第一章 青の静寂と赤の鼓動 PART2
2.
「げ、また瓦蕎麦かよ?」
火蓮が溜息を漏らしながらネクタイを締めている。
「今週に入って何回目だよ。たまにはうどんにしてくれ」
「遅刻してきた兄さんが悪いよ、文句をいわれる筋合いはないね」
火蓮が起きてきたことで、水樹は蕎麦をフライパンで焼き始めた。蕎麦の香ばしい匂いがフライパンから沸き上がってくる。焼き終えた蕎麦を皿に盛り、その上に卵焼きと葱を切り刻み完成だ。
「うわぁーおいしそう。あたしの分は?」
「食べてきたんでしょ。それに早く行かないと間に合わないよ」
「……けち」
風花から無言の圧力を受けながら蕎麦を啜る。やっぱり日本食は最高だなとゆっくりと味わい噛み締める。
「ごちそうさま。さてと、行くとするか」
火蓮は一気に飲み込むようにして蕎麦を食べ終えると、目の前の菓子折りを掴んだ。
「なんだこれは? 食い物か?」
「それは今日持っていくから駄目」
「なんだよ、楽屋で食ったって変わらないじゃないか」
「兄さんの所に持って行くわけじゃない。川口先生の所に持って行くんだ」
菓子折りを取り上げると、彼は納得がいったように肩を竦めた。
「……なんだよ、そういうことなら早くいってくれ。危うく破る所だった」
「……だと思ったよ」
二人を玄関まで送ると、風花が声を上げた。
「水樹も後で来るんだよね?」
「うん、今日は観客の一人として楽しませて貰うよ」
「じゃあ、後でね」
二人を送り出し、ピアノの前に座る。
……さてと、練習するか。
ここの所毎日三時間以上触っているが、未だ馴染めていない。ピアノは同じメーカーであっても、一つ一つ微妙な癖があるからだ。
生まれた時からあったピアノが修復不可能になったため、一年前に泣く泣く新しいピアノに変えたのだが、ショパンコンクールでポーランドに向かわなければならず、結局、一年間ピアノを放置したのだ。
鍵盤に触れながら過去の思い出に浸っていくと、川口との約束の時間が迫っていた。
火蓮が食べようとした菓子折りを掴みながら水樹は玄関の扉を開いた。
「水樹、早かったな」
ピアノ課が練習する部屋を横切ろうとすると、川口が気づき部屋から出てきた。
「すいません、練習中に……」
「構わんよ。ちょうど終わる所やったんや」
練習していた女生徒がこちらを見て固まっている。
「川口先生、この人はまさか……」
「そうや。今一躍有名になっている観音寺水樹や」
女生徒はそのままこちらに近づいてきて握手を求めてくる。
「はじめまして、岸野といいます。お、お会いできて光栄です」
「こちらこそ。ピアノを聞かせてもらったけど、上手だね」
「いえ、とんでもないんです」
「こいつも音楽で飯が食いたいそうや。すでに就職活動は始めとるで」川口が横から告げる。
「そっか、頑張ってね。今は色々と厳しいだろうけど、絶対就職先はあるから。諦めないでね」
「お前がいうことやないやろ、このプータローが」
川口が大声で口を挟む。
「お前を呼んだのは他でもない。この子達の文化祭に出て欲しいんや」
「文化祭……毎年行なっている響ホールでのOB演奏ですか」
「そうや」川口はにやりと笑う。「この子達の先輩として10分くらい演奏してくれへんか」
「なるほど、そういうことですか。それなら構いませんよ。仰る通り、プータローですし」
水樹が冗談を込めていうと、川口は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ほんまか、よかったわ。実はすでにもう時間を空けとるんや」
「本当に変わってないですね、先生」水樹は溜息をついた後、微笑んだ。
……本当に変わらない。
一年前を振り返る。
川口は自分には一言も喋らずにショパンコンクールに推薦状を出したのだ。母親を交通事故で亡くしてから、ずっと独学で来た自分を指導してくれたのも彼だった。
「まさか優勝してくるとは思ってへんかったよ。灯莉も天国で喜んどるやろう」
水樹の母、観音寺灯莉は川口の同期だ。彼自身も彼女とショパンコンクールに出場した経験を持っている。
「そうだといいんですが」
「そうに決まっとるよ。しかし血統っちゅーものは本当にあるんやな」
川口は天井を仰ぎながら続ける。
「俺は一年間ポーランドで勉強しとったのに、あいつは全日団に入っとったから、三ヶ月しかポーランドにおらんかったやぞ? それやのにあいつは日常会話もこなして二位、片や俺はポーランド語もしゃべれず三次審査落ちやからな」
「そうだったみたいですね」何度も聞いた愚痴を頷いて返す。「でも川口先生のピアノも素敵でした。豪快さがあって迫力があって……」
「いまさらおべっか使っても遅いわっ。まあそれはそれとして」
川口は眉をひそめ水樹の顔をじろじろと眺めた。
「……本当にひやひやさせおってからに。やっぱり緊張しとったんか? 本選一日目やったくせに、次の日の繰越しになっとったのは本当にびっくりしたわ」
「すいません。ちょっと体調が悪くて次の日に変えてもらったんです」
「やはり、そうやったか」
川口は納得したように頷いた。
「でもそれがよかったのかもしれへんなあ。なんたってあんなコンチェルトを最後にやってしまったら審査員かて点数つけんわけにはいかんやろ。それにお前が得意な協奏曲『第二番』を演奏せんかったのはよかったな。『第一番』で優勝が決まったのは間違いない」
「……ありがとうございます。それで先生、文化祭では何を弾いたらいいんです?」
「もちろんショパンに決まっとるやろ。一曲は『バラード第三番』を弾いて貰いたい。もう一曲は好きなように弾いてもらって構わんよ。特にルールがあるわけやないし、特別ゲストとして広報には知らせんつもりやからな」
『バラード第三番』と聞いて胸が高鳴る。あの曲をホールで演奏できればいい予行練習になりそうだ。
「わかりました。じゃあもう一曲は何か考えておきますね」
「おう。まあ、俺としては灯莉が弾いとった『革命』がいいんやけどな」
「僕には母さんのように激しい曲は弾けませんよ」
「わかっとる、冗談や」豪快に笑う川口は続けて話題を換える。「まだ秘密やけどな、神山もお前とは別口で演奏するんや」
「へぇ、美月が……意外ですね」美月のバイオリンを想像し胸が高鳴る。「それで何をするんです?」
「あいつもショパンや。大学におる時は嫌っとったのにな、あいつもヨーロッパのコンクールに出まくって、色々収穫があったんかもしれん。今日から火蓮達の劇団で演奏するみたいやで」
「ええ、聞いてます。実は今日それを見に行くんです」水樹は頷いた。「何でも一週間特別ゲストで出演するみたいですね」
「そうや」
川口は満足そうに首を縦に振った。
「俺が火蓮に頼んだんや。あいつも俺に貸しがあるから、いうこと聞かへんわけにはいかんからな」
……貸しとは一体何のことだろう?
頭を捻るが、思いつかない。火蓮は指揮科にいたのだから、ピアノ科の川口とは面識がないはず。
「先生、貸しというのは……」
「いやいや、別に大したことやない。聞き流しといてくれ」
「すいません、観音寺先輩……」
岸野と呼ばれていた生徒が、何かをいいたそうにこちらを見ていた。
「……先輩、あの、よかったら一曲だけ弾いて貰えませんか?協奏曲『第一番』、本当に素晴らしい演奏でした。ワンフレーズだけでもいいんです。お願いします」
川口も懇願するように続ける。
「そうや、一曲だけでも弾いてやってくれへんか? こいつも才能があるんやが、家庭環境があまりよくなくてな。家にきちんとしたピアノがないらしい」
苦笑いを浮かべながら了承したが、ピアノを見ると機嫌が変わった。
「先生、ピアノはウミハじゃないんですか」
「ああ、今年からストーンウェイに変えて貰ったんや」川口は自慢するように声を上げた。「やはり海外で活躍する人間にはこっちの方がいいからな」
「……そうですか。すいません、今日はちょっと遠慮させて貰っていいですか? 実は腕の調子があまりよくないんです」
そういうと、女生徒は甲高い声を上げた。
「ええっ? 大丈夫ですか? すいません、私ったら失礼なことをお願いして」
川口も想定していなかったようで口が開いたままだ。「……そうか。それなら仕方ないな。文化祭は3日後なんだが、大丈夫か?」
「ええ、それまでには問題ないです。先生、文化祭のピアノは……」
「もちろんウミハや。スポンサーは変わらんよ」
……よかった。
菓子を渡し、理由をつけてストーンウェイがある部屋から離れた。心の中には未だ靄が掛かっていた。