第11章 六花廷、開廷!
今ではお馴染みとなった生徒会室。コの字に並べられた長机には、各勢力を代表する生徒たちがすでに着席していた。
生徒会役員、六花繚乱倶楽部、六花弁護団、そして生徒会室の入り口付近に新聞部を含む傍聴人が二十数人。前代未聞の六花廷とあってか、傍聴人の数もいつもより多いような気がした。
全員そろったことを確認した生徒会長が、卓上ベルを鳴らす。
甲高い鐘の音が生徒間の雑談をかき消し、緊張を呼んだ。
「これより開廷いたします」
厳粛なるムードの中、俺の運命を決める六花廷が始まった。
しかし本来なら、まずはじめに原告側(六花廷の性質上、そのほとんどが繚乱倶楽部)が被告人の罪状を読み上げるのだが、正面に座る千石は一向に立ち上がろうとはしない。それどころか、彼女は半眼のままじっと俺を睨んでいた。
「生徒会長。この状況について、説明を求めます」
千石の隣に座っている繚乱倶楽部の一員――確か花澤という名の三年生が、きつい目つきで会長を睨んで訴えかけた。
一回の六花廷において、前線で戦える基本的なメンバーは、繚乱倶楽部と弁護団の両側共に三人までと決まっている。今日の相手は千石と花澤先輩と、そして二年生の神崎先輩だ。ただ途中交代はできなくても、仲間内での情報交換は認められている。故に毎度のことながら、前線メンバーの後ろには数人の繚乱倶楽部部員が控えていた。
発言はできないが、彼女らには自分の主張を前線のメンバーに託す権利が与えられていた。ま、六花廷自体お嬢様の私物のようなものだし、不公平を説くのは今さらだ。
だからこそ、俺たちに与えられた特別措置が気に入らなかったに違いない。
指摘を受けた生徒会長は、確執など微塵にも悟らせない毅然とした態度で言った。
「今回は六花弁護団員が訴えられるという前代未聞の公判内容ですので、特別処置を取らせていただきました。こちらの方が、繚乱倶楽部と弁護団、両方共にやりやすいと思いまして」
会長が澄まし顔で答えると、花澤先輩は渋い顔を見せただけで、それ以上異議を唱えることはしなかった。
特別措置内容、その一。
俺は被告人兼弁護団の一員として、自分で自分を弁護できる。
普段なら、被告人は三勢力に囲われるように、コの字に並べられた長机の中心に座ってなければならない。そして訊かれた質問を返答する時のみ、発言が許される。
今回、俺は弁護団側で自分自身を弁護するため、被告人席は空というわけだ。
特別措置内容、その二。
花澤先輩としては、こちらの方が納得いかなかったのかもしれない。
俺の両隣には、シュウと周防がいた。弁護団でない人間を召喚して戦力に加える権利は一応あるのだが、シュウの場合は別だ。女性を弁護団に招くのは、異例というか完全にルール違反である。
今度は神崎先輩が指摘した。
「被告人自ら弁護するのは理解できますが、弁護団に女性を召喚する理由はどういった正当性があるのですか? 捜査に協力するだけならまだしも、弁護団員としての発言権は無いものと思われます。いくら特別措置とはいえ、長年守られてきたルールには、ちゃんと従ってもらわないと……」
発言が途中で途切れる。何かと思えば、千石が神崎先輩を手で制していた。
小柄な外国人顔に、顔幅の二倍はあろうかというツインドリルを携えた少女は、不気味に微笑んでいた。
「生徒会長。もし弁護団に特別な権限を与えるのでしたら、我々繚乱倶楽部にも同じ権限を頂かなければ、公平とは言えません。そこで提案です。そちらの特別措置に見合った権限を、私たちにも与えてくれないでしょうか」
舌足らずながらも、千石の発言には重みがあった。
やはり来たかと、俺は内心で毒づく。ただ二年生三年生の先輩ではなく、千石が申し出たことには、敵ながら天晴れと思った。
「認めます」
仕方がない。生徒会長としても、ここで拒否する理由がないからな。
ただし……と、彼女は特別処置を与えるための条件を付け加えた。
「繚乱倶楽部側の特別措置は、今この場で決めてください。それと弁護団側の権限と見合わない場合には、却下いたします」
「分かりました。ありがとうございます」
一礼した千石が、俺たちの方へ向いた。その笑みには、底知れない薄気味悪さが含まれていた。
「まずは一つ目」
彼女はその場にいる全員に見えるように、人差し指を立てた。
つーか、複数あるのかよ。
「被告人の有罪が確定した場合、その罰則は我々繚乱倶楽部が決めます」
「はぁ!? そんなこと……」
「次に二つ目」
俺の狼狽に対し、千石は声を被せるようにして二本目の指を立てた。
「罰則の内容は、被告人の有罪が確定してから提示します。以上です」
「ちょっと待ってください!」
千石が提示した特別措置の内容に異議を申し立てるべく、俺は慌てて立ち上がった。
罰則を向こうが決めて、しかも有罪が確定するまで伏せておくだって?
冗談じゃない。これじゃあ後出しジャンケンもいいところだ。普段は中立の立場である生徒会長が罰を与えているからこそ、みんな従っているだけなのに。罰則まで繚乱倶楽部が決めることになったら、六花廷の公平性が完全に失われてしまうじゃないか。
立ち上がったはいいが、あまりに突拍子のない千石の申し出に絶句してしまった。
横から生徒会長の一喝が飛んでくる。
「野村さん。異議があるなら挙手をお願いします」
異議はあるが、返せる言葉がない。
俺は棒立ちになったまま、じっとこちらを見据える生徒会長の瞳を見つめ返す。彼女も解っているはずだ。そんな馬鹿げた特別措置、受け入れられるはずがない。
しばらく見つめ合う。異議なしと受け取った会長が、千石に向かって言った。
「千石さん。貴女の発案を認めましょう」
「なっ――!?」
今度こそ本当に言葉を失ってしまった。
マジか!? そんなもの認めてしまったら、俺という一生徒の人権問題に発展してしまわないか?
「ただし、判決に見合わないほど度を越した罰則であったり、公序良俗に反するものと判断した場合は、どんな理由があろうと却下します。その場合は生徒会から改めて罰則を提示することになりますが、それでも構いませんね?」
「はい、大丈夫です」
納得したように頷いた千石が、着席した。
俺が異議を唱えなかったためか、即座に決まってしまったようだ。最低限の人権は保障されたとはいえ、俺の内心はあまり穏やかではない。
「安心して。今やり取りで、ゴールが見えたわ」
「ゴール?」
隣に座るシュウが小声で励ましてくれた。しかも、ちょっと驚いた顔をして。
まさか昨日言っていた、決定打となる最後の手札を手に入れたのか? 今のやり取りで? ダメだ、俺には何一つ分からない。
けど、今はシュウを信じるだけだ。
「では改めて、本日の六花廷を開廷したいと思います。繚乱倶楽部側、告訴内容を」
「はい」
返事をした花澤先輩が、一枚のA4用紙を手に立ち上がった。
見る限り、今日の繚乱倶楽部は訴えを起こした千石をメインにして、二人の上級生は完全に補佐に回っているらしい。一年のくせに先輩を顎で使うとは、繚乱倶楽部内での千石の地位が高いのか、それとも信用されているからなのか。
「先週の金曜日、告訴人である千石千代子さんが繚乱倶楽部の部室でシャワーを浴びていたところ、忍び込んできた被告人Aに覗きをされました。これにより、千石さんは精神的に多大なる苦痛を受けました。よって純粋無垢な女子生徒を辱めた被告人Aに対し、それ相応の報いを与えるべく、この場に訴えます」
「弁護団側、告訴内容に相違はありませんか?」
「…………はい」
俺が重々しく頷くと、傍聴席からどよめきが起こった。
当然といえば当然の反応だ。少し前の、スマホを勝手に見ただのパンチラを目撃した際に笑っただの、不可抗力が働いたせいで起こった事例とは違う。告訴内容をそっくりそのまま認めれば、誰がどう聞いても被告人が悪く、完全に犯罪だった。
だから、このまま終わらせるわけにはいかない。
異議を唱えるべく、俺は静かに手を上げた。
「いくつか訂正したいことがあります」
「はい、どうぞ」
「まず被告人Aに不法侵入をする意図があったわけではありません。しっかりとノックをし、堂々と入り口から入室しました」
「けど、室内から誰かが入室許可を出したわけではないんですよね? 結局、それでは不法侵入と変わらないのではないですか?」
すかさず千石が反論してくる。
予定通りだ。
「おっしゃる通りです。ただそちらの告訴内容では、この場にいる第三者が誤解してしまう恐れがあります。被告人Aは覗きをするために、こそこそ隠れながら繚乱倶楽部の部室に侵入したと、誰もがイメージしたでしょう。ですが、事実は違います。被告人Aは別の目的があって訪れ、偶然にも千石さんのシャワーシーンを目撃してしまった。偶発的に起こった事故であることを、ここで強調します」
「…………」
不服を申し立てたそうな顔をした千石だったが、ぐっと堪えた。
今は弁護団が告訴内容を訂正している場面。彼女もそれは理解している。いくらお嬢様方の私物である六花廷とはいえ、相手の意見に耳を貸さず自分の主張ばかりしていたら、退場させられることもなくはない。反論する機会なら後で腐るほどあるし、表向きの六花廷は完全公平に、だ。
「次にシャワーシーンを目撃したと言ってしまいましたが、これも間違いです。被告人Aは実際にはシャワーを浴びている千石さんの姿は見ていない。どころか、シャワー室すらも覗いてはいません。部室の扉を開け、室内に一歩入ったところで、シャワー室から全裸の千石さんが出てきた。それを目撃したというのが正しい事実です」
「全裸……」
と呟いた千石が、顔を赤らめて俯いてしまった。
女の子にとっては、自分の裸体を男子に見られたことを公にされるのは、恥ずかしことなのかもしれない。
「以上です」
「六花繚乱倶楽部側は、今の訂正を受諾しますか?」
「……所々細部に申し立てたくはありますが、大筋は今の通りですので受け入れます」
苦虫を噛み潰したような顔をしながら、千石は告訴内容の訂正を受諾した。
繚乱倶楽部としては、被告人を完全悪人にしたいがために、事実内容を少し湾曲させて報告することがある。故に告訴内容の確認と訂正は、毎回行われている形式のようなものだ。そして事実から大幅に逸れていない限り、繚乱倶楽部は訂正内容を受け入れなければならない。じゃないと、いつまでたっても先へ進めないからな。
雰囲気としては、傍聴人の裁定が少しだけこちらへ傾いたような気がした。偶発的な事故と強調したからだろう。しかし両側が認めた事実関係だけでは、未だ俺を悪人として見る目が多い。
「では弁護団側、何か弁解することはありますか?」
「はい」
シュウが手を上げた。すると繚乱倶楽部側の一同は、露骨に嫌な顔を見せた。
「はい、有川さん。どうぞ」
「一つだけ、冗談を言ってもよろしいですか?」
「冗談? ……長くならなければ構いませんよ」
疑問を浮かべたのは、何も生徒会長だけではない。俺たち三人以外の生徒は、皆が皆、シュウのおかしな言動に首を捻っていた。六花廷初参加だから、勝手が分からないのだろうという苦笑いも含めて。
「ありがとうございます。冗談というのは、千石さんが体験した事柄は、実はすべて夢だったのではないか、という意見です」
「は? ……夢?」
「事件は当事者二人の間でのみ成り立っています。他に目撃者はいません。故に、千石さんは繚乱倶楽部の部室で居眠りをしており、彼女が何かしらの感情を抱いている被告人Aが夢の中に登場したのではないか、という可能性も否定できません」
「貴女は何をふざけているのですか!」
勢いよく立ち上がった花澤先輩が、ヒステリックな叫び声を上げた。他の繚乱倶楽部の皆様も、声を上げずとも牙を剥いてらっしゃる。権力を差し引いても、女子が集団で反抗してくる有様は恐怖以外の何物でもなかった。
「ですから、冗談です。私も本気で言っているわけではありませんし、そちらの千石さんの主張をすべて虚偽と言い張るわけではありません」
鼻で笑ったシュウが、何事もなかったように静かに座った。肝、据わりすぎだろ。
もちろん相手が夢だったと認めてくれれば万々歳だが、さすがにそうもいかない。そしてシュウがあっさりと引いたのも正解だ。事件があった無かったの水掛け論になれば、六花廷の性質上、絶対に弁護側が負けてしまうから。
そしてシュウの冗談で、一つの事実が判明した。
事件当時、繚乱倶楽部の部室には千石以外に誰もいなかった。もし誰かがいたのなら、そう主張してくるはずだ。事件そのものが虚偽である可能性を指摘され、慌てて止めに入る。他に目撃者がいなかった証明に他ならない。
ただ挑発の意味合いもあった作戦だったのだが、当事者である千石が意外にも冷静だったことには驚いた。
「虚偽ではないと認めるのなら、事件自体は本当に起こったわけですね?」
「はい。弁護団としても、訂正させてもらった告訴内容を覆すつもりはありません」
生徒会長の問いに、俺は毅然とした態度で言った。
そして彼女のさらなる質問に、今度はシュウが答える。
「では弁護団は、この場で何を訴えるのですか?」
「被告人Aの無罪です」
会場内が再びどよめいた。
被害者の裸体を目撃したことを認め、その上で無罪を主張する。正気の沙汰ではない。良くて減刑だろう。などという声が、傍聴席から聞こえた。心なしか、繚乱倶楽部のお嬢様方も鼻で笑っているような気がする。
「静粛に」と生徒会長が鳴らした卓上ベルで、ようやく会場内は静けさを取り戻した。
「では被告人Aの無実を証明するため、弁護団は釈明をお願いいたします」
「はい」
返事をして立ち上がったのはシュウだ。今回、メインで戦う役はすべて彼女に一任してある。六花廷に参加できるせっかくの機会だから自分も弁護してみたい、と。
対する繚乱倶楽部側で迎え撃つのは、千石本人だった。
龍と虎が、まさに雌雄を決する時!
「まず議論の争点を定めましょう。繚乱倶楽部側は、何を以て被告人の有罪を決定づけているのでしょうか?」
「被告人Aが告訴人――私、千石千代子の裸体を目撃したこと、その一点に限ります。もちろん『繚乱倶楽部の部室内で』かつ『彼が無断で入室したこと』を条件とします」
「なるほど。では被告人Aが千石さんの裸体を目撃しなかったと証明できれば、無罪確定というわけでよろしいですね?」
「その証明が不可能であることは、すでに前提で決まっています」
その通りだ。千石は自分の裸体を見られたことに争点を置き、そして弁護団側は告訴内容でそれを認めてしまっている。つまりどう足掻いても覆すことのできない事実であり、無実と主張するのは最初から不可能なのだ。
「確かに無実は不可能です。が、弁護団としては被告人Aの無罪を要望します」
「どういう意味ですか?」
「『被告人Aが千石さんの裸体を目撃してしまったことは偶然であり、不幸な事故だ』と主張します」
「どちらでも変わらないと思います」
「ならば事件が起こったのは第三者の陰謀だとしたら、どうでしょう」
「陰謀?」
「例えば、被告人Aが繚乱倶楽部の部室を訪れた理由を考えてみます。覗きが目的でないとしたら、何故彼は女子の部室に顔を出したのでしょう」
「それはそちらが提出した調書に書かれています。先週の六花廷で使われた調書のサインを貰いに行くため、被告人Aは繚乱倶楽部へ訪れた。貴方たちの主張が正しければ、確かに偶発的な事故ですね」
「そうです。でも考えてもみてください。弁護団員である被告人Aが、敵方である繚乱倶楽部の元へサインを貰いに行く行為は、どう考えても不自然ではないですか?」
「…………」
「つまり誰かが被告人Aに対し、繚乱倶楽部へ行けと命じた」
「…………それは誰ですか?」
「それは……」
焦らすように言葉を切ったシュウは、一度だけみんなの顔を見渡した。
そして最終的に、生徒会長の方を向いて不敵な笑みを漏らす。
「被告人Aにサインを貰いに行けと命じたのは、生徒会長です」
傍聴席が驚きの声に満ちた。
俺は当事者だから当然のこととして捉えていたが、事実を何も知らない傍聴人からしたら、完全に意表を突かれた形になっただろう。普通に考えたら、ここで生徒会長が出てくる意味が分からない。シュウのパフォーマンスは、外野の興味を掴むことに成功した。
それまで無表情だった会長が、急に破顔した。自嘲的な笑みに近い。
彼女の凛とした声音は、卓上ベル以上に群集を鎮める効果があった。
「イグザクトリー……じゃなかった、その通りです。確かに私は野村さんに千石さんのサインを貰って来てほしいと、お願いしました。証拠も理由も必要ありません。認めます。ですが、だからといって私の陰謀と結論付けるのは、少し早計ではありませんか?」
「もし生徒会長が、千石さんがシャワーを浴びていることを知っていたら?」
「知りませんでした」
『知らない』と言い張られてしまったら、『知っていた』という証拠を提示しない限り絶対に覆らない。そして俺たちは、会長黒幕説という明確な証拠を持ってはいない。だからこの話はここで終わりだ。
いくら好意的に接してくれるとはいえ、やはり生徒会長は完全中立な立場だった。
議論の切れ目と察した千石が、高らかに鼻を鳴らした。
「ほぅら、陰謀論なんて唱えても証拠がないんじゃ意味はありませんね。被告人Aの無実も無罪も証明できない」
かかった。
鬼の首を取ったかのように、シュウが生き生きと微笑んだ。
「つまり千石さんは、誰かしらの陰謀論が成立すれば、被告人Aは無罪であると認めてくれるのですね?」
「…………え?」
争点を変えること。それが俺たちに課せられた、第一の目標だった。
裸を見たから有罪。この事実が揺るがないのなら、最終着地点を別のところへ変更するしかない。つまり故意でなかったから無罪。介入した第三者こそが真犯人。多少強引ではあるが『陰謀論の有無にかかわらず』と条件付けしなかった千石は、認めざるを得ない。
「そういう意味で言ったわけではなくて……」
当然、千石は否定する。
だが弁解するのには、もう遅かった。
「そうなんですか? しかし傍聴人の方々は、すでにそのつもりですよ」
「――――ッ!?」
千石は慌てて傍聴席の方へと振り向いた。
顔を見るだけでも分かる。女子も男子も入り混じる傍聴席の生徒たちは、皆一様に同じ思いを抱いていた。すなわち『もし第三者が意図的に起こした事件なら、そいつが一番悪いんじゃないか?』と。
争点の変更については、完全にこちらが勝利したと言ってもよかった。千石を含めた繚乱倶楽部一同、何も言い返せないでいる。
「ふんっ! ま、いいわ。陰謀論が証明できない限りは、被告人Aの無罪を言い渡すことはできないもの」
それはそう。俺たちの本当の戦いはここからである。
どうせ黒幕なんていないと高を括っている千石が、議論の進行を促した。
「それでこの先どうするつもりなのかしら? 生徒会長の陰謀じゃなかったらしいわよ」
「今のはあくまでも一例です。例えばそのような可能性もある、といった意味で提示したまで。弁護団としても、生徒会長が黒幕だとは思っていません」
「では陰謀説はもうおしまい? つまらない幕引きだわ」
「いえ。実はもう一人、とある人物の陰謀である可能性があります」
「それは……誰です?」
冷たく突き放す千石の言い方に対し、シュウの頬は熱を帯びていた。
俺が繚乱倶楽部内で千石の裸を目撃せざるを得なかった状況。
その状況を作った犯人とは――、
「ずばりアナタです。千石千代子さん」
指の腹が見えるほどピンと反らしたシュウの人差し指が、繚乱倶楽部を貫いた。
長身のシュウが某裁判ゲームの決めポーズを真似ている姿は、本当に様になっていた。堂々とした姿勢も良ければ、勝ち誇ったように活き活きと浮かべる笑みも素晴らしい。
そんな幼馴染の姿を真横で眺めていた俺は、改めて思った。
やっぱりこいつは……カッコイイ!!
「なにか反論してくれると説明しやすいのですが」
「…………」
嫌味たらしく挑発するシュウに対し、千石は口を噤んだままじっとこちらを睨みつけているだけだ。
そして黙り込む彼女に同調しているのか、傍聴席も恐ろしく静かだった。まるで誰かの息を呑む音すら聞こえてきそうなほど。手に汗握る緊張感が、少し離れた俺の位置にもありありと伝わってきた。
やがて壁掛け時計の秒針が十ほど数えた頃、ようやく千石が口を開いた。
「どうして私が自分自身で被告人に裸体を晒すようなマネを? 詳しい説明を求めます」
「その前に、千石さんが黒幕だという陰謀論に至った理由をお答えしましょう」
シュウの挑発はまだまだ続く。
露骨に質問を無視された千石のこめかみに、青白い血管が浮かんだ。
「疑問に思ったのは、事件当日、繚乱倶楽部の部室には誰もいなかったということです。とある部員から話を伺ったのですが、土日祝日以外は、ほぼ誰かしらがいらっしゃるようなので。……いえ、誰からお伺いしたのかはお答えしません。ご想像にお任せします。……現在の最終下校時刻は六時。そして事件が起こったのは五時過ぎ。全員が帰宅するには少しだけ早い時間のように思えます。なのに、当日は千石さんしか残っていなかった」
「そういう日もあるでしょう。偶然です。それともあなたは、誰もいない状況が故意に仕組まれたことだとでも仰るんですか?」
「そう言いたいのは山々ですが、証拠がありません。ですが千石さんは、あの日は自分以外の誰もいなかったと認めるのですね?」
「…………」
沈黙は肯定の証だ。
「もう一つ。金曜日の放課後には、一部の繚乱倶楽部部員と生徒会役員の女子メンバーでお茶会を開いていたそうですね。こちらは本人たちにもお伺いしましたので、裏は取れています。仮定の話ですが、生徒会の女子メンバーが不在になると、被告人Aが繚乱倶楽部へ調書を持っていく可能性がぐっと上がりますよね?」
「言いがかりです!」
吠えたのは花澤先輩だった。
「生徒会の皆さんとお茶をしに行くのは、その週の頭には約束していたことです! それに調書を被告人Aに預けたのは、生徒会長だと仰ったばかりじゃないですか! 私たち繚乱倶楽部が、被告人Aを意図的に部室へ来させることなどできるはずがない!」
「残念ながら、その通りです。部室が無人だったのも、生徒会役員を誘ってお茶をしたのも、陰謀論の理由にはなりません。証拠がありませんからね。偶然だと強く押し通されてしまったのなら、私は返す言葉もありません。つまりこれらは、ただの想像でした」
「あなたと言う人は……」
チーン、チーン。と、卓上ベルの鐘が鳴る。
見れば、生徒会長が険しい顔をしていた。
「花澤さん、抑えてください。そして有川さん、一度目の警告を言い渡します。これ以上証拠の無い空想を論じるのは禁止します。主張は自由ですが、その際には必ず証拠や証人を提示してください。次の警告で、退場していただきます」
「はい、申し訳ありませんでした」
警告を受けることは想定の範囲内だが、少しだけ早すぎた。
シュウの奴、やりすぎだ。
「では私の主張は一旦ここでやめて、繚乱倶楽部側にいくつか質問してもよろしいですか?」
言い渡された警告も意に介さず、シュウは飄々とした態度で挙手をした。
ため息を漏らした生徒会長が、繚乱倶楽部へ同意を求める。本来ならそのような意思の確認を取ることはないのだが、警告を与えた直後だからだろう。
「弁護団員が質問をするのは、権利によって保障されています。裁判長である私が独断で却下することはできませんし、繚乱倶楽部には答える義務があります。しかし有川さんはたった今、自らの主張を優先しすぎて警告を受けたばかりです。もし繚乱倶楽部が望むのなら、有川さんの質問を後回しにすることもできますが」
「いえ…………」
低い声で唸った千石が、ツインドリルがわずかに揺れる程度に首を振った。
「質問には答えます。私は逃げません。真正面からぶつかってやる」
最後の一言は小声だったが、一部の傍聴人には聞こえていたみたいだ。
千石の強い意志に、何人かの傍聴人は心を奪われたようだった。
「分かりました。では有川さん、質問を許可します」
「ありがとうございます」
一礼したシュウの顔に張り付いているのは、計画通りに事を進められた喜びだけではない。対等に、そして真剣に議論できることの高揚感が、心の底からありありと浮かび上がっていた。
「では質問いたします。事件当時、千石さんは本当にシャワーを浴びていたんですか?」
「どういう意味ですか?」
「被告人Aはシャワー室を覗いたわけではない。あくまでもシャワー室から出てきた千石さんの裸体を目撃しただけです。つまり本当にシャワーを浴びていたかどうかは、千石さん自身の証言でしかない」
「…………」
再び黙り込んだ千石が、下唇を噛んだ。
嘘をついているから反論できない、というわけではなさそうだ。ただ単に、今はまだ相手の意図を捉えきれず、出方を窺っている様子。
「まず最初に、千石さんはどうしてシャワーを浴びていたのでしょうか? 誰もいない部室に、たった一人で」
「部室に誰もいないことは知っていましたし、私もずっと居たわけではありません。あの日は大雨でした。少し濡れてしまいましたので、迎えが来るまでの間、部室のシャワーを借りようかと思っただけです」
「なるほど。では、どの程度濡れてしまったのでしょうか?」
「どの程度?」
表現が難しいし、そんな疑問に何の関係があるのか。
そう訝しがるように、千石は顔を歪めた。
「少しですよ、少し。ずぶ濡れではなかった、としか言いようがありません」
「分かりました」
「……こちらからも一つ、よろしいですか?」
千石が静かに言う。
「どうぞ」と、生徒会長が発言を許可した。
「そろそろ着地点を決めましょう。こんなフワフワした議論では、いつまでたっても終わる気がしません。繚乱倶楽部は弁護団に対し、早急に結論を提示するよう要求します」
「安心してください。論点は何も変わっていません」
「と言いますと?」
「弁護団側は、千石千代子さんの陰謀論を強く推します」
これには傍聴席からも失笑が漏れた。
先ほど、まったく根拠の無い空想論を振りかざしたせいで、シュウはイエローカードを貰ってしまったのだ。それをさらに続ける。聴いているだけの人間からしたら、意味のある行為とは思えないだろう。
「早急にと言われましたので、弁護団は千石千代子陰謀説を前提とした核心を示します。シャワー室内にて全裸で待機していた千石さんは、被告人Aが繚乱倶楽部に入ってきたことを確認するやいなや、自らの裸体を晒すためにわざと部室の方へ飛び出した。以上、これが一連の流れです」
弁護団の言い分を聞き終えた神崎先輩が、鼻で笑った。
「明確な証拠を提示できなければ、貴女は二枚目のイエローカードで退場することになりますね」
「証拠ならあります」
「――――っ!?」
繚乱倶楽部のお嬢様一同が狼狽した。冷静沈着なシュウの態度にも、焦燥感に拍車を掛けたに違いない。最初から行われてきた夢や妄想の類と違って、シュウは短く、はっきりと宣言したのだ。証拠ならある、と。
「証拠があるというのなら……この場で提示をお願いいたします」
千石の声が震えているのは、焦りか戸惑いか。
どちらにせよ、この状況だけを切り取れば、明らかに彼女は追いこまれていた。
そしてここからが弁護団にとっての正念場だ。シュウは一気に畳み掛ける。
「はい。しかし証拠を提示する前に、最後の質問です。千石さんは、どうして服も着ずにシャワー室から出てきたのですか?」
「それは……」
「こちらの中学生向けパンフレットにもあるよう、シャワー室には脱衣所も備え付けられています。部室内とはいえ、ここは学校です。一糸も纏わずにシャワー室から出歩くのは迂闊すぎますし、不自然です。それに被告人Aの目撃談では、千石さんの身体からは湯気が立ち昇っていたそうです。シャワーを浴びた後、全裸で部室内を歩き回るのは、繚乱倶楽部では日常茶飯事なのでしょうか?」
「…………」
肯定はできないはず。もし認めてしまったら、一般生徒に印象付けてきたお嬢様の品格とやらが、一気に瓦解してしまうから。
「そしてもう一つ。千石さんは、間違いなくシャワーを浴びていたんですよね?」
「……先ほども、そう申し上げました」
「被告人Aの目撃談からしても、ほぼ確実です。ですが、彼はちょっとした違和感があったそうなんです。その違和感とは、頭です」
シュウが、自分の頭を指で差して言った。
「千石さんの髪は、シャワーを浴びていたのにもかかわらず崩れていなかった。そのような複雑で繊細な髪形は、ちょっと水分を含んだだけでも重みで形が崩れるでしょう。なのに雨に濡れても、シャワーを浴びても、シャワー室の蒸気に触れても、その形を維持したままだった。これはどういうことなのでしょう?」
「……頭からお湯を被ったわけではありませんし、多少は崩れても自分で直せます」
「本当ですか? 毎日登校前に、一時間かけて専属メイクさんにセットしてもらっているのに?」
あぁ、思い出した。そういえば、周防先輩が千石に訊ねてたな。
反論の言葉を失くしても、シュウの追撃は止まない。
「髪形を崩さないようにシャワーを浴びていた理由について、私は一つの仮説を立てました。聴きたいですか?」
「……早く言いなさい」
「では。もし髪形を崩した場合、被告人Aが千石千代子だと認識できない可能性を、あなたは危惧した。違いますか?」
再び廷内がざわつき始めた。
確かにその通りだと、俺自身も思う。小顔の横で大きく主張するツインドリルがあったからこそ、俺は一瞬でそれが千石だと認識できたのだ。もしあのトレードマークが無ければ、瑞々しい肢体に見惚れ、女子生徒個人を特定できなかったはず。そして目撃してしまった裸体の少女が千石だと知ることになるのは、週が明けてからになっていただろう。
もし千石が、千石千代子という女子生徒を強く印象付けたかったのだとしたら、ツインドリルは決して外せない。
「だから……」
喉の奥から無理やり絞り出したような低い声が、千石の口から紡ぎ出された。
「だから私が被告人Aに裸を見せた理由を提示しなさいって言ってるでしょ!」
ついに我慢の限界に達したのか。
堰を切ったような千石のヒステリックに、廷内は一気に鎮まり返った。
「女の子が男に自分の裸を見せる理由なんて、一つしかありません」
そして俺たちの切り札をここで切る。
「千石さん。あなた、野村君に惚れているんでしょ?」
「――――ッ!?」
絶句した千石が、身体を硬直させた。
生徒会室にいるすべての視線が今、千石に集まる。誰も何も言わない。身動きすらしないどころか、呼吸も忘れてしまったかのように、誰もが千石の答えを聞き逃すまいと聴覚に百パーセントの力を注ぎ込んでいた。
静止してしまった時の中で、唯一動ける千石が俯いた。
紅潮した頬に、ほんの一筋の涙を蓄えて。
「わ……私が野村君を好きという証拠がありません」
「いえ、あります」
シュウが力強く反論した。
残念ながら、俺が把握しているのはここまでだ。昨日の作戦会議では、ここから先の決定打がなかった。しかしシュウが言うには、すでにゴールが見えているという。俺にはてんでさっぱりだが。
千石が俺に惚れている証拠。そんなものが存在するのか?
何も知らないからこそ、俺は傍聴人と同じように首を傾げるしかなかった。
「証拠があるなら、今ここで示してください」
と、生徒会長の冷静な指示が介入する。
シュウは迷わず首肯した。
「はい。ですが私が証拠を持っているわけではありません。証拠を所持している人物を知っているだけです」
「それは誰でしょう」
「千石さん本人です」
なんじゃそりゃ、当たり前じゃないか。
千石が自分の気持ちを吐露すれば、確かにそれ以上の証拠はない。しかし嘘をつかれたらおしまいだ。だからこそ、シュウがここまで自信満々になっている理由が分からない。
だがシュウの目論見は、俺や傍聴人たちが思っていることと少し違ったようだ。
「千石さん。被告人Aの有罪が確定した場合、あなたが彼に与えようとしていた罰則を、今この場で仰っていただいても構いませんか?」
「罰則? 千石さんが野村さんに惚れているという証拠に何か関係があるのでしょうか」
「大いにありますよ、生徒会長。その罰則の内容こそが、千石さんの気持ちを示す物的証拠です。おそらく彼女は、とある書類に被告人Aのサインを書かせるために一連の事件を計画した。と、私は考えます」
「サイン? 分かりました。有川さんの主張が正しければ、千石さんは何らかの書類を持っているはず。千石さんが書類を提示すれば有川さんの主張の証拠となり、できなければ再度証拠のない妄言をしたとして、貴女には二度目の警告を言い渡します。もちろんレッドカードで退場です。有川さん、それでよろしいですね?」
「はい、もちろんです」
「では罰則の内容が証拠となるのなら、繚乱倶楽部に命じます。今すぐ罰則の内容を提示してください」
生徒会長の指示は絶対だ。拒めば、どんな公判内容であっても一気に不利になる。
しかし千石は何も言わなかった。俯いたまま、ずっと机の上辺を見つめている。俺の位置からでは見えにくいが、先ほどの浮かべていた涙をきっかけに、もしかしたら泣き出しているのかもしれなかった。
しばらくの間、その状況が続いた。次第に外野の声が大きくなってくる。
中断なのか続行しているのか、無言の六花廷が無駄な時間を喰っていると、傍聴席の雑談に混じって不穏な会話が聞こえてきた。
「なんなのよ、あの女」「女性のくせに弁護団の肩を持つなんて、気持ちの悪い」「最初からルール違反してるというのに、なんてふてぶてしい態度なのでしょう」「発言の仕方も内容も、品が無くて吐き気がしますわ」
室内が騒がしくなりつつあるのに、その囁きは妙に意識に浸透してきた。
左右に首を振る。もちろん、俺の両隣にいるシュウと周防ではない。彼らも今の囁きが聞こえたようで、訝しむように眉を寄せていた。
次に確認した生徒会長の顔も同じ様子だった。ただ彼女の表情は困惑のそれではなく、不機嫌というか不快というか、見たくもない物を不意に目にしてしまったような嫌悪感に溢れていた。
そして会長の視線を辿り、俺は会話の出所を知った。
繚乱倶楽部側、前線で戦うメンバーの、その後ろだ。
「みなさん、静粛に! お静かにお願いします!」
生徒会長が慌てて卓上ベルを鳴らすものの、効果はない。元々静寂が長引いたせいで起こった喧噪だ。いくら会長が怒鳴ろうと、そう易々と止まるものではない。議会の進行を再開させられるのは、流れを塞き止めている千石だけだ。
しかし当の本人は、未だ俯いたままで黙り込んでいる。
騒がしさが止まぬ中、後ろに控えている繚乱倶楽部部員の陰口は続いた。
「千石さんの話によると、あの女、クラスメイトの男子を蠱惑しているんですって」「それ本当ですか? 何様のつもりよ」「奴隷のように扱って、不要となったらポイッ! らしいわ」「へー、恐いわねぇ」「厭らしい。何か危ない病気でも持っていそうね」
「そんな……私は……」
呆然と立ち尽くしているシュウが、震えた声を漏らした。
横を見れば、彼女はひどく動揺していた。怯えた瞳が濡れている。反論しようと口を開くも、なかなか声が出せない様子。お嬢様方の無神経な誹謗中傷は、シュウから言葉を奪ってしまうほど、深く深く心に突き刺さっていた。
俺はいつかの帰り際に見た、シュウの笑顔を思い出していた。
どんなに意気がろうと、シュウだって一人の女の子なんだ。大抵の悪口は屁とも思わないだろうが、女の子に対して超えてはいけないラインがある。それを奴らは軽々しく、しかも集団でよってたかって攻撃してきた。
頭に血が昇ってくるのを自覚できた。
顔面が熱くなる。視野も徐々に狭くなってきた。
絶対に許さない。
怒りで全身を震わせながら、俺は正面の下衆たちを睨みつけていた。
「この流れはマズイな」
隣で久々に周防が喋った。
俺にしか聞こえないくらいの小声だったが、俺自身、すでに余計な雑音は耳に入っていなかった。今の周防の言葉も、ただ音として拾っただけで、意味など理解していない。駆け巡る血液は、俺の頭の中の異物を完全に絞め出していた。
そろそろ我慢の限界だ。
未だ聞こえてくる奴らの陰口に耐え切れず、俺は両手で机を叩きつけて立ち上がった。
「いいかげんにしろ!」
しかし俺の怒号は、ほぼ未遂で終わった。
なぜなら、周防が俺の叫びを手で制したからだ。
「生徒会長。繚乱倶楽部へ質問する許可を頂きたい」
いつの間にか、室内のざわめきが収まっていた。おそらく俺の一喝でみんなが雑談を止めたのだろう。静まり返ったその瞬間を狙って、最高のタイミングで周防が発言した形となった。
「どうぞ」と、やや安堵した会長が許可を下した。
「ありがとうございます。これまで静観してきて、どうしても気になったことがありました。そこで千石さんに確認したいことがあります」
「確認……ですか?」
生徒会長がオウム返し、千石は唇を縫ったまま顔を上げた。
「はい。率直に訊きます。千石さんの裸体を目撃したのは、本当に野村君でしたか?」
「…………え?」
キョトンとした千石の口から、拍子の抜けた声が漏れた。
仲間であるはずの俺からしても、周防が何を言っているのかさっぱり分からなかった。
さまざまな表情の変化を見せた千石だったが、結局理解できなかったようだ。眉を寄せて、ミジンコの動きでも観察するような瞳で周防を見つめ返す。
「どういう意味ですか?」
「確か千石さんは、目が悪いんですよね? 身体測定の資料があるわけではないので、正確な数値は分かりませんが。眼鏡やコンタクトはしたくないと友人に漏らしていたことも耳にしましたし、前回の席替えで黒板が見えにくいから前の方の席にしてくれと、担任に申し出ていたことも複数のクラスメイトが証言してくれました。貴女の髪形、授業中にゆらゆら揺れて気が散ると、後ろの席の生徒から不評でしたよ」
盲点だった。目が悪いのなら、千石はあの一瞬で俺を見分けられるはずがない。
しかし周防の主張は弱いし、なにより遅すぎた。
「私の視力が低いことは認めましょう。しかしクラスメイトを見間違うほどではないですし、あなた方は最初に認めているはずです。被告人Aが、六花繚乱倶楽部の部室にて千石千代子の裸体を目撃したと」
「被告人Aが野村君だなんて、誰も一言も言ってませんよ?」
「…………うん?」
そうだったっけ?
開廷してから、何度か自分の名前を耳にしたような気がする。それが被告人Aとして呼ばれたかどうかは……ダメだ、さすがに覚えていない。
「それにクラスメイトを見間違わないという発言も、看過できません。貴女の視界がどう見えているかなんて証明できませんし、裸を見られ気が動転していた貴女は勘違いをした可能性もあります」
「しかし生徒会長も証言したように、彼女は調書のサインを貰ってきてと野村君に頼んだはずです。時間的に考えても、彼が繚乱倶楽部へ来たと考えるのが一番自然です」
「残念ながら、野村君には繚乱倶楽部の部室へ行けない理由があるんですよ」
「行けない……理由?」
「ここに先週行われた六花廷の調書があります」
周防は長机の下からA4の用紙を何枚か取り出した。
野郎、俺のカバンを勝手に漁りやがったな。
「六花廷が行われたのは一週間前にもかかわらず、この調書には未だに千石さんのサインがありません」
「当たり前でしょう。事件があった時に悠長にサインなんてできるはずがないし、その後はお互い少し険悪なムードでしたからね。会話もあまりしていません。ですが、それと野村君が繚乱倶楽部へ行けない理由は、どう関係があるのですか?」
「彼が繚乱倶楽部へ行くことができない理由。それは……」
と、千石の目を盗んで、周防が俺を一瞥した。
特に感情の無い顔からは、様々な意図が感じ取れた。
「なぜなら彼は、六花繚乱倶楽部の部室の場所を知らないからです」
「…………はい?」
室内が驚きの声に満ちた。その場にいる誰もが間抜けな声を上げるか、訝しんだ表情で周防を見つめている。当事者である俺自身も例外ではない。俺もまた、この場でただ一人真剣な面持ちで佇む友人を、奇異な物を見る目で眺めていた。
雑音が自然に収まってくる頃、ようやく周防の発言の意味が理解できた。
完全にブラフだ。『実は知っていた』と証明するのは、とても難しい。故に、俺が『知らなかった』と証言すれば、何らかの証拠を提示しない限り、繚乱倶楽部へ行くことができなくなる。
「でも、野村君は生徒会長から調書を受け取って……」
「えぇ。なのでそれは、彼のちょっとしたミスです。事件の一連の流れを話しましょう」
そして周防は、デタラメな事実を淡々と語りだした。
「まず彼は、生徒会長から調書を受け取りサインをした。そこで彼女に、千石さんのサインを貰ってきてほしいと頼まれるわけです。彼は承諾した。しかし繚乱倶楽部へ向かう途中、とある重大な事実に気づきます。自分は繚乱倶楽部の部室の場所を知らない。生徒会長に教えてもらおうと思うも、自分に調書を託した彼女は何か急ぎの用事があったのでしょう。そう考えた野村君は、来週サインを貰おうと調書を持って帰った。同じクラスですからね。しかし月曜日に教室を訪れた彼は、驚きます。何故だか知らないが、自分が繚乱倶楽部を覗き見たという噂が広まっているではありませんか。もちろん冤罪です。弁明しようと試みた野村君でしたが、誤報はすでに自分の知らない人間にまで行き渡るほど。そこから情報を取り消すのは、ほぼ不可能です。そしてあれよあれよという間に、自分が覗き犯として六花廷にまで持ち込まれてしまった。というわけです」
よくもまぁ、そんな作り話を一言も噛まずに言えたもんだな。
だが効果は絶大だった。奴の話におかしな点はないし、非常に理論的である。被告人Aが俺である物的証拠を出さない限り、絶対に覆らなくなった。
ただ周防の案を採用するなら、とある疑問が残ることになる。
声を裏返しながら、千石はその疑問を周防にぶつけた。
「では……部室の入り口に立っていた、私が見た男子生徒は……いったい誰だったのでしょうか?」
「それは分かりません。もし繚乱倶楽部側がお望みなら、我々弁護団も、真犯人を捜しだすことに協力します」
そう言って、周防は無人の被告人席を半眼で睨みつけた。
そして「最後に……」と、彼は自分の主張を締めくくる。
「もう一度確認します。千石さんが目撃したのは、本当に野村君でしたか?」
「…………」
「有川さんも言っていたように、野村君に惚れている貴女は、もし覗き犯が彼だったらいいなと妄想し、勘違いしたのではないのですか?」
とことん追いつめる。反撃の暇も与えないほどに。
千石は再び俯き、下唇を噛みしめていた。机の上に乗せられた拳を強く握り、小刻みに震えている。醜態を晒して恥じているというよりは、思い通りに事が運ばず拗ねているよう。まるで欲しいお菓子を買ってもらえなくて、駄々をこねている子供のようだった。
彼女の両隣にいる先輩方も、そんな千石の姿をただただ心配した様子で見守っているだけだった。周防の饒舌な弁論に言い返してもこない。おそらく疑い始めてしまっているのだ。千石が目撃した男子生徒は、本当に野村だったのかと。
やがて千石の漏らす嗚咽が、俺の位置にまで届いてきた。
そして彼女は、感情に任せただけの悲鳴を上げた。
「ば…………」
「ば?」
「バカあああああああぁぁぁぁぁーーーー!!」
一瞬の出来事だった。
室内中に轟く喚き声を上げた千石が、その瞳に涙を溜め、イノシシが如く猛進しながら生徒会室から飛び出して行ってしまった。
唖然とした一同は、開け放たれた扉を眺めるばかり。誰も彼女を止めることなどできはしなかった。
「何でみんなと一緒に呆然と座ってるんだ。早く追いかけなよ」
「お、俺?」
周防の暴論に、俺は戸惑いを隠せなかった。
文句の一つでも言ってやろうか考えていると、今度は背後から発破をかけられた。
「早く行きなさいよ。野村君以外、誰がいるっていうの?」
……仕方がない。シュウの命令には逆らえないもんな。
だからシュウ、座ったまま俺の背中を蹴るのは止めてくれ。パンツ見えてるぞ。
「分かったよ。行きゃいいんだろ、行きゃあ」
渋々ながらも、俺は千石を連れ戻すために生徒会室を後にした。




