噂
それは、終業式の日のことだった。
「ねえ矢吹、あのウワサって本当なの?」
声を掛けられた少年が顔を上げると、不安そうな、しかし好奇心を抑えられない様子の少女が見下ろしていた。
「あのウワサって?」
「一年のバスケ部の子、入院したって…」
話に覚えのある少年は、「あぁ」と理解の声を上げる。
少年の名前は矢吹 俊介。この田舎町の普通科高校の二年生だ。バスケットボール部に所属しており、今朝の登校時、同じ部活で隣のクラスの時津 正孝から一年部員の入院を聞かされていた。
「じゃあやっぱり、靄男の仕業なんだ…」
「ん、えっ、何だって?」
クラスメイトの突飛な言葉に、俊介は上擦った声を返す。その反応が意外だったのか、彼女は大きな目を見開いた。
「最近よく聞くでしょ、靄男って。人が居なくなると、この学校に出るっていう」
「今回もそれだって?」
俊介の疑わしげな視線に、少女は「私はそう、聞いたけど…」と自信のない尻すぼみな言葉を紡ぐ。
まさか怪談話に繋がるかと首を振ったところで、一人のクラスメイトが教室に入って来るのが目についた。
「あ、暁洋お前も聞いたよな?笹木の入院」
「んあ?」と状況に疑問を抱きながらやって来たのは前澤 暁洋。俊介と同じバスケットボール部員だ。
「それは聞いたけどさ、何で俊介は飯塚ちゃん泣かせてるわけ?」
「泣かせてねーわ。こいつ笹木が怪我したのは靄男のせいだとか言うんだぜ?」
「私が言い出したんじゃないけど。みんな言ってるウワサだし、本当かもしんないじゃん」
二人を交互に見ながら話を聞いていた暁洋は、「そっか」と言いつつ何か納得した様子で俊介に人差し指を向けた。
「俊ちゃん、オバケ怖いんだ」
「ちっげーよ!」
声を荒げて机を叩いた俊介は、大きなため息をひとつして頬杖をつく。
「どんな状況で怪我をしたか見てたわけでもねえのに、靄男だとか怪談だとか、そんなの、笹木に悪いだろ」
その言葉に、少女は気付かされる。一年生が怪我をした事故は実際に起こっているのだ。友達の友達の親戚だとかいう噂話とはわけが違う。下手に扱っていいものではない。
恥じ入る彼女の傍らで、暁洋はハンカチを目に当てて肩を震わせた。
「俊介がっ、そんなに後輩想いだとはっ。俺はてっきり、もっと不純なこと言い出すかとっ」
「嘘泣きやめろ。不純なことってなんだよ」
「靄男の噂を解決したら飯塚ちゃんに付き合ってもらおうとか」
先ほど机を叩いた拳が、直接暁洋に向けられた。
「お前いい加減にしろよ」
「なんでだよー。俺ならそうするよー?」
「嫌だよ。前澤って何考えてるか全然わかんないもん」
そんな三人が話し合う二組の教室に、隣の一組から二人の生徒が顔を出した。
「待たせて悪いな、俊介。部活行こう」
「暁君も居る。飯塚さんと何の話?」
二人に気付いた俊介は荷物を担ぎ出した。終業式ということもあり、いつも以上に量がかさんでいる。
「やっと来たか、正孝、晴君。…別に、ただの噂話。早く部活行こうぜ。飯塚も個人練なんだろ。ちゃんとやれよ」
「わかってるよ」と頬を膨らませて、少女は譜面とトランペットの元へと戻っていく。暁洋はそんな彼女に手を振りながら、俊介と共に教室を出た。
「実際、靄男って見たことあるやつ何人くらい居るんだろうな?俺はあるけど」
四人が並んで廊下を歩きはじめたところで、暁洋が何でもないことのように呟いた。一瞬、聞き流そうとした三人は、最後の言葉で彼を見た。
「は?お前見たことあんの?いつ?どこで?」
「靄男?」
「噂話って、そのことだったの」
右端に居る暁洋の左隣から順に、俊介が掴み掛かる勢いで訊き、正孝が怪訝な表情を浮かべ、碧山 晴喜は先ほどの会話の内容に納得する。
宙に視線をさまよわせて記憶を辿った暁洋は、へらりとした笑顔で俊介を見た。
「先月の終わり頃かな。そのすぐ後に怪談話が出始めて、あぁ、あれが靄男だったんだ、って」
「…確かに、先月末からだよね、靄男とか、浮遊霊とか、花子さんだとか」
俊介にはあまり心当たりが無かったが、考えてみれば、春から初夏くらいまでは暗い話は少なかったように感じる。今は雰囲気がどことなく濁っているようだ。最近になって妖怪だの幽霊だのが学校へ引越して来たとでもいうのだろうか。
「暁洋がふざけて法螺話をばら撒いたんじゃないのか?」
「わっ、ひどいや正孝くん。俺がそんなにセンスの無い人間に見えんの?見たこと自体、初めて言ったし、広めるならもっと面白い話にするね。二年一組に出る仏頂面男とか」
自分を挟んで小競り合いが始まる中で、俊介は小さく頷く。正孝の言うように、噂には原因があるはずだ。それが暁洋でないにしても、噂になるだけの現象または広め出した人物が必ず存在する。
「俊君も気にしてるんだね。…やっぱり、笹木君のことがあるから?」
「そう、だね。誰かが脚色して面白がってるとしたら、腹立つだろ」
原因を突き止めることは難しいかもしれない。それでも、放っておけなかった。噂は広まり易く、尾ひれも付き易い。今後、どう形を変えるかもわからないものだ。
「どうにか出来るなら、しなくちゃな」
それは晴喜へ向けた言葉なのか、ただの独り言なのかは俊介自身にもわからない。だが本心であることは確かだ。体育館へ続く外廊下を進みながら、ふと暁洋越しに校舎を見上げる。
くすくす。
突然足を止めた俊介を振り返り、三人は首を傾げた。
「どうした、俊介」
「正孝…あそこ」
指が示す方向を見ても、特に変わったものは無い。屋上のフェンスの上にスズメが二羽とまっているくらいだ。
「何も無いぞ」
「スズメがどうかしたかー?」
見えないはずはないと再び視線を向けた俊介の目にも、何も映りはしなかった。「ごめん」と呟いて歩き出す姿に、三人は顔を見合わせる。
「何が、見えたの?」
「赤い…、いや、見間違いだよ。何でもない」
不穏な雰囲気のまま、四人は部室へと向かう。気持ちを切り替えようと踏み込んだその室内も、何やら不穏な雰囲気だった。
「何だお前ら、着替えないのか」
中に居た部員に正孝が声を掛けた。部屋の隅で膝を抱える森永を、杉本と山岡の二人が難しい表情で見下ろしている。三人共、一年部員だ。
三年生はまだ来ていないものの、他学年のほとんどの部員は既に器具の準備をしたり、シュート練習をはじめている。
「時津先輩…ちょっといいですか」
山岡が部屋の外を指す。四人は顔を見合わせ、正孝と俊介が山岡と部室を離れ、晴喜と暁洋は森永の様子を見に残った。
体育館手前の外廊下の端で、山岡は正孝と俊介の二人に向き直る。「くだらない話、かもしれないんすけど」と前置きした彼も、笑っていいのかわからない様子だ。
「森永、さっき教室にバッシュ忘れて取りに行ったんです。すぐ戻って来たんすけど、何も持ってねぇし青褪めてるしで訳を訊いたら、廊下で靄男に追い掛けられたって、笹木の次は自分なんだってビビってあんな調子なんすよ」
「それは、笹木の噂を聞いて影に過敏になってるんじゃ?」
「違うとは言い切れません。だけどアイツ、普段は誰よりオカルト否定派なんで、何て言うか、こっちまで不安になってきて…」
二人が山岡に掛ける言葉を選んでいると、晴喜と暁洋が現れた。そちらも事情は聞けたようで、晴喜は腕を組んで深刻な顔をしている。
「森永君、帰った方が良いと思う。きっと練習どころじゃないよね。オレから部長とつつみんに事情は話すからさ」
「…そうだな。山岡は大丈夫か?」
「大丈夫っす…。じゃあ、森永帰してきます」
部室へと去っていく背中を、四人はしばし無言で見送る。
まず沈黙を破ったのは暁洋だった。
「なんつーか、どうする?」
「どうするも何も、俺達は部活だろう」
部室へ戻り出す正孝に、暁洋は「まあ、そうだよな」と追いて行く。続こうとした晴喜だが、動かない影に振り向いた。
「…俊君?」
「俺、確かめて来る。本当に靄男とかいうのが出るのか」
気だるげながら冗談が好きで、怖がりなイメージのない森永が震えていた。俊介には、あまり信じられない光景だった。見間違いや勘違いで、あんな風になるだろうか。きっと、見てみなければ、わからない。
「俊ちゃん一人で行く気?危ないよー、俺も行くよ」
体育館側から踵を返し、暁洋はへらりと笑って俊介と肩を組む。
「オレも行きたい。ほら、正君も」
晴喜が手を差し出すが、正孝は体育館を振り返る。真面目な彼には、練習に出ないことに抵抗心があるようだ。
無理はするなと言おうとした俊介より、晴喜が語り掛ける方が早かった。
「みんなが安心して部活に来られるようにしなきゃ。遊びやサボりじゃないって、陽君もわかってくれるはずだよ」
「…みんなのため、か。そうだな」
深く頷いて、正孝も外廊下へと踏み出した。四人は体育館を後にして、再び校舎へと戻る。
「あ、陽君だ」
晴喜が声を上げたのは、一階にある第一学習室の前だった。室内には他にも三年生の生徒がおり、夏休みの勉強について希望進路ごとに説明を受けているようだ。プリントの山を抱えた生徒達は荷物をまとめていて、教師と和やかに会話している。重要な話は終わっていると見て、晴喜は扉に手を掛けた。
「失礼します。陽君」
「ああ、晴。と、いつもの三人か。ごめん、もう始まってるよな」
明るく笑い掛ける彼に、晴喜以外の三人は運動部らしい挨拶を返す。彼は碧山 陽平。バスケットボール部の部長であり、晴喜の兄だ。
「いえ、他の先輩方も、まだ掛かってるみたいです」
「ん、じゃあどうかしたのか?」
首を傾げる陽平を、四人は学習室の外へ招く。手早く荷物をまとめた彼は、疑問を浮かべながらも続いた。
目立たない廊下の隅で、四人が陽平を囲うようにして状況の説明を始める。一年部員の笹木の入院が、靄男の仕業だと噂されていること。先ほどの森永の様子。山岡の不安。そして、四人が真偽を確かめに行こうとしていること。
話を聞き終えた陽平は、曇りのない笑顔を浮かべた。
「─まあ、時津まで加わってるって事はふざけてる訳じゃないんだろ。無茶しない程度にやって来い」
「ありがとう、陽君」
「いや、そんな事になってるなんて知らなかった。俺達三年じゃ勉強と部活だけで手一杯だし、後輩を守ってくれて嬉しいよ」
顧問には伝えておくから、と手を振りながら陽平は体育館へと歩き出す。四人はそれぞれ礼を言って部長の背中を見送った。
「さて、どうする?」
「一階は人が動き始めたな。二階から見よう」
俊介の提案で、四人は二階へと移動する。
校舎二階の二年棟。帰宅部は夏休みへ、運動部と文化部は部活動へと散り、人の姿はない。個人練習をしていた吹奏楽部員も、音楽室へ戻ったようだ。
昼近くだが、日当たりの関係か薄暗い。窓は閉められ、湿気と熱がこもり、何が出てもおかしくない雰囲気だ。
「なーんか、いかにも…だねぇ」
暁洋の呟きに、俊介は生唾を飲み込んで頷いた。あまり信じていないつもりだったが、ここまで来て身がすくむ。
「暁洋は見たことあるんだろ。平気なんじゃないのか」
正孝の言葉で、俊介と晴喜も「そうだった」と暁洋を見る。彼は照れ臭そうにへらりと笑った。
「見たことあるって言ってもさ、後ろ姿だけなんだわ。俺に気付かないで三階へ行っちゃってさ。バレてたら追われてたと思うと怖いよねえ」
「でも、見たんでしょ?どんな感じなの、靄男って」
「うーん。影が歩いてる、みたいな」
影が歩く、その場面を思い浮かべながら、俊介は自分の影を見る。影は背後、そこには窓。校舎二階の廊下の窓の外は、勿論足場などあるはずもない。
その窓の向こうを見た俊介は、みるみる顔を青くする。背筋から、全身の肌が粟立っていく。
「ぁ、うわああっ」
「俊君っ?」
悲鳴をあげて駆け出す俊介を、晴喜が追う。反応が遅れた正孝と暁洋は、茫然と見送るしかなかった。
廊下を駆け抜けた二人は、二階特別教室棟にある男子トイレに逃げ込む。
「俊君、急に、どうしたの?」
息を切らせながら尋ねると、俊介は壁に背をあててずるずるとしゃがみ込み、膝を抱えた。
「小さな…女の子が、居たんだよ」
「女の子?」
「外廊下でも見たんだ。屋上の、柵の外に立ってて…。白い服に赤いスカートの、おかっぱ頭の女の子。見間違いじゃなかった。ずっと…俺達を見下ろして笑ってるんだ」
異様に大きな赤い目が、じっとこちらを見ていた。くすくすという笑い声が、耳にこびり付いている。
「それ、靄男と一緒に噂になってるよね。トイレを出た花子さん、て」
「花子さん?」
「校内のどこにでも現れる、小学生くらいの古風な女の子。一瞬目を離すと消えるらしいけど、追い掛けられたって話は聞かないよ」
トイレに出る花子さんなら、俊介も聞いたことがある。怪談の詳しい内容まではわからないが、あの少女が、その花子さんだとでも言うのか。
だが…、あの、目。あれはもっと、ずっと─。
「多分、大丈夫だよ。正君たちのところへ戻ろう」
晴喜の声で我に返った。
確かに離れてしまったのは良くないだろう。二人は、花子さんとやらが居た場所に残っているのだ。
「あの二人なら、心配ない気もするけど…」
半ば自分に言い聞かせて立ち上がる。周囲をうかがいながらトイレを出た。
廊下の角の手洗い場まで来ると、正孝と暁洋がいつも通り言い合っている声が聞こえてきた。少し遠いが、ほっとする。晴喜と顔を見合わせ、角を曲がろうと駆け出した。
しかし、二人の足は凍りつく。
目の前にある社会科資料室から、黒い影が現れたのだ。黒煙のような、かろうじて向こうが透けて見える靄が人の形を成している。背の高さ、体格は、その名の通り男であるようだ。
資料室から頭を出して廊下を見ていた靄男は、ゆっくりとした動きで部屋を出た。身長は百八十㎝前後、腕や足は二本ずつ。頭はあるが、顔はない。しかし顔がなくとも、爪先がこちらを向いている。靄男は、二人を見ている。
俊介がそう気付くのと、靄男が踏み出すのが同時だった。
「晴君っ!」
晴喜の手首を掴み、俊介は駆け出した。先ほどの特別教室棟へと逃げる。二人の後ろから、大きな足音が追ってきた。靄男であることは間違いないだろう。
「本当に、居た…!でも、どうしよう」
「階段、反対側なんだよな」
特別教室棟から一階へ逃げたくとも、階段は遠かった。二年棟の手前と繋がる渡り廊下があるが、授業のない今は戸が閉められているはずだ。このままでは、追い詰められてしまう。
「俊君、そこっ!」
晴喜が前方を指した。どの教室も閉まっている中、第二理科室の扉がわずかに開いている。二人は頷き、その隙間へと滑り込んだ。
─俊介と晴喜が靄男と対峙する直前、正孝と暁洋は二人と合流しようと廊下を進んでいた。
「俊介、どうしたんだろうな」
「窓に映った自分にビビったとか?」
「そんな奴じゃないだろ」
噂を確かめると言い出したのは俊介だ。怖がりな印象などなく、むしろ怖がる人に手を差し伸べられるはずだと正孝は思っている。だが、先ほどの外廊下での様子から、違和感はある。まさか、本当に何かが居るとでもいうのだろうか。
「どした、仏頂面に磨きが掛かってるぜ。怖いの?」
考え事をする横から暁洋がひょっと覗き込む。
「怖くない。考え事くらいさせろよ黙れないのか」
「なんだよー、俺なりに気を遣ってんのに。怖いのかなぁとか、走り出した俊介に反応遅れて傷付いてるのかなぁ、とか」
「本当にろくなこと言わないな。俺の反応が悪いんじゃない、晴喜の反射神経が優れてるんだ。お前ほど劣ってる気は全くない」
「あっ、それ俺キズ付いたー!」
この二人は、会話をしているだけで仲裁されることが多々ある。しかし本人達に喧嘩をしている気はまるでなく、こうして言い合うのがお互いのコミニュケーションとして成り立っているのだ。
「しっかし、二人共どこまで行ったのかねぇ」
暁洋が呟いた時だった。
晴喜の名前を叫ぶ俊介の声が響く。すぐさま視線を向ければ、社会科資料室から駆け出す、黒い影があった。
「えっ、あれって…」
「っ、行くぞ!」
影を追い、二人は走り出す。向かうのは特別教室棟だ。
手洗い場の前を抜け、地学室を過ぎると、廊下の突き当たりまで見渡せる。渡り廊下の戸は開かれておらず、二人は、そして靄男はこのどこかにいるはずだ。
「晴喜!俊介!」
正孝が叫ぶが、返事はない。
「正孝!ここ、音がする」
暁洋が声を上げたのは、第二理科室の扉の前だ。彼と同じように扉に耳を付けてみると、べたりべたりと足音がした。
そして不意に、音が止む。
かと思いきや、ガタガタと、揺れているような大きな音が立ちはじめた。二人のものらしい叫び声があがる。
「俊介!晴喜!くそ!」
扉を開けようと力任せに引くがびくともしない。第二理科室は、部屋全体が、大きな音を立てている。
「暁!鍵だ!」
「えっ、あ」
「俺より足速いだろ!職員室、走れ!」
「わかった…!」
力強く頷き、暁洋は駆け出した。職員室は特別教室棟とは反対方向だが、二階にある。そこまで時間は掛からないだろう。
「俊!晴!大丈夫か!」
扉を叩いて呼び掛けるが、二人の声は聞こえない。ただ地震でも起きているかのような、机や棚の揺れる音、木製の椅子が倒れる音が続くだけだ。それでも、呼び掛ける他にない。
暁洋が全速力で駆けてくる姿が見えた頃、部屋の音が止んだ。息も整えずに鍵を回した暁洋は、戸を引いて首を傾げる。
「鍵、かかってない」
「まさか」
正孝も鍵を回し、締まったこと、開いたことを確かめてから戸を引いてみる。だが、扉は開かない。
「なんっだよ、これ…」
「暁、体当たりだ。外れても直る。むしろ壊せ」
二人は扉から距離を取り、助走をつけて突っ込む。引き戸はレールから外れ、室内側へと倒れた。
扉と共に理科室へと転がり込んだ二人は、すぐさま体勢を立て直して辺りをうかがう。最奥の机の影から、人の足が見えた。
「俊、晴!」
駆け寄ると、見えていた足は倒れている俊介のものだった。その隣には、晴喜も倒れている。居るのだが─。
「なんだ、これ」
二人が倒れているのは、机と、教材用の棚の間だ。棚の上部は硝子戸で、ずらりと顕微鏡が何段にも並べられているのがわかる。下部は金属の引き戸で、中は見えないようになっている。その引き戸から、青白い腕が伸びて晴喜の足を引いているのだ。少しずつではあるが、ずるずると引き戸の中の暗闇に、彼を連れ込もうとしている。
「や、めろ!離せ!」
暁洋が晴喜に腕を回し、抱きかかえるようにして引っ張る。腕はすごい力で足首を掴み、尚も闇へと向かう。
「この…!」
思い切り蹴り込んだ正孝の右足が、青白い腕を弾く。手が離れたその隙に、暁洋は晴喜を抱えて廊下へと急いだ。正孝も倒れている俊介を抱えて後に続く。振り向いて見れば、ぐったりとしていた腕は、力なくするすると引き戸の闇へ入っていった。
続