最終章 菫(すみれ)色と魂のクオリア PART2
2.
「海君はとっても綺麗な音色を作り出す指揮者だった」
楓が懐かしむようにいう。
「だからあなたのピアノは特別静寂を作り出しているの。第三楽章のラスト、あれは灯莉が演奏していたものに近いものを感じたわ。あんな情熱的なピアノ、灯莉にしか出せないのよ。あの躍動感は確かに彼女のものだった」
「……ありえない」
水樹は驚嘆しながら否定した。
「あの演奏は全て僕が行いました。楓さんの話では僕の中にずっと父さんがいて、最後の最後で母さんがでてきたといいたいんですか?」
「そうとしか考えられないわ」
楓は大きく頷いた。
「水樹君は灯莉にピアノを習っていたけれど性格は真反対だったわ。灯莉のように情熱的な曲を弾くことはほとんどなかったの」
意味がわからない。自分の中に父さんがいて火蓮の中に母さんがいる。なぜ両親の魂が自分達の中に入っているのだろうか?
「仮にもし僕の中に父さんの魂がいたとします。じゃあ僕は父さんそのものなんですか? なぜ記憶が徐々に蘇ってきたんですか?」
「……それについては私が話をしよう」
神山が手刀を切りながら部屋に入ってきた。後ろから美月も続いている。きっと風花が呼んだに違いない。
「急に入って来てすまないね。話が混同しないように楓さんの話が終わるまで私は外で待たせてもらっていた」
「先生、美月……」火蓮が声を上げている。
「全員揃っているようだね。早速だが今まで君達のカウンセリングを務めた結果をいわせてもらおう。残酷な話になるが君達本来の魂はすでに亡くなっている」
「ええ?」火蓮と顔を見合わせる。「どういうことですか? ちゃんと説明して貰えるんですよね?」
「ああ、もちろんだ」
神山は近くにあるホワイトボードへ向かった。
「君達が病院に運ばれて来た時には心臓が止まっていたんだ。それは前にも説明したが、極めて危ない状態だった。だが私が手術を行う前に心臓は動き始めていた」
聞いていない新事実だ。火蓮も硬直して動揺している。
「最初何が起こったかわからなかった。君達に麻酔を掛けて胸を切った直後に動き始めたんだ。しばらくそのまま待機していたんだが心臓に異常はなかった。結局私は二人とも何もせずに終わったんだ」
手術跡が残っているのに何もされていない?
火蓮と再び顔を合わせる。
「手術せずに一時間後、私は他の手術を遂行するよう促した。水樹君には耳の手術を、火蓮君には背中の手術をだ。その他に異常はなかった。その後も何が起こるかわからないため定期健診に来てもらうと決めたんだ」
「じゃああの薬は何ですか? 異常がないのにどうして薬を?」水樹は声を震わせていった。
「心臓そのものには異常がなかった。だが心臓の鼓動速度が15歳のものじゃなかったんだ。君達の両親と同じ40代のスピードになっていた。そしてそのままスピードは衰え一秒間に一回鳴る速度で落ち着いた」
……思いあたる節がある。
水樹は胸の辺りに手を当てた。この法則があったからこそ自分は耳栓をしていてもピアノを弾くことができていた。火蓮も隣で納得している。
神山は突然地面に這いつくばって頭を下げた。
「今まで黙っていてすまなかった。すぐに他の手術を行なっていれば水樹君の耳は助かっていたのかもしれない……。本当にすまなかった……」
「いいえ、そんなことはありません」
水樹は本心で告げた。
「命がなければピアノを弾くことはできませんから。僕の命を助けて頂いたことを本当に感謝しています」
「そうよ、お父様」
美月が神山を宥めるようにいう。
「謝るためにここに来たんじゃないでしょ。ちゃんと話をしないと」
「ああ、そうだったな。すまない」
水樹は再び先程の質問を繰り返した。
「それが正しいとしたら僕達の記憶はどうなっているんですか? 一度なくなった記憶が夢を通して蘇るようにして戻ってきたんです。人格が入れ替わる毎に」
「私の推測になるが、考えを話そう」
神山は空咳をして水樹を見た。
「ではまず夢という事象について話を始める。これは簡単にいえば不完全なものを完全なものに作りかえている、ということだ」
通常人が体験したり考えたりすることは、大脳皮質とよばれる部分で行われる。そしてその体験したものや考えたものが海馬という部分に移動することによって記憶という形で保持される。
その海馬が睡眠中に覚醒し断片的に矛盾のない物語を作っている。つまり全てが正しいというわけではないという話だった。
「水樹君の記憶はね、きっと海さんが入ってから作り上げられたものなんだ」
神山は『海の魂』+『水樹の肉体の脳』=『今の水樹の記憶』 とボードに加えた。
「いいかね? 海さんは肉体を持たない。つまり自分が誰だかわからない状態で君の体に入ったんだ。きっと君の脳が肉体と精神の矛盾を解消するために、無理やりに記憶を作ったんじゃないかと思っている。どちらも不完全だからこそ歩み寄った記憶ができたんだ」
神山は一つ咳をつき、両手を合わせて拳を作った。
「一つの事例を説明しよう。辛い過去の話になるが、交通事故の件についてだ。君のお母さん、灯莉さんは即死している。トラックは助手席側からぶつかっているから、金属音など聞こえるはずがない。だから火蓮君にも金属音が聞こえなかったんだ。決して水樹君の魂が君の中に入っているからじゃない」
火蓮は黙っている。まだ納得がいっているようには見えない。
「逆に海さんの場合は灯莉さんより時間があった。助手席側からぶつかっているからね。だから水樹君の記憶に金属音が残っていたんだ。水樹君の難聴は関係ない」
火蓮はやっぱりか、といって舌打ちしている。きっと難聴のことをいっているのだろう。
「君達の話では、家族で体験している過去しか蘇ってきていないのだろう? それは魂と肉体の矛盾が生み出した記憶なんだ。
言い換えれば敢えて矛盾を体験するために肉体が夢を作っているのだと私は思う。もちろんこの夢に終わりはない、本当の肉体は滅んでいるのだから」
……確かにその通りだ。
水樹は納得し胸を上下させた。他の記憶を思い出そうとしてもでてこないのだ。小学校の頃には海だけでなく山に行った写真があった。
しかしこの記憶はない。きっと両親が関与していない写真なのだろう。
「もう一つ補足説明しよう。遊園地の件についてだ。
君達二人は間違いなく四人で遊園地にいったんだ。そしてそれがお父さん達の記憶と重なった。偶然にも同い年くらいに四人で出掛けていたのだろうね。
そして同じような体験をしているからこそ、お父さんの魂と火蓮君の体が反応し、またお母さんの魂と水樹君の体が反応し不可解な夢がつくられたんだ」
神山はボードに『夢』=『肉体の記憶』+『魂の記憶』と書いた。
「きっと魂にも記憶を司る部分があるのだろう。魂と肉体がリンクした時に初めて夢を見ることができるのかもしれない。だから入れ替わった時に君達は夢を見たんだ」
「一つ質問させて下さい」
火蓮は神山の話を遮り尋ねた。
「人格が入れ替わる時に見た夢というのは魂と肉体が反応したからだとわかりました。じゃあ人格が入れ替わらない時に見た夢はなんですか? これまで俺は夢を一切見ませんでした。でも人格が入れ替わるようになって夢を見るようになったんです。その夢は昔、俺が体験したことを元にした夢なんですか?」
神山はしばらく黙考し慎重に言葉を選んだ。
「それで正しいと思う。ただ厳密にいうと君達の中に入っているのは両親の魂ということが前提だ。だから君が昔体験したことかもしれないし、お母さんが体験していたことかもしれない。もしかしたらお父さんの魂が一度入ったことでその残滓が見せた夢かもしれない。つまりはそれも正確にはわからないということだ。どんな夢を見たのかね?」
火蓮は首を振って苦笑いした。
「いえ、それがあまり覚えていないんです。人格の転移があった時の夢は今でも明確に覚えているんですけど、起こらなかった時の夢は覚えていません。ただ、どこかの公園にいて悲しい感情を覚えた、ということだけ覚えています」
なるほど、と神山は腕組みを解きながら頷いた。
水樹にも脳裏に突っかかっているものがあった。それは夢で見た公園だった。噴水がある公園が見えるが、それがどこにあるのかもわからないし、いつの時なのかもわからない。
「水樹君もそのような夢を見たことがあるのかな?」神山は呟いた。
「あります。僕もどこかの公園にいた夢を見たんです。その時には恋のような感情を味わいました」
風花の視線が一層強くなったような気がした。彼女を見ると、先ほどと違って何かを恐れているようだった。
「もしかすると自分の経験に基づく夢には感情があるのかもしれないね。逆に感情がないものは両親の記憶に基づく夢なのかもしれない」
「そうかもしれません」水樹は心の内を正直に告げることにした。「でもなぜ今になってこんな話をするんですか? 先に説明してくれたら、僕達はこんなにも悩まないで済みました」
「それはできない。できなかったといった方がいいかな」
神山は大きくかぶりを振った。
「対立する要因が多いと、自分が自分であるというアイデンティティを失ってしまう。君達の疑問が全て解決できなければ君達そのものの人格すら消えてしまう可能性があったからね」
「要するに今日の公演を見て決めようと思ったわけですね」
「そういうことだ」
神山は大きく頷いた。
「今日のことは前もって天谷さんから聞いていた。君達を助けるためには一番いい方法だと思ったから、今まで黙っていたんだ」
「今日のこと? もしかして俺がこの指揮を負うことも前もって決まっていたんですか?」
「ごめんなさい、私がプロデューサーにお願いしたの」
楓が頭を下げている。
「もちろんプロデューサーは一言では頷かなかったわ。半端な公演をすることになってはお客さんに迷惑が掛かるから、実力を見てから決めると。だからあなたの実力がそれに見合ったのは事実よ」
「……それで父さんが執った公演だったのか」火蓮は誰にいうわけでもなく独り言を呟いた。呟いた後、風花に意見を求めた。
「風花は初めからわかっていたのか? コンサートのメンバーは俺に考える余地があった。俺が風花や水樹を入れることは決まっていなかったはず。美月にしたってそうだ」
風花は顔を上げて火蓮を見た。
「ごめんなさい、私は初めから知っていたわ。だから私を選ぶことがなくても公演に来るつもりだった」
「……そうか。美月もか?」
「……うん」
美月は涙声で頷いた。
「私もそうよ。フランスに行っている間も風花とは絶えず連絡を取っていたの」
「どうしてお前がそこまでするんだ?」
「……そんなの決まっているじゃない」
美月は泣きながら火蓮の方を向いた。
「だって私は火蓮が事故に遭う前まで付き合っていたのよ。あなたの異変に……気づかないわけがないじゃない」




