107.旅の終わり
この大陸では、終わることのない戦争が続いている。
一体いつから始まり、いつ終わるのか、誰もわからぬその戦争は、三千年前も変わらず行われていた。
連合や同盟などという概念もなく、まだ各々の種族が各々の怨敵と向かい合っていた時代。
当時のエルフは栄耀を誇っていた。
常勝に常勝を重ね、平原の支配者であるケンタウロスを滅ぼし、巨大な平原に栄華な都を築いていた。
その栄華たるや、まさに大陸の支配者ともいえるもので、ヒューマンを奴隷のように扱い、デーモンと不可侵の条約を結び、その他の種族を"魔物"と呼称して駆除していたという。
平和な時代であったと、当時のエルフであれば言うだろう。
だが、他の種族にとっては、まさに侵略戦争の真っただ中であった。
そして平原の向こう側、北に住むサキュバスへと、その侵略の手を伸ばした。
エルフにとってサキュバスは害悪しか生まぬ存在であった。
生産性はなく、ただただ男を吸い尽くす化け物。
プライドが高く、飼いならすこともできぬ獣。
ケンタウロスのように駆除しようと考えるのは、傲慢なエルフにとって当然の思考であった。
サキュバスは決して弱い種族ではない。
賢く、体が強く、短距離なら空も飛べる。
数を増やすのも雌雄が必要なく、全ての個体が男に対して特攻ともいえる能力を持っている。
ゆえに、当時のサキュバスは森の中に巨大な町を持っていた。
サキュバス王国と称されていたその町は、その森一帯を支配する、巨大な王国だった。
しかしながら、それでも南部の森林と中央の平原を制覇したエルフの敵ではなかった。
サキュバスは徐々にその領土を奪われ、数を減らしていった。
そんな折、サキュバスの森に、ある種族が流れ着く。
それは、平原の東方でエルフに追いやられ、流浪の民となった種族。
オークであった。
粗野で粗暴なこの種族を、サキュバスは新たな侵略者であると考えた。
とはいえ、サキュバスからすると、取るに足らない相手であったといえよう。
それどころか、警戒心の薄い小動物のような可愛さすら持っていた。
何しろ、男しかいない種族なのだから。
しかも相当な馬鹿ばかりで、男しかいないくせにサキュバスを舐めていて、笑顔で寄ってきて食料を提供してくれる。
まるで自ら竈に飛び込んでいく鶏のような存在だ。
なぜそんな種族がサキュバスの所にやってきたのか。
それもまた、エルフの仕業であった。
サキュバスからして愛らしい存在を、エルフは追立て、滅ぼそうとしていたのだ。
サキュバスは気高き思想の持主であった。
この可愛い生物を悪逆非道のエルフの手から守らねばと思った。
そうしてサキュバスはオークを保護するに至った。
この関係は、思いの他、うまくいった。
オークは無駄にプライドが高いが、強者には従う性質がある。
種として見た時、サキュバスは男しかいないオークが勝てる生物ではない。
オークにとって女とは一方的に孕ませる対象であり、見下す対象であるが、実際の所サキュバスはオークの子供を産めぬ存在だ。
女のようであって、女ではないのだ。
ゆえに、オークの「女を見下す」という習性から、少しズレた所にいた。
一部のサキュバスがオークの信頼を勝ち取るのに、さほどの時間は掛からなかった。
ではサキュバスはどうかと言えば、正直な話、大半のサキュバスはオークを見下していた。
男しかいない種族。自分たちの介護なくして生きられぬ、可愛い家畜。
しかし果たして何の役にも立たないかと言えばそうではない。
サキュバスにとって弱者であっても、その身体は頑強で、個体によっては精強でもあった。
こと戦いに関してはセンスに優れた者も多く、エルフとの戦いにおいて頼もしい仲間であり、しかも食料にもなった。
関係性で言えば、ヒューマンにとっての犬か牛、あるいはそれらを合わせたような存在であろうか。
犬のように狩りでも戦でも役に立ち、牛から乳を搾るかのように食料を提供してくれる。
しかも、この家畜は食べれば食べるほど、懐くのだ。
食べ過ぎると死んでしまうが、もちろんそれはサキュバス側が調整すればよい。
サキュバスにとっては、都合の良い、可愛くて仕方のない家畜であった。
敵を倒した時に、男であればサキュバスが、女であればオークが食う。
そうしてサキュバスは腹を満たし、オークは数を増やした。
そうして、比較的長い年月、サキュバスとオークの蜜月は続いた。
■
エルフとの戦いは激化した。
エルフは広い領土を手に入れたことで数を増やし、さらなる力を付けていた。
本来なら、サキュバスとオークの連合軍などあっという間に蹴散らしてしまっただろう。
が、あまりに多方面に敵を作ってしまっていた。平原の周囲の全ての敵を相手にしてしまっていたのだ。
ゆえにサキュバスとオークが押し負けることは無かった。
攻め入ることが出来るほどではなかったが。
さて、オークの数が増えてくると、オークの立場をもっとよくしようという運動も始まる。
なにせ頭が悪いとはいえ、言葉を話すのだ。
いつまでも家畜として扱うのはいかがなものかと、一部の人道的なサキュバスは考えたのだ。
ゆえに、サキュバスはある制度を導入した。
『家畜騎士制度』と、当時はそう呼ばれていた。
サキュバスの王族に、当代で最強のオークを付けるのだ。
少々の蔑みが含まれていたのは、あるいは嫉妬心だったのかもしれない。
オークが王族につくことの嫉妬?
いいや違う。
可愛いオークを完全に自分の専属にすることを、多くのサキュバスが望んでいたのだ。
しかしながら、そうした呼称は長くは続かなかった。
多くのサキュバスの望み通り、騎士は王族だけでなく、サキュバスの貴族階級も多く真似しはじめ、次第にサキュバス全土に広がっていったからだ。
家畜騎士は、次第にオーク騎士と呼ばれるようになった。
一家に一匹、オーク騎士。
サキュバスにとって、オーク騎士を持つことが一人前の証であると言われるようになるまで、長い年月は掛からなかった。
オークの方でもまた、サキュバスに認められ、騎士となることは誉れであった。
強い戦士ほどサキュバスに見初められやすくなる。
オークたちはそう信じていたし、実際にサキュバスも強いオークを欲した。
オークは研鑽を重ね、嬉々として戦場で死んでいった。
しかしある時、オークたちは、いいやサキュバスもだが、気付く。
"英雄"が生まれてこない。
そう、オークには、英雄という概念があった。
とても強い戦士だ。
元来、オークはこの英雄になることを目標にする。
日々の戦いを、戦の神グーダゴーザへと捧げ、いつの日か英雄となるのを夢見るのだ。
英雄とは、己の身を神へと捧げた者の称号であった。
サキュバスがオークを保護した時は、英雄は大勢いた。
若者を除けば、もはや戦えぬ老人も含め、半数以上が英雄であったといえよう。
その戦闘力たるや、高慢なサキュバスが認め、己の脇に置きたがるほどであった。
しかし、オークが騎士となる時代において、英雄は誕生しなかった。
それは、サキュバスとオーク、双方にとって良いことではなかった。
エルフとの戦争が激化する中、サキュバスは常に強い騎士を求めていたからだ。
サキュバス自身も精強たるべしと訓練を怠らず、その屈強さをもってプライドとしていた。
弱いオークなど、必要ないのだ。
そしてその価値観は、まさにオークのものでもあった。
オークたちは、弱体化しつつある己が種のありように、微かな焦りを感じていた。
さらに言えば、当時のオークは、英雄のみが子を作ることを許されていた。
英雄が生まれなくなった時、オークは絶滅するのだ。
当代の女王は、英雄の最後の生き残りを騎士としていた。
齢五十を超えるそのオークは、戦場で幾度となく女王を助け、勝利に導いてきた。
半生と共にした相棒であった。
子を為すことができたのならば、伴侶となってもおかしくないほど、互いに信頼を寄せていた。
女王はかの戦士に、現状を憂いて言ったという。
「お前の炎を受け継ぐものは、まだ現れぬか」
その問いに、英雄は答えた。
「現れねば、我らは滅ぶのみ」
滅びを受け入れたオークを、サキュバスの女王は不憫に思ったという。
そも、オークは戦いをやめたわけではない。
サキュバスのため、あるいは己が種族のため、悪逆たるエルフと戦い続けている。
英雄ほどではないが、騎士たちは皆、勇敢であり、勇猛であった。
英雄ではないが、英雄たらんと戦っていた。
最初は、サキュバスが彼らを助けたやもしれぬ。
しかし今は確かに、サキュバスは彼らに助けられていた。
ならば、女王もオークを助けたい。
そう思った。
■
英雄が生まれねば、オークは途絶える。
なぜならば、オークは英雄にしか子を作ることを許していないからだ。
英雄以外が子を作れぬわけではないが、それはオークの中で固く禁じられていた。
今いる英雄が死に、時代の英雄が生まれねば、オークは種を残せない。
オークを助けるにあたり、女王は考えた。
そも、英雄とはなんぞや。
なぜ英雄以外は子を作るのを禁じているのか。
誰が禁じたのか。
真実を知る術はない。
オークは頭が悪く、読み書きが出来ぬ。
書物など残っていようはずもない。
ならばと女王は、聞くことにした。
己の英雄にも聞き、貴族たちには己の騎士たちに聞くように命じた。
また市井の者達にも一人一人、己がオークに聴取するようにと触れを出した。
すると、朧げながらそれらしき伝承が浮かんできたのだ。
かつて、オークは今よりも弱い種族だったという。
何がどう弱かったのかというのはついぞ判明しなかったが、今よりも他種族に虐げられて生きてきた時代があるようだ。
そんな時代において、ある戦士が、神に祈ったらしい。
己の全てを捧げるから、強くして欲しいと。
毎日毎日、戦いで得た供物を祭壇に捧げ、願いを口にしたそうだ。
神頼みなどした所で現状が変わるわけはない、そう周囲のオークは馬鹿にしていたようだが……。
ある日、供物と共に祭壇が消滅した。
神が願いを聞き届けたのだ。
祈りを捧げていた男は、最初の英雄となった。
英雄の証が額に浮かび上がり、炎や雷を操り、敵を殲滅した。
オークたちは、この英雄を王と定めた。
王は、己のようになりたいと願う者達に、己と同じようにせよと命じた。
すなわち、戦いを神に捧げるのだ。
それから、オークは精強となっていった。
英雄が次々に生まれ、種としても、集団としても強くなっていった。
敵などいなかった。
英雄と同じ力を使う者が現れるまでは……。
英雄と同じ力を使いながらも、オークより遥かに頭の良い者たちが攻めてくるまでは……。
エルフの侵攻だ。
……この伝承は、あくまで女王が要約したものである。
オークたちは断片的にその話を知っており、各々が少しだけ違うことを言った。
共通するのは、"神に戦いを捧げている"という部分のみだ。
サキュバスの女王は賢かった。
その伝承から、彼女はある結論を導き出し……そして絶望した。
自分たちが、オークという種に対し、取り返しの付かぬことをしてしまったと悟ったのだ。
「すまぬ、すまぬ……我が騎士よ。我が愛しき緑の戦士よ」
女王は、涙ながらに最後の英雄に跪いて許しを請うた。
オークの英雄は、黙して語らなかった。
■
英雄は、神の奇跡によってのみ生まれる。
オークが神の奇跡を賜るには、条件がある。
女王の仮説によると、それはまさに戦いを神に捧げるという事である。
己の全てを神に捧げる。
戦いを神に捧げる。
では何をもって、捧げたと言えるのか。
オークは、生殖欲の極めて強い種族である。
しかしながら常に男しか生まれず、他の人型の生物を妊娠させねば、数を増やせない。
かつての英雄が神に捧げたのは、それだ。
己の貞操を、神に捧げたのだ。
サキュバスにも宗教はある。
その宗教によると、神というものは、不可逆を好むとされていた。
元に戻らぬものが、神にとって価値あるものなのだ。
神がオークに求めたのは、オークの処女性であった。
オークは、何十年か性交をしなければ、英雄となるのだ。
そして、現在サキュバスの国において、ほぼ全てのオークが、サキュバスの食事としてその身を捧げている。
若いオークは初物とされ、サキュバスの貴族たちの間で高値で取引されるほど。
オークもまた、己の初陣をサキュバスに捧げることは、誉れだと思っていた。
オークは間違った。
神ではなく、サキュバスに己を捧げたのだ。
そう、オークはサキュバスに、食われたのだ。
誰もが望んだ関係であるはずだった。
オークはサキュバスを好み、サキュバスはオークを好んだはずだった。
女王が情報を公開し、オーク騎士制度を廃止しようと口にした時には、すでに遅かったのだ。
全てが崩壊した。
サキュバスが英雄の誕生を阻んでいたと知った時、サキュバスは激しく落胆し己を攻め、オークは己が英雄になれぬと知って絶望した。
サキュバスとオークの関係は急激に冷め、心は離れた。
女王は己の騎士に言った。
「我らから離れよ。もはやオークとサキュバスは共存できぬ」
女王は、オークを食料としてみなすことを禁じた。
遅いなどということはない。英雄はまだ生きている。
英雄さえ生きていれば、新たに子が生まれる。
無垢なる子が生まれれば、また英雄も生まれよう。
しかし自分と共にいてはだめだ。自分は英雄に好意を抱きすぎている。
「俺はお前と共にいよう」
しかし英雄はそう言った。
離れたくないと、女王にそう言ったのだ。
英雄は口数の少ない男で、女王からしても本心が見えぬ相手であった。
しかしこの期に及んで己の種より女王を選ぶと言われ、女王も胸を打たれた。
ゆえに女王は決意した。
オークに報いようと。
■
英雄が神の定めた制約ならば、それは世界の理だ。
世界の理を変えたいならば、神に新たな理を定めてもらわねばならない。
女王は、神に祈ることにした。
神に己を捧げるのだ。
幸いにして、サキュバスの国にも神がいた。
双子の神だ。
双子は女同士で繁殖するサキュバスを表すとされ、サキュバスは子を為した際には巡礼を行う。
その片方の神に、女王は己の身を捧げたのだ。
何日もの祈りを捧げた。
休むことなく祈りを捧げた。
かつてのオークの英雄がそうしたように、己の狩ってきた獲物を毎日捧げた。
そして、神は答えた。
サキュバスは、オークを英雄へと昇華させる力を持つようになったのだ。
しかし、時すでに遅かった。
祈りには長い時間が掛かってしまった。
サキュバスに変化が起こった時、オークの最後の英雄は、すでに死んでいた。
英雄を失ったオークたちは数を減らし、残った者も皆、老いた。
若者の一部は、すでにサキュバスの国から出奔していた。
いずれもすでに英雄になれぬ者たちではあるが、英雄でなければ子を産めぬわけではない。
誇りを捨て、掟を捨てれば、あとは女の一団でも捕まえることができれば、繁殖して数を戻せるやもしれない。
かつての誇り高き戦士の一団とは比べるべくもない、山賊のような存在であるが、それでも種が残るなら、と。
サキュバスの変化は、決して目に見えるものではなかった。
手遅れとなった贖罪であった。
だが、確かにサキュバスは、オークに祝福を与えられる存在となったのだ。
さらに女王は、オークを騎士とする際に、いくつもの誓約を定めた。
騎士ではなく、家畜ではなく、盟友として扱うための誓約であった。
すでにオークはサキュバスの元より去った。
しかし、遠い未来でサキュバスとオークが、また手を取り合わないとも限らない。
その時は、その時こそは、蜜月が永遠に続くよう……。
それが、女王の最後の願いだった。
■ ■ ■
サンダーソニアはパタンと本を閉じた。
そして、バッシュの様子を見る。
「……」
彼は相変わらず、死にそうな顔のまま、虚空を見ていた。
「話、聞いてたか?」
「……」
返事はない。
まぁ、聞いてはいたが、理解はできなかったとか、そんな感じだろう。
オークに迂遠な話をしても通じないのだ。
「要するに、だ」
サンダーソニアは、バッシュの両肩に手を置く。
「お前の痣はな、祝福なんだ」
本には、つまりこう書いてあるのだ。
「かつて、オークは強くなるために、神に祈ったんだ。性欲に流されずに戦いに身を置き続けますと。で、神は応えた。お前たちの神グーダゴーザは、オークの体を作り変えたんだ。三十年間童貞であれば、その身に魔力が宿り、強靭な肉体と魔法を兼ね備えた、最強の戦士になれるように」
それは神ではなかったと、サンダーソニアはにらんでいる。
"聖遺物"であったと、そう解釈している。
今のオークには、聖遺物に該当するものはない。
きっとそこで、何らかの方法が用いて使われたのだろう。
それが祈りによるものか、魔法によるものかはわからないが、確かに聖遺物は消費され、オークという種族は作り変えられたのだ。
「きっとこの本の出来事のあと、生き残った連中が意識改革を行ったんだろうな。女を捕まえ、女を犯せ、そして子供を孕ませろ、痣が出るようなやつは軟弱者だって。まぁ、それも当時は正しかったろう。とにかく数を増やさなきゃ、絶滅してただろうし」
「……」
「で、時のオークの中には、ちょっとは知恵が回る奴がいたんだろう。あるいは流れのデーモンあたりが知恵でも貸したかだが……魔法が使える個体は強力だから、人工的に三十年間童貞である個体を作ることで、オークメイジを作りだしたんだ」
「……?」
サンダーソニアは言葉を尽くす。
バッシュの瞳は動いていた。
話を聞いているのだ。
「今は、確かにオークは童貞を馬鹿にする風潮がある。童貞であるということは、お前にとっては、恥ずべきことかもしれん。だがな、お前はかつての英雄の願いを、かつてオークが定めた英雄の基準を、確かにクリアしたんだ」
「基準を……?」
オウム返しのような疑問に、サンダーソニアは大きくうなずいだ。
「そうだ。しかもそれだけじゃない。お前は次世代のオークに希望を残せるんだ」
「希望……?」
「お前は、今でこそ童貞であるが、これからはそれを捨てようと思えば、いつでも捨てられるんだ」
「いつでも……俺は、童貞を、捨てられる」
「私は……痣を消したらという約束だったが、まぁ、お前になら抱かれてやってもいいと思っている」
「お前を?」
「こっちのゼルだってそうだ。お前がこの三年で出会ってきた他の女の中には、きっとお前に抱かれてもいいと思ってるやつはいっぱいいるはずだ」
「だが、俺は、誰も……」
「前に、ブラックヘッド領でお前が女をナンパするのは見ていた。見事なものだった。飯を食いに行く時も、お前は私を気遣ってくれたよな。私の食いたいものを食おうと……私が断ったせいでお前は諦めたようだが、あの流れで口説かれていたら、まぁそのまま抱かれていてもおかしくはない」
あの日のサンダーソニアは立場上抱かれるとかは無かっただろう。
しかし、サンダーソニアはエルフだ。
オークと違って、いくらでも嘘はつけた。
「お前たちは気付いていないが、今まさにオークは絶滅の危機に瀕している。エルフもヒューマンも、お前らなんかいなくなってもいいと思ってる。お前たちが数を増やせるだけの女をくれてやる気がないんだ。だからお前たちは、自分で女を取ってこなきゃいけない。だが、従来の方法は禁止されているから、お前たちにはどうしようもない。このまま徐々に数を減らしていき、やがてどこかのタイミングで死に絶えるか、あるいは理由を付けて掃討される」
決して、エルフもヒューマンも、そうしようと思ってその条約を定めたわけではない。
ただ、そうなるだろう。
そしてエルフやヒューマンは、そうなってもいいと思っている。
オークが実際に焦り始めたとしても、冷ややかな目で「お前たちはこの数年、何もしてこなかったじゃないか。自業自得だ」と言い放つ程度には。
「でもお前は、できるんだ。ヒューマンにもエルフにも文句を言わせない方法で女を口説いて連れ帰る、その技術がある。そしてそれを、教えられるんだ。そうすれば、他の奴もお前と同じように女を連れて帰れる……滅亡を回避できるんだ」
だが、きっとそうはならない。
バッシュが国に戻れば、それも極上の女を連れて戻れば。
どうやったんだと聞かれ、バッシュが自慢げにその方法を語れば。
他のオークたちも、なら自分もと真似し始めるだろう。
中には、バッシュよりも上手に女を口説く者がいるはずだ。
そして成功例が積み重なれば、いずれオークの中でも、それが普通になる。
その頃には、バッシュは、最初の一歩を踏み出した偉大なオークとなっているだろう。
「お前だけなんだ。かつてのオークの理想像でありながら、今のオークの理想像に、名実ともにオーク英雄にもなりうる男はな」
いつしか、バッシュの目はまっすぐにサンダーソニアを見ていた。
力が前より戻っていた。
少し混乱が見られるが、しかし今の話を聞いて、奮起しているようにも見えた。
「……確かにお前の痣は消えない。魔法とか化粧で隠すことは出来るだろうが、その烙印はお前に一生ついて回る」
結局、それが結論だ。
だがサンダーソニアにとって、それで終わらせる話ではない。
だとしても、と続く話なのだ。
「けど、お前は英雄なんだ。オーク英雄だ。例えオーク共が認めなくても、私はそう認めてる。『エルフの大魔導』サンダーソニアに、魔法無しで勝てるオークだぞ? ドラゴンも倒したし、ブラックヘッド領の戦いも見事だった。私だけじゃない。オークの理解は得られないかもしれないが、オーク以外の種族は、全てお前を認めるだろう。誇り高きオーク英雄だって」
「……」
「オークの所に戻るのが辛いなら、私と共にエルフの国で暮らそう。絶対に不自由はさせない。お前のために尽くしてやる。子供だって産んでやる。私だけで満足できないなら、他に何人か娶っていいぞ。本当はダメなんだけど、お前なら許してやる。だから、なぁ、頼む。立ち直って、私に力を貸してくれ……」
バッシュは答えない。
少しだけ、考えているように見えた。
サンダーソニアの言葉を飲み下すのに、少しだけ時間がかかるかもしれない。
あまり時間は残っていないが。
それでも、廃人のような顔はもう、していない。
「サンダーソニア様」
と、バッシュの隣から声が発せられる。
気だるげな感じで座っていたサキュバスは、気づけば居住まいを正していた。
話し方も、普段の気だるげな感じとは大きく異なっていた。
「では、サキュバスがオークと致せば痣が出るというのは、呪いではなかったと申されますか?」
サンダーソニアは応える。
この時がきたかと覚悟をしながら。
「ああ、死に絶えようとするオークを見て、当時のサキュバスの女王もまた、何らかの秘術を用いて、サキュバスを作り変えたんだ。サキュバスにとって、オークを食いながらも、しかし殺さずに傍に置くというのは、相手をそれだけの存在だと認めたということになる。きっと、今後も寄り添って生きていきたかったんだろうな。サキュバスって種族は、きっとオークを愛していたんだよ。まぁ、ちょっと下には見てたかもしれないけどな」
キャロットは暗い目をサンダーソニアに向ける。
「そして、あのようにおっしゃったということは、バッシュ様が過去にサキュバスに襲われたわけではなく、また戦場で女を犯したこともないと、あなたは知っていらっしゃったようですね」
「……そうだ」
エルフは平気で嘘をつく。
だがサンダーソニアは、今、嘘はつかない。
「でも、私の側からそれが事実かどうかはわからんだろ? バッシュの自己申告だし、ほら、最初に致したサキュバスがなんかこう、催眠術みたいなやつでバッシュの記憶を消してるだけかもしれないしな? 魅了で記憶が消えるなんて、眉唾ではあるけどな、うん」
「それ以外には?」
「お前がゲディグズ側に戻ったら、私は死ぬだろ……こっちも必死だったんだよ……」
多少のごまかしはいれつつも正直に吐露したサンダーソニアに、キャロットは肩の力を抜いた。
そして立ち上がると、サンダーソニアの前にひざまづいた。
「多少の嘘があったとはいえ、私はあなたに感謝をささげます」
「許してくれてうれしいよ」
「今の話を聞いて、私は救われました。幼きバッシュ様を食い散らかした不届き者も、おそらくはいないようですし」
「記憶は消せないもんな」
そんな魔法は、恐らくサキュバスには存在していない。
この遺跡を探せばあるかもしれないが、少なくとも今は誰も使えないのだ。
「心が晴れました。あなたがいなければ、私は誤解からサキュバスを滅ぼしてしまう所でした……」
「うん。じゃあ、誤解も解けたことだし、あとはバッシュだな……」
バッシュは、多少動きを変えていた。
具体的に言えば、己の手を見ている。
小さく「俺が、真の英雄?」と疑問符のついた呟きが聞こえた。
このままいけば、自我を取り戻すことだろう。
とはいえ、だ。
このまま帰ったとて、バッシュが三十年間童貞であり、そして今もなお童貞であるという事実に変化はない。
それはきっと、今のオーク社会において、認められない存在だ。
だが、バッシュの功績はあまりにも大きい。
並みの英雄ではないのだ。
童貞を捨て、極上の女を連れ帰れば、痣があったとしても認められる可能性は多いにありえる。
そも、痣の正体が真の英雄の証だとしても、童貞は捨てなければならない。
そうしなければ、バッシュの自身のプライドが戻ってこない。
バッシュとて男であり、オークなのだから。
そのために旅をしてきたのだから。
「キャロット」
「はい」
「この際だし、お前がバッシュの童貞をもらってやる、というのはどうだ? ちょうど、腹もすいているだろ?」
「は?」
一石二鳥の明暗だといわんばかりの発言。
帰ってきたのは、とんでもない殺気であった。
「この私に、バッシュ様を食い物にしろと?」
「いや、うん、でもお前、このままだと明日にでも餓死するだろ?」
「そもそもバッシュ様の童貞は、あなたが奪って差し上げる、という話だったのでは?」
「それはほら、痣を消せたらって話だし? そもそも、私は経験が……な? ここは一番うまい奴が優しく指導してやるべきだとは思わないか?」
こいつ、怖気づいてやがる。
そう気づいたのはキャロットだけではなかった。
珍しくずっと黙っていたゼルが、ふと口を挟んだ。
「いや、オークにとっては、『"初陣"でエルフの大魔導の処女をぶち破って俺の女にしてやった』って方が価値があると思うっすけど」
「下品な言い方をするんじゃない。まぁ、私ももちろんその覚悟はあるぞ。けど、一番最初じゃなくてもいいだろ?」
「そう言って、最後までヤラないつもりなんすね」
「そんなこと言ってないだろぉ?」
でもそうなりそうな気配を、キャロットとゼルは感じていたのだった。
「ていうか、ゼル。お前でもいいと思うんだ私は。お前はバッシュのことを、心の底から愛してるだろ?」
「そっすよ。でもオークって、よく酒の席で"初陣"の自慢話をするんすけど、やっぱ最初の相手って大事みたいっす。どれだけ価値のある女で"初陣"を済ませたかは、オーク社会において重要っす。そんな中『元フェアリーをヒューマンに変えて初体験を済ませた』なんて話をしたら馬鹿にされるっす。それより旅先でサンダーソニアを倒して初陣を済ませたってことにした方が、自慢になるっすね。オレっちとしては、旦那には常に胸を張って生きてほしいんすよ」
「別に、そういうことにしといて、実際はお前らのどっちかでいいだろ?」
「いくら旦那とはいえ、オークが嘘なんてつけるわけないっす。そもそもオークでなくとも、自分に嘘をつくのはダサいっす」
だから自分は二番目でも三番目でもいいっす。
というのは、きっと根っからのヒューマンからは出てこない発想であろう。
「サンダーソニア様、覚悟をお決めください。あなたは今日、オーク英雄を真のオーク英雄へと昇華させるのです」
「かっこいい言い方をされてもなぁ……だが……うーむ……いや…………」
サンダーソニアは悩んだ末、最後の一人の意見を聞いてみることにした。
「バッシュ、お前はどうしたい?」
「ああ」
バッシュはかなり正気に戻ってきていた。
目の焦点は戻り、「俺は、オークだったのだ」とオークとしての自我を取り戻すに至っている。
バッシュは先ほどの話を半分も理解できていなかったかもしれない。
だが、それでも何かとてつもない神話に、自分の存在が許されたように感じたのかもしれない。
あるいはサンダーソニアにあそこまで言ってもらえたことで、何かが変わったのかもしれない。
「シケた顔をするな。それとも私なんか抱きたくないか? そうだ。もう何日も水浴びすらしてないもんな。思い返せば、あの時にヤラれなかったせいで、私は加齢臭がするなどという謂れのないそしりを受けたもんだが、今は確かにそういう匂いがしているかもしれんし……」
「いや、いい匂いだ。俺はお前を抱きたい」
「お、おう……」
真正面から言われて、サンダーソニアは黙った。
バッシュはゼルの方も見た。
「ゼルも抱きたい」
「オレっちはサンダーソニアの後でいいっすよ。最初はやっぱエルフの大魔導の方がいいっすからね」
「キャロット、お前も抱きたい」
「……」
キャロットは黙って顔を覆った。
そしてそのままうずくまり、亀のようになった。
芋虫状でありつつもやけに艶やかな背中の奥から、嬉しさのにじんだうめき声が聞こえてくる。
食欲と戦っているのかもしれない。
「では……私は、ゼルの後で、少しだけ、お恵みを、頂戴いたします……」
なんとか絞り出すようにそういうと、バッシュは視線を戻した。
サンダーソニアの方に。
「俺は、お前を抱く」
「……お、お前がそういうなら、よ、よーし。やるか」
抱く、などとそんな言葉を使うオークはいまい。
きっとかつてのバッシュであれば、もっと違う下品な言い方をしていたに違いない。
ぐちゃぐちゃに犯して孕ませてやるぜとか、そんな言い方をしていただろう。
これが、この言い方こそが、このバッシュというオークが学んできた成果なのだ。
オークということで差別も受けただろうが、それでも各国を回り、女の嫌がらぬ言葉を選べるようになったのだ。
「じゃあ、あっちの部屋行くぞ。ベッドがあったからな……」
とバッシュの手を取ろうとして、ふとサンダーソニアの視界に、バッシュの股間が大きく盛り上がっているのが見えた。
思わず「マジか」と呟くも、サンダーソニアとて、ここまで言われて怖気づくような女ではない。
しかし自分が先導するのは本当にあっているのだろうか。
この男にリードさせてやるのが正しいんじゃなかろうか。
そんな風に思ったから、少し動きを止めただけだ。
「おぉ?」
と、バッシュが立ち上がり、サンダーソニアを横抱きに抱えた。
お姫様だっこである。
オークが女性を運搬する時は、肩に担ぐが髪をつかんで引きずるのが一般的であるが、バッシュの抱き上げ方に、乱暴さは一切なかった。
「……」
サンダーソニアは顔を真っ赤にしながら、バッシュの首に手を回した。
彼女もまた、多分これが正解だろうという朧気な記憶に従って動いていた。
そして二人は、そのまま隣の部屋へと入っていった。
「……よし、じゃあオレっちは飯でも探してくるっすかね」
残されたゼルは、しばらく暇そうだなと思いつつ、立ち上がった。
明日にでもこの遺跡を出るなら、携行できる食料があった方がいい。
つまり、もう少しトカゲを焼いておくかと思ってのことだったが……。
「ちょっとたんま。タンマだ! 逃げない! 待ってろ!」
と、サンダーソニアが五分と立たないうちに、部屋から出てきた。
「……! ……っ!」
そして、部屋の外で待つ二人に、己の拳をグッと、顔のあたりまで突き上げてみせた。
やってやったぜ! という自慢にしては様子がおかしい。
サンダーソニアは青い顔をして、己の腕と部屋の方を交互に指さし、口をパクパクと動かしていた。
「やっぱりこうなったっすね」
「意外と入るから大丈夫ですよ。ほら、手伝ってあげますから」
サンダーソニアは二人に拘束されて部屋へと押し戻され……。
数分後、断末魔が鳴り響いた。
バッシュの長い童貞の旅に、終止符が打たれたのだ。