最終章 菫(すみれ)色と魂のクオリア PART7
7.
水樹の後ろ姿を眺めながら、鏡花は先ほどの言葉を反芻していた。
「きっと笑顔で会えますよ」
今ならまだ追いかけることができる。もう一度、くらい話すチャンスはある。
だけど――。
彼女は手をぎゅっと握った。これ以上、彼に関わっては本当に眠っていた思いに火をつけてしまう。奥歯を噛み締め、懸命に耐えた。
……これでいい、これでいいんだ。
鏡花はベンチに再び座り、セブンスターに火をつけた。最後の一本になっていた。空になった箱を片手で掴んだ。
彼と話ができただけでいい。それだけで十分幸せだ。何しろ10年前には考えることもできないことだったのだから。
……今日は本当にいい日だ。水樹だけでなく、昔の友人にも再会することができたのだから――。
鏡花は再び幼馴染に思いを馳せた。
まさか同じ質問を同じ日に、二度聞くことになるとは思っていなかった。
……彼女に伝えたら、何というだろう。
鏡花は静かに目を閉じて瞑想した。
――ホールでの演奏が終わり、鏡花は噴水の近くにあるベンチに腰掛けていた。もちろん演奏の余韻に浸るためだ。背もたれに体を伸ばして意識を宙にやっていた。
あれほど熱の籠もった水樹の演奏は見たことがなかった。リストの『鬼火』以上の迫力だった。彼のピアノの中には水のような流麗さと、心を揺さぶる火の躍動感が含まれていた。それは灯莉のピアノを受け継いでおり、かつ水樹本来の持ち味が生かされていた。
自分もあんな演奏ができるようになりたい。全てを照らす太陽と全てを飲み込む海を感じさせるような演奏がしたい。一人分の魂ではできないものだと感じた。
箱にまだたっぷりと残っているセブンスターを咥え火を点けると、美月が立っていた。
「……やあ」
美月はすましたように片頬だけを上げて笑っていた。気取っている感じだったが、それが彼女本来の笑い方だったと思い出すと、胸に込み上げるものがあった。
「私も一回だけ吸ったことがあるんだけどさ、全く美味しくなかったな、それ」
美月は煙草を指差していった。きっと火蓮が吸っていたからだろうと推測した。事故に遭ってから彼女は自分なりに彼の気持ちを知ろうとした結果だろう。
「私にとってはこの苦味がたまんないんだけどね」
鏡花はそういって吸い込んだ。唇を細め長く煙を吐いた。
美月は鏡花の了承を求めず、隣によいしょ、といって座った。演奏時のドレスのままだった。今日は観音寺兄弟が主役だったから、控えめなドレスにしたのだろう。
「……ピアノ、続けてたんだね。よかった」美月はぽつりと呟いた。
美月の顔を見ると、涙が浮かんでいた。よく見ると、すでに涙を流したように目元の化粧が崩れていた。あれだけ激しい演奏をしたのだから崩れて当然だ。ただ、なぜそれを直してないのだろうと不思議に思った。
「……あなたの一言があったからよ」
そういうと美月は再び笑った。十年歳月を感じさせない笑い方だった。
「今日の演奏は本当に素晴しかった。十年前はあなたがコンマスをするなんて思っていなかったわ」
「どうして?」美月は目を丸くしていった。
「リズムを合わせるのなんて、あなたの柄じゃないからよ。一緒にモーツァルトをやった時のこと、覚えてる? あなたの演奏は凄く綺麗だったけど、ソロの方がいいなって思ってたから」
「……私も苦労したのよ、こう見えてもさ」
美月は遠くを見つめるように、目を細めていた。そこには十年の間、血の滲むような苦労があったのだと理解した。鏡花も合わせて美月の視線を追った。
「鏡花ちゃん」
美月が昔の呼び名をいう。少し照れくさいが少しだけ嬉しい。
「今からね、十年前の決着をつけにいくの。私にとっても、風花にとっても」
風花と聞いた時には体に悪寒が走っていた。彼女の狂気が宿った瞳は十年経っていても心の中で色褪せていなかった。
決着というのはきっと二人の魂の行方だろう。水樹の演奏の中には彼本来のものと母親のものが含まれていたからだ。それがどちらのものかは鏡花にもわからなかった。
ただ彼女にはわかっているのだろうと意識が働いた。きっと彼女には彼の演奏の中で判断することができる材料があるのだろう。
「そっか……。今日が美月にとっての再出発になるんだね」鏡花は煙草を口に咥えていった。
「……うん」
美月は体を震わせながら頷いた。
「正直にいったら怖いよ。今まで信じていたものが一瞬にして消えると思ったら怖いんだ。でもね彼がいたから私はここまで来れた。だからどんな結果が出ても受け入れるつもり」
彼女の心境は痛いほどわかった。もし水樹との付き合いが十年間続いていたらと思うと、正気ではいられないだろう。
「大丈夫。きっとうまくいくわ」
鏡花は思いを込めていった。自分も絶望の十年間を味わってきたのだ。それでも今こうしてこの場にいる。どんな問題でも必ず時が解決してくれる。
「ありがとう、鏡花ちゃん」美月は小さく首を縦に振った。
それに、と鏡花は思った。
魂が入れ替わっていることが全てではない。仮に違う魂であったとしてもその時間を共有したのは確かなのだ。同じ時を生きたことこそが一番大事だ。
……だから大丈夫よ、美月ちゃん――。
「もう行くね」
美月は精一杯の笑顔を見せていた。これからの決戦に備えているといった感じだ。
「……うん」
頑張ってと心の中で呟いた。
美月は立ち上がりドレスの裾を広げた。背筋を伸ばした彼女に月の光が当たっている。
そこには成長した幼馴染の姿が映し出されていた。




