第二章 青の鼓動と赤の静寂 PART1
1.
蛇口を捻り水で顔を洗う。この寒い時期に冷や水で洗えばすっきりするだろう。きっと酒が残っており頭がおかしくなっているのだ。
バシャバシャと勢いをつけて、顔にぶちまけるように水を被って鏡を見る。だが何度やっても火蓮の顔がそこにあった。頭髪はきっちりと短く切りそろえられており、シャープな顎から水滴がゆっくりと垂れ落ちている。腕を見ると、自分の華奢な白い腕ではなく筋肉質の焦げた腕になっていた。
……まだ夢の中にいるのだろうか。
せっかくだから、煙草でも吸ってみよう。煙草を取りに部屋の階段を登るが、足がすんなりと伸び二段飛ばしができるようになっている。高身長に対して羨望と嫉妬の思いが同時に駆られてしまう。
彼の部屋の中にはヴァイオリンケースが二つあった。一つは橙色でもう一つは瑠璃色だ。きっと一つは火蓮のもので一つは父さんのものだろう。蓋を見ると彼のケースはだらしなく口が開いており、中が丸見えだった。父親のヴァイオリンケースには鍵が閉められており、きっちりと収納されているようだった。
再び煙草を探すと、一箱だけ机の上に寂しく立っていた。どうやら昔のカートン買いは止めたようだ。1本取り出し火を点けて大きく吸い込んでみる。
……うまい。
咳き込むかと思ったが、それは杞憂に終わったようだ。脳が目覚めるような感じで今までに味わったことがない満足感に満たされていく。
一本灰にするまで味わった後、隣の部屋を覗くとそこには布団を抱きしめて寝ている者がいた。華奢な体にすらっと伸びた足、自分の体がそこで横になっている。
……煙草が美味しいのなら、コーヒーの味はどうなるのだろう。
彼の嫌いな飲み物を味わうため、冷蔵庫に向かう。冷えたものをコップに注いで啜ってみると、ゴーヤを丸ごと煮込んだような味になっていた。
……ということはワインが飲めるのだろうか?
水樹は冷蔵庫から新品のワインを取り出し、コルクを外すためソムリエナイフを取り出した。そのままネジに力を入れてコルクを押し上げると、コルクは粉々に砕け散ってしまった。どうやら力加減を間違えたらしい。
地面にあるコルクを回収すると今までに感じたことのない芳醇な香りがした。胃がもたれているのに、ワインをそのままガブ飲みしたい欲求に駆られている。
欲求を抑えながらワイングラスに注ぐ。ドボドボと赤い液体がグラスの中を踊りながら入っていく。その瞬間に自分の喉がごくりと音を立てて唾を飲んだ。
グラスの胴体を左手で掴み揺らしてみる。グラスから溢れ出る香りが食欲を刺激する。
……さあ、一口飲んでみよう。
ワイングラスを少しだけ傾けて舌で味わってみる。
美味しい。舌を通して体中にワインが巡るような感じを受ける。体温が上がり気分がよくなっていくのを実感する。もう一度、口に含むとついに我慢ができなくなり、そのままグラスを大きく傾けた。
……どうせ夢なのだ、このまま飲める所まで飲んでみよう。普段の自分にはどうせできないのだから。
灰皿を席の近くに置き、煙草を吸いながらワインに舌鼓を打った。ワインボトルが半分くらいに減った頃、自分の体が降りて来ていた。
「おい、そこのお前。何してるんだ?」
彼の瞳には厳しい視線があった。そこに火蓮の意思を感じた。
「おはよう、兄さん。ワインを飲んでいたんだ。一緒に飲んでみない?」
そういうと自分の体はゲラゲラと体を揺すって笑った。
「これは夢なのか? そうか、どうして俺の腕がこんなに細くなっていたのかがわかったよ」
二人でワイングラスをぶつけると、聞き慣れたピアノの音がした。後ろを振り返るが、ピアノの扉は固く閉ざされている。
……聞き間違いだろうか。
確かに今、ソのフラットが鳴り響いたと思ったのだが。
「こんな不味いもの、飲めたもんじゃない。腐ってるんじゃないか、これ」
彼はグラスを一舐めした後、冷蔵庫に向かい軟水のミネラルウォーターを口にした。彼のゴクゴクという規則正しい飲む音が心地よく聞こえてくる。
「お前の体じゃ楽しめるのがないな。そうだ、ピアノを弾いてみるか」
そういいながら火蓮は長い髪の毛を気にしながら鍵盤を撫でるように触っていった。
優しい音色から紡ぎ出される音はまさしく水樹が長年に掛けて作り出した音だった。流れるように溢れ出る高音のワルツは軽やかで、子犬が玉遊びに夢中になっているようだ。
ワルツ第6番変ニ長調 作品64-1 『子犬のワルツ』
火蓮は途中からテンポを遅らせてなめらかなメロディに変えていく。このフレーズがあるからこそ高音のメロディを生かすことができるのだと水樹は一人で納得した。
テンポが徐々に上がっていく。素早い動きを要求される場面でも彼は一つのミスをすることなく進んでいく。
気がつけば火蓮の指は止まっていた。二分ほどで終わる演奏はあっという間に過ぎていた。
「……兄さん」
水樹は愕然とした。今の演奏はまさしく自分のものだと思った。
「ああ、もう認めるしかない。これはどうやら夢じゃないらしい」
火蓮は思いついた曲をどんどんと弾いていく。
『舟歌』、『英雄ポロネーズ』、『別れのワルツ』……。
どれもショパンで水樹が好きな曲ばかりだ。そして今まで自分が改良を重ねて習得してきた技術を余す所なく使っている。
「水樹……これはお前の体に間違いない。これは夢なんかじゃない」
そんなことがあるはずがないという思いはある。だがこの音は受け入れるしかない。夢の中で出せる音じゃない。
「……うん。これは現実なんだろう。なんたっていつもより音が鮮明に聞こえるからね」水樹は大きく頷いた。「兄さんの耳がいいとは思っていたけど、ここまでいいとは思ってなかったよ」
火蓮は絶対音感を持っている。思い起こせば、起きてから今まで聞いた音が全て音符になって聞こえていたのだ。
顔を洗っている時の蛇口から出る音はワンオクターブ上げたドの音の連続だった。まるでピアノにある鍵盤が全てドに変わり、その鍵盤を端から端まで撫でているような清らかな音に変わっていたのだ。コーヒーマシンのコーヒーを擦る音はラのシャープだったし、液体が出てくる時に発する電気音はシの音だった。火蓮とグラスを重ねた時の音はソのフラットが響き渡った。
全ての音が五線譜に書き込めるように聞こえている。
「……俺もだよ。他人の耳がこんなに聞こえにくいとは思わなかった」
「よくいってるだろ、僕はピアノを弾くしか能がないってさ。しかし凄いな、兄さんは全ての音が楽譜に示せるなんていっていたけど、本当にできそうだ」
「ああ、それはいいんだが……。水樹、お前もしかして耳が悪いのか?」
心臓を掴まれたような圧迫感を受ける。
「兄さん、何をいって……」
「とぼけないでくれ」
火蓮の目は真剣だった。憶測でものをいってる顔ではない。
「正直に答えてくれ。お前、左耳が悪いんじゃないか?」
「ちょっとだけね。たまに左の耳が聞こえにくい時がある」
水樹は観念して白状することにした。
「……どうして今まで隠していた」
火蓮はがっくりと首をうな垂れていった。
「手術は完璧に成功したといっていたじゃないか……俺が誰かにばらすと思っていたのか? 俺を信用していなかったのか?」
「いいや、違うんだ。兄さん」
水樹はかぶりを振った。
「僕は生まれた時から悪かったのかもしれない。母さんが突発性難聴だったじゃないか。だから話すのを躊躇ったんだ」
「なるほど……」
「僕らは事故前の記憶がないだろう? だから左耳の調子が悪いのは事故後だとは言い切れない」
母・灯莉は耳を患っていた。そのせいで母親はピアニストの道を諦め、父親とのコンチェルトを断念した。
「……に、兄さん。それよりも……」
時計の針が一瞬にして現実に巻き戻していく。もしこれが現実ならワインを飲んでピアノを聴いている暇などない。
「兄さん、今日の公演は?」
「……もちろんある。もうすぐ風花もここに来るだろう」
このまま議論をしていてもしょうがない。今すべきことは火蓮の体で水樹が指揮を振らなければならないということだ。
「兄さん、どうしよう。僕に指揮が振れるかな」
「大丈夫だろう。俺がショパンを弾けたんだ。お前だってできるはずだ」
今の自分を納得させるには充分だ。行くしかない。
「風花には連絡を入れて二人でいこう。今日は俺が送ってやるよ」
「ありがたいけど……兄さん、その体じゃ免許がない。無免で捕まったら、コンサートに出られないよ。タクシーで行こう」
「……そうだな」
火蓮の部屋に入ると、着替えがどこにあるのか鮮明に浮かんできた。三段ケースの一番上はパンツやタンクトップなどの下着、二番目には上半身に着るワイシャツ類、一番下にはズボンが入っている。
着替えを終えてタクシーを待っている間、不意に煙草が吸いたくなった。我慢をして思考に集中していく。
これは本当に夢じゃないのか、この状況はいつまで続くのか、はたして火蓮に恥をかかせることなく指揮はできるのか。
……乗り切るしかない。
横にいる火蓮を眺めながら思う。今日は両耳を思う存分味わえ、父親と同じように指揮が振れるのだ。未知の体験が迫っていることに大きく胸が高鳴っていく。
火蓮を目の端で捉えると、どこか遠くを見るような目をしていた。今から起きることよりも彼はもっと先のことを考えているようだった。