第五章 サイレントブルー&ヴァイオレンスレッド PART4
4.
「……そろそろ始まるね。やっぱり凄いなぁ、水樹は」
風花は目を輝かせながら、ホールを一瞥している。
「彼女としても鼻が高いわ。さあ、今日はどんな演奏を聴かせてくれるのかしら」
コンサート会場は市の中では一番大きい響ホールだった。子供の頃、よくコンクールで使っていた所だと風花から聞いている。
指定席に座った後、自分の記憶を辿ってみた。しかし小学校、中学校のコンクールに出た記憶は残っていなかった。
……当たり前じゃないか、オレは火蓮なんだから……。
胸の辺りで未だ乾いた風が吹いている。このどんよりとした気持ちは当分消えてくれそうもない。
「ねえ、火蓮あっちを見て」彼女の指先は前方にある。「あそこにたくさん女の子がいるでしょ? あれ、みんな水樹のファンなんだって」
ぼんやりと眺めるとドレスを身に纏った女性達が豪華な花束を抱え席に座っていた。
「おい、あの花束はまさか……」
風花はにやりと笑った。
「うん、あの花束ね、お父さんと私で作ったの。カードも添えて下さいっていわれてね。思いっきり店の名前が書いてあるカードを使っちゃった」
「そりゃあいつも大変だな。ファンから貰う花束を彼女が作ってるんだからな」
「そうでしょ?」
彼女は口元を緩めて笑う。
「もし知ったらどんな顔すると思う? それを想像するだけでも面白くってさ」
風花の笑顔に戸惑う。今は純粋に笑う彼女を受け入れられる自信がない。この笑顔は今の自分には辛いだけだ。
「……どうして、あいつのことを好きになったんだ?」
気がつくと心の声が漏れていた。
「どうしたの? 急に。真面目な顔しちゃって」
「ごめん。気になったんだ」
「それってさ、私に対するやきもちなの? それとも水樹に対するやきもち?」
「……もちろん水樹に対してだ」
「なんだ、残念」
そういって風花は舌を出した。
「私ってさ、小さい頃から引っ込み思案だったじゃない? 何をするにも人の機嫌を伺っていたの。きっとお父さんに似たんだろうね。お父さん優しいから、何でも自分以外を優先して考えちゃう人だから」
……風花が引っ込み思案?
知らない情報だったが、彼女はそのまま話を進めていく。
「幼稚園の頃はさ、私、いつも一人で遊んでいたの。寂しかったけど、他の人の輪に入るのが怖かったんだ。そんな中で水樹が初めに声を掛けてくれたの。嬉しかったなぁ、あの時は……」
頭の中で反芻してみるが、やはりその記憶はない。もしかしたら火蓮の中にあるのかもしれない。
「もしオレが先に声を掛けていたら、今の立場は逆転していたのかもしれないな……」
「そうかもしれないわね。何? 今頃になって私のことを好きになったとか? 止めて下さいよ、お兄さん。仮にも結婚を約束している身なんですから」
風花は屈託のない笑顔を作っている。純粋に自分のことを火蓮として見ているのだろう。
火蓮の立場ならこんな辛いことはない。今まで自分が付き合ってきた相手にこんな言葉をいわれたら、受け入れるしかないはずだ。
「あ、始まるみたいだよ」
観客に降り注いでいたスポットライトが突如消え、ステージにだけ灯が点いた。甲高い歓声の中、水樹の体を身に纏った火蓮が入ってきた。
その顔は水樹そのものだった。まっすぐに背筋を伸ばし、緩やかな微笑みを見せている。指の先から足のつま先まで全て自分が見せる姿と同じものだった。その仕草はいつも自分の行動を見ているからか、本来の姿からなのかは検討がつかない。
火蓮が椅子に座ると燕尾服が風でふわりと浮いた。鍵盤に指を置くと、聴衆が息を潜めていく。彼の軽やかな動きにさえ心が奪われていくようだ。
彼の指から煌びやかな音が流れ始めた。音が連続することでメロディとなり、ホールを反射して自分の耳に届いていく。その音を聞いて森の泉が連想されていく。本物の『バラード第三番』だと確信してしまう。
……ボクはピアノが好きなんだ。
火蓮の優しい音色が言葉となって自分に語りかけてくる。
……どうかこのままボクにピアノを弾かせてくれ。
ずっとこのままピアノを……。
彼はそのまま鍵盤を深く叩いていきテンポを上げていく。機械式時計の歯車のように正確で隙のないタッチはどこか人間技とは思えない冷たさを感じる。
彼の瞳には研ぎ澄まされた日本刀のような鋭さがあり、何ものも近寄れない雰囲気を漂わせていた。彼を見ているだけで自分の存在意義を全て握りつぶされるような圧迫感を覚えてしまう。
……オレにすら、ここまでの技術はない。
唇を噛み締めて彼の動きに嫉妬する。本物だからこそ、できる指裁きではないかという考えが脳裏を掠める。
メロディラインは右手、左手と入れ替えて反復を重ねる毎に水の勢いを増し深くなっていく。まるで深い海の底に引きずり込まれていくようだ。
彼の和音が水の流れを一気に抑えていく。和音の余韻が波紋のように響き渡る頃には演奏は終了していた。
ごくり、と唾を呑み込む音が聞こえた。それは自分が喉を鳴らした音だった。完全に呑まれていた、火蓮の『バラード第三番』に。
一息入れた後、彼はそのまま息を吐きながら次の曲の準備を始めた。今回は二曲弾かなければならない。しかし一曲は自由だ。
……はたして火蓮は何を弾くのだろうか?
彼が鍵盤に触れる前に、水樹の心臓は熱くなっていた。なぜかれから弾く曲が頭に浮かんでくるのだ。あれしかない、という確信すら沸いている。
水樹の背筋を冷たい風が通り過ぎると共に、火蓮は鍵盤を激しく鳴らし始めた。
……やはり、これなのか。
次に流れてきたのはコンクールで中国人の女性が弾いていた『革命』だった。激しい左手のメロディが悲惨な戦場を作り出し、右手からは高い音が銃声のように飛び出している。
突如、母親の『革命』を思い出す。ビデオの中の彼女は凄まじい熱気を帯びており溶岩を踏みつけるかのように鍵盤を叩いていた。左手の旋律から死者の絶叫がこだまするかのような右手の和音が空間を震撼させる。火蓮と初めて見た時には言葉が出なかった。
自分の長い髪が再び母親とリンクする。彼女の演奏が今、目の前に起こっているのではないかと錯覚してしまう。
……なぜ火蓮はこの曲を選んだのだろうか?
火蓮がポーランドに来てヤン・ミンの『革命』を聴いた時に恐怖を抱いたといっていた。なぜ彼は恐怖を抱いたのだろうか。ショパンの人生に興味を持たなかった彼がなぜそんな感情を覚えることができたのだろうか。
様々な憶測が出した答えはやはり人格の転移だった。きっと自分の記憶を探したに違いない。火蓮は水樹の体が本当の体だと疑っていたのだ。
……兄さん、いつから知っていたの?
唇を噛み締めながら演奏を聴く。仮に人格の転移が真実だとしても十年間練習してきたのはオレだ。ショパンコンクールで優勝したのはオレなんだ。あれだけ練習してきたのに……それがたった一日でなくなるなんて、ひどすぎる。
心をごまかそうとしても火蓮が音を刻む度に心が揺れる。彼が奏でる音は悲痛な叫びだった。百獣の王で父親が亡くなるシーンのような甲高い声で叫んでいるようだった。
……や、止めてくれ。
水樹は目を閉じて抗議した。
なんでオレがあの場所にいないんだ、本当はオレがあそこで弾くべきなんだ。どうしてオレじゃない。毎日練習して掴んだ技術なんだ。風邪できつい日だって、鍵盤を弾くたびに指の皮がぼろぼろになったことだって、どんな困難だって、全部オレがやったことなんだ。
……何故なんだ、どうして――。
演奏が終わると、観客は席を立ち拍手の渦で火蓮を祝福した。頭の中では百獣の王のフィナーレが蘇っており、観客の声も一つの歌になっているようだった。
……やはりオレはもう、ピアノを弾くことができないのだろうか。
年末のコンサートの夢を達成できずに、火蓮としての人生が待っているのだろうか。
隣にいる風花を見ると、彼女は意識を奪われているようで余韻に浸っていた。その姿を見て心を一層かき乱されていく。
……もうあの舞台に立つことはできないのか。オレはもう、ピアノを弾くことさえも許されないのか。
オレはもう――。




