第六章 ヴァイオレンスブルー&サイレントレッド PART10
10.
……1、2、3。よし、今日も大丈夫だ。
胸に手を当て心臓音を確認する。一秒毎に規則正しく刻まれているため、今日も演奏は完璧に行えると確信する。
火蓮が腕を大きく広げ始めた。今からショパン協奏曲『第一番』が始まろうとしている。彼が両腕を下げた瞬間に美月を含むヴァイオリン勢が一気に弦を弾いていく。
『第一番』第一楽章の始まりだ。これから風花のフルートが絡みつくはず。水樹は心臓の鼓動音を正確に測った。
火蓮の指揮に意識を集中する。彼はフルートを演奏する2名の方に向かって大きく体を震わした。すでに120秒経ったということだ。ヴァイオリンが一度手を下ろした。180秒経過。体内時計、火蓮の指揮にも狂いはない。
後50秒後に水樹の出番が来るはずだ。膝の上で指を動かし、出番が来るのを待った。
火蓮の視線が水樹を捉えた。水樹はそれに反応するように強烈な和音を叩き、一気に鍵盤を高音から低音に弾き流すパッセージにはいった。ここからは330秒、ピアノの演奏がメインだ。
火蓮の指揮を嘗め回すように見つめながら、淡々と演奏していく。優しく軽やかに。哀愁を漂わせる『幻想即興曲』のように。
哀愁を表現した後は甘美なバラードへと曲は移り変わる。甘い誘惑は回りの景色を溶かすように表現するのだ。和音を三連符に変えて演奏するアルペジオを用いて軽々と鍵盤を叩いた。
調を変えて一気に物語を加速させる場面がきた。加速した先にはオーケストラとのメロディの交代が待っている。
心では冷静に時間を数え、体では激しく演奏にのめりこむ。いつものことだ、何も問題はない。
自分の指が低音から高音に向けて徐々に駆け上がっていった。最高潮に達した瞬間、美月の弓がヴァイオリンに激しく絡まっていく。
……次の演奏は70秒後だ。
火蓮のスコアのページ数を確認する。成功したようだ、心の中で小さく拳を握る。
次の入りはとても穏やかだ。美月の弓が上下に激しく揺れている。ここからは再びフルートが入りこむはず。演奏者に目配せしながら自分の演奏を静かに待つ。
……ここからだ。
第一主題と変わらない旋律から入り込み、水の流れを思わせる流麗なメロディ部分がきた。上半身を緩やかに上下に動かし、リズムをとりながらメロディを流していく。
高音高速のアルペジオの繰り返しはまさしく水そのものにならなければならない。留まることを知らずに何度も何度も振動を繰り返し、切り株の如く何重もの波紋を作り出す。
自分の体はすでに水の中に入っている。水の調べは妖精が跳ね回るかのように煌びやかにだ。上下する津波のようなパッセージから再びオーケストラに主導権を渡す。
35秒後、火蓮がスコアをめくると同時に最初の主題部分に入った。曲は改めてまどろみの世界に突入する。
先程の津波のパッセージを経て最終部分に入る。高音の渦を作り上げるトリッキーな右手に対し、左手は颯爽とトリルを行い曲のトップスピードまで持ち上げる。
スピードを維持したまま高音のパッセージでピアノは幕を閉じる。その後、30秒ほどオーケストラが演奏し、最後はトゥッティで閉め上げるのだ。
火蓮が一息ついた。場面転換のため気を抜いているのだろう。しかし自分はそれを行なうことができない。常に神経をすり減らさなければタイミングを逃すことに繋がるからだ。
火蓮がゆっくりと手を縦に振った。第二楽章はさっきよりも簡単で60秒後に480秒の独奏状態に入る。水樹は悠々とピアノを弾き上げ、静謐な時間を過ごした。
……問題は次の第三楽章にある。
ここからはオーケストラとピアノが入り乱れるロンド形式に入るためだ。火蓮の指揮にまだ慣れていないため、今回は自分の耳で聞いて覚えなければならない。
水樹は耳栓を取りハンカチで素早く覆った。
「お疲れ様。順調のようだね。最初は慣れてないようだったけど、さすがはショパコン一位の水樹君だ。本番でもよろしく頼むよ」
プロデューサーに肩を叩かれ、水樹は勢いよく返事をした。
「もちろんです。任してください」
火蓮を見ると、昨日とは打って変わって冷淡な表情を作っていた。きっと自分の粗を探そうとやっきになっていたに違いない。
……オレの演奏は完璧だった。
横にいるプロデューサーを眺める。彼は金にがめつい人間だが、火蓮と同じく耳がいい。こいつが褒めたのだから、まずミスはない。
演奏を終えそのまま帰ろうとすると、ホールの玄関で風花に止められた。
「何だ、最近は待ち伏せが流行っているのか?」
水樹が軽口を叩くと風花は大きくを手を振った。
「え……そんなつもりじゃ」彼女の顔にはか細い笑顔が張られている。きっと無理に微笑んでいるのだろう。
「水樹、ちょっとだけ時間をくれない?」
「……少しだけなら」
二人とも無言のまま近くの公園に辿り着いた。会話がないため中心にある噴水の音がやけに大きく感じる。
回りを見渡すと懐かしい雰囲気を覚える。一度、いや何回かこの公園に来たことがあるような気がするのだ。だがそんなことを彼女にいえる雰囲気ではなかった。
「……クリスマス、終わっちゃったね」
風花は寂しそうな顔をしながら、水樹を覗きこんできた。
「……そうだね」
去年はポーランドにいて彼女と過ごすことはできなかった。今年は一緒にいるのに気まずい雰囲気だ。
「体調は大丈夫?最近、詰め込みすぎてるように見えたからさ」
「当たり前だ、明日が本番なんだよ。風花こそ大丈夫なの?」
「うん、大丈夫」
風花は控えめな声で頷いた。
「ねえ、水樹。また私に何か隠してない?」
隠していることしかない、と告げたかったが水樹は自分の気持ちを押し殺した。
「この間さ、何かいおうとしていたじゃない。あの時はさ……何をいおうとしたの?」
風花は真剣な表情で自分を覗いていた。その瞳に吸い込まれそうで、今まで抑えていたものが一瞬で溢れ出そうだった。
「コンサートが終わってからね。その時に風花に話さなければならないことがある」
「今じゃ駄目なの?」
「今話したら、オレが演奏できないよ」
「そっか……わかった」
風花は口を一文字にしたまま頷いた。
「今日は何も聞かない。だけど私は水樹を信じてるからね」
自分の心に傷が入る。水樹を信じるということはオレじゃないということだ。わかっていたことだけに聞きたくない言葉だった。噴水の音が一層大きく聞こえていく。
だけど、その一言で吹っ切れたよ、風花――。
「ありがとう。オレも明日は全身全霊を掛けて演奏してみせる。風花の気持ちに残るよう弾いてみせるよ」
「うん、期待してる」風花は表情を取り戻したかのようにふっと微笑んだ。いつもの笑顔だった。
風花の笑顔が自分の心を落ち着かせてくれる。この笑顔だけは忘れたくない。
……火蓮、すまない。もう一度だけ許してくれ――。
噴水の音をバックに、風花を引き寄せて唇を合わせた。噴水の音が再び自分の心に染み込んでいった。




