第五章 サイレントブルー&ヴァイオレンスレッド PART8
8.
「……そんなことがあるわけないだろう」
絶望を隠せず否定した。その言葉だけは聞きたくなかった。だからこそ火蓮もごまかし続けたのだろうと今頃になって心境を理解する。
「どうやらお前は完全にでき上がってるみたいだな」
「……酔っ払ってないわよ」彼女は目を鋭くさせながら答えた。
「じゃあなんでそんな大胆な発想が生まれるんだ。お前にしては中々面白いジョークだ」
「冗談でこんなこといわないわよっ」
「なんだ、オレが笑わなかったから怒ってるのか? 悪いな、その発想はなかった」
「だから違うっていってるでしょっ」
そういって美月は近づいてきた。彼女から発せられる甘い香りが心臓の鼓動を加速させる。
「ねえ、今ここで私を抱ける? 風花と思ってくれてもいいわ」
美月の香水が脳を刺激する。意識が飛びそうになるのを辛うじて我慢する。
「そろそろお開きにしよう、ちょうどいい具合に酔っ払っただろう」
「……逃げるの?」
「逃げるわけじゃない。今ここでお前を抱いて何になる。シラフの時にしよう。オレだってお前のことが好きな気持ちはあるんだ」
一瞬、美月の表情が固まった。しかし彼女は鋭い目つきのまま背を向けた。
「……ヴァイオリンを聴かせて。それで帰るわ」
「それで酔いが冷めるのか?」
美月は背を向けたまま小さく頷いた。
「わかったよ、それで満足するのならいくらでも弾いてやる」
そのまま火蓮の部屋に入りヴァイオリンを探す。二つのヴァイオリンケースがあり一つには鍵が掛かったままだった。夢に見た父親のヴァイオリンケースだった。
自分の手が震えるのがわかった。開けて中を確認しなければならない。この中身はおそらく……。
そのまま力を込めてこじ開けようとした。鍛え上げている火蓮の腕なら開けられる気がしたからだ。思いきり力を込めるとネジが緩み金具が音を立てて外れた。
……やっぱり、あれは夢じゃなかったんだ。
中を見ると粉々に砕け散ったヴァイオリンが入っていた。木片が散らばっており木屑も残っている。
もはや腕に力が残っていなかった。ヴァイオリンケースはそのまま滑り落ち、木片はバラバラになって散り散りになった。
「……火蓮? どうしたの?」
美月が階段を上がってくる音が聞こえる。体が途端にすくみあがっていく。
この姿だけは見せることはできない。
「来るなっ」
「何があったの? 凄い音が聞こえたけど?」
「大丈夫だ、足が滑っただけだ」
美月はそのまま上がってきて、部屋のドアを叩いた。
「……開けるわよ」
美月をこの部屋に入れることはできない。
彼女が扉を開ける前に、咄嗟にもう一つのヴァイオリンを取り出して音を鳴らした。
無我夢中でヴァイオリンを弾く。曲を浮かべる余裕はなく即興演奏で弦を振動させた。ヴァイオリンからは心地いい音色が流れていく。
……この音だ。オレが欲しかったのはこの音だったんだ。
ヴァイオリンが自分の気持ちを汲み取って音を鳴らしているようだ。この音は自分の乾いた心をたっぷりと潤してくれる。
「……綺麗な音色ね」
美月はドア越しに耳を傾けているようだった。しばらく弾いていると美月が細い声で言葉を発した。
「ごめんね、変なこといって。今の音色は間違いなく火蓮のものだとわかるわ」
「……酔いが冷めたのならよかったよ」
ヴァイオリンを仕舞いドアを開けようとした。しかし美月の体重がドアに掛かっているようで開けることができない。
「ちょっと待って……もうちょっとだけこのままでいさせて」
しばらく待っていると、美月の方からドアがひらいた。
「ごめんね、もう少しだけ飲まない? 本当に酔いが冷めちゃった」
美月の顔を見ると先程と比べて明るい顔をしていた。しかし化粧が崩れており彼女の顔を凝視できなかった。
美月とそれとない会話を交わしつつ、飲み終えた所で彼女を送るタクシーを呼んだ。
彼女は酔っ払っているにも関わらず背筋をぴしっと伸ばしていた。目の端で横顔を覗くと凛とした表情で立っている。それが演技なのかどうかは自分にはわからなかった。もしかすると火蓮にならわかるのかもしれない。
美月を見送った後、水樹は縋るようにヴァイオリンを弾き続けそのままベッドに倒れこんだ。
頭痛で目が覚めると、今度は青いシーツの上にいた。




