう叫んだ。
サラサラの金髪に、長い耳をした男……エルフだった。
国境警備の兵と似たような服装をしている所を見ると、軍属だろう。
「エルフの国に入国したいと言ったが、通してもらえなくてな」
「ん? オーク……?」
御者はバッシュの姿を認めると、訝しげな視線を送った。
だが、すぐに警備兵の方へと視線を変えた。
得体のしれないオークより、自国の警備兵に話を聞いた方が早い、という判断だろう。
「おい、どういうことだ、説明しろ!」
「ハッ!」
どうやら御者台の男は、国境警備兵よりも偉かったらしい。
エルフ兵の二人は直立不動になると、事情を説明しはじめた。
いきなりオークが現れ、捜し物があるから入国したいと言い出したこと。
怪しげなフェアリーが一緒だということ。
はぐれオークではなく、ただの旅人だと主張しているということ。
しかし、どう考えても怪しいので、通行止めをしていたということ。
「そこのオーク、今の話は本当か?」
「本当だ。俺ははぐれオークではない」
「誓えるか?」
「偉大なるオークキング・ネメシスに誓おう」
その言葉に、御者は「ほう」と息を吐いた。
彼は、オークの宣誓の意味を知っていた。
この宣言が出来るのは、オーク社会においてもほんの一握り、大戦士長以上の戦士だけであり、オークキングの名において誓うということは、嘘だったら死罪をも受け入れるという意味ということを。
つまり、目の前にいるこのオークは、オーク国で立場のある人物であり、そんな人物が国外を出歩くことを、オークキングが了承しているということだ。
とはいえ、そうなると別の疑問が浮上してくる。
なぜ、彼はここにいるのか。
捜し物というのは、一体何なのか……。
それがわからないのであれば、通すべきではないのではないか……。
「いいじゃないか、別に、通してやれば」
そう発言したのは、御者ではない。
発言は馬車の中から発せられた。
女の声だった。
「戦争は終わったし、オークは約束を守っている。確かにはぐれオークもたまにいるが……オークキングから許可を得た、ちゃんとした旅人だっていうなら、イジワルしなくてもいいだろ?」
思わぬ助け舟に、バッシュの胸がキュンと高鳴った。
エルフの女の透き通るような声は、いつだってオークを魅了するのだ。
「しかしソニア様、オークが旅など、聞いたこともありません」
「戦争から三年も経ったんだ。オークにだって旅に出るやつぐらいいるさ。それに、ネメシスの奴がそれを許したっていうんなら、はぐれじゃないだろ。な?」
「証文も無いのに、信じられますか?」
「はぁ? お前、オークがオークキングの名前を出す意味を知らないのか?」
「存じておりますが、はぐれオークというものは、オークキングの命令に従えない者たちですので……口で出まかせを言っている可能性も」
「あるな! でも、考えてみろ。オークが本気で国に入りたいって思ったんなら、こっそりアンメット川を渡ればいいんだ。今までのはぐれオークはみんなそうだったろ? それが、真正面から堂々ときて、オークキングとヒューストンの名前を出して、入れてくれって言ってるんだぞ? あのヒューストンだぞ、『豚殺し』の。嘘つくにしてももう少しマシな名前出すだろ? な?」
「うーむ、確かに……ともあれ、ソニア様がそうおっしゃるのであれば。おい、お前たち、道を開けてやれ!」
御者がそう言うと、エルフ兵たちはすぐさま弓をおろし、どうぞと言わんばかりにバッシュに道を譲った。
それを確認すると、御者は馬に鞭を入れる。
馬車はバッシュを追い抜いて、橋を進み始めた。
バッシュは馬車に道を譲りつつ、見上げて一言、
「感謝する」
と、告げた。
その返事をしたのは、御者ではなかった。
「ん、気にするな! 今は平和な時代だからな!」
馬車の窓から顔を見せたのは、美しいエルフの女性だった。
高い鼻に、切れ長の青い目、尖った顎、長い耳。
顔は小顔で、胸もエルフらしく小ぶり。
恐らくはメイジなのだろう。鍔広の帽子をサラサラとした金髪を押さえつけるように被っていて、服装もエルフらしい深緑色のローブだ。
「ま、私もこうみえて偉いからな、これぐらいは……なっ! おまっ! グゲャッ!」
馬車から顔を出した女性は、バッシュの顔を見た途端、跳ねた。
そのまま、馬車の窓枠に脳天を打ち付け、カエルの潰れたような声と共に、馬車の中へとフェードアウトしていった。
馬車の中でもう一度だけゴンッという鈍い音が聞こえたが、同時に馬車が石を踏んでガコンと大きな音を立てたので、その音は御者には聞こえなかったろう。
女性は恐らく馬車の中で気絶したのだろうが、それに気づいている者は誰もいない。
あるいは平常時であれば、バッシュが気づいたであろう。
だが、今の彼はそれどころではなかった。
「なんと美しい……」
久しぶりに見たエルフの女性。
それも、まさにエルフといった風情の美しいエルフ。
エルフ女性の理想を体現したかのような彼女に、バッシュは心を奪われていた。
ああ、エルフの女性は、なんと美しいのだろうか。
今まで敵だったのでまともに見たことは無かったが、まさに理想だ。
ヒューマンはどれだけ美しい女性でも、どこか丸みを帯びているが、エルフにはそれが無い。
まるで抜き身のナイフのような美しさがある。
どちらも捨てがたい。
だが、美しさという観点で言うのであれば、間違いなくエルフだ。
やはり、ヒューストンの言っていたことは本当だったのだ。
自分の女神は、この地にいたのだ、と。
「あれ……? 今のエルフ、どっかで見たことあるような?」
ゼルは首をかしげていたが、バッシュにはそんなこと、どうでもよかった。
はやくエルフの女と仲良くなるべく、町へと足を早めるのだった。