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長編小説 2 『魂のクオリア』  作者: くさなぎそうし
最終章 菫(すみれ)色と魂のクオリア 
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最終章 菫(すみれ)色と魂のクオリア PART3

  3.


 火蓮は顔を大きく歪ませて美月を見た。


「何だって? 本当なのか、それは……」


 美月は火蓮から目を反らし首を少し傾けた。


「お見舞いには私も行こうと思っていたのよ。でも風花の話を聞いてためらったの。お父様が働いている病院なのに、あなた達の部屋には行けなかった……」


 美月はくるりと火蓮に背を向けて、自分に言い聞かせるように話を始めた。


「風花から話を聞いた時、ピンときたわ。お互いの人格が入れ替わったかもしれないということを聞いて私は納得したの。だってそう考えた方が辻褄が合ったから。風花は違和感を覚えながらも入れ替わっていないと信じていた」


 ……事故当時から二人は考えていたのか。


 今さらながらに二人に気を遣わせていたことを悔いる。しかし今は謝れるような雰囲気ではない。


「だけど、私は違う。火蓮との付き合いは一ヶ月も経っていなかったし、水樹のことだって深くは知らない。もし二人が入れ替わっていて、火蓮と付き合うことが水樹と付き合うことになるんじゃないかと思ったら怖くて、できなかった……。


 考えた結果、付き合っていないという風に装ったの。いつか戻ると思って信じていたのよ」


 火蓮の顔から表情が一気になくなった。「お前……それで……ヴァイオリンの練習を……」


「うん、だからね。私は海外のコンクールを目指したの。あなたと約束したコンチェルトのコンサートマスターになるために私は必死で練習したんだよ」


 神山が口を挟んだ。

「娘はね、君のためにコンマスを目指したんだ。美月は小さい頃からヴァイオリンが上手でね。親の私がいうのも何だが、この子は天性のものだけで中学まではコンクールで入賞を果たしていた。練習なんてほとんどせずにね。だけど君が事故に遭ってから猛練習したんだ。どんな所でもコンマスとして弾けるようになるという目標を立てて頑張っていたんだ」


 彼女のテンポのとり方は正確だった。

 それは天性のものではなく機械のような精密さだった――。


「美月……本当にすまなかった…………」


「いいのよ、もう」


美月は吐息をつきながら微笑んだ。

「私だってヴァイオリンが嫌いじゃないから、ここまで来れたんだもの。火蓮が弾いてくれたヴァイオリンが好きだったから私は今ここにいられるの。本当に感謝してる」


「ありがとう……美月」


 水樹は風花を覗き込んだ。彼女の思いがそんなに強いものだと想像していなかった。彼女の華奢な体の中には揺らぎない意志があった。


「あたしも半信半疑だったのよ」


風花が小さく呟く。

「だって、お互いの人格が入れ替わったと思ったのはあたしが最初だと思うし」


 事故当時、一番に駆けつけてくれたのは風花だった。そう思うのも無理はない。


「それからね、あたしはずっと水樹のことを見てきた。もちろん前と違う点は一杯あった。

 だけどね水樹の芯は変わってなかった。だからずっと信じてこれたの。そしてこの間、海を見に行った時に確信できた」


「海に行った時?」


「うん。あの時五千円札の話をしたでしょ。水樹がお金を持っていたのは確かなのよ。なのにあなたの話では、火蓮がお金を持っていて水樹の立場から見ている視点になっていた」


 風花は上目遣いで水樹を見た。


「これはね、絶対にありえないのよ。お金を持っていたのは水樹で反対したのは火蓮なの。仮にお互いが入れ替わっていたとしても、火蓮がお金を持った立場はないわ」


 ……なるほど。


 自分が海の魂と融合しているからこそ、新たな視点を作り出していたのだと自覚した。


 海は水樹がお金をくすねたことを知っていた。つまり、海の意識ではお金をくすねたのは水樹で反対したのは火蓮だ。だが夢の中では反対している立場にいた。お金をくすねたのは火蓮で、反対したのは水樹となっていた。


 これは矛盾している。この矛盾は父親の魂と水樹の体が相反しているからこそできる視点だ。


「もう一人、僕の中に別の人格がいると思ったんだね。それで火蓮にも話を合わせたんだね?」


 風花は頷きながら続けた。

「最初はコンサートで水樹たちの演奏を聞いてお母さんが判断するってことだけだったの。その時は人格の転移だという結論に達していたわ。あたしは納得できなかったけど。そして、この短期間に色々なことがあってあたし達は色々な推測を並べ立てたの。で、最終的に両親の魂が入っているという結果に納まったわけ」


「でも、今日で終わりそうね」


楓は納得したようにいう。

「あなた達の両親の立場を思えば、本当に凄いことだと思うわ。私が灯莉の立場だったら同じことができるかどうかはわからない。それだけ二人に愛情があったからできたことだと思う」


「愛情……ですか?」


「そう、愛情よ。君達二人だけにはなんとかして生きて欲しいと思った愛情の結果なのよ」


「それは……違うと思いますよ」


水樹は大袈裟に笑った。

「偶然です。父さんは僕のことを愛していませんでした。だから偶然僕の体に入っただけのことだと思います」


「なぜそう思うんだい?」遥が優しい口調で話し掛けてきた。


「だって……父さんとの関わりは一つもなかったからです。写真にしてもビデオにしてもそう。ピアノだって母からしか習っていません」


「教えることだけが愛じゃないよ」


遥は水樹の肩を掴んでまっすぐに見た。

「僕は風花に楽器を教えることができない。だけど楓と同じくらい風花を愛している。教えることができないから何かあった時には守る、そう考えていたのかもしれない」


 これまた根拠がないけど、というふうに遥は先に付け足した。


 楓が彼の後に続いた。

「私の父親もね、単身赴任で家にあまりいなかったの。だから愛情がないのかと疑った時もあったわ。でも今は父親に愛されていたんだと思ってる。自分がお父さんと同じ立場にいるからね」


「もし父さんが僕のことを愛しているのなら、ずっと僕の中に留まるんじゃないですか? お互いに薬を飲むと人格が入れ替わっています。愛情があればそうはならないのではないですか?」


「違うのよ、水樹君。薬だけが原因じゃないの。それは神山さんも了承している」


「じゃあ何ですか? また科学的な証拠があるんですか?」

火蓮も苦痛に歪んだ顔をして楓を見ていた。これだけのことを一遍に話されて理解できる人間なんていない。


「きっと二人の思い出の場所が関係しているのよ」


楓は細い声でいった。

「ポーランドでも入れ替わっているのでしょう? 灯莉は賞を受け取る前にプロポーズをしてもらったといっていたわ」


 ……両親の思い出?


 自分の頭の中で走馬灯のように様々な記憶が流れていく。


 ショパンコンクール、百獣の王、文化祭、そして年末のコンサート。それらの記憶が反芻される。


「確かに入れ替わった場所は全て二人の思い出に関係があります」


「そうでしょ。きっと二人はお互いの魂が交錯するために入れ替わったんだわ」楓は優しく告げた。


 ということは、父親はこの年末のコンサートで終止符を打った。

 つまり――。


「きっとあなた達のご両親は今日のコンサートのために入れ替わっていたのだと思う。理由はやっぱりお互いの楽器が関係しているんじゃないかな」


「そうだね。ご両親の最後の親心だと思うよ」遥が付け加えるようにいう。「彼らの夢はコンチェルトを行なうことだった。きっと君達には……絶対に成功して欲しかったんだよ」


 協奏曲『第一番』第三章を思い出す。脳に響いてきた音は灯莉と海が紡いでくれた音だったのだと思った。火蓮とリンクさせて自分にピアノの音を届けるために――。


 そう思うと全ての入れ替わりが納得できていた。


 百獣の王で入れ替わったのも、文化祭で入れ替わったのも、全てこのコンサートのためだったのだ。コンサートを成功させるために予行練習していたのかもしれない。ショパンコンクールで入れ替わりがなかったのは水樹の演奏が終わっていたからだ。


「もちろん、すべて確証はない」


神山がまとめるように声を上げた。普段とは違って低い声で諭すような口調だ。

「君達二人の魂の証明などできないんだ。魂の存在にもクオリアがあるからね」


 クオリアという言葉が頭の中に浸透し燻っていた異物感が溶けていく。


 うどんが食べたい、酒が飲みたい、煙草が吸いたい、ヴァイオリンが弾きたい。この気持ちはきっと父親の記憶なのだろう。

 父親のクオリアが水樹の体に異変をもたらしたのだ。


 そう考えると何もかも辻褄が合う。人格が入れ替わった時からだったのだ。自分の体が別にあるのではないかという不安は――。


 それは父親の魂が火蓮の体とリンクした時に、水樹の体よりも共通点が多かったためだ。だけどそれは間違いだった。本来の体はなくなっているからだ。


 だからこそ今まで人格の転移が起き何度も苦しむことになったのだ。


「これからは我々を頼って欲しい。私と娘は君達と十年しか時間を共有していない。だけど天谷さんの一家は君達が生まれる前からの付き合いだ。君達は一人じゃない。心情を理解できなくても思いを寄せることはできる」


「……先生」


 水樹は熱くなった目頭を抑えた。僕達は僕達だけで生きてるんじゃない。周りの人がいたからこそ、今の自分があるのだ。それは魂以前の話だ。


「私達の話はこれで終わり。また何かあったら連絡して。いつでも駆けつけるからね」楓と遥は静かに二人で部屋から出て行った。


「私もそろそろ娘と食事の約束があるので失礼するよ、また診察の時に会おう」


「火蓮、また今度ね」


 神山と美月もそういい残してこの場を去った。


 三人になった後、再び部屋が静かになった。一時空いてから、火蓮は突然声を上げて笑い出した。


「……なるほど。俺が風花のことを好きという気持ちは母さんの友情からだったのか。母さんと楓さんの繋がりだったのか……」


「そういうこと」


 風花は両指を擦り合わせながら小さく微笑んだ。


「全部盛大な勘違いだったってことか。でも何だかすっきりしたよ」


 火蓮は納得いったような顔で煙草に火を点けた。


「兄さん、もう無理はしなくていいんだよ」


「ん? 無理なんかしてねえよ」


「え?だって家の中で散々咳き込みながら吸ってたじゃないか」


 火蓮は返事をせず口から細い煙を吐き出した。


「違和感はあったんだ。だけどそれは心理的なものだったんだろうな。指揮者としての立場もあったし、その上、人格の入れ替わりだろう? 何も考えない方がおかしい。こんな話を聞いた後だと煙草くらい吸いたくなるさ」


 火蓮は近くにあった椅子にどっぷりと浸かった。

「なあ、水樹。お前、今の話、聞いてどう思ったか?」


 水樹が答える前に風花は遠慮がちに声を上げた。


「私も行くね、今日は私よりも二人で話したいだろうし」


 彼女は返事を待たず部屋から出て行った。ドアを開けて覗くと遥と楓が遠くで待っていた。


 風花、そう呼んで彼女が振り向く前にいった。


「僕が難聴を患っているっていうのはいつから知ってたんだ?」

「水樹と海に行ってからよ」


 突然、風花がガードレールに倒れている自転車を起こしている映像が蘇った。自転車で帰ろうといった時に言葉ではなく目で訴えていた。彼女が握っていた貝殻が頭の中で蘇る。


 ……やっぱり風花は僕のことを、僕のことだけを見つめてくれている。


「……そっか。ありがとう、正直に答えてくれて」


「んーん、それじゃまたね」


 手を振って風花を見送った。部屋の中で火蓮は煙を上空に向かって噴き上げていた。


「なあ。俺たちは本当に入れ替わっていないのかな? この魂は母さんのものなのかな」火蓮は煙草を目の前にある灰皿で捻った。


「僕にもわからない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。これがクオリアってことなんじゃないかな」


 そう思った瞬間、体に再び焦燥感が走った。真実を知るためには、まだ一つ足りない。ある匂いが自分の記憶を刺激している。


「……兄さん、先にホテルに帰っていてくれ」


「ん? どうした?」


「もう一つ確かめないといけないことがある。それは今すぐじゃないといけない。もしかするとすでに手遅れかもしれないけど」


「いいぞ、行って来い」


 火蓮は煙草をふかしていった。

「その代わり日は跨ぐなよ。必ず帰って来い」

「うん。ごめんね、どうしても必要なことなんだ」水樹は言い終わる前に走っていた。


 ……急がなければ。

 急がなければ、この感覚が途切れてしまう。 

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